きっぷ

14駅を訪問した春夏の大鰐線を振り返ってみる

季節のコントラストを味わう

3月と7月の2回に分けて青森県まで赴き、2027年3月での廃線が決まっている弘南鉄道大鰐線の全14駅を訪問した

3月上旬の時点では、まだ雪に覆われていた沿線。対照的に7月は夏の空気を存分に味わった

そもそも自販機の高さを超えるほどの雪なんて、ふだんは見たこともないというか、自分の住んでいる所では雪がつもるという場面にすら遭遇しないので、それだけでインパクトは高すぎるのだが、2回にわたった訪問の総まとめをしてみたい

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画期的だった地方私鉄の電化発進

大鰐線の開業は1952年(昭和27)。戦後10年も経っていないそのころ、電化路線としてスタートした。今は並行する奥羽本線も電化され、それが当たり前のように感じるが、実際に奥羽本線の秋田~青森が電化されたのは1971年と、20年近くも後のことだった。かなり画期的なことだ。敷設したのは弘前電気鉄道。電化にあたったのは三菱電機。当然のことだが、電車というのは基本的に都市部や幹線で見られるシステム。一定の旅客数や運行本数がないと元はとれないからだが「これからの時代は電車だ」と電車を普及させたい同社の思惑もあったし、わずか14キロという路線の短さも電化には適していた

また今でこそ弘前~大鰐温泉を12分で結ぶJRに対し、中央弘前~大鰐を40分近くかけて結ぶ大鰐線は遅い上に車両も古いもので乗り心地も正直良いとは言えないが、非電化時代の国鉄には弘前と周辺を走る通勤通学路線の発想はほとんどなく、あくまでも奥羽本線という大動脈の一部で、長距離を走る有料の優等列車の一部区間でしかなく、運行や乗り心地も大鰐線の方が勝っていた

元々はここ中央弘前からさらに先の板柳まで敷設される予定だった。駅の場所が選ばれたのは当地が弘前市の中心部だったからだ。私鉄が国鉄(JR)の代表駅ではなく街の中心部に駅を構える例は珍しいことではなく、福岡市では西鉄は博多駅にはやって来ないし、京都市では近鉄こそ京都駅を発着するものの(後に地下鉄との相互乗り入れで中心部に入ることとなった)、京阪や阪急も繁華街に乗り入れる。京阪に至っては京都駅のすぐ近くを通るものの素通りである。松山市も同様だ

ただ電化と国鉄駅に直結しなかったことが、後に経営に響いてくることになる

相次ぐ事故

2000年代に入って大鰐線は増便と減便を繰り返すことになる。そもそも他に貨物列車が走るわけでもない現行の1時間に1本という運行は電化路線に向いていない運用でもある。特にスピードを求めるわけでもない路線なのだから、この運用なら気動車で十分。それでも過去には弘前の都市部に限っては20分に1本の運行をしたこともある。運転間隔を45分にしたり40分にしたり、多客帯の時間帯に増便させたこともある。いわば試行錯誤の繰り返しだったが、これは2010年代にも1度廃線の危機に直面したことに起因している。この時は地元の支援などで危機を乗り越えることとなったが、その後のコロナ禍でまた利用者は減り、近年の相次ぐ事故で危機は増えた

そして2019年と2023年に立て続けに2件の脱線事故が発生する。いずれも施設の老朽化に起因していた。2件目の事故では国交省から改善要求を受けた。鉄道施設における最大の敵は温暖差。豪雪地帯でありながら、昨今は真夏の気温が連日30度を超える。電化路線の維持費はもちろん改善費も莫大だ。加えて、山形鉄道でも触れた地方の交通機関における人出不足の問題もある

2023年度の利用状況を見ると、最も利用者数の多い中央弘前で251人、次が大鰐の150人で3ケタ利用はこの2駅のみ。学校最寄り駅でも2ケタの数字が並ぶ。路線バスやスクールバスにも原因はあるが、沿線に学校が多い中、地方路線を支えるはずの通学の足としては寂しい数字となっている。当初の計画にあった弘前駅への乗り入れを果たしていれば、と思ってしまう

弘南鉄道は弘南線というオリジナルの路線をもうひとつ抱えており、そちらに力を入れないと共倒れになってしまうという危機感もあったのだろう

数字だけを見るとやむを得ないということにもなってしまうが、沿線で見た素晴らしい景色は一見さまではあるが、旅人に癒やしを与えてくれるのに十分なものだった。まだ1年半ほどの時間はある。それまでにもう一度景色景色を目に焼き付けたいと思っています

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~最後の駅は名門高校のふもとに

※訪問は2025年7月11日

3月のリベンジ

いよいよ最後の駅となった

8時4分に松木平駅を出た電車は同17分に弘高下駅に到着した

本当は3月に訪問予定だったが、膝の痛みが酷くなって断念した

というのも終点の中央弘前のひとつ手前の当駅で終えるとホテルを確保していた弘前の駅前までは徒歩も十分に可能だからだ

大鰐線訪問の記事で何度も触れてきたが、3月の訪問時は徒歩には絶好の気候で、このぐらいは気にならない。また気分的にも街中を歩くのと、誰も歩いていない民家もまばらな道路を歩くのでは気分的に大きく異なる

ということは分かっていたが

鯖石から宿川原までを何とか歩いた時点で、もう限界だった。後で調べると弘高下駅から5分ほど歩けば前記事で紹介した1時間に2本の運行があるバスの停留所があり、その停留所は他路線も走るため弘前駅へ向かうバスの本数も多いが、それを知ったのは後の話で、この時はそんな余裕はなかった。だから無事にリベンジを達成したことになる

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愛称の駅名と上下の感覚に惹かれる

まずは駅舎から。棒状ホームに独特の駅舎。開業は弘前電気鉄道として大鰐線が開業した1952年(昭和27)。駅名板も含め千年駅や石川駅と同じたたずまいとなっている現在の駅舎は弘南鉄道に移管された1970年以降のものだろう

駅名は弘前高校にちなむ。旧制中学時代からの名門校として知られる。「弘高」は地元での愛称だが、旧制中学から現在と同じ新制の高校となったのが1948年だから、わずか数年で愛称が浸透していたことが分かる

学校最寄りの駅名は日本には数多くある。国鉄はあまりそのようなことをしなかったが、私鉄は数え出すとキリがない。近年はネーミングライツとしての駅名もある。ただしそのほとんどが、フルに学校名を使用している。略称や愛称はなかなか見られない。大鰐線には他にも「弘前学院大前」「聖愛中高前」「義塾高校前」と他に3つの学校最寄りの駅があり、義塾高校前は「東奥義塾高校」の最寄りではあるが、略称の愛称とはやや異なる。「弘前高校」と特に学校名が長いわけでもないのにあえて愛称がつけられている

さらに「○○前」ではなく「下」というのも独特だ。それは駅の位置に関連している

学校の敷地までは近いが実際に学校へ入ろうとすると、おそらく10分近くかかるだろう。駅も丘の上にあるが、学校はさらに高い場所にあるので「弘高下」となったようだ

駅そのものは単式ホームの上に待合所が設置されている

かつては日本中の駅で標準装備だった水道つまり水飲み場が残る。ひねってみるようなことはしなかったが、一見現役のようだ

かつては有人駅で現在は無人駅。平日朝の登校時は駅員さんの派遣があるという情報も見聞きしたが、私が到着した8時17分は無人状態だった。それもそのはずで、2023年度の1日の利用者数は34人となっている

とにかくこれで大鰐線の全14駅の訪問は完了となった

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~ひまわりの待合室とライバルの存在

※訪問は2025年7月11日

周辺の景色も変わり

小栗山駅から1駅大鰐方面へと戻って松木平駅に到着。ずっと乗り続けているとあまり気付かないが、小栗山を過ぎたあたりから周辺の景色は弘前市の郊外という雰囲気から農地が多い風情に変化する

駅名標で分かる通り、読みは「まつきたい」。なかなか読めないが有名な岩手県の観光地である八幡平が頭に浮かべば難易度も下がるのではないだろうか。東北地方には「平」を「たい」と読む地名が多いという。当駅の松木平は松の木がある丘が地名の由来だとか

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目を引く待合室とホームのイラスト

ホームと待合所のみという簡素な構造の松木平駅だが、1952年に弘前電気鉄道によって大鰐線が敷設された時の1期生駅として開業している

ただし、その待合所は決して無機質なものではなく十分に意思を持つというか、緑地に派手なひまわりのイラストが入った目を引くものだ

待合所のみをクローズアップすると分からないが駅の遠景は

小栗山駅の周辺は民家でびっしりという感じだったが、先述した通り農地の中にある駅という風情となっている

待合所の中も随分と派手な黄色で塗られている。そして待合所の奥をのぞいてみると、何やらピンク色のイラストが見える

近づいてみるとリンゴのイラスト。リンゴの新たな品種をPRするためのものだそうだ

少し足を伸ばすと

このような雰囲気の松木平駅だが、当駅訪問は電車だけに限らない

駅近くの停留所にやって来るバスは少ないが、少し足を伸ばすと状況は大きく変わる。徒歩10分ほどで弘南バスの営業所に行くことができるが、ここを出て弘前駅へと向かうバスの本数は多い。時刻表を見ると朝の9時台は1時間に5本。10時、11時台も3本あり、昼間も1時間に2本が運行されている。このバスは前記事で紹介した小栗山駅の近くを通った後、大鰐線と並行するように弘前市の中心部へと向かい、弘前市の中心部である大鰐線の中央弘前駅付近を通って弘前バスターミナルそして弘前駅が始終着となっている。つまり弘前駅へ行けないという大鰐線の路線としての短所をカバーしている一方、運行本数でも上回っている。当駅付近について弘前市郊外から農地へと雰囲気が変わると記したが、まさに郊外の切れ目から中心部へと向かうバス路線となっている。以前は大鰐線も1時間に2本の運行を行っていたが、減便の結果、昼間は1時間に1本となり、路線バスに優位な状況となってしまった

ホームに立って周辺を見る。夏の雲が景色に溶け込んでいて素晴らしい。農地にポツンとたたずむホームも、もちろん景色の一部だが、そのピースのひとつがやがて失われるのは少し悲しい

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~かわいい駅名板にひかれる

※訪問は2025年7月11日

今日は歩く必要ナシ

名残惜しいが津軽大沢駅と別れる時間がやって来た

大鰐線には意表を突くような形でホーローの駅名標が残されているが、ここにも残る。随分と高い位置にあるのが印象的だ

さて前記事で津軽大沢駅は列車交換が行われる駅となっていて、当駅で下車すると必ず1時間待ちなければならなくなると記したが、この時間帯についてはその心配は無用である

こちらは当駅の時刻表だが、私が乗ってきた7時7分の中央弘前行きの後、平日に限っては7時36分という電車がある。JRにしろ三セク、私鉄にしろ、やはり駅訪問は全国どこでも通勤通学帯の朝がカギとなる。それにしても当駅には朝の6時台は電車がやって来ないことをこの時、あらためて知らされた。終電もなかなかの早さだ

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高校生でにぎわう車内

こり後は2駅先の小栗山へと向かい、1駅戻って松木平へ。そこから市内中心部を目指し弘高下で下車して大鰐線コンプリートの予定。もちろん時間はまだまだあるので、大黒様きっぷをそのまま利用して弘南鉄道弘南線の各駅訪問も行うつもり

平日のみ運行のこの列車には多くの高校生が乗車していた。7時半過ぎという時間帯は沿線にいくつもある高校への通学列車の役割も果たしているのは容易に察しがつくが、学校数の割に利用客の数が少ない。私は各地のローカル線には、かなり乗っているが、学校の数を考えると座れない乗客が、もっといてもおかしくはない。これは大鰐寄りの義塾高校前でも感じたこと。これについては今後の記事でも考えてみたい

ホームと待合所のみの構造

電車はあっという間に2区間を走り小栗山駅へ。もちろんこの駅で降りる高校生はいないし下車したのは私だけだったが、代わりに何人かの生徒さんが乗ってきた

小栗山駅はご覧の通り単式ホームと待合所のみの構造。大鰐線のこの構造の駅は路線が開業してから設置されたものが多いが、当駅は1952年(昭和27)に前身の弘前電気鉄道が路線を開業した際からある1期生の駅。見る限り過去に貨物の扱いがあったようには見えない

私の写真では農地の中にある駅に見えてしまうかもしれないが、当駅付近まで弘前の郊外化が進んでいる。開業時は千年村に所在。1955年に千年村は弘前市の一部となっている。千年村が成立する前の明治の町村制施行までは小栗山村があった

手書きの文字がなんとも

宅地の横から小さな階段でホームに入る

さて当駅とは無関係の話だが、前日の津軽線訪問でも気付いたことに電話ボックスの形状がある

拡大するとこんな感じ。多くの駅でこのような形だった。近年、電話ボックスのお世話になることなどほとんどないので、じっくり眺めることはないのだが、表彰台に登るような形となっているのは、積雪対策なのだろうか。3月の訪問時はそもそも雪が積もっていたので全く気付かなかった

駅名標は小さな待合所に2つも掲げられている。先に挙げた写真ではホームに着き出すような形での「小栗山」の文字が随分と目を引くが、正面に回ると

板に漢字、ひらがなの並列で手書き文字が並ぶ。この手のものは地元の学校生徒によって描かれたものが多く「○○学校」の案内があるものだが、それはない。板そのものはかなりの年月を感じさせ、ほとんど何もない構内で大いにアピールをしていた

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~周辺は静かな路線の中枢駅

※訪問は2025年7月11日

意外と訪問が難しい?

津軽大沢駅に到着。見て分かる通り、車庫を備えている。そして運行の管理も当駅で行う。つまり大鰐線の中枢駅。そして電車による乗下車が意外と難しい駅である

というのもほとんどの時間で1時間に1本の運行となっている大鰐線は当駅で列車交換を行うことが多い。もちろん長時間の停車ではない。つまり当駅で降りると中央弘前、大鰐のどちら側からやって来ても必ず1時間の待機が生まれる。もっともこれだけの施設がそろっているのだから、ウロウロしていると時間はあっという間に過ぎ去る。もっと言うと両隣の義塾高校前、松木平とは大した距離ではない

2区間歩いても45分。当駅から義塾高校前までは20分、松木平までも30分とどちらの駅に行くにしても次の電車を待っている間に歩いて到着できる

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車両所などが移転

当駅は1952年(昭和27)の開業。弘前電気鉄道が中央弘前~大鰐を開業させた時に設置された1期生の駅だが、最初から中枢の駅だったわけではない

弘前電気鉄道時代に車庫と本社が置かれたのは西弘前駅(現弘前学院大前駅)だった。転機は1970年の弘南鉄道への譲渡。翌1971年に車両基地が当地へと移転してきた。おそらく都心部の西弘前では手狭だったのだろう。現在も周辺は農地が多く、当駅の1日あたりの利用者数(2023年)は14駅中7位の55人と、そう多い方ではない(もっとも路線内で3ケタの利用があるのは中央弘前と大鰐のみである)

そんな現状を表すようにかつての窓口は閉じられた無人駅。運行をつかさどる駅でありながら、現状当駅を始終着の列車は設定されていない。現時点で設定されていないのだから、2028年春の廃線まで、おそらくこのままだろう。ただし当然ながら運行や車両基地に携わる駅員はいる

駅舎の横から車両基地方面へは道路となっている。途中、何の注意書きも柵もなかったのでズンズン奥まで進んでみた。現役生活を終えたであろう車両も静かに時を過ごしている

ちょっと変わった駅舎

あらためて駅舎。駅舎の存在そのものが少ない大鰐線だが、パビリオン風の千年駅、石川駅とは構造が違う。何より1文字ずつ主張しているような駅名板もここにはない。おそらく他駅は弘南鉄道に移管されてからリニューアルされたが、ここは1952年から同じ姿なのだろう

駅舎の向かいにある介護施設。その1階部分に「弘南鉄道利用者トイレ」がある。男女別のきれいなもので、路線内では貴重な存在だといえる

私が電車を降りると小学生の一団がホームで待っていた。乗る様子がないので「あれ?」と思っているとすれ違いを行う電車に乗り込んでいった。地方のローカル線というと、高校生が主人公なのは言うまでもないが、統廃合が進み、地域によっては小学生にとっても貴重な足だということを再認識。小学生のグループなのでホーム上はにぎやかだ。こんな光景も間もなく失われるのかと思うと、ちょっと寂しい気持ちになる

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~車窓で答え合わせをしながら次の駅へ

※訪問は2025年7月11日

天候に恵まれ

出発を待つ弘南鉄道の電車。6時50分発に乗車する。大鰐駅の5番ホームは保線車両の留置などに使われ、旅客列車の発着は基本的に行われない。3月に訪問した時は除雪車が停車していたが、その姿はもちろんない。すがすがしい朝。気温は25度にもなっていない。伊丹空港から東京経由で北海道&東日本パスを利用して北上してきたが、東京では軽く30度超えだったものが、青森に到着してからは最高気温が26度ぐらいという日が続いている。最初は「さすが北国の青森」と思っていたが、私の訪問タイミングがたまたま恵まれていただけだったようだ

これについては後ほどあらためて触れるが、3月の大鰐線乗車の際も、ふだんの私の生活では見ることもない自分の身長よりも高く積まれた雪を目の当たりにしながら各駅訪問を行ったが、気温は10度超えで、しかも無風。全く寒くはなかった。むしろ徒歩には適切な気候だった。弘南鉄道の旅は私にとって、いずれも天候に恵まれたといえる

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こうなっていたのか、と感心しながら

電車の側面には、ちょっとおしゃれなサボが掛けられていた

大鰐線の全14駅で未訪問駅は4駅。3月に来た時、途中で全駅訪問は無理だと分かった時点で終点の大鰐に近い駅を優先的に回ることにした。次回来た時に中央弘前に近いが残っていた方が効率が良いと考えたからだ。また駅間距離の近い区間も隣同士で残すことにした。1時間に1本の運行なので、歩いた方が早い区間は歩いてしまえば良い。その結果、津軽大沢から松木平、小栗山と3駅続けて残り、もう1駅は膝が痛くて断念した弘高下である

ところが大鰐線再訪問を前にJRで大鰐温泉駅まで行ってから戻ってくる作戦に急きょ変更。それはもう1度車窓から確認したかったからでもある

自分の中ではおそらく忘れることのない弘南鉄道の石川駅から奥羽本線の駅を歩いた駅間徒歩である。携帯アプリの指示するままに歩こうとすると、目の前には雪しかなく、自力で別ルートを考えたら大きな水たまりに道を阻まれ、それでもエイヤとジャンプしたら膝を痛めてしまった2つの思い出。大鰐温泉まで行ってUターンする形をとれば、雪のない時はどのような姿になっているのかが分かる。弘前から大鰐温泉への奥羽本線では弘南鉄道との交差部分を中心にじっくりと眺め、今度は路線内で唯一の高架となっている部分から眺めると、ああ、雪に埋もれていたアプリ指示の場所にはちゃんと道があったんだな、膝を痛めた水たまりは当然ないな、とJRと弘南鉄道の往復で「答え合わせ」も完了。さすがにもう一度道程を歩いてみよう、という考えには至らなかったけど(笑)

ちょっとした感慨にふけっているうちに電車は17分で津軽大沢駅に到着。ご覧のように、見ただけで、なかなか「そそる」駅である

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~ようやく跨線橋を渡ってみた

※訪問は2025年7月11日

4カ月を要してたどり着いたJRの改札

大鰐温泉駅の改札。4カ月前はここまで来ることはできなかった。ラッチはなく有人の時間帯は駅員さんが立ってきっぷの回収をするのだろう

ただしまだ6時40分。無人の時間帯だ。JR全線の乗車券、指定券を買うことができると記されているが、みどりの窓口とはなっていない。特急停車駅ながら扱いは簡易委託駅のようだ

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足湯も備える

大鰐温泉の駅舎。開業は130年前の1895年と明治期だが、現在の駅舎は昭和30~40年代の典型的なコンクリ駅舎。大鰐町の代表駅にして大鰐温泉の最寄り。最寄りというか、駅前が温泉街となっている。全国には「○○温泉」という駅名ながら、温泉街まで遠い駅がいくつもあるが、ここは名前に偽りなし。鎌倉時代んらの名湯で大鰐からの駅名変更も十分うなづける

駅前には大きなワニと一体となった足湯がある。「こんなところだったのか」が実感

3月に訪問した際の記事。当駅に来る前、弘南鉄道の石川駅からJRの石川駅の間を歩いた時、膝を痛めてしまい跨線橋を渡ることができずJRの方に行くのを断念した。ちなみにもう痛くはないが、まだ違和感が残っている状態だ

大鰐駅へと向かう

さてここからようやく本来の目的である弘南鉄道大鰐線の大鰐駅である。つまり大鰐温泉駅から大鰐駅へと向かう。弘南鉄道では南口にあたる駅舎はJRの駅舎の隣にある

以前は駅員さんがいたが、現在は無人化されている。券売機もなく単に待合室状態。私の訪問時はJRも無人の時間帯。前記事で「どちらで降りても事実上同じ」と記したのは、そういう意味合いだ。厳密にはJR、弘南鉄道とそれぞれの乗客が、それぞれのきっぷを持ってそれぞれの出入口を利用することになるが、今回の私は両社のフリーきっぷを持っているのでどちらも利用できる

4カ月前は渡れなかった跨線橋で、いよいよ大鰐駅へ

弘南鉄道の方へ行こうとすると跨線橋が狭くなる。そしてJRのきっぷしか持っていない人は、ここから先には行けない。駅に出口が複数あるのなら、○○口という風に方角や地名が入るものだが、弘南鉄道には北口と南口があるが、JRの出口は1つである。「JR出口」と表示されているのも、そのためである

弘南鉄道のホームにやってきた。ここは4カ月前にも見た光景。懐かしい

すでに中央弘前行きの電車が出発を待っている。訪問記事と読み比べていただければ分かるが、とにかく景色の違いに驚く。弘南鉄道とJRのホームの間はビッシリ雪が埋まっていたのに、今は青い夏の空。あまりにも対照的だ

共同使用駅の概念とは違うかも

弘南鉄道のホームまで来て目につくのは、こちらの注意書きである

わざわざ「JR」と上書きしたり、「弘南大鰐」の「弘南」の部分を隠してみたりという工夫ばかりが目につくが、これはどういうことかというと前述した通り、JRのきっぷしか持っていない人はこちらの出口からは出られません、との意味だ

JRで降りると線路を挟んで南北を往来するにはかなり回り道をする必要がある

こちらは3月訪問時のもので張り紙はめめめくれかけているが、通り抜けをするには入場料が必要だということが書かれている

訪問時の記事で「いろいろな形式はある」と前置きしながらも共同使用駅とした。ただ共同使用駅の概念のひとつとして「どこからも出入りできる」というのがあるだろう。ホームの導線に共有部分はあるとしても「隣接する駅」という表現が近そうだ

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~異なる会社のパス2つを同時使用

※訪問は2025年7月11日

朝6時台の弘前発奥羽本線からスタート

朝6時20分の弘前駅

前日は津軽線の運休区間を回り、夕方までに弘前入り。本日は弘南鉄道大鰐線の残り駅回収と同社の弘南線の各駅訪問を行う予定。前回の訪問からちょうど4カ月。景色は大きく変わった。当時は弘前の駅前にも雪が残り、沿線はどこもまだ高く積もる雪に囲まれていた

まさに雪中行軍だったが、東北の夏はやや遅いとはいえ、もう盛夏といっても良い季節。朝の6時でも当然半袖シャツ1枚である。幸運にも宿泊していたホテルの朝食が朝6時からで、大盛ごはんを素早くかき込んで出発である

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初めてのフリーパス同時使用

6時27分発の奥羽本線秋田行きに乗車。大鰐線の駅訪問なのに、なにゆえJR乗車なのかというと、ここから大鰐温泉駅へと向かい、そこから大鰐線に乗車しようというプランである。すでにスマホで弘南鉄道のフリーパス「大黒様きっぷ」を購入している。そして弘前~大鰐温泉のJR区間は津軽線でも使用した北海道&東日本パスを利用する。結論から言うと、本日JRを利用するのはこの区間のみ。運賃にしてわずか240円だが、7日に東京から利用を開始したこのパスはもう十分に1万1530円の元を取っている。しかも明日の最終日も青い森鉄道でたっぷり乗下車するので本日の出番はこれだけで問題ない(ちなみに初日の出番も浜松町~上野のみだった…笑)

フリーきっぷというのは、とりあえず元を取るのが先決なので異なる会社のものを2枚同時に使用するということは、なかなかない。私も初体験。ほんの少しだけエグゼクティブな気分になれる

電車はわずか2区間の13分で大鰐温泉駅に到着。ちなみに弘南鉄道だと13区間で30分以上を要する。後方に弘南鉄道の出口があるが、当然ながらJRの出口から出よう。両社のフリーきっぷを持っているし、事実上ここから出ても大勢には影響ないのだが、それについては後述する

奥羽本線のこの区間は過去何度も乗車しているが、大鰐温泉での下車は初めて。もっと言うと、途中に石川駅があるだけの2区間約12キロの車窓をこんなに凝視したのは初めてのことだ。特に石川駅前後では「こんな風に大鰐線とクロスするんだ」「こんな風に別れてまた合流するんだ」と興味津々。これも3月そして今回の主役があくまで大鰐線だからだろう

行先案内にしびれる

向こうに弘南鉄道の大鰐駅と電車が見えている。跨線橋でつながっているが、JRは大鰐温泉、弘南鉄道は大鰐と駅名が異なる

JRの大鰐温泉駅は開業が1895年(明治28)と古く今年で130歳。新宿駅とも「10歳」しか変わらない。当時の駅名は大鰐である。地名の由来については調べるまでもなく駅に解説があった

アイヌ語に基づくという。JR東日本の東北の駅では、このような地名の由来についての案内板をよく見かけてとても勉強になるし、何より調べる手間が省けてブログ記事の作業がはかどる(笑)

弘南鉄道の大鰐駅開業は1952年(昭和27)と、ずっと後のことだ。敷設は弘前電気鉄道が行い、駅名は国鉄との同名に気を遣ったのか、嫌がったのか弘南鉄道に営業が譲渡された際に「弘南大鰐」という駅名となっている。大鰐駅に戻ったのは1986年のこと。ただJR移管後の1991年(平成3)にJRの駅名が大鰐温泉となって現在に至るため、弘南鉄道の駅は55年もの歴史を持ちながら、JR(国鉄)と同駅名だったのは1952~1970と1986~1991の半分にも満たない。駅名の追っかけっこをしている感じだ

改札を出ようとして振り返ると跨線橋手前の番線案内に目が釘付けとなった

奥羽本線の各駅、弘南鉄道大鰐線の各駅に混じって「大阪」の文字。明らかに異彩を放っている。東北地方に大阪という地名があるのかと思ってしまいそうだが、おそらく日本海縦断特急「日本海」の停車駅だった名残だろう。定期運用の終了は2012年春とまだ13年しか経っていないが、はるか昔のことのように感じてしまう。2028年春の大鰐線廃線とともに案内板も作り替えられて大阪の文字も消える運命だと思う。ただ見方を変えると何度も作り直すのは面倒なので、少なくともそれまでは残るはず。この駅で最もしびれた瞬間だった

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~所々で現実に戻される木造駅舎と14年前の思い出

※訪問は2025年6月7日

今回の旅の終着駅

鮎貝駅から約30分で今泉駅へと到着

当駅はJR米坂線との分岐駅。ここで乗り換えて米沢に出るのでフラワー長井線とはお別れ、つまり最後の駅となる。クラシックな乗換案内があるが「小国 坂町」方面については番線の数字が隠されている。米坂線は現在、豪雨被害によって坂町方面が運休中だ

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大正期からの木造駅舎

今泉駅は1914年(大正3)の開業。当時からの駅舎が健在だ。駅名標を見て分かるように管理はJR東日本。山形鉄道の社員はいない。自動券売機が置いてあるだけ。アンバランスとも思えるような巨大な駅名板は国鉄からの移管後、一時的に全国で流行った。新生JRをアピールするためのものだったのか、今となっては不明だが、このサイズの駅名板も徐々に姿を消しつつある

管理はJR東日本で山形鉄道はあくまで共同使用駅という形をとっているが、国鉄時代は所属路線は長井線だった。というのも長井線の方がわずかに先に開業したからだ。長井線が長井駅まで延伸され、途中駅の今泉駅が開業したのは1914年(大正3)。米坂線の開業はその2年後。三セク移管により長井線がJRの駅ではなくなったので、米坂線の駅となった。西大塚、羽前成田と開業時からの駅について紹介してきて、その度に開業時から残る駅の数について微妙な表現をしてきたが、それは今泉駅が山形鉄道の管轄ではないからだ

ただしJRの管轄となっていることで別の側面も残った

当駅はみどりの窓口が残る直営駅である。それは運行において重要な駅となっているからだ

14年前に当駅で待ちぼうけ

米沢からやって来た米坂線と赤湯からの長井線は今泉で合流。その後、再び別れるのだが、「別れ」にはちょっと事情がある

地図が分かりやすくなるよう車での移動ルートを掲載してみたが、見ていただければ分かる通り今泉を出た両線は、かなり長い区間同じ線路を走り川を渡ってからようやく二手に別れる。つまりこの区間はかつては両線、現在は両会社が共有していてしかも単線である。そのため今泉は(現在米坂線の列車は走らないものの)重要な駅となっている

この共有区間については強烈な思い出がある。データが残っているので2011年10月27日のことだ。米沢に宿泊することになっていた私は少し時間ができたので米沢~今泉を往復してみることにした。米坂線はこの日が初乗車。ダイヤ的によい感じの滞在時間で米沢駅へと戻れることになっていた-はずなのだが、今泉で下車したところ思わぬトラブル。この共有区間でフラワー長井線の列車が故障して動かなくなってしまったのだ。共有区間を塞いだ形になっているので米坂線も運行できない。しばらくすると「救出された」長井線のお客さんたちが今泉まで戻ってきた。それからかなりの時間を経て両社のお客さんはそれぞれの会社が手配した車で各地を目指した。米沢へは緊急の代行バスが準備され、各駅を訪問。米沢という町は駅と中心部がかなり離れている。私は中心部のホテルを予約していた。代行バスは鉄路とは異なり、その中心部を通るがそこにJRの駅はないため街並みを眺めながら通過である。すでに真っ暗の中「ここで降ろしてくれ」と心の中で叫んだことを昨日のことのように覚えている。なお写真については跨線橋から遠くに見える故障車両を撮ったが、豆粒すぎて何のことやら分からないので掲載見送りである

クラシックなたたずまいと現実

右が米坂線、左がフラワー長井線の車両。2022年の豪雨被害で、米坂線は現在今泉~米沢のみの運行となっているが、両線の接続は考慮したダイヤとなっているようだ

ホーム内特に長井線側には現在も古いものが残されて番線の行先案内はホーローのものが健在だ。大正期の雰囲気をそのまま残している一方で、現実に戻されるものもある

こちらはJRの時刻表。今泉から先、米坂線の列車は長期運休中。今後の形をめぐって話し合いが続いている

こちらは長井線ホームでの案内。国鉄時代の英語での番線案内が残されているが、坂町方面の番線は塞がれている。奥にはフラワー長井線の時刻表があるが、減便ダイヤとなった列車については線で消されている。大正、昭和から一気に令和に戻されたような思いを胸に米沢へと向かった。状況が好転することを祈りたい

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~大きい上屋と絶景空間

※訪問は2025年6月7日

さすがに歩くのはもう…

荒砥駅から赤湯方面を見る。とはいえ、しばらく列車は来ない。街中でのんびり蕎麦を食べたが、まだ1時間以上の時間がある。次に目指すのは鮎貝駅。次の列車を鮎貝で待ち構える旅程で、それほど大した距離ではない

線路に近いところを道路も走っているので道に迷うこともなさそうだが、つい先ほど長井駅から羽前成田駅まで歩いたばかりで、食事もして気力は薄れがち。念のためにと駅前にあるタクシー会社をダメ元でのぞいてみると運転手さんが待機中。これはラッキーと乗せてもらうことにした。同行者がいると半額になるのでタクシーという武器は結構強力である。ちなみに鮎貝までは1400円ほど。1人700円なので、それほど大きな出費ではない

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唯一の後悔

ただし、ここでこの旅唯一の後悔をすることになる

こちらは荒砥駅にあった最上川橋梁(荒砥橋梁)の解説。長井線は1913年(大正2)の開業後、少しずつ鉄路を伸ばし、1922年に鮎貝まで到達した。この時点で左沢への延伸の話は、ほぼ終わっていて鮎貝で完結するはずだった。理由は地図を見てもらえば分かるが最上川の存在だ。当時の技術では、ここを渡るのは無理とされたが、古くからの地域の要衝である荒砥まで何とか鉄道を通してもらえないかという地元の熱意が通じて用いられた技巧は東海道本線の木曽川橋梁の引っ越しだった。東海道本線では車両の大型化や運行量の理由で、明治以来の橋梁が強度不足で建て替えることになっており、ならばと当地まで引っ越して架けられることとなった。おかげで現在も現役の明治以来の貴重な存在となった

そこでの後悔というのは、せっかくタクシーで移動できたのだから(実際に停める場所があるかどうかは分からないが)1度停まってもらって橋梁の写真を撮っておけば良かったというもの。道路と並行する橋梁を眺めるだけで終わってしまった

長い屋根がすごい

そして到着した鮎貝駅

空間にとにかく目を見張る

「鮎貝駅」と書かれた駅名板の向こうはいきなりホームで、これだけならよくある形かもしれないが、雨よけ、雪よけだろうか、駅前広場を長い上屋で囲っている。これだけだと異空間の印象だ

ただし左側に目を移すと

公民館がある。右端の赤丸の部分が駅の待合所だ。元々は古風な開業以来と思われる駅舎があった。山形鉄道のHPによると正面駅名標あたりに建っていたようだ。1922年(大正11)開業のかつての駅舎は三セク移管の数年後に現在の姿になった。開業時は鮎貝村に所在し、1954年(昭和29)から白鷹町。公民館を備えた駅の改修は白鷹町が担った。地名は当地を治めた鮎貝氏にちなむとされる

ホームに立つと、まさに絶景。目の前には田んぼと山の稜線が見える。向かいにスペースがあるが、かなり以前に2面2線の構造だった名残だ

地元の小学生による絵画が飾られている。フラワー長井線10周年とあるので1998年のもの。25年以上が経っているので描いた生徒もすっかり大人になっている

絶景に別れを告げて、今回の旅最後の駅に向かうことにしよう

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