きっぷ

1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その4 ニュータウン発展の遅れが世界のINZAIに

※訪問は2025年1月15日

両隣は京成の駅も当駅は違います

印西牧の原駅に到着。両隣の千葉ニュータウン中央、印旛日本医大の両駅は京成電鉄の駅にもなっているが、当駅は京成の駅ではなく「北総鉄道の単独駅」になっている。なぜかというと、当駅には成田空港行きの追加料金なしのアクセス特急は停車しないため。アクセス特急に乗車すると印西牧の原駅には停車しない旨がアナウンスされる。利用者のほとんどが、どの駅が京成の駅かというのは気にしてはいないはず。単に特急通過駅との認識だと思われる。どちらかというと「成田空港から各駅に停まって、なんで1駅だけ飛ばすのか?」と思っているだろう。私も乗ってみてそう思った。優等列車としての運転は千葉ニュータウン中央からでいいのでは、と。ただその理由は分からない。とにかく、そこそこ知名度のある当駅に都心からやって来るとアクセス特急は停車しないので、初めて訪問する方は注意が必要だ

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かつては現在の印旛日本医大の立ち位置

印旛日本医大駅の記事で「気になる駅」と表現したが、かつてはここ印西牧の原駅が気になる駅だった。というのも羽田空港からの電車は当駅が終着だったからだ。開業は1995年(平成7)。千葉ニュータウン中央駅から1区間延伸された。千葉ニュータウン中央の開業が1984年(昭和59)なので11年後のこと。すでに時代は昭和から平成へとなっていた。以降、印旛日本医大まで延伸される2000年まで終着駅だったので「印西牧の原」の方向幕や発車標を都内の各駅で見かけることになる。つまり気になる駅である

ただ「気になる状態」は現在も若干残っている。車両基地の最寄りとなっているためで、当駅を始終着とする列車の設定がある。また印旛日本医大延伸後も、多くの列車は終点まで行かず、印西牧の原での折り返し運転を行っていたため、都内で交互に見かける両駅は「なんで2つの行先があるんやろ?」と別の意味で気になる駅だった

なぜ延伸したにもかかわらず、その手前で折り返す列車が多かったのは現地訪問と数字を見るとよく分かる。2022年度の両駅の1日あたりの利用者数は印西牧の原の1万4526人に対し、印旛日本医大は4346人と圧倒的な差がある。これは駅周辺の開発と人口増が十分に進んでいないため。20年前はさらに格差があると思われる。ほとんどの列車が印旛日本医大まで行くようになったのは成田空港まで線路が延伸されて以降のことだ

軍馬の育成地からデータセンターへ

ホームはアクセス特急の停車駅である両隣より大きく2面4線。延伸を見込んで計画的に造られ、開業直後はうち2線を使用しなかったが、始終着列車や通過列車の待避のために現在は4線すべてを使用している

駅舎はおしゃれな採光となっていて

正面の姿もアーチ型。夜は美しく映えるという

駅名の「牧」とは、かつて江戸幕府が軍馬育成のために千葉県内にいくつか設けた牧場。ここにあったのが印西牧である。そして今、当駅と千葉ニュータウン中央駅付近はデータセンター(DC)が集まる「DC銀座」として名をはせている。DCとはスマホやPCと連動するコンピューターがズラリ並ぶ場所のこと。厳重なセキュリティーが求められるのはもちろん、所在地に自然災害のリスクが低いことが求められる。その点、この一帯は活断層がなく、はん濫の可能性がある川からも比較的離れているため自然災害は少ない。東京から約40キロと比較的行きやすい場所にあると同時に成田空港からもすぐで海外企業や専門家の訪問も容易だといういくつかの条件がそろっている。そして北総鉄道の高額運賃の原因のひとつともなっていた、造成地のニュータウンにおける人口増が今ひとつで土地が余っていという要素がダメ押ししたという

駅舎は正面よりも外側から眺めた方が美しさがよく分かる

DCについては地元が誘致活動を行ったわけではなく、自然に内外の企業が集まることになり、グーグルもやって来たことはニュースにもなった。その業界では「世界のINZAI」として名が知られているという

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その3 幻の新幹線駅の痕跡が残る

※訪問は2025年1月15日

文字通りの中心駅

時系列は異なるが、北総鉄道の訪問駅紹介をしていきたい。降り立ったのは千葉ニュータウン中央駅。文字通り、千葉ニュータウンの中心地で周辺は住宅地や商業施設が並ぶ。2022年度の1日の利用者数は2万1451人。これは北総鉄道の全14駅(京成高砂)の中では第2位の数字。1位は新鎌ヶ谷駅の2万3188人だが、コロナ禍でやや落ち込んだ数字であり、新鎌ヶ谷より多く首位となった年もある。3位は東松戸駅の1万9213人だが、新鎌ヶ谷、東松戸という他路線との乗り換え駅ではなく、単独駅(厳密には京成の成田空港スカイアクセス線との共同使用駅で2路線が乗り入れているが、同じ線路と同じホームを使用している。写真は私が乗車してきたスカイアクセス線のアクセス特急)だけに、数字の多さが目立つ

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正式には千葉ニュータウン鉄道の駅

当駅は1984年の開業。北総鉄道は成田空港スカイアクセス線で成田空港までつながっていることから、近年の駅と思われがちだが、当駅まで到達したのは昭和59年。鉄道の歴史と並行させるとまだ国鉄があった時代だ。昨年40歳の誕生日を迎えたことになる。印西牧の原までの延伸は1995年なので10年以上、終着駅だった

そのためか前記事で紹介した印旛日本医大駅と比べるとクラシックな駅舎だ。そして、この駅舎を所有するのは「千葉ニュータウン鉄道」という会社である。施設のみを所有する、いわゆる第三種鉄道事業者となっていて、北総鉄道や京成電鉄はそれを利用する第二種鉄道事業者となっている

北総鉄道の京成高砂~小室は同社が建設にあたったが、小室から当駅を含む印旛日本医大までを敷設したのは「住宅・都市整備公団」と、その前身となる「宅地開発公団」。大都市近辺で宅地開発を行っていた、いわゆる特殊法人だが、当地においては千葉県の宅地開発の大事業ということで鉄道建設も行った。だから当駅の開業時の路線名は「住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線 」という、新交通システムのような路線名だった。当時の北総鉄道は「北総開発鉄道」という、こちらも開発にこだわった会社名だったので、後に第二種鉄道事業者となったことで、1988年という昭和最後の年に京成高砂からの路線名すべてが「北総・公団線」に。その後、沿線の人口増が当初の見込みより鈍く、高額の運賃などもあって客足が伸びなかった公団は経営が苦しくなったため、京成電鉄が子会社化することになり、2004年に千葉ニュータウンが発足。路線名は現在の北総線となった。同年に北総開発鉄道も北総鉄道となった。なお住宅・都市整備公団は自社の車両も保有。現在も現役で走っている

新幹線駅の予定地は

駅の周辺案内図。千葉ニュータウンの中心地らしく公共施設だけでも、かなりビッシリ書き込まれていて

駅からは高層ビルや商業施設も見えるが、ふと見下ろすと

背後のマンション群と比べると、ソーラーパネルがビッシリ並べられている違和感のある空き地がある。どう見ても鉄道の用地だが、これは成田新幹線駅のために確保された土地だ。成田空港(当時は新東京国際空港)と東京駅を結ぶ予定だった成田新幹線。東京駅は新幹線駅の施設を利用して京葉線の駅が造られているのは有名な話だが、空港~東京で唯一の途中駅として予定されていたのが、千葉ニュータウン駅だった。当地で現在の北総線と接続の予定で、当初の計画では北総線到達の前、新東京国際空港の開港となった1978年より前に新幹線の駅ができる予定だった。ただ新幹線は走ることなく、千葉ニュータウン中央駅は国鉄があった時代に開業したと先述したが、それより少し前となる1987年のJR民営化の際に成田新幹線は未成線となることが決定した

もちろん当時、ソーラーパネルによる大規模な発電所があったわけではなく、40年近く前に消滅した成田新幹線の計画そのものを知らない世代は、この空間をどのように眺めているのか、ちょっと考えてしまった

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その2 ついに来た印旛日本医大の気になる副駅名

※訪問は2025年1月15日

北総鉄道の「終点」

新鎌ヶ谷駅のホームで電車の到着を待っていると、滑り込んできたのは京急の車両だった。羽田空港から印旛日本医大へと向かう「特急」だが、京急内を過ぎると普通として全駅停車する

印旛日本医大まで約20分の所要時間。気になる駅と認識してから20年以上が経つ。本数的には簡単に行けるが、運賃などの壁もあって、なかなか行けなかった駅にようやくやって来た。そこで私を迎えてかれたものは

あれ? なんでしょう、これは?

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伝説が地名に

いつものことだが、私は駅訪問について事前に予習はしないことにしている。もちろん、それまで見聞きした情報は持っているし、時刻表は調べる。今回の場合は本数も多いので時刻表チェックは皆無。事前に知っていた情報は北総鉄道の新たな終点になったこと、成田スカイアクセス線の開通によって途中駅となったことぐらい。「松虫姫」は知らなかった

松虫姫とは東大寺の大仏で知られる聖武天皇の皇女。松虫寺のHPなどによると、14歳の時に重い病にかかり、どんな名医も治せなかった。ある夜、姫の夢に現れた老人に「私の国まで来てくだされば病は必ず治るでしょう」と告げられたことを聖武天皇に相談すると、父も許可。困難な旅の末、印旛沼までたどり着いた。その水で身体を清めながら村人に読み書きや養蚕を教えながら過ごすこと21日。病はすっかり治り、姫は無事、都に戻ることができた。聖武天皇はお礼として松虫寺を建立。当地が松虫と呼ばれるようになったという

という調べを駅の滞在中にスマホで延々と調べていたが、サブ駅名の由来を知って大いに納得。駅名も仮駅名として「印旛松虫」とされていた。駅からすぐの場所には松虫姫公園もある

荘厳な駅舎が印象に残る。当駅は2000年(平成12)の開業。印西牧の原から1区間延伸されて北総鉄道の終着駅となった。いつの日か忘れたが、羽田空港から京急に乗車すると印西牧の原だった行先が印旛日本医大になっていたことに納得。さらに2010年にスカイアクセス線の開業によって形の上では途中駅となったが

都内方面への時刻表に対し、成田空港方面は

グンと寂しいものになる。当駅から先は京成による追加料金無料の成田空港行きアクセス特急のみしか走っておらず(スカイライナーは通過)、それ以外の北総線の列車はすべて当駅折り返しとなる。つまり北総鉄道としては終点である

もちろんIC乗車は可能だが、きっぷを買う場合は別路線となるので券売機は別々のものとなっている。

日本医科大学はありません

おしゃれな駅名板の駅名だが、実はここには日本医科大学のキャンパスはない。あるのは付属病院の日本医科大学千葉北総病院。さらに言うと、病院は駅前にあるわけではなく

通院という目的だと、やや遠い。もっとも

大学病院へは都心の路線バス並に頻発する無料バスが運行されていて病院へのアクセスは全く問題ない

周辺は住宅地として開発が進んでいる真っ最中のようだ

構内の改札外にはコンビニがあり、改札内も広くとられている

1面2線の島式ホームは堀削内に設けられ、エアコン完備の立派な待合室がある

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その1 気になる駅へは新鎌ケ谷から

※訪問は2025年1月15日

新鎌ヶ谷で乗り換え

前記事は新京成線の新鎌ヶ谷まで伝えたが、ここからは北総鉄道の旅がスタートする

新京成鉄道から北総鉄道へは外に出なくとも、専用の乗り換え改札がある。ただ常時そうなっているのか、そういう時間帯だったのかは分からないが、私鉄では有人改札を通らなければならない「サンキュー♥ちばフリーパス」では、一度改札の外に出ることになる

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良心的な1日2000円

あらためて「サンキュー♥ちばフリーパス」である

私が購入したのは都内JR駅からの往復運賃を含んだサンキューパス乗車券の方だったが、千葉県内で購入できるサンキューパスは3970円(子ども料金1980円)。1日2000円分乗れば回収できる。これは乗車可能な鉄道会社の数を見れば、他の鉄道会社が出しているフリーパスよりも、かなりお得な料金となっている。フリーパスというのはエリアももちろん必要だが、1日数本という区間で乗り放題と言われても使いこなすのが困難なのは青春18きっぷで分かる通り。その点、サンキューパスの券面にあるのは比較的本数の多い区間ばかりで元も取りやすい。私のような降り鉄にとっては、とてもありがたいものだし、乗り鉄の方にとっても使いやすい

気になる駅名

そんな乗り鉄、降り鉄ともに、こういう機会だからこそ乗ってみたい、と思わせるのが北総鉄道だ。北総鉄道は、ある日、つまり東京まで線路がつながってから有名な駅となった

飛行機で羽田空港に着き、京急で都心に向かおうとすると発車標や方向幕で目にする「印旛日本医大」「印西牧の原」。自分の用事があるのは都営浅草線の駅だが、全く初見の人だと「果たしてこの電車は新橋に行くのか?」と思ってしまうかもしれない(もっとも東京に来ることが少ないと「青砥」と言われてもどこか分からないだろう)

こういう終着駅の「どこ?」というのは、東西でもあって高崎線に乗ろうとした時の「籠原」、大阪駅で姫路方面を目指す時の「網干」とか、地元の方には申し訳ないが、どういうところか想像もつかない。日々、その路線を利用している人でも実際に降りたことのある人は少数ではないか。ただ刷り込みというのは凄いもので、毎日アナウンスに触れていると「網干」や「野洲」も降りたことはないが、読める駅にはなっている

話はややそれたが、そんな経緯で印旛日本医大駅にはかねてより行きたいと思っていたのだが、いかんせん北総鉄道の運賃は高い。高額な理由には建設の経費や利用者数の要因があるが、かつて「高すぎる」と民事裁判が起きて話題となったほどだ。約2年前の2022年10月に値下げを行ったが、それでも高いといえば高い。そのような理由で二の足を踏んでいたが、今回のサンキューパスで京成、新京成も利用できることになったため、ではそのタイミングで、との訪問となった

3駅そろい踏みからまだ25年

この新鎌ヶ谷の地は、かつて東武野田線の線路が走るだけだった。駅もなかった。1955年(昭和30)に新京成の全線開通により、2つの線路がクロスすることになったが、それでも駅は設置されなかった。周辺は農地があるのみだったからだ。1979に北総鉄道が開業。これによって3線が集合することになったが、それでも駅は設置されず、北総鉄道と新京成線は現在の新京成・北初富駅で分岐する形で接続する形となっていた

地元や利用者からは、3線が交わる場所に駅を設けてほしいとの声はずっと強くあり、平成の声を聞いた1991年(平成3)に都内へと延伸されたタイミングで北総鉄道の新鎌ヶ谷駅が開業。翌年に新京成の駅が開業し、やや遅れたが1999年に東武の駅も開業した。つまり、3線すべての乗り換え駅となって、まだ25年なのだが、周辺はあっという間に住宅や商業施設が建ち並ぶ新市街地となり、今は3駅合わせて(形の上では成田スカイアクセス線という京成が運行するアクセス特急も停車するため、京成の駅にもなっていて4駅だが、北総鉄道のホームを利用するため実質は3駅)10万人の利用がある大規模ターミナル駅となっている

北総鉄道の改札を入ると両方のホームに「HND」(羽田)、「NRT」(成田)と文字とイラストがあり、どちらの空港にもダイレクトで行ける旨が表示されている。「気になる駅」へと向かおう

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その7 松戸~鎌ヶ谷でピンクの旅を締める

※訪問は2025年1月15日

あらためて松戸で折り返し

松戸までやって来た。過去にも全線乗車してはいるが、新京成の名前があるうちに乗るのは、これが最後と思われるので、一度松戸まで行って折り返すことにする。とはいっても10分間隔で電車はやって来るので、あまり悩むことはない

新京成線の23駅(京成津田沼駅のぞく)で、松戸は1日の利用者数が8万9715人(2023年)と、最も多い。2位がJRの津田沼駅との乗り換え駅である新津田沼の5万8399人だから、同じJRとの乗り換え駅であっても断トツぶりが目立つ

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鎌ヶ谷の中心部へ

松戸駅の車止め。島式ホームの1面2線で、もちろん改札は別だが、ホーム番線はJRからの通し番号で7、8番線が新京成線に割り当てられている

新京成線の駅の開業は1955年(昭和30)。1947年に新津田沼駅が開業し、1949年に現在の初富駅までが開通してから随分と時間を要した。元となって陸軍演習線は松戸付近まで延びていたが、地盤が悪くぬかるむ路面に旅客輸送を行う路線として、沿線の準備が整わなかったためだ。また松戸駅に直結させるため、松戸への最後の1区間については京成が自力で工事を行うことになったが、山を切り崩す難工事に時間をとられた

折り返して鎌ヶ谷大仏駅で下車

陸軍演習線の払い下げを経て発展した沿線が多い中、当駅付近は旧木下街道の宿場町である鎌ヶ谷宿で古くからの街並みが漂う。駅名は分かりやすく、当地のシンボルである鎌ヶ谷大仏がある。駅からすぐ。私ももちろん見に行った。初めて鎌ヶ谷大仏を見た人の感想はいろいろあるようで、あえて写真は掲載しないので、ぜひご自身で確認していただきたい

もともとの鎌ヶ谷の中心地でもあり駅舎も立派

バスターミナルも併設されている

鎌ヶ谷の知名度を格段に上げたのはプロ野球日本ハムのファームが多摩川から1997年(平成9)に移転してきたことだろう。その後、チームとしての日ハムは札幌へと移転するが、今もなお二軍は鎌ヶ谷にあり、ファーム情報だけでなく、故障した主力選手がリハビリをしたり、自主トレを行う際に必ずメディアで取り上げられるので、効果は抜群といえる

早めの訪問を

北総鉄道や東武野田線との乗り換え駅でもあり、新京成線の駅としては1992年開業と後発ながら、今は1日に3万4234人もが利用するターミナル駅。周辺の発展もめざましい新鎌ヶ谷で、一度新京成線の旅は中締めとする

今回の旅は3月いっぱいで会社としての約80年の歴史に幕を下ろす新京成電鉄の訪問が大きな目的だったが「サンキュー♥ちばフリーパス」に京成電鉄と新京成電鉄が参加したことが大きい。私は初めて利用したのだが、このフリーパスは発売される度に、参加したり離脱したりする会社があるようだ。この種類のフリーパスに大手が参加するのは珍しいことで、なかなか価値のあるものとなっているが、東京~成田というJRとの競合路線にある私鉄が参加しているだけに、今後については分からないとも言える。新京成線との別れを惜しむ意味でも、ぜひ今月いっぱいの発売期間のうちに利用してもらいたいフリーパスである

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その6 久しぶりに響いた「準大手」の言葉

※訪問は2025年1月15日

新京成電鉄本社のある駅

くぬぎ山駅に到着。周辺は住宅街だけでなく農地も広がる。1955年(昭和30)と比較的歴史の浅い駅。車両基地の最寄りで、1日の利用者数(2023年)は6629人。これは新京成線23駅(京成津田沼のぞく)の中で20番目となる数字で、路線内では決して利用者は多くはないが、車両基地最寄りということで始終着列車の設定もあり、新京成電鉄の本社もある。路線の短い会社は社員を集約できる利点があるため、車庫と本社が併設されていることが多い

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私鉄ストライキの思い出

駅を出るとすぐ本社建物がある

3月いっぱいで新京成電鉄が親会社の京成電鉄に合併されることが決まったニュースに触れた際「これで関東から準大手私鉄がなくなります」との言葉が響いた。久しぶりに聞く「準大手」だった

この記事を読んでいただいているほとんどの人が記憶にない世界だろうが、私が小学生の頃の昭和40年代は春闘の時期になると鉄道会社が決まってストライキを行っていた。今では信じられない話かもしれないが、スト決行となると私鉄が一斉に止まる。そしてテレビは台風情報のように、ずっとストライキに関する速報とニュースを流し続けていた。速報ニュースを知る手段がテレビとラジオしかない時代である

私の記憶に間違いがなければ、私鉄の中でも近鉄と西武はストを行っていなかった。あっても改札ストという改札口が無人になるストライキぐらいだったと思う。自動改札機のない時代なので、利用者には大きな影響はなかったはず。「○○電鉄は労使が合意に至ったため、○時から運行を開始します」とアナウンサーが伝えると、それは大ニュース。どうやって会社に行こうか困っていたお父さんたちは、ホッとして駅へと向かう

ストライキの影響はレジャーにも及ぶ。当時、関西にはいずれも電鉄が親会社のプロ野球球団が4チームあったが、甲子園球場その他の球場への手段がないため、晴れていても試合は中止。ただ日生球場という国鉄(当時)環状線の森ノ宮駅が最寄りの近鉄はホームゲームを行う。ストライキの日は他球場に行けなかったお客さんがやって来るため、ふだんは閑古鳥の当時のパリーグの試合も大いに盛り上がったという。子どもながら「銭にはなったが試合は負けた近鉄」という新聞の見出しに笑ってしまったことを覚えている。しかもスポーツ新聞ではなく、おそらく当時家でとっていたセット紙の見出しだったことが、これも当時らしい

そんなストを毎年眺めながら「うちにもストをさせろ」と国鉄が行ったのが、結果的に民営化へのレールを敷いてしまったスト権ストである

準大手とは

こちらが現在の本社入口

やや話がそれてしまったが、準大手の話題に戻そう。私が見ていたのは近畿圏のニュースなので、ストライキ速報として関西の鉄道会社の一覧が表示される。「まず大手です」との声とともに阪神、阪急、京阪、南海、近鉄が画面に映し出され、会社ごとの運行情報が知らされる。基本的には横並びで「スト決行中」で、あまり抜け駆けはない。そして「次いで準大手です」と表示されるのが、私の記憶では山陽と神戸電鉄。「ふ~ん、山陽電車は準大手なんだ」と子ども心に思った。大手に比べて会社の規模が小さいのだろう、というのは子どもでも分かる。そのうち鉄道会社はストをしなくなった。だから心の中に封印されていた「準大手」という言葉が久しぶりに響いたのだろう

そもそも、この格付けのような表記は日本民営鉄道協会が名付けたもので、私鉄を「大手」と「中小」に分類する中で、規模が大手に準ずるものを「準大手」としたという。「という」としたのは、曖昧な基準で現在は「大手」「私鉄」の2つのみに分類しているから。メディアについては以前の準大手の言葉をそのまましているようだ

ちなみに現在、準大手とされるのは新京成のほかには、いずれも近畿地方の「泉北高速鉄道」「北大阪急行」「神戸高速鉄道」「山陽電鉄」の4社。北大阪急行と神戸高速鉄道については、他の鉄道会社との接続と乗り入れで成り立っていて、泉北高速鉄道も新京成と同様、この4月から南海に吸収合併される

また私がテレビで見た神戸電鉄は現在、中小私鉄にカテゴリーされていて、かつて関東でもうひとつの準大手だった相模鉄道は大手となっている

駅の入口まで戻ってきた。戻るといっても数分の距離。駅前のコンビニでコーヒーを買った

考えてみれば大手だろうが中小だろうが、利用者にはあまり関係のない話である。定時運行でできるだけ早く安く運んでくれれば、それでいい。その部分のみにこだわる同業者(鉄道ファン)は、あまりいないだろう。もともとは労働争議のために造られた言葉でもある。ストライキもなくなった現在はほぼ使用されなくなった言葉だが、またひとつ「昭和」がひっそり消えていくのも、また事実かもしれない

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その5 「習志野」の所在は習志野市にあらず

※訪問は2025年1月15日

新車に乗って

京成津田沼から松戸を目指す。乗車したのは新京成80000形

2019年末に導入された新車だ。ただしわずか4区間乗車しただけで、あっという間に習志野で下車することになる

去りゆく電車を見送って外に出る

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周辺案内図の「船橋市」の文字

習志野駅に到着。2面2線の対向ホームを持つ。駅の規模はそう大きくはない

そして知らずに降りると駅前の周辺案内図に驚く人も多いかもしれない

最も目立つ場所に「船橋市」と記されている。前記事までも津田沼駅や新津田沼駅、京成津田沼駅について習志野市駅だと記してきた。京成津田沼駅については習志野市役所の最寄りだとも。ただ習志野駅は、このように船橋市に所在している

駅が駅名と同名の最寄り自治体にないケースはいくつかあるが、それは駅の場所が、自治体の端に近い場所に所在している例がほとんど。だが、ここ習志野駅は周囲はグルリと船橋市。駅の住所も「習志野台」。西習志野という住所表示も見える

こちらは習志野駅の入口。1948年(昭和23)に開業した。もしここが人口17万人を抱える首都圏の都市である習志野市の中心駅だとしたら、こぢんまりし過すぎているかわいい駅である

これはどういうことかというと、習志野というのは地名ではなく広域地域名だからだ。そして地域名ができたのは明治以降の話。習志野市のHPによると、地名の由来について「 明治6年(1873年)4月、明治天皇を迎えて行われた陸軍大演習の際、全体指揮をとった篠原陸軍少将のめざましい活躍を称え、『篠原を見習うように』とのお言葉があり、『見習篠原』が『見習志野原』になり、習志野原になったという説があります」とある。他にも諸説あるようだが、明治天皇の言葉が命名になったことだけは間違いない。以降、それまで農地に適さない平原だった一帯には軍の施設と演習場が置かれるようになった。その中に敷かれたのが新京成線の原型となる陸軍演習線である

戦後になって軍の施設や土地が民間利用されると周辺は急速に住宅地や農地のほか、学校や病院、商業施設が広がっていく。特に広大な敷地は学校には適していて人口も増える。そこで津田沼町とその周辺の習志野原にあった自治体が集まって、新たな「習志野市」を作ろうという機運が盛り上がり話し合いもスタートしたが、習志野の演習場の中心部でもあった当時の二宮町は最終的に船橋市との合併を選び、二宮町にあったのが、ここ習志野駅だった。1953年(昭和28)のこと。習志野市の成立は1954年だった

なお国鉄(JR)津田沼駅は一部の敷地が二宮町に属していたため、今も津田沼駅は一部が船橋市に所在する形となっている

全国的に知られる習志野

駅前の郵便局は「習志野駅前郵便局」。習志野郵便局ではない

駅前には商店街がある

戦後になった習志野の地名を高めたのは習志野市立習志野高校の存在だろう。私の世代でも習志野の名を知ったのは高校野球だ。野球以外でもサッカー、バスケットボール、バレーボールで全国優勝を経験している。関西においても「ミスタータイガース掛布雅之の母校」として有名だ。高校野球の名門というと、戦前からの名門校というイメージがあるが、創立は習志野市の成立よりずっと後の1957年

地元の方は、習志野が船橋市にあることや、津田沼を中心にした習志野市のイメージはできていて、不自由なく使いこなしているようだが、高校スポーツで習志野を知った地元以外の方は主要駅としての習志野がないことが不思議に思えるかもしれない。ちなみに習志野高校の所在地は「習志野市東習志野」。また新京成線では習志野駅より後に開業した北習志野駅が、東葉高速線との乗り換え駅となったため、利用者数で圧倒している

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その4 あらためて全線乗車してみよう

※訪問は2025年1月15日

いったん京成津田沼駅へ

新津田沼駅から1駅、京成津田沼駅にやって来た。新京成には過去に1度だけ乗車しているが、その時は単に乗りつぶしを行っただけ。私自身、おそらく「新京成電鉄」という会社に乗るのはこれが最後になる。途中駅もいくつか訪問する予定だが、せっかくなのであらためて京成津田沼から松戸までを乗車してみよう。新京成は昼間も10分間隔で運行される。快速や急行、特急などの優等列車はないので、途中駅での下車や折り返しは容易だ

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習志野市の中心地

こちらは駅前の周辺案内図。前記事でも紹介した新津田沼から京成津田沼までのスネークな線路が先に目に入ってしまうが、習志野市役所は当駅が最寄り。その意味では習志野市の中心駅ということになるが、駅の利用者そのものはJRの津田沼駅の方が多い。これには歴史的経緯があって、もともとの津田沼町の中心地は京成津田沼駅周辺で、JR(当時は国鉄)の津田沼駅は町の外れに位置していた(駅の開業は国鉄が明治期、京成が大正期で国鉄の方が古い)が、終戦により軍の所有地が民間に転用されてから急速に発展したため。習志野市の成立は戦後10年近くが経ってからのことだったので、正確には旧津田沼町の中心地ということになる。「習志野」というターミナル駅が見当たらないのはそのためだが、新京成線に存在する習志野駅については後述する

ただ離れているとはいってもJRと京成の駅は歩こうと思えば十分歩ける距離ではある

習志野市役所を起点にすると市役所~京成津田沼駅が徒歩7分、京成津田沼駅~津田沼駅が17分と表示される

ただこうして徒歩ルートを見ようとしても、どうしても目を見張るのは新京成線の線路だ

1日10万人が利用

1日約17万人というJRの津田沼駅より利用が少ないとはいっても、京成津田沼駅も新京成、京成両駅を合わせると約10万人もの乗降があるターミナル駅だ

サンロード津田沼という駅ビルが入口となっている。なかなかクラシックな建物で1978年(昭和53)の建築というから新世紀近くの歴史を持つが、東日本大震災を受けて耐震工事済みである

開業は1921年(大正10)。京成船橋~京成千葉が開業した際に設置された。当時の駅名は津田沼で昭和の声を聞いて現駅名となった。後に成田へと向かう現在の京成本線ができて分岐駅となり、戦後にできた新京成線が乗り入れを開始したのは1953年。駅と利用者増によってホームが足りなくなり、現在は3面6線と私鉄としては大規模な構造となっている。駅近くの踏切は朝の通勤通学時間帯は開かずの踏切となる

当然ながら、電車の本数も方向も豊かで、新京成線については行先が松戸しかないからなのか(ラッシュ時と深夜帯は車庫のあるくぬぎ山行きがある)、別会社なのか電光表示がない。張り紙があるだけだが、中間改札は設けられていない。それは当然で新京成から京成への直通乗り入れがあるからだ。5番線については両方向の列車が来るため、電光表示が複雑になるという側面もあるだろう。両会社の共同使用駅で、駅の管理は京成となっている

6番線まであるホームのうち新京成は5、6番線を利用するが、6番線は切り欠きホームで折り返し列車が使用。5番線は京成線への直通列車が使用。ただし朝夕は直通列車の運行はなく、すべてが当駅折り返し。昼間は直通運転と折り返し列車が交互に運行されている。直通運転は半世紀にわたって行われていなかったものを2006年に再開した。これだけ本数が多いと別会社の意味も薄れる

また複線化されている新京成だが、新津田沼~京成津田沼については単線で、本数の多さをさばくため朝の通勤通学時間帯は新京成電鉄での折り返し運転も行われている

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その3 約20年で3度引っ越しの新津田沼駅

※訪問は2025年1月15日

18きっぷリターン

新津田沼駅から新京成線に乗車。1日の利用者数(2023年)が5万8399人と新京成線で全24駅中2位の利用がある駅(1位は松戸の8万9715人)とあって自動改札機がズラリと並ぶ

毎年、期間を区切って発売される「サンキュー♥ちばフリーパス」だが、私は初めての利用。当然のようにきっぷを取り出して改札機に投入して通過…のはずがはねられてしまった。しばしぼう然。駅員さんのいる改札へと向かうと「JRの自動改札機は通れますが、それ以外は通れません」

さらにぼう然。確かにJRの企画きっぷなので、言われてみればその通りだが、今日明日とこのパスを利用して訪問するのは私鉄駅が多い。そして計画では自動改札機のない駅はない。12月の青春18きっぷから自動改札機が使用できるようになり、有人改札を目指す手間はなくなったが、まさか首都圏の私鉄駅で「18きっぷリターン」を体感するとは思わなかった

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移転を繰り返した新津田沼駅

2階にある改札口へと向かう駅ビルのエスカレーター。私の現在の生活圏にはイトーヨーカドーがないのだが、ここも閉店となったようで文字の跡だけが残っていた

その新津田沼駅だが、戦後の開業にもかかわらず、3度の引っ越しを行っている。開業時の1947年(昭和22)は国鉄(現JR)の津田沼駅に近い場所に設置され、行き止まり構造だったが、やがて京成津田沼駅まで線路を伸ばそうということになり、1953年にひとつ松戸寄りの前原駅から真っ直ぐに線路を敷いた

現在の新京成線は実に不自然な形でカーブして津田沼駅付近を通っている。1953年の敷設では国鉄の駅付近は通らずショートカットのコースとなっていて、印を付けている新津田沼駅の北側に広がるイオンモールのさらに北側あたりに2代目の新津田沼駅が設けられ、初代は線路とともに廃止となった。ただ国鉄の駅から遠くなってしまったことが不評だったようで、1961年に初代の駅と線路が復活して3代目に。しかし行き止まり構造だったため、京成津田沼への線路は維持され、2代目新津田沼駅は藤崎台駅に改名。分岐駅となった前原から新津田沼駅行きと京成津田沼駅の2つの路線ができた

だが今度は「2つの行先があって分かりにくい」との声が出た。そこで1968年に現在の形への敷設が改めて行われ、ショートカットの線路は廃線。一度西へ向かって、また東へ向かうという線形が生まれ、藤崎台という名前の駅はわずか7年で姿を消した。その際、3代目の駅がカーブの妨げになるため、4代目となる現在の場所に落ち着くことになった。1977年に駅ビル形式の橋上駅舎となっている。微妙なJRとの駅間は21年で3度もの引っ越しを行った歴史の積み重ねの結果である

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その2 元の名は「鉄道連隊演習線」

※訪問は2025年1月15日

徒歩5分の乗り換え

JR津田沼駅の足下にある新京成線の方向案内

新京成線の新津田沼駅までは徒歩5分ほどの距離。乗り換え駅として5分という距離が長いか短いかは微妙なところだが、初めて来る人は、最初にJRの改札口にある地図をチェックしないと、ちょっとウロウロするはず。矢印に沿って駅舎から出ても角度的に新津田沼駅は見ることはできない。もっとも今は携帯アプリもあるし、おそらくそのあたりを歩いている人に尋ねれば、ほぼ百発百中で教えてくれる。この距離が生まれた理由については後述することにする

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公園の保存車両

新津田沼駅にやって来た。私が向かったのは、駅ビルの向かいにある小さな公園

機関車が保存されている

新京成線の、かつての名前は「鉄道連隊演習線松戸線」。かつての名前と言っても、戦争の終了時まであった軍事用施設を戦後に工事を施した上で利用しているもので、性格も目的も全く異なるため「かつての名前」との言い方は正確ではない

機関車についての解説が分かりやすい

鉄道連隊とは?

戦争終了時まで習志野の地は広大な軍用地だった。現在は1日十数万人が利用する巨大ターミナル駅となっている津田沼駅周辺のにぎわいは、戦後にかつての軍の施設が続々と民間利用されたからである。その軍の演習場の中を走っていたのが演習線

そもそも鉄道連隊とは何ぞや、という話になるが、少なくとも私は新京成線の存在がなければ、かつて鉄道連隊という隊があったことを知らずにいたはずだ

鉄道連隊とは戦地において鉄道を敷設し、その運用も担う連隊。敵軍の鉄道破壊も行う。専門技術と知識が必要なため、ひとつの連隊となっている。手がけた鉄路で有名なのは映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道だろう

その連隊は複数の路線を建設したが、その中のひとつが松戸線。戦争が終わるとともに鉄道連隊は解散となったが、そのまま残された線路跡が注目され(レールは戦時下の金属供与に使用された)、京成と西武が争った結果、地元ということで京成に払い下げられることになった。戦後わずか1年後の1946年(昭和21)のことだった。機関車の解説板に西武ユネスコ村にあったと記されているのは、最初にレールや資材が払い下げられたのが西武だったため。京成は翌年に工事を開始し1947年には早くも新津田沼~薬師台の2・5キロが開業。徐々に延伸され1955年には全線開業となった

元々が軍事用の演習線であるため、路盤はクネクネとしていた。新京成線の工事にあたっては、改良が行われたが、すべてというわけにはいかず、現状の路線もかなりのスネークぶりだ。松戸~京成津田沼の全線は26・5キロだが、直線距離が16キロほどなことを考えると線路は長めだ。なお松戸に至る最後の1区間は新京成が自力で敷設した部分となっている

京成に払い下げられたにもかかわらず、新京成という別会社を設立したことについては、人が住んでいなかった演習線の沿線に列車を走らせ、果たして経営が成り立つのか、という危惧があったともされる。しかし沿線人口は順調に増えていき、営業成績も順調。3月いっぱいで親会社の京成電鉄に合併され、会社としては80年近い歴史に幕を降ろすこととなった

私的にはグーグル地図を開けたところ、ピンク色で表示されたルートにちょっと感動した。4月以降は京成電鉄の松戸線と名前を変えるが、グーグルの表示はどうなるのだろう

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