きっぷ

2年がかりの呉線全駅訪問~広島シティネットワークはこちらから

広駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数が急増

広駅に到着。お隣の仁方も当駅も呉市内の駅だが、運行本数が大きく変わる。在来線は広島駅を中心に広島シティネットワークと名付けられた愛称が用いられていて、山陽本線は東は白市、西は(山口県に入っているが)岩国、可部線全線、芸備線の狩留家そして呉線の広駅。エリアの移動に複数のルートがあるわけではないので、いわゆる大都市近郊区間には入っておらず、途中下車や選択乗車など特にきっぷのルールに特例が適用されるわけではない(ただし特定都区市内制度による広島市内区間は別に存在する)。言い方を変えると「ここから先は列車の本数が少なくなります」ということでもある。また非電化の芸備線以外は「シティネットワーク広島」のロゴが入った最新の227系で運用されているが、呉線は全線が227系である

三原方面からやって来ると、ほとんどの列車が当駅で乗り換えとなる。昼間は1時間に1本の運行が広から30分に1本で、すべてが快速。この快速「安芸路ライナー」は呉までの新広、安芸阿賀と各駅に停まり、呉から快速運転。呉からは普通が出ていて快速通過駅を補うが、こちらは1時間に1本。つまり快速の方が運転本数が多いという、ちょっと変わった運行形態となっている(夕方以降は)

ただ朝のラッシュ時は事情が変わり、広から多くの広島方面行きが出ていて7時台、8時台は1時間に5本の広島行きがある(それぞれ1本は広以東からの直通)。また朝の通勤通学帯は快速も「通勤ライナー」と名前を変え、呉以遠は矢野の1駅のみ停車という特別仕様。仁方駅の項で「ヨンサントー」のいわゆる1968年10月号の時刻表について説明したが、当時から最も大きく変わったのは、広から西の運行本数で、このころはまだ非電化時代ではあるが、広を境に朝の本数は増えてはいるものの、朝の6時台に3本、7時台に2本、8時台に至ってはわずか1本(ただし広停車の急行と呉始発の急行が別にある)しかない。広~三原については今とあまり変わらない

かつては広村

広駅は1935年(昭和10)3月の開業。呉から線路が延伸されてきた。11月には広から三津内海(現在の安浦)が延伸され呉線は全通している。開業時は広村。戦時色が強くなった1941年4月に仁方町とともに呉市に編入されている

広駅は貨物列車の拠点でもあった。呉海軍工廠は東洋一の軍需工場だったが、後に広海軍工廠が独立する形となり、貨物需要も必要となった。戦後も呉線の貨物輸送は広駅が拠点となっていた。今も夜間停泊などに使用される側線が残るが、かつては大規模な貨物ヤードがあった。広の地名には埋め立て前の海岸が広々としていたとの説もあるようだが、もちろん現在の広駅周辺に村の雰囲気はない

広以西の主要駅には開閉型の自動改札機が設置されている。みどりの窓口は3年前に営業を終えたが、みどりの券売機が導入された。もちろん無人駅ではない。駅舎は戦前からの木造駅舎が使用されていたが、JR移管直前に現在のものへと姿を変えている

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2年がかりの呉線全駅訪問~最長片道切符でマニアに知られた駅の年表が渋すぎる

仁方駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数減少の最初の駅へは大きなミスの末に

仁方駅に到着。ご覧の通り、バスでやってきた。仁方は安芸川尻駅の隣の駅で、1時間に1本の列車は待ってられないと、ちょうど良いバスを見つけたので乗車したところ、逆向きに乗車してしまう大ミス。10分ほど揺られたところで逆走に気付いたものの後の祭り。しかも戻るバスは30分以上ない。参ったな、と思ったが、たまたま喫茶店が目に入った。前記事で「カープの来季についての番組を見た」と記したのは、この喫茶店でテレビを見ていたのだ

話を戻して仁方駅である

渋すぎる駅舎がお出迎え

仁方駅は1935年(昭和10)の開業。呉線で最後の開通部分となった三津内海(現安浦)から広が開業した際に設置された。当時は仁方町。仁方町は戦時色が強くなった1941年の4月に呉市に編入されている

仁方の名を残すのは1982年(昭和57)まで存在した仁堀連絡船である。当駅から10分ほど歩いた仁方港と松山市の堀江港を結んでいた航路。運営は国鉄が担っていた。国鉄の航路だったというのが、当時のマニアに注目されていたポイントだったわけだが、それについては後述する

自動車8台の連絡船

手元に1968年10月の時刻表がある(復刻版)。いわゆる「ヨンサントー」のダイヤ改正があった時のものだが、こちらを開くまで仁方という駅は広のひとつ隣で、国鉄運営の連絡航路があったぐらいなので、今のように広で運行は分断されず、仮に航路がもう少し続いていたら、仁方まではもう少し便利になっていたかもしれないと思い込んでいたところがあったが、時刻表を開いてビックリ。当時すでに広が運行の境界だったのだ。正確に言うと、今のように広でほぼ乗り換えというわけではなく、広島と三原を直通する呉線で朝夕のラッシュ時に広折り返しの列車が挟まるという形だった。まだ非電化時代だったが、広~三原の本数は今とほとんど変わらず、広~広島が増えている

ちなみに仁堀連絡線の時刻も掲載されていて、本数はわずか1日3往復。丁寧に船との連絡に便利な列車も記載されているが、たったの3往復では列車本数を増やすことにはならない。船の規模は「定員196人、中型自動車8台」と書かれている。自動車8台とは、今ほど車社会が浸透していない時代とはいえ、規模が小さい。逆に言うと、その程度で十分だったということになる

仁方駅が寂しく感じるのは駅舎の規模よりも、窓の多さからだろう。こちらは荷物の受付か。それなりの規模を誇っていた駅だったことが分かる

仁堀連絡線の開業は1946年。終戦直後の復興期で宇高連絡線が手一杯となり、もうひとつの航路をということで設定された。国鉄の運営はそのためである。今も広島と松山を結ぶ航路は需要があるが、仁方港を含む呉港からも四国へと渡る船の需要はあった。だが仁方、堀江とも町の中心部から離れている上、駅からの距離が遠かったこともあって、間もなく乗客は激減。国鉄でなく民間の経営だったら、もっと早く運休していただろう

仁方駅から港までは徒歩で10分を強いられていた。現在、瀬戸内海の島行きも含め港からの定期航路はなくなっている

最長片道切符では貴重な出入口

ただし国鉄の路線ということで、鉄道ファンには貴重な航路だった。いわゆる「乗りつぶし」もそうだが、さらなるマニアにとっては最長片道切符の出入口として必需品だった。つまり宇高連絡線と仁堀連絡線のどちらかで四国に入り、どちらかで四国から出れば、一筆書きができる。最長片道切符に貢献する航路だったが、1982年に廃止され、最長片道切符から四国の路線は消えた

それでも1968年の時刻表によると、呉線を通る急行6本(厳密には7本だが、1本は呉折り返しの長崎行きで当駅付近は通らない)のうち、4本は仁方に停車していた。駅は連絡線がなくなったころに無人化されている

さて仁方駅について、なぜこのように流ちょうに説明できるかというと、駅舎に仁方駅の歴史が張られていたからだ

手書きの上にガムテープで、しかも駅舎の外側に張られている。「ありがとう」「駅舎さよなら」と記されていることから、南側の駅舎がなくなった2018年の作品らしい。せめて駅舎内に張ってあげれば、と思ったのだが、いろいろ事情があるのだろう

その南側には簡易的な出入口がある。ちなみにホームを結ぶ跨線橋もこの時に撤去され、ホームを含めた南北の往来は駅舎外の歩道橋を渡る

国鉄が運営していたことで、今も時折思い出される航路である

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2年がかりの呉線全駅訪問~日本一短いトンネルへ親切な案内

安芸川尻駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

駅を出るとすぐに分かる

安芸川尻に到着。すでに呉市に入っていて(2004年に川尻町が呉市に編入する)、本数が多くなる広まは2駅目である

JR(国鉄)の駅ではおなじみの名所案内だが、こちらはかなり以前に作られたもののようだ。名所は駅を出るとすぐ分かる

「日本一短いトンネル」への案内板が目に入る。その名もズバリ、川尻トンネル。全長8・7メートルという情報も記されていて分かりやすい。どうやら歩行者用道路で「日本一」へ案内してくれるらしい

さっそく歩いていこう

と考える間もなく、トンネルが見えてきた

もう少し近づくとこんな感じ。トンネルという山の中を貫いているようなイメージがあるが、こちらは上は道路。山を通したというよりも、堀削の中を列車が走り、その上が跨線橋のようになっている

これはトンネルの上の道路。ここを歩いたり、車で走っていると、予備知識がなければ日本一短いトンネルとは気付かないかもしれない

来た道を振り返ってみた。駅のホームはすぐそこ。単線に戻った瞬間にトンネルに突入。そしてすぐ抜ける

さすがのグーグル地図も、線路沿いの歩行者用の道路というか通路は表示されていないようだが、その意味でも駅前の案内板の効果は大きいし、何よりも目立っていて、とても親切である

ホームの名所案内に「日本一」が表示されていないことは最初に述べたが、それもそのはずで2014年まで日本一短いトンネルは吾妻線(群馬県)の樽沢トンネルの7・2キロだった。八ッ場ダム建設によって吾妻線の線路が付け替えられることとなり、川尻トンネルが日本一に「昇格」した。つまり新たに建設されたトンネルではないのだが、このように案内板を掲げてくれると十分に名所アピールとなるし、何も知らずに来た人にも分かりやすい

開業以来の駅舎

さて順番は逆になってしまったが、ようやく駅の紹介

安芸川尻駅は1935年(昭和10)の開業で当時からの駅舎が現役。私が訪問した半年前の2022年3月までは、みどりの窓口の設置駅だったが、みどりの窓口の営業が終了すると同時に無人化された

ちょうど巡回の方が点検を行うタイミングだったが、少し前まで駅員さんもいただけに駅舎内の待合スペースは大きい。そして目に入るのは鯉のぼり。わざわざ「C」と描かれている上、10月の訪問だったので、これは広島カープに依るものと思われるが、現時点で一度きりの訪問なので、「常駐」しているものかどうかは分からなかった。実は訪問の前日、カープはクライマックスシリーズへの道が絶たれていた。県内のテレビで早くも来季の課題特集を行っていたので、鯉のぼりが強く印象に残っている

島式ホームで貨物ヤード跡の側線が残るが保安車両の置き場となっているようだ

こちらは観光列車用の駅名標

名残惜しいがホームから、もう一度日本一短いトンネルを見てお別れとなった

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2年がかりの呉線全駅訪問~港、マッサン、街並みと呉から東側の中心駅

竹原駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

広島~呉開業後に時間を要して竹原開業

竹原駅に到着。1970年に改築された国鉄らしい駅舎。広島から三原に進むと広で多くの運行が分断され、列車本数も減るのはすでに記した通りだが、呉から東側では最も規模の大きい駅となっている。呉線は計画時は「呉鎮守府両翼鉄道」という名称だった。名前から想像できるように軍港の呉への鉄路。呉の海軍鎮守府は1890年(明治23)に設置されたが、陸路が不便なことが指摘されていて、1903年に呉線の原型となる海田市~呉が開業。広島と線路でつながった。だが、呉以東については、海沿いや峠越えなどの難工事が予想されるため、そのまま放置された形となり、ようやく工事が着手されたのは1923年(大正12)と20年が経ってから。もう昭和に入ろうとしていた。工事は呉と三原から進められ、呉~須波が1930年(昭和5)に開業したのを皮切りに、1932年に三原~竹原が開通した。まずは竹原まで鉄路を通すことが重要だった。しばらく竹原は終着駅だったが、1935年に全通。ただし線内の一部では海側が見えないよう柵が設けられたり、ホームや車内は憲兵が目を光らせるようになったのは、その後間もなくのことだった

瀬戸内の中心港としても繁栄

観光列車用の駅名標。竹原市は「かぐや姫サミット」に参加している。平安時代にはすでに竹原という地名があった。京都の下鴨神社の荘園の中に、その名が見られる。地名の由来は荘園の管理者の名前から、竹が生い茂った原があった、と両方の説がある。下鴨神社の荘園だったことで、町を流れる賀茂川のほか、賀茂の名前が多く残る

戦国時代は良港を求めての奪い合いとなり、江戸時代になってからは製塩で繁栄。港は北前船の寄港地となり、当地の塩は全国に運ばれ、港に米が集まるようになったことで盛んとなった酒造りも開始。塩と酒は広島藩に大きな富をもたらしたという。安芸の小京都と呼ばれる歴史は下鴨神社からだが、街並みは江戸時代に形成されている。朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴酒造は、呉線の工事のため持っていた塩田の一部を提供したという

幻の寝台特急停車駅

駅を出ると竹原市の中心部が広がる

現在、竹原駅を始発とする列車は朝の1本のみだが列車によっては長時間の停車も行われる。かつては呉線経由で東京から下関を結び、わずか3年半(1975~78)で廃止となった幻の寝台特急「安芸」の停車駅(上りのみ)でもあった

みどりの窓口は3年前に廃止されたが、みどりの券売機は設置されている。これは広から東側では唯一の設置

さて竹原の到着は11時すぎ。最初からランチに困らないのは竹原だろうと予想して訪問順を決めていた

予想通り、複数の選択肢があったが、目に入ったのはトンカツ屋さん。ボリュームたっぷりで美味だった。これで夜まで十分体力も持ちそうである

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2年がかりの呉線全駅訪問~三津の杜氏で知られる開業以来の駅舎

安芸津駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

「安芸」の「津」ではありません

安芸津駅に到着。全国各地には旧国名を冠する駅が多数あるのは、周知の通りで広島県内にも「安芸」を冠する駅はいくつもある。呉線内にも複数あるが、当駅については事情が微妙に異なる。津という地名があって、そこに国名を冠したのではなく、元々の自治体名は三津。当駅も1935年(昭和10)の開業時は三津駅だった。戦時中に周辺の自治体との合併があり、新たに誕生した自治体が「安芸津町」。戦後になって駅名も安芸津となった。2005年の平成の大合併を経て現在は東広島市となっている

なお三津といえば、愛媛県の松山にも三津駅があるが、こちらは伊予鉄道の駅。同名を避けたのか、後から駅を作った国鉄が「三津浜」と名付けたのは1927年と、安芸津駅より少し早かったが、「浜」が付いたおかげで呉線の駅は「安芸三津」ではなく、堂々と「三津」を名乗ることができるようになった。スタート時が安芸三津駅だったら、駅名は今もそのままだったかもしれない

観光列車の停車駅用の駅名標。忠海はウサギだったが、当駅は杜氏が描かれている。三津町は明治以降、軍用酒として採用されたこともあり、多くの酒蔵で栄え「三津の杜氏」は固有名詞化。県外にも広く流通して呉線も運搬で大いに寄与した。今も構内には貨物の側線が残る

開業時からの駅舎はちょっと変わった構造

駅舎は開業当時からのもの。安芸津町の中心駅だったこともあり、雄大な駅舎で駅前ロータリーは大きく、タクシーも停まっている

こちらは駅舎内

簡易委託の有人駅。かつてはみどりの窓口設置駅だったが、IC乗車が導入されたころにはすでに簡易委託化されていた。自治体が簡易委託を請け負っているようで、無人の時間帯もかなりある

2面2線構造だが、小さな盛土の上にホームがあるため、駅舎側のホームには小さな階段で入り、向かいのホームには地下道で向かう。戦前からの存在で跨線橋のない駅は呉線では珍しいが

駅舎内には、かつてもうもうと煙を吐きながらSLが入線していたころの写真があり、撮影は昭和43年、つまり1968年となっている。駅舎側のホームへの出入りは今と変わらないようだが、ホームの行き来は構内踏切で行っていたようだ。大きな貨物ヤードも写っている。呉線は電化ギリギリまでSLが走っていた路線でもあり、1970年の電化と同時にSLがすべて姿を消すというドラスチックな変貌を遂げている

ただ導線を拡大してみると、これらの案内は字体から、いずれもかなり古く国鉄時代からのもののようである

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2年がかりの呉線全駅訪問~年季の入った駅舎とホーム待合室

安芸幸崎駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

1時間に1本の運行

忠海から1駅三原方面へと戻って安芸幸崎で下車。忠海は竹原市だったが、こちらは三原市。というか三原から2駅目と言った方が分かりやすい

呉線のダイヤパターンを説明すると、昼間は三原~広間は1時間に1本。広から広島方面に向けては1時間に2本の運行となる。この2本はすべて快速で広~呉までが各駅停車で呉から広島に向けては普通が1時間に1本。三原から広島へと向かうと、多くの列車は広で乗り換えとなり、広を境に運行本数が大きく異なる。広島~呉の普通しか停車しない駅は昼間は1時間に1本の停車しかないが、朝のラッシュ時は1時間に3本の運行があるのに対し、広~三原は本数にあまり変化はない。全線が単線電化区間ではあるが、電車での乗降をしていると広から西は広島の通勤通学圏で、東はローカル線感が漂う、そんな印象だ

もっともコロナ禍を期に山陽本線も都心部を少し離れると運行が1時間に1本と半減されているので、本数そのものは変わらなくなっている。逆に言うと、この1時間に1本という数字がさらに減らされると、路線としては危険水域である

また世の中の印象としては呉が呉線の中心にあるようなイメージがあるかもしれないが、三原~海田市の全長87キロで海田市~呉は20キロしかなく、かなり広島側に寄っている。つまり駅訪問は1時間に1本のダイヤをいかにうまく乗りこなすかになっていて、このように後戻りしてまた進むという、これまで記してきた城端線や内房線と同じ作業となっている

全国各地の駅とは異なる

安芸幸崎駅はご覧の通りの木造駅舎が残る。開業は1931年(昭和6)。三原~須波のみ開業していた路線が1区間延伸された。1区間といっても6・7キロもあり、これは現在も呉線の最長駅間。その時に述べるが、広から西と東では駅間の距離が大きく異なるのも呉線の特徴。新駅の開業がほとんどなかったからだ

呉線の各駅を降りると全国各地の海沿いを走る路線と大きく事情が異なっていることに気付く。町ができる課程というのがあって、海沿いの町はほとんどが漁港を含む港を中心に形成されるため、多少の例外はあるものの、駅舎も海側に設けられることが多い。それが自然な形だ

それに対して呉線の開業時からの駅の多くは海や港とは逆側に駅舎がある。忠海駅も港との位置関係を見ると随分不自然だ。瀬戸内海を望む車窓は美しいが、駅舎を出ると見えるのは山だけで、どうやって海側に行けば良いのか困ってしまう

安芸幸崎駅は1956年まで存在した幸崎町に基づく。国名が付いているのは大正期に開業した日豊本線の幸崎駅(大分県)があるからだと思われる(読みは「こうざき」)。幸崎は古代から漁港として知られた町だったが、駅舎を出ると

こちらは駅前の通りをちょっと進んで振り返ったものだが、駅前は住宅街という感じで静かだ。漁港として栄えたイメージが全くわかないが、幸崎の町は駅から徒歩で10分ほど離れた場所にある

線路から遠いのなら、いざ知らず、線路は町の中を通っているのに、なぜ?と思うかもしれないが、駅のすぐ南側には造船所。駅は当時の工場への通勤の便宜を図るため現在地に設けられた。ただし駅舎は山側に。沿線の多くは海を向いてぼんやりできるような場所ではなかったのだろう

早めの訪問を強く推奨

駅は無人化されて久しい

駅舎入口には快速停車駅になった記念碑がある。現在、広から東の区間には定期の快速は走っていない。1980年に廃止されている。当駅が快速停車駅となったのは1978年のことなので、わずか2年しか快速が停まっていなかったことになるが、石碑は40年以上残っていることになる

駅構造は2面2線で駅舎と逆側のホームにある待合所も年季が入っている。プラスチックの番線表示が私の好みである。だが待合所を支える柱の補強具合が、やや痛々しい

駅舎側の縦駅名標

柱を支える金属もさびが目立つ

屋根を支える柱もこのような様子で特に補強工事は行われていないようだ。これは経験に基づく私の個人的な感想だが、この素敵な木造駅舎を早めに訪れることを強く推奨したい

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2年がかりの呉線全駅訪問~「単なる海」というわけではない「ただのうみ」

忠海駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

貴重な「ひかり」で出発

その日の朝は新神戸6時19分発の「ひかり591号」に乗車

そもそも岡山以西を走る「ひかり」は朝と夜にほんのわずかしか見られないが、中でもこの591号は新大阪~博多を走行して新尾道と厚狭の2駅のみ通過し他の15駅に停車。だったら全駅停車のこだまでもいいのではないか、と思えてしまうほど貴重な停車パターンを有する列車である

福山で山陽本線に乗り換え

独特の駅名板が鉄道ファンの心をつかむ糸崎で下車というか乗り換え

これもまた鉄道ファンには周知のことだが、糸崎駅はかつて機関区で栄え、今も留置線と乗務員の休憩所があるため、当駅始終着の列車が数多く設定されている。駅舎や駅近くにいると駅前に唯一の食料調達所とされるコンビニへと向かうJRの職員を多く見ることができる。もちろん私そして同業者もお世話になる鉄分の濃いコンビニである。だが今回は、悠長にしている時間はないので呉線直通の広行きに乗り換え。ちなみに最初に乗ったひかりは三原まで行くが、結局は同じ列車に乗ることになるので福山で乗り換え。なぜなら使用するきっぷは青春18きっぷと同じ機能の秋の乗り放題パスなので、少しでも経費を節約しなければならないのだ

かわいい駅名標がお出迎え

約30分、電車に揺られ

忠海駅で下車

実にかわいい駅名標がお出迎えしてくれる。「忠海」を「ただのうみ」と読む。「ただのうみ」を「忠海」と書くという表現が的確だろうか。

1958年(昭和33)に竹原町と合併して竹原市が誕生したが、それまでは忠海町の代表駅だった。地名については由来がはっきりしていて、平忠盛がこの地の海賊を平定した際、自分の名前から1文字をとって「忠海」と名付けた。平忠盛し平清盛の父であるが、自分の名前を地名にしてしまうとは、もしかすると「おごる平家の-」の萌芽はこのころからあったのか

立派な駅舎がある

こちらは駅名板。駅の開業は1932年(昭和7)。戦前からの駅舎も立派だったようだが、2004年に「ふれあいステーション」と合築の現駅舎となった。「福祉ステーションただのうみ」による簡易委託となっている。駅に隣接してコンビニがあり、実は沿線の各駅では貴重な存在

「ただのうみ」ではない歴史

冒頭のかわいい駅名標はうさぎの島、大久野島への最寄りに基づくもの。島内には千匹のウサギがいて観光客のお目当てとなっている。大久野島へは基本的に忠海の港からの船で向かうため、人の姿は多い。ただし広島市内からのバス便もあるため、必ずしも呉線の利用者とは限らない

駅の裏手から大久野島への船や大三島行きのフェリーが出ている。ちなみにフェリーの行先である盛港は平忠盛の「盛」をとって名付けた地名である

大久野島については、多くを説明する必要がないだろう。戦前は軍による毒ガスの製造工場があり、秘密裏にするため、地図にも記載がなかった島だった。戦後は進駐軍が10年にわたり占拠。除染が行われて観光地化されたが、休暇村はあるが島全体が国有地で定住者はいない。1990年代にヒ素による汚染が確認され、水質や海洋生物などへの影響はないことが調査で分かったが、念のために島内の水は現在、使用禁止となっていて船で運ばれている

1駅目から随分重たい話になってしまったが、ここからのべ2年をかけて呉線の全駅を巡ることになる

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氷見線の各駅訪問~古代より栄えた路線の最重要駅は「ふしぎなふしき」

伏木駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

※動画あり(音声注意)

越中国分までは徒歩移動

氷見線訪問の最後に選んだのは伏木駅。ただ1時間に1本というダイヤが日中も確保されている城端線に比べ、氷見線は昼間に2時間ほど運行のない時間帯がある。私が越中国分に着いたのは15時39分で、その時間帯は避けたつもりだったが、ここで40分待つと次は伏木で1時間待たないと高岡へ戻れない。ということで、その40分を有効に利用すべく伏木までは徒歩移動

といっても、それほど困難なことではない

ほぼ線路に沿った平坦な道路を20分ちょっと歩くといいだけ。最近は携帯アプリのおかげで迷うことなく目的地に行けるようになったが、そのようなものがない時代は道路と線路が近いかどうかで安心感が大いに異なっていた。そもそも何分かかるかは自分で判断するしかない。そんな経験が多すぎたためか、今も徒歩で駅間移動する際は、道路と線路が近いかどうかを判断材料にしてしまう。なお、朝から城端線をウロウロしていた私には、立山連峰が見えるかどうかの結論は出ていたので雨晴駅方面には歩かなかった

ということで、当然ながらほぼアプリ通りの時間で伏木に到着。重厚感漂う駅舎である

古代より越中の中心地

駅舎には「ふしぎなふしき」と書かれているが、とにかく手前の郵便ポストがとても気になる

屋根に乗っかっているのは大伴家持さん。伏木は古代においては越中国の中心地とされ、国府が置かれた。歌人として有名な大伴家持が国司として赴任したのは746年。そのため万葉集には伏木をはじめとする歌が多く詠まれている。そのため付近の施設には「万葉」の文字が多く付けられている。周辺の住所には「国府」「一宮」といった文字が並ぶ。かつては伏木町という自治体だったが、戦時中に高岡市に編入となっている

駅前に義経と弁慶の像もある

詳細な解説があるが、渡し船を待っていた「おたずねもの」の源義経が身分を見破られそうになったところ、弁慶がとっさの判断で主人である義経をボコボコにして難を逃れたという通話に基づく。雨晴海岸と同様に有名な伝説である

伏木をさらに繁栄させたのは江戸時代になってから。日本海の物資運搬として知られる北前船の寄港地となり、重要拠点となった。氷見線の敷設はこの流れからのもの。中越鉄道が砺波平野の農作物を運搬するために現在の城端線そして氷見線を建設した。まずは伏木へつなげることが重要だとして、まずは1898年(明治31)に高岡~城端を全通させると、2年後には高岡~伏木が鉄路でつながった。伏木駅の開業も同時期の1900年(明治33)である。伏木から氷見までの延伸に12年も要したことは、これまでの記事でも書いてきたが、とにかく伏木の港への貨物輸送を行うことが最優先だったのだ

延伸計画もあった

このように栄えてきた現在の駅舎は昭和初期からのもの

駅舎には伏木観光推進センターが入居していて窓口業務を担当。みどりの窓口業務も行う(ただしe5489サービスの受け取りはできない)

島式ホームで側線を持つ

かつては貨物輸送でにぎわった当駅は現在、定期の貨物列車はやって来ないが、今もまだJR貨物の駅である

番線案内は字体や大きなローマ字併記の表記を見ると、かなり古くからのものが残されているようだ

氷見線を建設したのは中越鉄道だが、国鉄となってからは延伸計画があった。能登半島を横断して七尾線の羽咋駅までを結ぶもの。そうなれば、わずか14キロの盲腸線ではなくなっていたはずだが、こちらは計画だけで未成線にもならずに現在に至っている

氷見線とお別れする時が来たようだ。電光の案内標識は越中中川駅と同じものだが、音は随分と異なる。氷見方面がカーブとなっているので徐行するのか、けたたましく音が鳴ってから、列車の姿が見えるまで随分と時間がかかり、姿が見えた瞬間に音が鳴り止むというのも、また越中中川とは違うようだ

どちらかというと、こちらがオリジナルなのだろう。無骨な雰囲気も、また良しである

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氷見線の各駅訪問~路線内で最も若い駅は立山連峰へのワクワクポイント

越中国分駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

唯一の戦後生まれ

越中中川から越中国分にやって来た

ご覧の通り、棒状ホームと待合所のみの駅。城端線で何度も見てきた光景だが、駅舎のない駅は氷見線で当駅のみ。さらに言うと戦後に生まれ駅は越中国分の一駅しかない。他の6駅はいずれも中越鉄道によって設置されているので、国鉄によって設けられた唯一の駅ということになる

1953年(昭和28)の開業。最も若いといっても70歳を超えている。城端線の戦後生まれの駅と同じく、当初から旅客営業のみで貨物の実績はない。もっとも住宅地に囲まれた、このスペースでは貨物の取り扱いは無理というもの。国分は地名だが、近くにあった越中国分寺に基づくとされる

カーブ手前の「溜め」

越中国分駅の位置はちょっと独特である

高岡から内陸部を通ってきた氷見線は伏木を出たあたりで左へと急旋回。海岸と一定の距離を保ちながら、ここ越中国分まで来ると海岸に接近。列車が駅を出発すると、すぐ海岸に突き当たるような形になって、この後、海に沿って雨晴へと向かう。ここは氷見線の絶景ポイントだが、その意味で越中国分は「果たして立山連峰の美しい景色を見られるのかどうか」のワクワク感を停車中の列車で味わえる、いわば「溜め」の地点

ホームの先には海が見える。先端まで行くと、そこは海。線路に沿って道路もあるが、より海に近いのが線路となっている

高校生でにぎわう

こちらは逆向きの景色。立派なキロポストに「9」の文字だけが随分余白を残して書かれているが、高岡からちょうど9キロなのだ

当駅は県立伏木高校の最寄りでもあり、訪問の時間は15時40分。帰宅の生徒さんが集まり始めた

待合所に張られている縦の駅名標。最初はどのような形だったか分からないが、にじんだ文字が何ともいえない味を出している

掲げられている絵画については、ちょっと分からなかった

ホームから出ると、すぐ踏切。「旧」とあるが、おそらく奥の車が通れる踏切が新しいものなのだろう。こちらは車の通行ができないようになっていた

雨晴を手前に、ついつい素通りしがちな駅だが、ホームに降り立つかどうかは別として乗車中の列車から「溜め」と「ワクワク感」「ドキドキ感」を体感してほしい駅である

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氷見線の各駅訪問~路線ぶっちぎりの最多利用者を誇る駅は高校生の手によるもの

越中中川駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

※動画あり音声注意

城端線から氷見線へ

ちょっと古い話ばかりになってしまったが、ようやく近い話となる。時系列が飛び飛びとなってしまっているが、この日は早朝に家を出て

城端線の残る2駅を回収後、高岡経由で氷見線に乗車することにした。とはいえ7駅しかない氷見線なので、残る駅は3つ。目指すのは高岡のお隣の駅で、わずか1・7キロしか離れていない。しかも線路はグルリと回り込むようになっているので、ショートカットするように歩いても大した距離ではない

そして「乗車」と書いたが、駅到達の手段は列車でも徒歩でもなくバスである。徒歩以外では万葉線で近くまで行くという手段もあるが、ちょうど高岡の駅前から近くまで行くバスがあったので、そちらに乗車

待っていたのは随分とカラフルな駅だった

文教地区に設置の駅

カラフルではあるが、立派な木造駅舎である。開業は1916年(大正5)。1900年(明治33)に高岡~伏木が中越鉄道によって敷設されているので、15年以上が経って新たに設置された。当時の駅名は単に「中川」。現駅名になったのは国鉄になった開業の3年後。「中川駅」は私鉄も含めると全国に数あるが、奥羽本線の中川駅が明治生まれ。他のJR(国鉄)の駅は国名が冠せられている

駅の位置については駅前の案内図が分かりやすい

お城(跡)があって市役所、法務局、美術館、文化ホール。複数の高校がある。高岡の文教地区。駅があって当然の場所。中越鉄道の開業時は高岡の次は能町だったが、最初は近すぎると判断されたのか

そんな場所にあるため、利用者は氷見線で断トツ(高岡駅を除く)。2021年の1日あたり乗降者数は2542人。2位の氷見が1258人なのでダブルスコア。駅付近の3つの高校が大きく寄与していると思われる。訪問時は15時ごろだったが、朝のホームは大いににぎわっているのだろう

駅舎は地元高校生によるデザイン

駅舎は開業時からのもののようだが、駅舎のデザインは駅最寄りの高岡工芸高校の生徒さんによるもの

2009年からのものらしい

こちらはホームのイラスト

有人駅で「きっぷを持たずにホームへ出ることはできません。入場券代150円いただきます」と張り紙があるが、近い将来無人化されることが決まっている

デザインに同化するようにクラシックな「出口」案内があった

駅舎に掲げられた駅名板。こちらはJRでなくなっても、そのまま使えそう

利用は多い駅だが、設置時は「停留所」で今も単式ホーム。貨物扱いをしたことはない

15時ということで、そろそろ下校の時間になったようで駅にも高校生が集まり始めた。氷見行きの列車が実に軽快な音とともに入線してきた

入線の音楽とキハ47のきしむ音のアンバランスさがかえっていい。三セク転換後は入線音がどうなるかは分からないが、いつまでも聴いていたい音である

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