きっぷ

師走の外房線各駅訪問~目標半ばとなった房総横断列車と、その思い出

大原駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

海と海を結びたい願望

大原駅に到着。外房線の歴史を語る上で絶対に欠かせない駅である

外房線の原型は房総鉄道によって造られた。明治期に蘇我から伸びてきた線路は大網までが、まず敷設され、逆側の千葉ともつながったのが1896年(明治29)。翌年に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)までが延伸され、1899年に大原までがつながった。大原駅の歴史は19世紀からのものとなる。当時は中魚落村だったが、駅の開業に合わせて大原町が発足。鉄道の終着駅にもなり、勝浦までの延伸に14年もかかったこともあって夷隅(いすみ)地域の中心地の座が強まる

さらに変化があったのは木原線の開業。こちらに関しては前回の安房小湊駅の項で触れた通りだが、木更津と大原を結ぶので「木原線」。木更津側からは久留里線として上総亀山までが開通。大原からは上総中野まで延伸されたが、両者がつながることはなく未成線のまま現在に至る。同じタイミングで五井から安房小湊を目指した小湊鉄道も上総中野で力尽き、木原線と小湊鉄道が国鉄と私鉄で乗り換えの接続を行う形で「決着」となった

海と海を結ぶのは全国各地の夢と願望だった。車という交通手段がほぼない時代、徒歩で最も困難な山越えができれば、人も物流も劇的に変化するはずだと。太平洋と日本海、日本海と瀬戸内海と各地で線路が敷かれ、そして今、各地で苦戦が続く。貨物列車の通行がなくなると、元々人の少ない山中での苦戦は必然でもあった。房総半島は距離が短いことで戦前に単独での縦断はあきらめの決断が下されたようだが、それでも木原線を引き継いだいすみ鉄道とともに順調な旅客数とはいえない

当然だがつながっていた線路

大原駅のホーム柵を挟んで右側が内房線、左側がいすみ鉄道。当然だが、以前は同じ駅だった。木原線については1960年代後半に早々と、首都圏で唯一の「赤字83線」に指定され(関東では茨城県と栃木県にまたがる真岡線があった)、その後に特定地方交通線となり、国鉄としての廃止が決定。JR移管後は1年間の引き継ぎ期間を経て三セクのいすみ鉄道となった

一応、線路そのものは現在もつながっているが実際に使用されることはない

駅舎は独立して並んでいるが

中でつながっていて外に出なくても往来は可能。いすみ鉄道の駅舎内には売店があり、グッズや土産物が並ぶ。私はクリアファイルを購入した

いすみ鉄道とともに

すべての特急が停車する有人駅で、昼間の普通は1時間に1本だが、朝夕のラッシュ時には当駅折り返しの運行もある。JRの改札は開閉式の自動改札機。ただ残念ながら私の訪問時から3カ月後の今年3月にみどりの窓口は営業を終えているはず

駅周辺は大原町の中心地。現在のいすみ市役所は旧大原町役場である。駅舎と逆側の海へ進むとイセエビで有名な大原漁港がある。大原=イセエビにはいすみ鉄道も一役買っていて、2年前まで走って好評だったレストラン列車でイセエビを提供したところ大好評で知名度を上げた

こちらは2011年7月に上総中野駅で小湊鉄道といすみ鉄道を乗り換えた時の写真。この後、大原経由で勝浦へと行き、人生で初めてなめろうを食べた

一時は存続が危ぶまれたいすみ鉄道は数々の企画が好評で息を吹き返した。JRからは経営分離となり「他人」となってはいるが、どちらが欠けてもいけないものである

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師走の外房線各駅訪問~戦前に幻の乗換駅となった知名度の高すぎる駅

安房小湊駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

景観に配慮した(?)コンビニ

安房小湊駅に到着。行川アイランドからわずか1駅。今もそうだが、ここからが安房の国になる最初の駅で、元々は上総の国の最後の駅となる上総興津駅と当駅間は7キロもの距離があった。いかにも国境という感が強い

その安房小湊駅は旧小湊町の駅。安房天津駅の記事でも少し触れたが、昭和の合併で1955年(昭和30)に天津小湊町となり、平成の大合併で鴨川市と合併。現在に至る

駅の開業は1929年(昭和4)。上総興津~安房鴨川が線路でつながり外房線(当時の名称は房総線)が全通した際に設置された。つまり安房天津と誕生日は同じ。駅名に旧国名が付けられたのは東北本線の小湊駅(青森県、現在は青い森鉄道)が先にあったためだ

柱の部分が豪華になるなど、多少手が加えられているが、駅舎は開業時からのもの。豪華になったのは観光資源に恵まれているから

こちらは駅名板。イラストにタイが描かれているのは好漁場でタイが集まる鯛の浦にちなんだもの

駅を出るとすぐ海で旅館なども並ぶ

写真中央の屋根だけが見える建物はコンビニで最初から分かっていないと気付きにくい。景観に配慮して、あえてこのような構造になっているとも思える。ちなみに前日、スマホのモバイルバッテリーに異変が起き、一度道程を中断してレンタルのモバイルバッテリーを調達すべく、茂原駅までUターンしたのだが、検索した際に駅から近く、モバイルバッテリーに空きがあるコンビニはこちらだった。ただその時点で残り1台ということで、ちょっと危ないと判断して行くのはやめた

国鉄駅より早い工事着工

さて房総半島、小湊というワードで誰もが思い浮かべるのは小湊鉄道だろう。内房線の五井から房総半島の内陸部にあたる上総中野までは結ぶ、東京から気軽に行ける非電化の私鉄として有名だが、会社名で想像できるように当初は、ここ安房小湊まで到達する予定だった

駅舎内の待合室に計画段階だった時点でのパンフレットだろうか、小湊鉄道の地図が張られている。小湊鉄道は1928年に上総中野まで到達して現在の形となった。目指したのは小湊にある名刹・誕生寺でお寺への参拝客を見込んでのものである

イラスト上では大原と上総中野がすでに国鉄としてつながっていて、久留里線も上総亀山まで到達している。現在のいすみ鉄道、当時の木原線の大原~上総中野の全線開業が1934年で、久留里線の木更津~上総亀山が1936年の全線開業なので、イラストはそのころのものだと思われる。上総中野から安房小湊までは予定線となっていて、途中に5つの駅が設けられる予定だったらしい。だが私が説明するまでもなく、予定は未成線のまま現在に至り、小湊を目指した小湊鉄道という路線名と会社名だけが残っている。安房小湊駅の建設工事は小湊鉄道の方が先に着手していたが、上総中野からの延伸工事は行われず1936年に路線建設のための免許は早々に取り消されている。だからこの地図は微妙な時期に作成されたようだ

正しい地図表記はこのようになる

写真のイラストはかなり誇張した形になっているが、西に真っ直ぐ行けば大原へと至るわけで、国鉄によって上総中野とつながった時点で、工事を無理に行わなくなったこともうなづける話である。ただ上総中野~上総亀山の工事も行われず(木原線の「木」は木更津の意味)、房総半島を乗り換えなしで横断する列車は走ることなく終わった

かなり以前にみどりの窓口は営業を終え、現在は業務委託駅

だが、これまで触れてきたように観光資源も多いため、特急も含め全列車が停車する。いにしえの地図を張ってあったきれいな待合室はエアコン完備。師走の駅訪問では心強い味方だった

ちなみに鉄道会社というより、バス会社として名前を見かけることが多い小湊鐵道だが、かつて目指した安房小湊駅へ同社のバス路線が乗り入れたのは、わずか10年ほど前のことである

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師走の外房線各駅訪問~内房線を通じて初めて同業者と出会った

行川アイランド駅は通過列車も60キロ制限

※訪問は2023年12月14日

今も残る「特急」停車

今の状況からは信じられないことだが、行川アイランドはかつて全列車停車駅だった

周辺に民家はほぼなく、あるのは行川アイランドという施設のみの単式ホーム構造。すべての列車が停まっていたという事実が凄い。ダイヤから急行が消え、特急のみとなった後も一部の特急が停車していた。特急の停車位置番号も残っている…と思ってしまうが、事情はやや異なる

ホームの端まで来るとカーブ状のホームを見渡すための乗務員用モニターがある。このようなものは無用の上物かと思ってしまうが時刻表を見ると現役だということが分かる

安房鴨川方面の夜の部分だが、20時50分と22時44分発の列車には「特急車両で運転」の文字がある。これはいわゆる間合い運行というもので、東京からの「わかしお」のこの時間の2列車は勝浦まで特急として走った後、車両はそのままで普通列車へと姿を変える。特急車両ではあるが、もちろん「タダ」である。時刻表には車両編成も記されていて22時44分発については10両編成。かつてはすべての列車が停車していたため、カーブ状の単式ホームにもかかわらず11両に対応する長いホームを有する当駅が存在意義を示す機会が残っていた

ただし今春のダイヤ改正で、この時刻表には大きく手が加えられた。20時50分のわかしお17号はダイヤこそ20時47分と、ほぼそのままだが15号に変更。22時44分のわかしお21号は19号に変更された上、勝浦止まりとなり、行川アイランドまでは来なくなった。代わりに千葉からの勝浦止まりの普通が安房鴨川行きとなって勝浦で乗り継げば、ほぼ同じ時間に行川アイランドまで来られるようになった(といっても、その時間に下車する客がどれぐらいいるかは不明だが)

春から全車指定となったわかしおは、すべて5両編成で運行されることが発表されている。では長い編成の特急車両は、もう来ないのかとなると、話はちょっとややこしく、時刻表を見ると唯一、間合い運転となる15号については「6月28日まではグリーン車併結」となっている。これは9両編成車両。どうやらダイヤ改正後も自由席があると思い込む人が多く乗ってきて座席があふれてはいけないので周知期間を設けているものらしい。つまりあと3週間ほどは10両ではないものの、9両の運用が見られる。しかも期間限定ながら、グリーン車も「タダ」である

現在の利用者は?

そろそろ列車が来るころである。待合所は吹きさらしだが、この日は穏やかな晴れで師走でも問題のない気候だった

JR東日本では駅別の利用者数を乗車人員という形で発表していて、単純計算だと乗降者はその2倍ということになるのだが、実はこの表に行川アイランドという駅名は登場しない。最小が飯山線の平滝駅で4人。つまりそれ以下の測定不能レベルの利用者ということになる。駅から1キロの所に浜行川の街があり徒歩で10分ちょっと。それほど遠い場所ではないが、鉄道利用とはなっていないようだ

ちなみに「行川」(なめがわ)は、私にはなかなかの難読だが、千葉県や茨城県には「行」を「なめ」と読む地名がいくつかあって、それぞれの町に近い人にはなじみのある読みらしい。元々の地名は「滑川」で地形に基づいたものとされる

こうして料金表を見ると100キロ圏が西船橋のようだ。千葉まで80キロなので東京まではかなり遠い。ディズニーランドの浦安で客足を止められると、園としてはなかなか辛いものがある。園の跡地の今後については前日出会ったご婦人が「温泉ができるって聞いたけど、話が前々進まないね」と話していたが、一応レジャーホテルができる予定にはなっているようだ。ただし予定は未定の世界である

ふと気付くとホームで盛んに写真を撮っている方の姿が。明らかに同業者(鉄道ファン)である。下車したのは私一人と認識していたが、もう1本前の列車で来たのか、どこかから徒歩で到達したのだろうか。外房線の2日間で初めて出会った同業者。こういう「有名駅」では、なかなか貸切というのは難しいのだが、ちょっとうれしい気分にもなって、やって来た電車に乗り込んだ

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師走の外房線各駅訪問~交差点に名前だけでなくイラストも残す

行川アイランド駅の縦駅名標

※訪問は2023年12月14日

周辺は痕跡がごっそり

行川アイランド駅周辺の散策に入る。入るとは言っても周辺に民家は全くなく園の痕跡が残るのみ。ちょうどこのあたりは上総の国と安房の国の境界にある山中で、元々集落のない場所だった。集落がないので巨大な園を造ることが可能だったと言える

駅を降りると園に向かう道路。現役感のあるようなないような。南国らしい木はちょっと元気がないように見えるが、ちゃんと生きている。道路も雑草で埋め尽くされるところをギリギリ整備している印象だ

トンガリ屋根の、いかにも観光地ですのムードを醸し出している電話BOX。年間でどのぐらいの利用者がいるか不明だが、公衆電話というのはほとんど利用者がなくても天災などの緊急用に駅前など一定の設置が定められている。きれいに刈り取られた正面と乱雑に枯れ草が積み上げられた右側が対照的。そういえば利用者が限りなくゼロに近いような駅でも公衆電話は設置されているが、対自然の管理はどこが主体なのだろう

ちょっと陰の関係で見にくいが勝浦の地図もある。ただし行川アイランドは、現役の園のまま表示されている。左のフラミンゴのイラストとセットのまま

園とは道路をまたいで跨線橋でもつながっているが、下まで降りてみる。外房線の高架のふもとに大きな交差点があるが、ここは国道128号の分岐となっていて左に行くとバイパス、右は従来の国道。従来の国道を1キロほど行くと行川の集落と港に出る

分岐の交差点名が「行川アイランド前」だったので近づいてみると名前だけでなく、しっかりとフラメンゴのイラスト入り。細やかさがうかがえるが、閉園からすでに20年以上が経過。信号は新しいものに更新されているようだが、この案内板も20年も経っていないようにも見える。詳細は分からないが、交差点では園もフラメンゴも現役だ。考えてみると、ここはバイパスと旧道の分岐という重要な交差点で名称を変更するとカーナビに重大な影響を及ぼす。簡単に変えるわけにはいかないのかもしれない

子どもの時に見ていた特撮の舞台

さて、この交差点の右側にあるのが行川アイランドの痕跡だ

駅から最短で行ける跨線橋から見るとこのようになっている。手前は駐車場で建物は、その管理棟だったのだろうか。自然との共生をテーマにした行川アイランドはフラミンゴのほかに多くの鳥や動物を飼育、展示していたが、同時にテレビドラマのロケ地にもなっていた。最も多いのが子ども向けの、いわゆる特撮もので、特に「行川アイランド」「仮面ライダー」で検索すると多くのヒットがある。私がリアルタイムで見ていたものが、こちらで撮られていたのかと思うと感慨深いがある

跨線橋で駅へと戻る

おせんころがしとは

駅に残る名所案内を眺める

園は閉園になっているので残っているのが不思議だが、もうひとつの「おせんころがし」が理由かもしれない

上総と安房の国境は古代より断崖絶壁で船以外で通過するには危険な道を行かなければならない交通の難所だった。道の名前がおせんころがし

勝浦市のHPによると、古代に当地を治めていた非道な豪族が住民を苦しめ、娘のおせんが父親に改心を懇願するも受け入れられず、断崖から身を投げた伝説が道の名前になったという

何とも悲しい話だが、今も供養塔が残っている

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師走の外房線各駅訪問~メインイベントの駅にいよいよ降り立った

行川アイランド駅の駅名標

※訪問は2024年12月14日

前日に解けた謎と初めて知ったこと

いよいよ到着である

行川アイランド。私の記事を連日読んでくださる方なら、お分かりと思うが外房線の各駅訪問では当然メインイベントになる

今さら説明不要かもしれないが、当駅は駅前にあった同名のレジャー施設の最寄り駅として開業したもの。同園の閉園後も駅名はそのままとなっていることで鉄道ファンは知られる存在だ

話は前日にさかのぼる。上総興津駅を訪ねた私は茂原方面へと折り返すべくホームで電車を待っていた。同じ乗車口で待つご婦人と、しばし雑談。地元の方で実家の年老いた母の様子を見に来た帰りだという

上総興津の隣駅が行川アイランドである

「行川アイランドって地元の皆さんはよく行かれたのですか?」

「そうねぇ。子どもを連れてよく行ったよ。といっても今50歳の息子が小学生の時だから」

えっ、と思った。そんな昔からあったのか

「ちなみにそこには何があったのですか?」

「一番有名なのはフラミンゴじゃないかな」

ようやく意味が分かった

ここでも記したが上総興津の駅前にある池になぜフラミンゴの置物があるのか、私にはさっぱり意味が分からなかった。電車に乗ってようやく理解できた。そうか、行川アイランドのウリはフラミンゴだったのか。しかもそんな以前からあったとは。無知だと言われればそれまでだが、呉ポートピアランドや倉敷のチボリ公園のように1990年代に各地で誕生し、やがて閉園したテーマパークのひとつだと思い込んでいた

調べると開園は1964年(昭和39)とかなり古く、私と2歳しか変わらない。1980年代の前半に東京で学生生活を送っていた私は知っていそうなものだが、全く知らない。情報量という意味では、当時は現在と比べると圧倒的に少ない。テレビや新聞のニュースで流れるか口コミ以外に情報はないのである。もっとも学生時代にディズニーランドが華々しくオープンしたことは大きなエポックとして知っている。同じ千葉県内でのディズニーランドの開園は行川アイランドの客足に大きな影響を及ぼしたというが、東京により近い場所に鳴り物入りで、そんな施設ができたのでは、それも当然かもしれない

時間を調整して訪問

行川アイランドには前年の暮れに内房線の各駅訪問を行った際に実は訪れるはずだった。安房鴨川まで到達して外房線の行川アイランドだけ訪問の予定だったが、滞在時間がハンパになってしまうので断念。1年待っての訪問となった

当駅の時刻表だが、9時32分に到着して10時10分で去る予定なので約40分の滞在。もっと効率的に15分ほどの滞在とする旅程もあったが、それではさすがに短すぎる。しっかり時間は調整したつもりだ

駅の開業は1970年。開園より8年も後のことで当初は臨時駅。まだ電化もされていない時代。優等列車の一部が停車する一方、普通の通過もあるという、いかにも臨時駅の風情だったが、1987年4月1日のJR移管時に正式駅に昇格した。すでにすべての普通が停車するようになっていたという。臨時駅としてのスタートを含めても外房線で最も新しい駅ということになる

かつては駅舎があったが、2001年の閉園からしばらく経って解体。現在は待合所とホームのみの駅。ICリーダーはホームの外に設置されている。開業時から棒状ホームで外房線で単式構造となっているのは三門駅と当駅の2駅のみである

駅周辺といっても遺構しかないのだが、ここから散策に入る

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師走の外房線各駅訪問~「終着駅」のひとつ手前 普通に読んでくださいね

安房天津駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

お隣は安房鴨川

勝浦からグンと南下して安房天津駅に到着。勝浦からだと5駅目で約17キロ。20分ほどで到着するが、駅名で分かる通り、すでに上総の国から安房の国に入っている。外房線の「終着駅」である安房鴨川までもう1駅。ただし昼の時間帯は、すべての列車は内房線にそのまま入って木更津まで運行される(多くの列車は安房鴨川で長時間停車するので乗り換えとあまり変わらないが)

前記事の勝浦駅の項で千葉から大原まで延伸されてから勝浦まで到達するのに14年かかったと記したが、勝浦から南側の延伸も時間がかかった。地形的に平地が少なくトンネル工事などが必要だったからで、上総の国の南端である上総興津駅まで開通したのが1927年(昭和2)で、1913年の勝浦到達から14年。安房の国に入り、安房鴨川まで到達して全線開業となったのは、さらにその2年後。安房天津駅の開業も全通時の1929年だった。上総一ノ宮到達から30年近くが経過していた。時代は明治から大正を通り越して昭和へ。難工事だったことがうかがえる

元々は天津町

安房天津の駅舎。広くて大きい。特急停車駅ではない(前後の安房鴨川と安房小湊にすべての特急が停車する)が、規模は大きくコミュニティーセンターとの合築。JR移管直後に現在の駅舎となったようだ

駅の開業当時は天津町。天津町は1955年に小湊町と合併して天津小湊町となり、2005年(平成17)の平成の大合併で鴨川市となった。特急停車駅は安房小湊駅に譲ったが、かつての町役場(現在は市役所の支所)は安房天津駅が最寄り

役場近くが海で町の中心部。国道128号の旧道が町中を貫いている。天津は漁業で栄え、勝浦の記事でも述べた通り、紀州(和歌山)との縁が深い地域で、紀伊の国から黒潮とともに多くの漁民が移住してきた歴史を持つという。九十九里浜とは対照的に天然の好漁場となる外房のリアス式海岸は漁業で繁栄した

駅舎内の案内図が分かりやすい

手書きの地図に癒やされる

そんな安房天津駅だが、現在は無人駅となっている。国鉄時代に無人化され、簡易委託を経て再び無人駅となった

しかし地元の小学生による周辺地図もあって心はなごむ

駅構造は2面2線。10両編成に対応できるようになっているホームは長い

さて、いちいち念を押すまでもないことだが

駅名は「あわあまつ」である。普通に読めばたどり着けそうで、決して難読地名ではない。ただランチタイムを含め、ついつい聞き慣れた、言い慣れた言葉を…

そんな読み方があるはずがない、とわざわざ書いているのは、恥ずかしながら自分が一瞬、そう思ってしまったからである

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師走の外房線各駅訪問~「勝浦ネットワーク」でつながる外房観光の中心駅

勝浦駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

朝は茂原駅から

朝の茂原駅。外房線沿線で各駅訪問の拠点としてビジネスホテルも飲食店もそろっている駅となると必然的に茂原となる

朝食はロッテリア。実は昨日もレンタルのモバイルバッテリーをコンビニで借りた際、列車待ちをここで行ったので2日連続での登板である。旅に出ると、よくロッテリアのお世話になる。旭川、呉もそうだった。能勢電鉄で「妙見の森ケーブル」と「山下発山下行き」の体験を行った際は日生中央駅のロッテリアに短期間で2度も朝から訪れた。現在の平素の生活圏にロッテリアがないので、ちょっと不思議である

今日は外房線の主に南側を見てから北上し、千葉近辺の都会の駅にも行くつもり

最初に降り立ったのは

勝浦である

長年運行の拠点として栄える

外房線の各駅ではかなり知名度上位の駅だろう。外房観光の拠点でもあり管理駅。外房線の単独駅で管理駅は茂原と勝浦の2駅しかない。2022年の1日あたりの乗車人員は765人。うち定期利用は364人と定期外利用の方が多い。乗降1500人ということを考えると、新幹線駅でもない限り定期利用が圧倒的に多くなるはずだが、定期外の方が多いというのは、当駅の事情をよく現わしている

これまでも触れてきたように外房線の基礎は房総鉄道という私鉄による。千葉からの線路が大原まで延伸されたのは1899年(明治32)のこと。1907年に国鉄となり、しばらく経ってから工事に着手。1913年(大正2)に勝浦までが開業した。大原延伸から14年が経過していた。安房鴨川まで到達して全通となるのは1929年(昭和3)と実に16年後。地域の中心地としてまずは勝浦への延伸が優先された

そのような経緯から、かつては車両基地が置かれていた。今でこそ東京からの直通快速は上総一ノ宮までだが、25年前までは当駅まで乗り入れていた

駅前には長らく鉄道基地だった当駅を懐かしむようにSLの動輪が置かれている

その隣には

複線記念の石碑も

外房線の上総一ノ宮以南の複線については

この時記した通りである。当駅付近だと勝浦~御宿の1区間のみのわずか5・5キロが複線化されているが、1995年に同区間の複線化が行われて以降、具体的な動きはない

ひな人形がお出迎え

話は少し前後するが、改札を出て迎えてくれたのが

豪華なひな人形。これは「勝浦」という地名に基づくもの

千葉の勝浦も有名だが、和歌山の那智勝浦も知名度が高い。そして徳島県にも勝浦町がある。地名の一致は決して偶然ではなく、朝廷の儀式を司っていた斎部(忌部)氏が阿波の国に移住した後、黒潮に乗って千葉県まで進出したという説がある。和歌山の勝浦も斎部氏と関係が深いという。現在の千葉県に読みが同じ安房の国があったのも必然だった。現在、この3つの自治体は「全国勝浦ネットワーク」を結んでいて、3つの市町ではそれぞれ、ひなまつりイベントが行われている

ちなみに単なる「勝浦」は当駅。和歌山の駅は「紀伊勝浦」で徳島県の勝浦町には駅はない

だが、そんな華やかなひな人形を横目に改札付近を見ると

このような張り紙があった。訪問は12月14日だったので、この日を入れてわずか3日で、みどりの窓口は役割を終える。まさにギリギリだった

全く予想していなかった事態で、みどりの窓口と最後の対面になってしまった。今はもうないはずだ。管理駅としての機能は残るので無人駅になるわけではないが、定期利用の方が少ない観光客の多い駅でみどりの窓口なしはどうなんだろうと、ちょっと思ってしまった

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予備知識なしで石勝線の1日2・5往復の駅を訪ねる(後編)

川端駅を通過する特急

※訪問は2024年5月25日

※動画あり音声注意

気になるナゾの遺構

川端駅を降りて否が応でも目につくものがある

駅舎と逆側にある建物。駅の跨線橋から行けるようにも見える

外から見ると全容が分かる。「UNITOPIA KAWABATA」とある。印象的な客車は建物の一部なのだろう。こちらは由仁町。「ユニトピア川端」という施設でパークゴルフ場。跨線橋に登ると入口があった

だが扉はガッチリ施錠されていて入れない

由仁町のHPによると開業は1998年(平成10)。パークゴルフ場としては、かなり大規模なものだったようだが10年ほどで営業を中止している

跨線橋から眺めると分かるが、本屋の裏にもうひとつ客車がある。客車はレストランとしても利用されていたようだ。車両は人気列車として活躍したSLニセコ号のものらしい。車両=記録と記憶であるため、せめて車両だけでもきれいに保存できなかったものかと思ってしまうのは鉄オタならではの発想か

駅舎の傍らにはこのようなものもあった

一見すると何のことやら分からない。調べてみると(かなり時間がかかった)、これはダムのミニュチュアである

わずか3キロ。国交省の北海道開発局HPによると建設は1962年(昭和37)。泥炭水で悩まされてきた夕張川の治水のために大夕張ダムの下流に併せて造られたという。もちろんダムは今も現役で役割を果たしている

都会も近い

駅前には周辺地図がある。色あせた周辺案内図はローカル線の特徴でもあるが、こちらはきれいに更新されている。地図で分かる通り、道央と道東を結ぶ大動脈のひとつである国道274号は川端駅の正面で直角に曲がる。レストランや商店があるのも減速で目につきやすい場所だからかもしれない

地図には追分から北へと向かい、岩見沢へと向かう室蘭本線も描かれている。こちらが由仁町の中心部を通るのだが、同線の三川駅も比較的近い場所に描かれている。意外と近いんだな、と今後のためにも調べてみると距離にして約10キロ。とても歩こうという距離ではない。さすが北海道の地図はスケールが違うと感じた

しかし近いといえば、運賃表で分かることがあるのは新千歳空港はすぐそこだということ

千歳駅や南千歳駅、新千歳空港までは車で30分。駐車場さえ確保できれば、北海道の大動脈に乗車可能な位置にある

間に合って良かった

朽ちた遺構の話題ばかりしてきたが、前掲の地図と同様、駅前の植え込みはきちんと手入れされている。駅舎の待合室もお手洗いもきれいに清掃されていた

わずか2・5往復の時刻表にはこんな文言も

そろそろ出発の時間がやって来た

特急街道だけに駅にいると、貨物列車も交えてビュンビュン列車がやって来る

ホームは2面3線構造。かつての規模を感じさせるが、左側のレールは使用されていない。大正から昭和の初期にかけて夕張線は複線だった時代もあった。駅の前後にはスノーシェッドが備わっている。長大列車に備えた名残でホームは長い

跨線橋を降りると「乗車口はもっと前」の案内板があり、かなり歩いてようやく

乗車口がある。その先にも案内口らしい標識があるが

ということらしい。間もなく列車がやって来た。名残惜しいが、去らねばならない

1日5本のうちの1本に乗車。私一人だけ、と思っていたら、もう一人(40秒過ぎから猛然とダッシュしてやって来られます)。跨線橋から乗車口まで遠いのが、こういう時はもどかしいが、10代の方のようでスピードは抜群。何とか間に合って良かった。これを逃すと次の「最終」は5時間半後である

もうひとつの楽しみも

今の時代、特急列車を降りても何もない駅が珍しくない中、上下合わせて1日5本しか停車しない駅でハンバーグ定食をいただけるとは全く意外だった。駅ノートを拝見すると、訪問当日は休みだったお弁当屋さんも現役で営業しているようだ。ちなみにレストラン立石さんは火曜日定休だが、店主さんの体調により休業となる日がある旨が店に張り出されていた

明るい時間に川端駅訪問を行おうとすると事実上この1本となる乗車列車には、もうひとつの楽しみがある。追分駅で20分以上の長時間停車をするのだが、これは室蘭本線の上下列車との乗り継ぎのためで、1日に1回、室蘭本線の上下列車2本と合わせて普通列車同士が3本集合する備後落合状態となるのだ。眺めていて気分が盛り上がるひとときだ

11時半に千歳駅もしくは南千歳駅にいれば良いので難易度はそれほど高くはない。路線内でわずか1駅だけの普通列車しか来ない駅。訪問の価値は大いにあると思う

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予備知識なしで石勝線の1日2・5往復の駅を訪ねる(中編)

川端駅の臨時乗降口案内

※訪問は2024年5月25日

予想外の駅周辺に時間はたちまち

川端駅の列車別時刻表。「普通列車時刻表」とあるが、石勝線内を走る普通は1日にたったこれだけ。新夕張以遠は特急しか走らない。前記事でも触れたが、路線内で普通のみが停車するのは川端駅のみである。私は千歳発11時35分に乗って12時20分に川端着。13時28分で千歳方面へと戻る。これを逃すと18時58分。この日は17時40分の飛行機で帰る予定なので、間に合うとか間に合わないとかのレベルを超越している。ちなみに川端駅付近にバス路線はない。とにかく13時28分がマストである

そこまでが私が事前に得た予備知識。そんな駅前の光景は

こんな言い方をすると地元の皆さんに誠に失礼だが、かなり開けた集落がある。左手のガソリンスタンドは営業中で右手の建物は休みだったが、お弁当屋さん。車の交通量は多い。1時間あるので、とにかくミニ散策。と大通りまで出てみると

立派な商店がある。到着時間に備えコンビニでパンやドリンクを買い込んでやって来たのだが、その必要はなかったようだ。さらにその隣には

営業中のレストランも。これもまた地元の皆さんに失礼な話だが、いろいろ面食らいながら迷わず入店

ハンバーグ定食。ソースが美味しかった。この時期に北海道で定食を注文するとかなりの確率で添えられるアスパラが良いアクセントだった

ということで時間つぶしも何も30分ほどを消化。駅そのものはほとんど何も見ていないので、慌てて戻る

駅の歴史は明治期より

駅に戻る。現在は石勝線の駅だが、元々は追分から夕張を結んでいた夕張線の途中駅だった。私鉄としてスタートした夕張線の開業は1892年(明治25)と、かなり古い。日本で初めて鉄道が走ってから、わずか20年後。川端駅はその2年後の1894年に途中駅として設置された。路線の役割的にもちろん貨物輸送ず主体。木材運搬の駅として活躍した。つまり新夕張~新得の短絡線としての石勝線とは歴史も性格も異なる

新得までの石勝線開通(1981年)により石勝線に組み込まれ、新夕張~夕張は支線扱いとなったが、それでも夕張直通の列車があったため、今よりも停車本数はあった。いわゆる「攻めの廃線」で夕張支線が廃線となる約1年前の2018年2月の時刻表を見ると当駅には上り(千歳方面)6本、下り4本の停車があった。2019年の支線廃線で現在のダイヤとなり、今年3月には川端駅と並ぶ普通のみの停車だった滝ノ上駅が廃止。さらに前の2016年には東追分駅が廃止となっているため(同時期に滝ノ上~新夕張の十三里駅も廃止となっている)

駅名標はつぎはぎの隣駅表示となっている。駅ナンバリングも前述の駅については欠番である

食後のコーヒーでもといきたいところだが、意外と時間がなくなった。駅の敷地内についても見ていくことにする

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予備知識なしで石勝線の1日2・5往復の駅を訪ねる(前編)

川端駅の駅名標

※訪問は2024年5月25日

複線電化区間の2面4線高架駅で待つ単行キハ150

時刻は11時過ぎ

千歳駅の改札に私はいた。千歳駅といえば、千歳線の名称にもなった主要駅のひとつで、JR北海道のドル箱である快速エアポートをはじめ、新千歳空港には行かず苫小牧に向かう電車の始発着駅としても多くの電車が行き交う

時刻表もビッシリ書き込まれているが、右端の追分方面については随分と寂しい。またよく見ると、1日6本の列車があるが、うち4本は追分行きで、追分より先に向かう新夕張行きは2本しかない。最初の写真で分かる通り、その2本のうちの1本、11時35分発の新夕張行きに乗車する

JR北海道ならではのキハ150が既に待っていた。待っていたというよりも、約1時間前に追分からやって来た列車が折り返しを待っていたのだろう。いずれにせよ複線電化区間の高架駅で単行気動車は目立つ。ちなみに停車位置は随分と札幌寄りだが、エスカレーターに最も近い場所が選ばれているようだ

予想より多い利用者

これから目指すのは追分のひとつ先にある川端。千歳の隣駅である南千歳から分岐した石勝線は、追分での室蘭本線との交差を経て新得から帯広を目指す。札幌から帯広への短絡線として敷設された石勝線(新夕張までは事情が異なるが次回の記事で)は、山深い所を通るのと廃駅のため、約130キロにも及ぶ路線ながら、単独駅は川端、新夕張、占冠、トマムの4駅しかない。そしてここからは有名だが新夕張~新得は特急しか走らないため、乗車券のみの利用が可能。また川端以外は追分を含め特急停車駅となっているため、普通のみ停車の駅は川端しかない。つまり千歳から川端に行く手段は1日2本の普通のみ

今回は、その川端駅を訪問する。ただしダイヤ上、現地で1時間ほどの滞在時間があり、時間帯も昼間ということで事前の予習はなしで訪れることにした。滞在15分しかない日豊本線の宗太郎駅とは、このあたりの事情が異なる

列車は定刻通り出発。その時点で12人の乗車があった。意外と多い。さらに南千歳で6人が加わる。この日は土曜日。見渡した感じでは同業者(鉄道ファン)もそれほどいないようには見える。いずれにせよ親子連れ2組を含む18人とは私の予想をはるかに上回る利用者だ

しかし非電化区間の最初の駅である追分で、このうち13人が下車。大量の下車に驚いた。この時間帯は室蘭本線との接続が上下ともないはずなのに何故?と思ったが、この日は土曜日。車内の親子会話を聞いていると「あびらD51ステーション」を目指す人々が多かったようだ

そしてようやく目的地の川端に到着。到着といっても南千歳~追分は約7キロ、追分~川端は約10キロもある上、途中の信号場での長い停車を含めると45分もの時間が経過していた

支度して降りようとすると川端駅では残った乗客5人のうち3人が下車。てっきり私だけだと思っていたが、ちょっと違って面食らう。しかも同業者なし。つまり新夕張まで行く人は2人しかいなかったということだ

川端駅の時刻表。1日2・5往復となかなか見事。北海道の駅では最も停車列車が少ない

コンクリート駅舎は国鉄末期のものとされる。その頃にはすでに無人化されていたはず

駅舎内は広いが椅子が隅っこに4人分と控えめである。それだけに私以外に2人の下車があったことにちょっと驚いたのだが、駅前はというと

あれ?意外と規模の大きな集落だ

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