きっぷ

私的に最後の「JR路線」に乗車する~線路のない場所にたたずむピカピカの駅舎

※訪問は2025年5月27日

駅名はかつての大鶴村から

あらためて大鶴駅の駅舎。ご覧の通りピカピカ。開業は1937年(昭和12)で、日田彦山線(当時は彦山線)が夜明~宝珠山で開通したのと同時に設置された。駅名は当時の大鶴村(1955年から日田市)に基づく。もちろん駅舎は当時のものでないことは明白だが、そのあたりはBRTの停留所から離れているにもかかわらず駅舎が残っていることにも関連する

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大肥川との関連

前記事でBRTのコースをたどったら遠回りしてしまった話を書いたが

それは国道に沿って真っ直ぐ進むのではなく、バス乗車の記憶から「名本」という停留所を通るコースを歩いてしまったため。なぜわざわざバスも迂回コースを行くのかというと、おそらく名本の停留所と、そこからほど近い大肥川を渡ったあたりが旧大鶴村の中心地だからだろう。大鶴村は明治の町村制施行の際、それまでの大肥村と鶴河内村が合併して頭文字ひとつずつをとって付けられた村名。それぞれ大肥川、鶴河内川に由来する。鶴河内川は、この名本あたりで大肥川に合流する。大肥川は日田彦山線の途中となる東峰村に源流を発し、日田彦山線が夜明駅で久大本線と合流するように、大肥川も夜明駅付近で筑後川に合流する。鉄路についてはBRTの専用軌道となっていて一時的に大肥川と離れるが、国道211号については河川によってできたスペースを利用するようにピッタリ寄り添って東峰村から夜明駅近くまでやって来る

古くから氾濫を繰り返してきた川で日田彦山線がBRT転換となった要因となった2017年の九州北部豪雨では甚大な被害をもたらしたが、豊かな水量で地域に長年恵みをもたらしてきた川でもある

新駅舎から間もない被災を伝える

大鶴駅の現在の駅舎は2010年(平成22)に開業時からの木造駅舎に替わって新たに建て直されたもの。大鶴は木材の町でもあっただけに新駅舎も木造で建てられた。九州北部豪雨は新駅舎になって、わずか7年後のことだった

駅舎を抜けると点字ブロックとともにホームへの導線があり、その先にホームがある。ホームがあるというより、わずかに残されたという表現が正しい。ただホーム跡には自由に入れる

ホームは線路とともに途切れていて、そこには製材所がある。かつて大鶴は炭鉱輸送や木材輸送で栄えた。もともと駅舎の横には製材所があったようで、鉄道駅としての役割を終えた後に製材所が拡張されたのか

駅舎内には豪雨被害の写真が並んでいた

訪問時はちょうど豪雨被害の写真展示を行っていた

こうして見ると被害のすさまじさが分かる

当駅についてはBRTの停留所が徒歩3分ほどの国道に設置されたため、駅舎がポツンと離れた場所にそのまま残る形となっている

こちらがその停留所

こちらは製材所と逆側を見たもの。こちらの路盤もすぐ先で終わっているようだ。きっと前記事で私が見た鉄路の路盤の場所へとつながっているのだろう。大鶴駅の駅舎については、現在利用方法を考えている最中だというが、これだけの立派な施設。ぜひ残ってもらいたい

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~思いつきで隣駅へ行ってみた手段はもちろん

※訪問は2025年5月27日

県境付近で立ち止まる

宝珠山駅前の橋を渡り国道を右に行くと福井神社があり、すぐ県境となる

そこには石碑があり丁寧な解説がある

とても分かりやすい解説で筑前の国境が川でなかったため、トラブルを避けるべく江戸時代に黒田氏がそれを示す石碑を建てたというもの。現在もそのまま県境となっている

もちろん現代の道路上にも「ここから大分県」の標識がある

振り返ると当然ながら「ここから福岡県」の標識。先に見える橋を渡った所に宝珠山駅の駅舎がある

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予定ではこれで終了だが

私が予定していた日田彦山線BRTの旅はこれで終わりである。完乗もした、彦山駅と宝珠山駅も行った。本日は日田に宿をとっていて、せっかくの旅名人きっぷである。翌日は久留米まで出て西鉄を堪能しつつ博多へと向かうつもりだ

ただ県境までやってきて、ふと思いついたことがある

「大鶴駅まではすぐじゃないの?」

ここまで宝珠山~夜明をBRTで1往復している。車窓の風景も眺めたが、宝珠山駅とお隣の大鶴駅はそれほど離れていない。しかも山中にありながら比較的平坦なコースのようだ。しかもやや下り。念のために調べてみると

1・6キロで徒歩22分というグーグル先生の指南。この区間は鉄道時代から国道と線路が近い場所を走っているので線路での距離も1・6キロとあまり変わらない

実はこの大鶴駅については駅があった場所に停留所はなく、少し離れた国道上に停留所が設けられ、バスの車窓で目を凝らすと、まだ健在な駅舎が道路の奥にチラ見えする。もちろんバスが進むと一瞬で視界から消えてしまうのだが、このチラ見えというのが何ともそそるというか、じっくり眺めたくなる欲求が出てくるものだ

前記事で紹介した通り、14時36分に添田行きで宝珠山に降り立った私は15時28分発の折り返しとなる日田行きに乗車するつもり。時間は14時50分になっているが、駅からは5分ほど歩いたので指南通りだと現在地からは残り20分を切っているだろう。これだと十分間に合いそうだ。ここは徒歩の一手だと歩き始める

歩いたおかげで見られたもの

何やら不安にさせる標識があるが、私のコースには関係ないようだ。のどかではあるが、しっかりした歩道がある道路を歩く。ただ弘南鉄道大鰐線の項でも同じような書いたが、車はビュンビュン走るが人は全く歩いていないのは青森県でも遠く離れた大分県でも共通である

途中、近道のようなコースを行くと、そこで予期せぬものに出会った

日田彦山線の線路跡。「JR九州」と書いてあるので分かりやすい。先に鉄路があって後から道路ができたので道路が鉄道をオーバーパスする形にしたのだろう

その向かいに目をやると

路盤が続いている。ここは踏切だったのか、それとも線路が撤去された後にできた道なのかは不明だが、これは歩いたおかげで見られた廃線跡だ。写真で分かる通り、雑草が生い茂っているのではなく定期的に草刈りが行われているようだ。これほどきれいな草むらなら、ここを歩けば最短で大鶴駅までたどり着けそうだが、さすがにそういうわけにはいかない

BRTのバスは国道から1度離れて再び国道に戻るというコースをとっているため、それに引っ張られた私はちょっと遠回りしてしまったが、それでも余裕で到着

今も現役の駅のようにきれいな大鶴駅が出迎えてくれた

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~山中のホームに県境のある駅

※訪問は2025年5月27日

必ず行くと決めていた駅

今回の日田彦山線BRT乗車の際、必ず行くと決めていた駅が宝珠山(ほうしゅやま)

夜明から再びBRTで彦山方面へと向かい下車した。ここからBRTは鉄道線の路盤を利用した専用軌道に入る。先の記事でも紹介した東峰村の区間である

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化粧直しの後だった駅舎は健在

宝珠山の駅舎。開業は1937年(昭和12)で夜明駅側から日田彦山線(当時は彦山線)が難工事区間つまりBRTでも専用軌道となった区間に入る一時的な終着駅として開業した。だが戦争によって工事は中断。先までつながったのは戦後になってからのことだった

現在の駅舎は1998年(平成10)にそれまでの駅舎を踏襲する形で新たに建て直したもの。今回現地を訪れて分かったのだが、BRT区間の駅舎は2017年(平成29)の豪雨被害の少し前に新たに建て直されたものが多い

当駅も駅舎はそのまま利用されているが、BRT移行のタイミングでキッズスペースが設けられたりと、中身は手を加えられている

かつてのホーム跡は駅舎の隣にある

ホームが残り、その上にはミュージアムが建てられている

ホーム上の県境は今も残る

宝珠山の駅名は平成の大合併まで存在した宝珠山村に基づく。これは話題となった合併で、宝珠山村と小石原村の2つの村が合併して誕生したのが東峰村。つまり村と村が合併して新たな村が誕生したという「ミニ合併」だったのだ

ただし宝珠山村の中心部はこの付近ではなく、後に出てくるが、お隣の大行司駅付近。というのも宝珠山駅の近くはなかなか村の中心部になりようがないのだ

ホーム跡に建つミュージアムの前にある「県境の駅」の碑。当駅のホームは県境をまたいでいて、3分の2が福岡県で3分の1が大分県にあった。ホーム上に県境のある駅としては東海道本線の山崎駅が大阪府と京都府をまたいでいることで有名だが、山間部の村にある駅が県境をまたぐのは珍しいケースだ(大分県側は日田市だが、駅の開業時は大鶴村だった)

鉄道駅時代はホーム上にこの碑が置かれ、県境を示す線が引かれていたが、BRT転換によってこの位置に移動となった

線路のあった場所にはモニュメントが設置されている

日田彦山線沿線地域振興記念碑の解説がある

線路はかつてのホーム、大分県に入った後にフェードアウトするように途切れている。鉄路が消えたことの証でもあり、心が痛む

さて14時36分に当駅に到着した私は15時28分のBRTに乗車して再び日田方面へと向かう予定だ。まだ少々時間はある。橋を渡って右に行くと、すぐ県境があるので見に行ってみようと歩をすすめる。ただ歩き始めるうちに別の考えが浮かんできた

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~久大本線との結点は絶対名前を忘れない

※訪問は2025年5月27日

大いに役に立ったBRT

歓遊舎ひこさんからバスに乗り込み、あらためてBRTを大分県方面へと向かう

今度は大きいバスがやって来た。実を言うと最初に添田から彦山まで乗車したバスを「小さい」と表現したが、彦山で下車すると後ろからもう1台。2台セットでの運行だったのだ。もちろん私は1台目に乗車していて、2台目を見るとお客さんはいないように見えたが、満員で乗れないという危険を避けるため時間帯によってバスの大小や台数を決めているようだ

そしてもうひとつ、BRTに乗車して気付いたのが

USBポートの存在。最初に乗車したバスでは気付かなかったが、その後は携帯の充電に大いに役立った。私的ポイントは極めて高い。特にこの後は1時間の乗車となったので満タン充電である

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まずはJRの「鉄道路線」完乗

1時間かけて到着したのは

夜明駅。こちらはれっきとした鉄道駅で日田彦山線と久大本線の結点で日田彦山線の終着駅。ただし日田彦山線は鉄道時代から、すべての列車が2駅お隣の日田まで乗り入れていた。いわゆる帳簿上の終点だったわけで、そのなごりで今もBRTは日田まで運行される。夜明~日田は鉄道とBRTの両者が並行して走る区間となっている

とにかくこれで日田彦山線は完乗、JRの運営している「鉄道路線」は、これですべて乗車したことになる。もっともこの後、どうしても行きたいBRTの駅があるので再び添田方面のバスに乗り込むのだが、本数がそう多くはないため1度夜明まで来たのだ

高台に立つ駅舎

夜明駅の駅舎は階段を昇った高台にある。鉄道はこちらから、BRTのバスは階段の下からの発着となる

かつては日田彦山線が合流する2面3線の構造だったが、現在は2面2線となっている。周辺は特に何があるわけではないが、印象的なのは何といっても駅名だろう

開業は1932年(昭和7)で久留米側から少しずつ伸びてきた久大本線(当時は久大線)が福岡県との県境を越えた最初の駅だった。大分県最西端の駅である。2年後に日田まで延伸されるまでは終着駅だった。現在の日田彦山線の前身にあたる彦山線の乗り入れは1937年から

駅名は当時の夜明村に基づく(1955年から日田市)。もともとは焼き畑によって開墾され「夜焼」という地名だったものが現在の地名に変わったという説があるが、夜明という言葉の響きは何とも素晴らしいものがある。1度聞くと絶対に忘れない地名、駅名だ

夜明けの鐘や寅さん

現在の駅舎は2010年(平成22)に新築されたもの。すでに無人駅だったが、開業以来の駅舎の雰囲気を引き継ぐ形で建設された

駅舎の隣には

夜明けの鐘

駅舎内に解説があるが、地元の小学校で大正時代からチャイムとして使用されてきたもの

その隣には平成24年九州北部豪雨(BRT転換となったのは平成29年九州北部豪雨)の際に押し出されてきた岩を加工した石碑が設置されている

また映画の中で重要なシーンとして登場する「男はつらいよ」のロケ地にもなっていて駅舎内には当時の写真が飾られている。利用者は決して多くはないが、見どころもあり、駅名標の写真を撮るだけでも尋ねる価値のある駅である

なお私は10代のころに当駅の存在を知り、私が子どものころの青春スター石橋正次さんのヒット曲「夜明けの停車場」(興味のある方は検索してください)に関係があるものと長らく思い込んでいたが、そちらは違うようである

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~路線内の最新駅で安心の昼食のはずが

※訪問は2025年5月27日

本日は不安なし

ローカル線の駅訪問を行う際、最も不安なのはランチタイムをどうするか、になる。近年はかつて優等列車が停車していた地域の代表駅ですら、駅前はシャッターや雨戸で閉ざされた店舗の跡があるだけで、その昔は駅で時間待ちをする旅人の胃袋を満たしてくれた駅前食堂は、いにしえのものとなりつつあり、不安というよりはなから諦めていることが多い。あらかじめ出発駅のコンビニでおにぎりやパンを一つ二つ購入して空腹を凌ぐのがほとんど。その分、駅の近くでたまたまコンビニがあったりすると、それを「神駅」と称している

だが今回については閑散ローカル線でありながらも、その心配はなかった。とにかく「食堂」がある場所で横付けしてくれるのだから

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日田彦山線で最も新しい駅

添田方面からBRTに乗車すると、最初にある旧鉄道駅が今回訪れた歓遊舎ひこさん駅(バスの停留所は途中に3カ所ある)。何やらバス停のような名前だが、豪雨被害までは、れっきとしたホームのある駅だった。バス停のように思ってしまうのは

駅の場所がそのまま「道の駅 歓遊舎ひこさん」になっているからだ

こちらが道の駅の駐車場に設置された停留所

道の駅は1999年(平成11)のオープンで、その裏手をたまたまレールが走っていたことで2008年に新駅を設置。鉄道と一体化した道の駅となった。日田彦山線では最も若い駅である。の鉄道に揺られて車窓をぼんやり眺めていると目の前の道の駅を通過していく体験は皆さんお持ちだろう。だが、そのほとんどは駅からはかなり離れた場所にあった、道の駅に立ち寄ろうにも不可能なことがほとんどだ。そもそも道の駅そのものが、もともと何もない場所に造られることが多いので鉄道駅とは無縁だ。それでも近年は北海道の木古内駅や福井県の美浜駅、越前たけふ駅のように鉄道駅と道の駅がセットとなった例も見られ始めた。ライバル同士だった鉄道が飛行場に直接乗り入れる方式が全国で広まったように、鉄道と車がセットになる可能性を感じることだと思う

わずか9年だった鉄道駅

ここが鉄道駅だった痕跡は入口にもまだ残っている

今も残るホームにはレジャー施設利用者のみが入れるようになっているが、入口前の裏側には

このようにJR九州のマークとともに駅名が書かれている。そしてこれは鉄道駅としては廃止ではなく、あくまで休止扱いなので間違ってはいない

また隣に回り込むとホームの一部が残されている。豪雨で被災したのが2017年のことなので、ホームに列車が停車したのは、わずか9年のことだった

一瞬絶句も

さて駅については一通り見たので、ここでランチタイムである。道の駅なので、すっかり安心してうどん店に入ると

無情の本日休業の立て札。事前に調べなかったが火曜日が定休日らしい。お隣の韓国料理店は開いているが、12時24分に当地に到着した私は12時58分発で再び夜明方面へと向かうつもりで、到着後にお手洗いを借りたほか、前述した写真を撮ったりしていたため、残り時間はとうに30分を切っている。サッと食べられるうどん店が休みとなると、何か道の駅の中で、この際お菓子でも酒のつまみでも何でもいいのでお腹に入れられるものはないかと店内に入る

地元の名産品を幅広く取り扱っているなぁ、と店内を歩いていくと、なんと

お弁当を発見。しかもこれで480円と超良心的な値段である。残り少なくなっていたものを素早くゲット。外のベンチで食べようとしたら、他にも複数の「お弁当グループ」が。皆さん車で来られていたようだが、有名なのだろうか

とにかくすっかり満たされた私は

子育てに精を出すツバメさんに別れを告げて無事予定のBRTに乗り込めることになった

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~戦時中に建設された立派な駅舎を有した駅

※訪問は2025年5月27日

バスのサイズに驚く

こちらは彦山駅で撮影したものだが、添田駅で最初にバスを見た時の印象は「小さ!」だった。定員は25人となっているようだが、座席の数は20人に満たない。添田駅では私より年配の方が一緒にBRTを待っていたが、この方も初乗車だったようで「小さいんだね」と漏らしていた。ただ考えてみると、このサイズで間に合うからこそのBRT転換だったのだろう

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BRT転換で駅舎解体

BRT転換の要因となったのは2017年(平成29)の九州北部豪雨。特に添田~夜明間では駅舎の倒壊や橋脚の被害、トンネルへの土砂流入など甚大な被害が発生。長期運休は必至で、そもそもそれ以前に再開が可能なのかどうかというレベルの深刻な状況だった。福岡県と大分県の山間部の県境を走るこの区間は、当時すでに閑散区間となっていて復旧までの経費とその後の利用者数を考慮すると、採算がとれない試算だった。地元は鉄道による復旧を求めたが、2年間の話し合いの末にBRT転換で合意。2023年から、それまでの代行バス運転に代わっての日田彦山線BRTの運行が開始された。その際、バス転換で不自由になると予想された東峰(とうほう)村に所在する彦山~宝珠山については既存の鉄道路盤を利用した専用軌道とすることも盛り込まれた

彦山駅は添田町に所在するが、ここから大分県との県境に向けてが東峰村となる

彦山駅とお隣の筑前岩屋駅を車で行こうとすると、このようなとんでもない悪路になる。普通に考えると国道経由の遠回りルートで実際、代行バスもこの迂回ルートを通っていたが、鉄道は地図を拡大していいだけると分かるが、4000メートル以上もある釈迦岳トンネル経由で真っ直ぐ結ばれていた。そしてこの区間は戦前では工事が終了せず、戦争によって中断。戦後10年以上も経た1956年(昭和31)にようやく全通した難工事の箇所でもある

英彦山神宮への最寄りとして

あらためて彦山駅。添田方面から当駅までは1942年(昭和17)に開通した。1942年といえば、まさに戦時中だったが、英彦山(ひこさん)神宮への最寄り、入口として神社を模した立派な駅舎が建てられ、戦後の全通、そして路線名が日田彦山線となっても路線を象徴する豪華なものだった

ただ、その駅舎はBRT移行の際に解体され、現在の形へと姿を変えた。2面3線という駅の大きすぎるスペックはBRTに向かないものだった。駅舎の隣には休憩所も設けられ、駅としての規模は大きい。新駅舎も英彦山神宮の要素を採り入れたもので

生まれ変わった駅舎内はきれいで居心地がいい

こちらは停留所で、ここから先は専用軌道

こちらはバスが去っていくところで、専用軌道となる代わりに非電化単線の路盤を使用しているため、すれ違いはできなくなる

高台にある駅は被害時の防災拠点として添田町が整備していて駅舎横にあるベンチは、緊急時は炊き出しスペースとなるそうだ

こちらは駅前の様子。英彦山神宮への参拝拠点として栄えたなごりがある。正面の飲食店は、おそらくまだ現役のはずだが、訪問当日は営業していなかった

ということで次の夜明方面へのバスはしばらく来ないため「食」を求めて専用軌道を戻る形で添田行きのバスに乗り込むことにする

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~不思議な路線名誕生までは複雑な経緯

※訪問は2025年5月27日

路線名ゆかりの駅が第一歩

添田から約20分。BRTのバスは彦山駅に到着した。予定の時刻より5分ほど遅延しているが、ここまでは道路を走るバスだったので、遅延もやむを得ない。写真で見ていただければ分かるが、ここからバスは専用軌道に入っていく。つまり線路跡を利用したコース。ここから約14キロはバスのみが走るコースなのでBRTならではの強みが発揮されるコースとも言えるが、非電化単線の線路跡を走るためバス同士のすれ違いは、かつて駅だった場所でしかできないことが、かえって弱みであるが、これが後に各駅訪問の悩みのタネとなる

そして駅名からも分かるように路線名「日田彦山線」のゆかりになった駅でもある

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変遷の末に現在の路線名に

日田彦山線は小倉から3駅目の日豊本線城野駅から分岐。久大本線の夜明を結ぶ路線で68・7キロ。この両駅が帳簿上の起終点だが、現実的には列車は小倉から久大本線の日田まで運行されていた。そのなごりでBRTも夜明を経て日田まで運行されている。つまり日田~夜明は列車とBRTが並行して運行されている区間となる

路線名は日田駅と彦山駅からとられているのは一目瞭然だが、彦山駅は城野から47キロも離れた場所にある途中駅。普通なら起点と終点の1文字ずつをとったり、路線内の代表駅を路線名とするところだが、ちょっと違う。これには路線の成り立ちが変化した歴史が関係している

もともとは小倉の東側にあった東小倉という駅(今も形の上での駅として残るが旅客扱いはしていない)から日豊本線を経由することなく添田までを結んでいた私鉄路線だった。話はややこしいが、この線路は現在のコースとは異なり、田川地域の中心地である田川伊田も田川後藤寺も通っていなかったため別の会社が当地を通って添田に向かう路線を敷いた。その後、両線とも国鉄となり前者が添田線となり、後者が行橋から伸びる田川線の一部となった。田川線は1942年(昭和17)に彦山まで延伸する。このころまでは現在の西添田駅が添田駅を名乗っていた

一方、夜明側からは1937年に大分県と福岡県の県境である宝珠山まで線路が完成。彦山線という名称だったが、戦時下で工事が中断。線路がつながったのは1956年と戦後10年以上も経ってからのことだった。全通したことにより、添田線と彦山線そして田川線の添田~彦山が統合されて日田線が誕生したが、この時点で日田線は田川地区の中心部を通らないコースを通っていた。そのため間もなく日田線と田川線を結ぶ短絡線を設けた上で、4年後には中心部から外れた部分をあらためて添田線と命名。中心部を通る田川線のコースを日田線に組み込み、名称が日田彦山線となった

文字だけだと何のことか分からないかもしれないが、ざっくり言うと小倉から添田、田川から添田、添田から夜明と3つの路線の組み合わせで成立した路線で、そのうちの一部が分離された上で廃線になったということ。また歴史をさかのぼると路線名に使用できそうな名称がことごとく先取りされてしまっているような気がする。ただ1度なくなった「彦山」という文字がすぐ復活しているあたりがおもしろい。なお2代目となった新たな添田線は中心部を通らないことで利用者が低迷。国鉄末期に廃線となっている

路線の紹介をしていると随分と長くなってしまった。ただ専用軌道の部分にもかかわってくる話なので、できるだけ説明してみた

次回でようやく戦時中に誕生した駅の訪問記をお届けしたい

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~初乗車の日田彦山線BRT

※訪問は2025年5月27日

目指すは添田駅

前日に大分空港に到着して日豊本線を北上。行橋で宿泊して平成筑豊鉄道で田川伊田へ

当駅でJRの日田彦山線に乗り換える

1駅先の田川後藤寺で再び乗り換え。渋い車両同士の連絡だ。目指すは4駅目の乗車列車の終点、添田である

到着は11時15分だった

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駅名標が物語る

添田駅の駅名標をじっくり見てみる

片方の「にしそえだ(西添田)」は駅という感じだが、逆側の「はたがわ 畑川(医院前)」はどう見ても駅の名前ではない。「医院」は、なかなか駅にはならないだろう

こちらは列車とBRTの接続駅。つまり列車とバスが同一ホームで乗り換えられるようになっている。これから乗るのはBRT。日田彦山線の一部だが、添田から久大本線との接続駅である夜明までは専用のバスが走る

BRTとは「バス・ラピッド・トランジット」の意味。訳すと「バス高速輸送」になるが、要は専用軌道などを利用してスピードのあるバスを運行するシステム。日本でもいくつかの例があるが、鉄道の線路跡を専用軌道にする方式が多い。有名なのはJR東日本が手がける東北の気仙沼線・大船渡線BRTだろう

今回の日田彦山線BRTも一部は専用軌道を走るが、その他は一般道を走る。つまりはJR九州の運営するバスだ。ただし気仙沼線・大船渡線BRTと同じく鉄道のきっぷでも乗車できるところがポイント。分かりやすく言うと青春18きっぷでも乗車できる。JRが手がけるバス路線は多数あるが、青春18きっぷでも乗車できるバス路線はこの2つだけ。そして私にとってJRの最後の未乗区間である

2年前の夏の思い出

そもそも日田彦山線そのものに縁がなく、ずっと未乗だった。だからBRT転換されても、これが初めて。JR線の定義と言われると、いろいろな考え方があるだろうが、青春18きっぷでも乗車できる上、もともとはBRT区間も鉄道路線で、今も以前の鉄道駅には停車する。だから私の考え方ではレールはなくてもJR路線の一部である。同じく18きっぷで乗れる広島の宮島フェリーも、かつては青函連絡船や宇高連絡線がJR(国鉄)の通しきっぷに含まれていたことを考えると広義のではJR路線の一部となる

添田駅には2年前の7月2日にも来ている。この時は小倉から添田まで来て折り返した。BRTの開業が2023年の8月28日だったので約2カ月前。同業者の姿もチラホラ

駅舎にはまだ「JR添田駅」の駅名板があった

当時の時刻表は、まだ代行バス扱い。旧JR駅にはすべてのバスが停車しているが、新たに設けられた停留所には1日3本の停車しかない。あくまでも鉄道の代行バスのゆえんだろう。また彦山と筑前岩屋の間がボトルネックのようになっている理由については、後々の記事で紹介する

そして、いよいよバスが入線。最後の路線の完乗を目指す旅の始まりである

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旅客向け開業から10年経たずに廃駅が決まった駅を訪ねる(後編)

※訪問は2025年3月11日

楽勝かと思いきや、ちょっと待って!

土崎駅から秋田港駅へと歩いていく

消防署が見えてきた。駅前の周辺案内図にあった通り。ここをまで来ると貨物線の線路にぶつかり、そのまま秋田港駅へ到達するはずだ

念のため、駅前でグーグル先生の指南ももらっている

実際に自分が歩いているコースとは違うが、曲がる場所が異なるだけで、ほぼ同じ。駅員さんは20分ちょっと言っていたが、16分の表示なら早めに歩けばもう少し速い。膝が痛いので少し安心した

線路沿いを進んでいく。これで大丈夫と思いきや、ちょっと違うぞ、と思い始めたのは、その直後だ

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そのコースは無理です

遠くに建物が見える。まさかあれか? ちょっと遠くないか? ともう1度地図をよく見直すと衝撃の事実。最後に徒歩コースが薄い点線になっている。この表示はグーグル先生も自信なさげなことによく出てくるが、地図を拡大していただきたい。なんと複数の線路を横切る形となっているのだ。やはりそう簡単には着かないのだ

ということで

駅員さんが言っていたホテルに到着。線路は右手あたりで、いくつも終わっている

すでに使用されなくなったいくつもの車止めを眺めていく。先ほど遠くに見えた建物も近い。進んでいくと

急に目の前が広がって目指す秋田港駅に到着。何度も立ち止まったので駅を出てから30分近くかかっていた

真新しい駅舎や施設

訪問日はクルーズ列車の運行日ではなかったので敷地内には入れない。しっかりと柵が設けられているが、真新しい建物だということは一目瞭然。2017年に駅舎と4両分のホームを設置したばかりなので、新しいはずだ

駅舎からホームまでは屋根が付けられていて利用者への配慮がある。終点のような頭端駅に「ようこそ秋田へ」との看板があるのは、クルーズ船で秋田港へ寄港した人が最初に利用する駅が当駅だからだ

もちろん駅名標も新しい。サムネの写真は、こちらを拡大したもの。これらの施設があと1年も経たずに役目を終えるのは信じられないことだ

最初に見えた建物ギリギリまで近づいてみた。周辺には利用者がいなくなった貨物線がまだ何本も残っていて寂寥感が漂う

バスの本数は少ない

この後はせっかくなので秋田のランドマークタワーでもあるポートタワーセリオンへ

こちらは道の駅にもなっていてもちろん食事もできる。周辺にも飲食店やコンビニがあるので時間つぶしには困らない

海鮮丼をいただく

前日に続いて穏やかな日だった

古典的なうどんの自販機が設置されている

金足農業の吉田輝星投手の日ハム仮契約会見はここで行われた

当地へのアクセスは秋田駅からの路線バスがあるが、午前中の運行が多く、午後の本数は多くはない。週末はさらに少ないようだ。私は膝の痛みから、ここで1時間以上過ごしてバスに乗ったが、時刻表だと所要時間25分のバスが30分以上かかった。奥羽本線だと昼間でも1時間に1、2本の運行がある上、秋田までは10分。土崎駅からの徒歩がおすすめだ

ちなみに訪問して分かったことだが、秋田港駅の前には商業施設があり、ローソンが入居している。他図アプリで検索するならローソンを目印にするのがおすすめ

幻の列車、幻の駅たるゆえん

やって来たバスで当地を後に

まだしばらく現役の秋田港駅。当駅と秋田駅を結ぶクルーズ列車の運行についてはJR東日本のHPで発表されている。船に合わせて1日3往復。午前中に秋田駅へと向かい、午後に当駅へと戻るダイヤで車両は充電式気動車が充てられていねようだ。秋田までの所要時間は17分。間の悪いことにこの記事を書いている7月3日が運行日で、次回は9月22日である

と、ここまでを読んで「では次回に乗車しよう」と思った方もいるかもしれないが、この列車は豪華クルーズ船の利用者しか乗車できない「幻の列車」でもある。乗車にはクルーズ船の利用料金が生じるわけで、かなり高価な列車だということになる

そして、その時にしか開業しない秋田港駅も「幻の駅」である。過去の他の使用例も団体列車などに限られている。最後の日がいつになるかはまだ未発表だが、最初の使用から7年半、施設が設置されてから7年で幕を閉じる幻の駅を外から眺められるのも、あとわずかである

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旅客向け開業から10年経たずに廃駅が決まった駅を訪ねる(前編)

※訪問は2025年3月11日

キュン♥パス登板

弘南鉄道大鰐線の各駅訪問から一夜明け。朝7時前の弘前駅

取り出したのは

前日弘前駅で発券しておいた「旅せよ平日!JR東日本たび たびキュン♥早割パス」。いわゆる「キュンパス」で平日の2日間、JR東日本の全線が乗り放題になるというもの。昨年は1日券を利用した。今回は2日券。問題はここ弘前から最終的に東京に行くとして2日でどうやって元をとるかなのだが、それは今回のテーマではないので省略する。まずは奥羽本線を秋田方面へと向かうことにする

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降り立ったのは土崎駅

弘前近辺でいくつかの駅をウロウロしながら

すっかり変わった大館駅へ

特急「つがる」に乗車。青森~秋田を結ぶ特急だが、現在は1日たったの3往復しかない。旅人にとっては貴重な1本だが、自由席に楽々座れてしまうことから減便やむなしを感じてしまう

八郎潟で乗り換えて降りたのは

土崎駅。時間的には、もうお昼を回っていた。秋田港の最寄りとして開業は1902年というから120歳を超えている。港の最寄り駅や最寄り路線は長い歴史を持つものが多いが、当駅もその分類に入る。駅舎は1926年に新たに建てられたもの。真新しく見えるのは、駅舎の原型はそのままに外壁をリニューアルしたため

そして、ここかが目的地の起点となる

目指すは秋田港

私が目指すのは秋田港そして、そこにある秋田港駅である

周辺案内図をまじまじと見つめる

当駅から分岐しているのは奥羽本線の貨物支線。港に向かっているが秋田港駅は貨物支線が行き止まりになっているどこかにあるはず。ただ駅を示すものは地図にない。土崎駅はみどりの窓口こそなくなっているが管理駅で駅員さんはいるので尋ねてみると、駅前の1本道を行き、支線手前で左折するとホテルが見えるので、そのあたりまで行けば分かるという。徒歩で約20分だとか

駅舎を出る時、ちょっとビビる。こんな街中にまでクマはやって来るのか。もっとも3月上旬という今の季節はまだお休み中ではないのかと歩き始める

秋田港駅とは

駅前の道路をずんずん進んで行く。遠くに秋田のランドマークタワーとなっているセリオンタワーが見えるが、駅員さんの話など、あそこまでは行かないという

さてずっと前ふりが続いてきたが、今から目指す秋田港駅について簡単に説明しておきたい

駅名の通り、秋田港の駅で歴史は長い。明治期にはすでに貨物線は運用を開始していて駅もあったが、それはあくまでも貨物駅であり、旅客扱いはしていない。旅客扱いがないのだからプラットホームもなかった。駅の施設は国鉄民営化の際にJR貨物に引き継がれたが、それ以前から運用にあたっていたのは秋田臨海鉄道という会社

長らくこの形態が続いてきたが、秋田港に到着する豪華クルーズ船の旅客を運ぶための「秋田港クルーズ列車」を運行することになり、JR東日本が第二種免許を獲得。ホームや駅舎も新たに設けた。このほかにも秋田港で開催されるイベント用列車が走ることもあったが、秋田臨海鉄道が2021年で事業を終え貨物列車は走らなくなった。その後は月に1度程度のクルーズ列車が運行するだけの「貨物支線」となっていたが、JR貨物が線路維持は2025年度までとしたため、路線そのものがなくなることになった。つまり新たに設けた旅客駅施設は、わずか7年半で幕を下ろすことになった。近年の駅としては、なかなかない例となった

ならば今のうちに見ておこうと今回の訪問となったわけである。ただ、これは前回までの弘南鉄道大鰐線の続きになるが、相変わらず膝が痛い

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