※訪問は2023年9月10日
直前のニュースに触発されて
昨年の夏の青春18きっぷ最終日の朝。私は富山の駅前にいた
本来ならここから高山本線の残った駅の回収に向かうはずだったが、前日のうちに急きょ予定を変更した
11月の記事でも記したが、理由は①あと1日では高山本線の全駅回収は不可能だと判断したこと②直前に城端線と氷見線の三セク編入検討のニュースが流れたこと-の2つ
報道では今後、協議に入るとなっていたが、こういうのは話がトントン拍子に進むものである。表現は乱暴だが、JR西日本としては新幹線以外と接続しないローカル線とは、一刻も早く縁を切りたいだろう
ということで富山からあいの風とやま鉄道に乗車して高岡を目指すことにする
わずか30キロに14駅
城端線は高岡駅と城端駅を結ぶ29・9キロのローカル線。この距離は東京~横浜より、ほんの少し長く大阪~三ノ宮より、ほんの少し短い。そして約30キロの間に14もの駅があるという(高岡駅は城端線所属となっている)、まるで私鉄のように路線だが、実際に元々私鉄だった路線である
中越鉄道という会社が1897年(明治30)に福野までを敷設したのが最初だから、130年近い歴史を持つ。ちなみに当時の起点は高岡ではなく黒田仮乗降場で、これは現在の新高岡駅近く。なぜこのような場所が起点となったのかというと、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったから。国鉄が金沢からやって来ることは決まっていて、もちろん接続駅とすることは決まっていたが、駅の場所が未確定だったため、仮乗降場を設けた。高岡までの線路がつながったのは、翌1898年のこと(仮乗降場は廃止)。つまり国鉄より先に開業した路線で、富山県では初の鉄道である
そしてもうひとつのポイントとしては、最初から城端が終点だったことが挙げられる。山中に伸びて行き止まりとなっている路線は、先の延伸計画がありながら、工事が行われず、結果として未成線、盲腸線となっているものも多いが、中越鉄道が目指したものは、どちらかというと海で、豊かな農業地帯の農作物を伏木港へと運ぶことを目的とした。後に現在の氷見線も同社が敷設している
国有化されたのは1920年(大正9)。当初は城端から伏木までが中越線で、伏木から氷見までが氷見線だったが、戦時中の1942年(昭和17)に城端~高岡が城端線、高岡~氷見が氷見線と現在の形となった
駅が多いのは元が私鉄だったことはもちろん、戦後に5つもの駅が新設されたため。30キロしかない区間に5つの新駅なので明らかに多いが、駅舎の有無やホームの形式で戦後生まれかどうかが分かりやすい
高岡から出発
そんな城端線だが、私が過去に訪れたのは高岡、新高岡、戸出、城端の4駅のみ。全線の乗車は果たしているが、駅の経験値が乏しい。それだけに各駅が楽しみである
高岡駅はあいの風とやま鉄道の管轄となっている
構内ももちろんあいの風とやま鉄道の管轄だが、城端線と氷見線は専用のホームが与えられている。ちなみに両線のホームは主に1番線と7番線で間にあいの風とやま鉄道のホームを挟み、中間線も存在すめため遠い
ホームに行ったのは7時半過ぎ。通学の高校生がドッと降りてきた。降りきって間もなく出発である
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