きっぷ

福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~分かっていたこととはいえ…目の当たりにした新駅舎

駅家駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

ついに徒歩移動の時

福山を朝の8時に出発したころは、まだ本数の多い時間帯だったが、万能倉駅に到着した9時半には1時間に1本の昼ダイヤと、ついに1時間に1本の時間帯に入ってしまった。ということで、ここはやむを得ない。お隣の駅家まで徒歩移動である

とはいっても、大騒ぎするほどのものではない

この区間は線路とほぼ並行に県道が走っていて、しかもほぼ平坦。駅間徒歩移動というより散歩レベルである。面倒なのは朝の三原駅から降っている雨だが、この時間帯は小降りになってきた。過去何度か書いているが、徒歩に適した気候は気温10度、風雨なしだと確信している。気温は適正でも風が強いと体感温度は下がるし、雨はどちらかというと論外である

ということで歩を進める。住宅街の道路なので足下は確か。心配は泥はねだけ

しばらく歩くと商業施設が目立つようになり、駅が近いことを感じる

5年前との違いをかみしめる

そして到着した駅家駅。ご覧の通り「簡易」とは言わないが「簡易的」駅舎である。しかも新しい。当駅は約4年前の2019年12月にも訪れているが、その時の写真がこちら

お分かりだろうが、大正期の開業時(1914年)以来の駅舎がサイズもほぼそのままで残っていた。さらに言うと有人駅だった。2020年に無人化され、翌年に旧駅舎は解体されている

駅名はかつての駅家町に基づく。鉄道が通った時には駅家村。1975年に福山市となり、駅家町は消滅しているが、大昔からあった地名ではない。前記事で紹介した万能倉村などが合併して新しい村が誕生した際、駅家という村名が誕生した。旧山陽道の宿場があつたことで名付けられた

関西弁なら叫び声だが

関西の人間が駅を見つけたら「駅や駅!」と叫んでしまう駅名として広まったこともあるが、この駅家という町名はよく考えられたものだと今にして思う

「駅」という言葉の意味を知らない人は日本にまずいないだろう。ただ日本に鉄道が導入された時は事情が異なっていた。「station」を日本語(和訳)する際、どういう言葉が適切かと検討された結果「停車場」が採用されたが、それまでの宿場の呼び名のひとつでだった「駅」の代わりになるものとしてstationに人が集まるようになったため、次第に元々の駅(宿場)はさびれ、いつの間にかstationが駅と呼ばれるようになり、一般への認知度では停車場を上回るようになった。その後、お上の方で2つの言葉の棲み分けがされ、鉄道用語には停車場は残っているものの、駅を含め「列車が停まる場所」という広い意味となっていて、日常会話に出てくることはなくなっている。

では「駅」とは何かというと、律令時代に設けられた街道の施設のことで、ここには馬と厩舎のほかにも休憩所や宿が設けられていた。だから人も集まる。「駅家」とも呼ばれた。文字に馬ヘンが入るゆえんである。だから「駅」という言葉は日本に鉄道が導入されるより千年以上も前からある由緒ある言葉なのだ。逆に言うと鉄道関連以外で「駅」を使う言葉は日常的にほぼない。だから自治体名や駅名となって残っているのは意義がある

現在の駅舎は

現在の駅名板も由緒ある言葉に敬意を表していたおしゃれなものとなっている

こちらはホーム側から見た駅舎。正面からのものも含めレンガでアクセントを出している。路線内の他の簡易的な駅舎とはほんの少し違う

もっとも駅舎内に窓口というものはなく、風の通り道としては吹き抜けだ

こちらは2019年12月に改札内から撮ったもの。姿は見えないが、在席の駅員さんが対応すべく改札口は開いている

湯田村、万能倉そして駅家と3駅訪問してきたが、いずれも由来を考えるだけで興味が尽きない駅だと思う

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~超難読駅は開業時からの駅舎が残る貴重な存在

万能倉駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

両隣も全く漢字が浮かばない

万能倉駅に到着。狭いホームでの列車交換が行われると平日の9時半というラッシュ終了後の時間帯でもホームは人があふれる

さてサムネにも使用した駅名標の写真をあえてもう1度使用する

当駅もそうだが既出の「みちのうえ」そして「えきや」。初見で3駅を漢字で書ける人は、まずいないだろう。当駅は、かつてあった万能倉村に基づく。ただし駅が開業した1914年(大正3)には周辺の複数の村と合併して駅家村(駅名標の行先のひとつはこう書く)となっていた。ただ駅家村の誕生は1913年と駅が設置される1年前なので、すでに駅名は決まっていたのかもしれない。駅の所在地は今も福山市大字万能倉で地名として残る

かつての山陽道の宿に近く、多くの倉庫があったことが地名の由来ともされる。またこれは駅家の由来にも通じるものがあるのだが、馬の鞍を作る場所があり「ウマノクラ」がなまって「マナグラ」になったという説もあるという。いずれにせよ超難読であることは間違いない。そもそも最後の「倉」が「グラ」と濁音付きになるのが難読に輪をかけている。かくいう私も、今こうして記事を書くまでは「マナクラ」だと思い込んでいて「えっ?」となった次第

開業時からの駅舎

駅舎それも簡易的ではない古いものが残る。規模は小さくなり、手も入っているが、原型は開業時からのものだろう。これは福塩南線においては重要なことで、沿線には古い駅舎がほとんど残っていないのである。というか、ちゃんとした駅舎を見かけることが少ない。そもそも駅舎があったのか、いつ解体されたのかも調べても分からない駅が多い。その中で当駅については10年以上前に無人化されながら、現在もそのままである

改札は消えたが、窓口の跡もしっかり残る

ひとつの要因として、当駅折り返しの列車が設定されていたことがあるのかもしれない。1日に1本、福山をお昼の13時台に出て当駅が終着、15分ほど待機した後に福山行きとして折り返す電車があったが、2021年秋のダイヤ改正で消滅した。湯田村駅の項でも触れたが、現在の福塩南線は1日3往復の井原鉄道直通乗り入れ以外の電車はすべて福山~府中の運行で、区間運転はない。福山を13時台に出る府中行きはないので注意が必要である(井原鉄道乗り入れが1本あるので神辺までは行くことができる)

大正期からの息吹を難読の駅名と合わせて伝える万能倉駅。勝手な考えかもしれないが、難読駅には古い駅舎が似合う気がする。ただ沿線内の様子を眺めていくと駅舎がこのままの姿で残る可能性は小さい気がしてならない。早いうちに木造駅舎の入口に乗っかる「万能倉 MANAGURA STATION」の文字を見つめにいってほしい

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~情緒ある踏切をまたいでの参拝

湯田村駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

わずか900メートル

道上駅から湯田村駅に到着。福山を出て神辺を過ぎ道上まで行って1駅戻ったことになる。既に1時間に1本の運行時間に入りつつあり、呉線もそうだったが、効率良く回るには行って戻ってを繰り返すことになる

もっとも軽便鉄道をルーツとする福塩南線の特徴は駅間が短いことで、道上から湯田村までの線路は900メートルしかない

線路と並行して道路があるわけではないが、それでも15分歩けば到着してしまう距離。福塩南線訪問にあたり「時刻表も確認せずに出発」と記したが、時刻表の空き時間が多ければ歩いてしまえばいい区間だらけだからだ。ただ「降り鉄」を名乗るからには、できるだけ「乗降」の両方をこなしたいのが性(さが)というもの。せっかくの青春18きっぷである。ここは900メートルをありがたく乗らせていただくことにする

3つの村が集まった湯田村

湯田村は旧神辺町の中心駅である神辺の隣駅。ここからICOCA非対応区間となるが、福塩南線は神辺から分岐する形となっている井原鉄道と相互乗り入れの1日3往復を除くと、すべての列車が福山~府中の運行で途中区間の運行はないため列車本数は変わらない

訪問時は工事中だったが単式ホームと待合所のみの構造

裏側にベンチがある

歴史を振り返ると昭和40年代に無人化されたらしいので、当時は駅舎があったとも思われ、ホーム屋根の形を見ると島式ホームだった雰囲気もあるが、判然としなかった

工事をのぞいてみると簡易駅舎の建築中のようだ。現在は完成していると思われる。駅入口の階段に設けられそうな屋根の骨組みが木製だったので完成形が気になるところだ

駅名は旧湯田村に基づく。駅の住所は「福山市神辺町德田(字)」。明治の町村制施行の際「湯野村」「德田村」「箱田村」が合併。3つの村名を合わせ湯田村とした。1954年(昭和29)に神辺町となった。駅の開業は1914年(大正3)

ちなみに「湯野駅」は現在、井原鉄道に存在する。神辺のひとつお隣。こちらは平成になって開業した駅だが、かつて神辺~井原を結んでいた井笠鉄道にも湯野駅が存在した。話の本筋からやや離れるが、福塩南線を敷設した両備軽便鉄道は「両備」の会社名で分かる通り、備後と備中を結ぶためのもので、井笠鉄道の前身も両備軽便鉄道である。湯野駅の開業は1922年だが工事はかなり前に始まっていて、すでに湯野駅は計画にあったとみられる。箱田も駅から比較的近く、駅名を地名通り德田ではなく「湯田村」としたことに苦労の跡がみられる

ホームからの気になる景色

ホームに立つとお寺が見える。駅舎と逆側にあり、車が入っていくところが見えたが踏切と直結しているようでもある。これは気になる。見に行こう

お寺は賽泉寺。グーグル地図も参道入口からの徒歩コースを指南してくれる

奥に境内が、その手前に踏切が見える

歩を進めると踏切とお寺の入口が見えてくる

名前は、そのまま寺前踏切。湯田村駅の構内扱いになっているようだ。寺社の参拝道や入口前を線路が通っている例は全国に数あるが、どうやっても「勝手踏切」でしか行けない場所も見たことがある。地元では暗黙の了解での参拝となっているようだが、不法を助長することになりかねないので紹介は控えている。ただもちろん、ここは堂々と参拝することができる。踏切と寺社のコントラストって絵になりますね

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~これは貴重なホームからの眺め

道上駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

ICOCA圏外の最初の駅

道上駅に到着。神辺駅から北へ2駅。ICOCAは福山~神辺のわずか3区間のみでしか利用できないので圏外となっている。ただ福塩南線の各駅は1日の利用者が千人を超える駅が14駅中7駅もあり(福山のぞく)、これは2021年とコロナ禍での数字なので、その後は増えている可能性が高い。前記事で述べたように2007年に神辺までがIC乗車対応となってから17年もエリアが広がっていないのが不思議なぐらいだ。IC非対応ということでワンマン電車での運行の際は運転士さんの仕事も増える。道上駅の1日の利用者も1088人で私の訪問時は朝の9時だったが、後に福山方面への電車に乗ろうとするとホームには多くの人が立っていた

当駅は単式ホーム。写真にあるホーム柵と駐輪場の間のスペースは貨物ヤード跡のようである

駅舎といえるものはなく、待合所があるのみ。備後本庄と横尾はICOCA導入で形が変わったが、これが福塩南線の標準形である。国鉄時代、早々に無人化されているので、かつての駅舎についての情報は分からなかった。道路とホームの高低はあまりなく、短いスロープから直接ホームに入る

こちらが駅の全景。踏切の傍らに狭い駅前+ホームという私鉄駅のような風情が残る

元々は道上村

読みは「みちのうえ」。「の」が入るのがポイントで意外と難読。開業は福塩南線の多くの駅と同様に1914年(大正3)と古い。現在は福山市だが、平成の大合併までは神辺町。さらにさかのぼると駅の設置時は道上村だった。1954年(昭和29)に神辺町となっている

周辺には住宅街が広がっていて、駅の所在地は「福山市神辺町字道上」だが、少なくとも「村」の雰囲気はない。1日の利用者が千人を超えるのも納得できる

ビックリの発見に心躍る

各駅訪問のため、ここで福山行きの列車で折り返す。ホームに人も増えてきたので、私もそろそろ…とホームに戻ってぼんやりしていると

先ほどの踏切方面で何やら発見

こ、これは…

「国鉄旅行連絡所」の文字が残っている

国鉄旅行といえば

芸備線の市岡駅で看板がはがされていたことに衝撃を受けたことを記事にした。時系列的には、ここ道上駅が1月、市岡駅が4月なので道上駅が先なので、道後山駅(芸備線)、市岡駅に次ぐ3駅目の「国鉄旅行」の文字発見に大いに心躍り、3カ月後に市岡でガッカリすることになる(道後山の現状は不明)。しかし市岡駅の記事でも述べたように国鉄旅行の連絡所が何をする所なのかは国鉄を20代前半まで利用した私にも分からない。ただ現在は閉店しているこの駅前店舗では一時きっぷの委託販売をしていたようだ

道後山駅の訪問(乗降)は難易度が高いが、道上駅は福山から20分で行けて昼間でも電車の本数は1時間に1本は確保されているので、いつまで残るのか分からない貴重な看板を見に行ってほしい。もっとも看板を近くで撮影しようとすると、明らかに私有地の中となるので撮影はホームからということだけは厳守である

それが「思いやりの駅」にふさわしい行動だと思う

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~利用者数にホーム幅が追いつかず増設

横尾駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

あえて混雑時を狙った結果

横尾駅で下車。ご覧の通り高校生の通学時間と重なり、ホームはあふれんばかり。電車内も一斉にガラガラになってしまった。写真を見れば分かるが、ホームの片側には柵があり、その向こうにも電車が停まっている。これは福山行きの電車で福塩線は全線が単線のため、列車交換可能駅の当駅では同時刻の列車到着が見られる

もちろんすれ違いを行った両方の電車に生徒さんは乗っていて電車が去った後も改札方面へと向かう人の波は終わらない

ようやく波が終わろうとしている時の跨線橋からの様子。ホーム構造は変則2面2線で右側のホームは島式としても使えそうだが、前述した通り柵があって使えない。というか、あまりにも不自然な形である。どう見ても島式1面2線構造に後から駅舎側にホームを新設したとしか思えない

その証拠に

柵の向こうに福山方面への乗車口が今も残っている。柵があって間違うこともないからか、消されていない。今回は混雑ぶりを見るため、あえてこの時間帯を狙ってみた

IC乗車は当駅のため?

横尾駅は1914年(大正3)に福塩南線の前身となる両備軽便鉄道が開業した際に設置された。現在は福山市郊外の住宅地となっていて利用者は多く、2021年の1日の利用者(乗降客)は1538人。福塩線では神辺駅、府中駅に次ぐ第3位(福山駅のぞく)。それを支えるのが高校野球の強豪校としても知られる盈進中学高等学校への通学利用

駅から見ると山の上に学校がある形となっている。学校のHPによると徒歩15分。利用者数は第3位と記したが、井原鉄道との乗換駅である神辺が2068人で、やや突き抜けているものの府中は1544人で横尾とは6人しか変わらない。コロナ禍で大きな影響を受けていたのが学校生活だということを考えると再び逆転している可能性が高い

前記事の備後本庄駅の紹介でレールがはがされ棒状化されたホームを紹介したが、それは列車交換の設備を横尾へ移動させたためである(正式には復活)。通学時に多くの利用があって、どうせ長めの停車を強いられるのなら、すれ違いの駅にしようという考えに基づくものとも思われるが、単式ホーム幅のまま島式ホームにした結果、人の多さでホームが狭すぎ危険な状態となったため、新たにホームが新設された

福塩線では福山~神辺がIC乗車可能区間となっているが、対象となる駅は備後本庄、横尾、神辺のわずか3駅のみ。利用者の多い駅を対象にしたとも言えるが、同時刻に集まる生徒さんを一斉にさばくための措置でもあるようだ。この区間がIC乗車可能になったのは2007年のことだが、それ以降17年が経ってもICエリアは広がっていない

簡素な駅舎からの車窓に注目

駅舎は簡素なものである。元々あった開業時からの駅舎はJR移管後に解体されて待合所のみの駅となったが、後に備後本庄と同じく少し駅舎ぽく改良された

こちらもJR西日本の駅でよく見かける簡易式の自動改札機を設置するにあたって自然から改札機を守るためのものだろう

さて前記事で横尾~福山で線路の付け替えが行われ、現在の線形になった話をしたが、そのため横尾~備後本庄は福塩南線では最長の4・3キロもある。2位が横尾~神辺の2・3キロなので、かなり長い。線路を市街地から川沿いにしたための現象だが、比較的住宅街を走る福塩南線で車窓が楽しめる区間なので乗車の際は、ぜひ注目してほしい

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~化粧直しもされた国鉄時代からの駅名標があまりにも有名

備後本庄駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

逆向き発車に驚くかも

乗車列車は井原鉄道のアート列車だが、私は1駅目の備後本庄で下車した

初めて福山から福塩線に乗ると自分のイメージした方向とは逆に発車するので驚くかもしれないが、それもそのはずで福山を離れた線路はグルリと迂回するかのように進んでいく

福山を離れると間もなく備後本庄に到着するが、その後は芦田川に沿うように北上し、横尾駅へと至る。実に不自然な線路の進み方となっているが、これは開業してしばらく経過してから線路の付け替えが行われたため

福塩南線の福山~府中は両備鉄道という私鉄が軽便鉄道として敷設したもの。開業は1914年(大正3)なので110年もの時を刻んでいる。業績は好調だったようで、昭和の声を聞いた1927年(昭和2)には同社の手により電化されている

その後、国有化して福山と三次をつなげようということになり1933年に国有化。現在の塩町から府中を目指して南下しながら部分開業していったが、すでにあった福塩南線は線路幅762ミリのナローゲージで、そのままでいいはずがない。国鉄と同じ1067ミリへと改軌される。しかしその際に元の線形が問題となった。地図を見れば一目瞭然だが、以前は横尾駅から現在は国道313号となったルートで福山を目指し、市街地に入ったらグイッと西向きに進んで現在の福山駅の北あたりで南下。福山城の堀を埋めて両備福山という始終着の駅が設けられていた

ただこれはあくまで小回りの効くナローゲージならではの線形で、1067ミリの車両は対応できないということとなり現在のルートが新たに敷設された。1935年のことだ。両備福山は廃止され、福塩線は既存の福山駅に入居。しばらく福山~横尾に駅は設けられなかったが、戦時色の強くなった1940年に備後本庄駅が新設開業した。福塩南線の他駅はすべて大正生まれで、当駅が唯一の昭和生まれである

片方だけ残るホームと線路

駅舎は簡素な造りのもの。開業時からの木造駅舎は1990年代に解体され待合所のみとホームのみの駅となったが、ICOCA導入の2007年に入口が設けられて駅舎ぼくなった

対面式だったホームは片方の線路がはがされ廃ホームのみが残るが、ここには貴重なものが残されている

国鉄時代の駅名標。独特の字体で鉄道ファンには有名である。行ったことはないが駅名標の存在は知っているという人も多いのではないだろうか。しかも歳月を重ねると塗装がはがれて読めなくなっていくものだが、明らかに化粧直しの「更新」が行われている。貴重さが認められているということだろう。福塩南線というのは、なかなか興味深い一面を持っていて、線路がはがされ棒状ホームになった駅があると思うと、その一方で利用者の増加対策で新たにホームができた駅もある。また国鉄時代の旧駅名標が残る駅は他にもあるのだが、こちらはあまり話題になっていない

そんな福塩南線を進んでいきます

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~南線の時刻表は確認せずとも

福山駅始発の井原鉄道はアート列車だった

※訪問は2024年1月10日

スタートは1区間のみ運行の電車

年明け早々に呉線の全駅訪問を終えて三原に宿泊

朝のまだ暗い三原駅-と言っても、真冬の西国の朝は遅めですでに7時を回っている

7時22分三原始発の糸原行きという1区間のみ運行の電車に乗車。乗ったら3分で終点となってしまうが、糸崎には多数の留置線と乗務員のための列車区があるため、この運用はかなり多い。糸崎始発の岡山方面行きにすぐ乗り継ぎできるようになっている。ちなみにこの後すぐ出るのは同じく三原始発だが相生行き。こちらは通勤通学のラッシュを挟んで3時間もの電車旅を楽しめるというか、修行ができる18きっぱー向けの乗り物である

その青春18きっぷは本日が最終日。いつも最後の方でバタバタと使い切ることを繰り返しているが、最後は福塩南線の全駅訪問を行って帰宅の予定である

福塩南線とは

まず最初に触れると「福塩南線」という路線はない。戦前には正式路線としての名称があったが、福山と塩町(ともに広島県)の78キロを結ぶ福塩線が正式な路線名。ただ電化と非電化、本数、駅間距離そして何より利用者があまりに異なりすぎて福山~府中23キロの戦前の名称が今も通称として使われている。簡単言うと私鉄に源流を持ち電化されている福塩南線と国鉄が敷設した非電化の福塩北線という構図。鉄オタ界隈では府中以北の福塩北線55キロの方が人気が高く、かくいう私も福塩南線は過去何度も利用しながら、いつでも行けるだろうと先送りを繰り返し、降りた途中駅はわずか。せっかくここまで来たのだから、今日は全駅訪問を目指すことにした。といっても朝から動けば大丈夫だろうと正直な話、時刻表もロクに見ていない。23キロの間には14もの駅があり(福山のぞく)、10時ごろから1時間に1本の運行になってしまうが、朝からの雨が気になるものの、まず問題ないだろう。その理由は今後述べていく

ただ14駅といっても過去に複数訪れたことのある

神辺駅

新市駅

府中駅は今回はパスすることにした。ということで残る11駅なので、さらに負担は減る。もっともこれも今後の記事内で述べていくことになるが、思いつきのように各駅訪問ができる福塩南線に対し、福塩北線の各駅訪問には「綿密な計画」と「根性」が必要である

今冬の18きっぷ最初で最後の気動車

福山駅のホームで待っていたのは井原鉄道直通の列車。井原鉄道は神辺からの第三セクターだが、1日3往復が福塩線乗り入れで運行されている。午前中の乗り入れ列車はこの1本のみ。偶然ながら貴重な1本に乗れたことになる。今冬の18きっぷ利用は外房線×2、東海道本線、呉線で使用。福塩南線も電化路線なので電車のみの利用となるのかと思っていたら、最初で最後の気動車に乗車できることになった

さらに幸運なことに乗車列車は2両編成で先頭部分が

アート列車だった。井原鉄道HPでアート列車の運行時刻が公開されていて連日福山までやって来るものではないらしいので超幸運

切手をコンセプトにしたもので、これでは車窓が見えないのでは、と思ってしまうが現実にはそんなことはない。また内装も素晴らしいので、ぜひ味わってほしいのだが、いかんせん車両はほぼ女子高校生専用のようになっていて、これでは写真は撮れない(笑)。内装も外装も井原鉄道HPでパノラマ的に見ることができる。何よりぜひ乗車してほしい

ということで、かなり得した気分になって福山を出発である

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(後編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

80段の階段を利用

階段の途中には殺風景さを避けるため、絵画などが飾られている。その数80段。天空の駅として知られた三江線の宇都井駅(島根県)がバリアフリーなしの116段だったので、同様の80段もかなりの高さだと言える

階段を降りきると券売機はここにあり、ホーム改札部分と同様に時刻表が設置されている。待つにはそれほど困らない本数はあるが、昇りきった後にしばらく電車が来ない絶望感を味わうのを防ぐ意味でも、階段の上下に時刻表を置くのは良いことだと思う

見上げるとこんな感じ。まず高台への階段を昇ると券売機の場所に到達して、そこからはビルの階段を昇る形でホームへと上がる

前掲は裏側から見た方が分かりやすい

駅前には土俵?

駅前には国道201号が走り「山手」の交差点がある。朝の時間帯なので営業については分からなかったが、民家は少ない。公民館があり

これはおそらく土俵だろう。最近は見る機会が少なくなったが、小学校や公共施設には土俵が置かれていたものだ

駅周辺の地図があり、こちらを見ても山中の駅だということが分かる

篠栗線の歴史に起因

2022年の駅利用者は「データなし」となっている。公表されているコロナ禍前のものが約100人なので現在はさらに少なくなっていると想像できるが、電化されていて本数も多く、IC乗車もできる路線になぜこのような天空の駅ができたのかについては篠栗線の歴史をひもとく必要がある

篠栗線の歴史は古く、開業は1904年の明治37年で今年で120歳を迎えた。なぜこのような長い歴史を持つかと石炭輸送のためである。元々は同じく炭鉱で栄えた飯塚への短絡線として計画された。ただし開業時は吉塚から篠栗まで。なぜかというと篠栗から飯塚(桂川)方面には交通の難所である八木山峠があったためだ

鉄道図でなく道路図で示すと分かりやすい。現在は筑前山手駅ホームから見える八木山バイパスの一本道だが、筑前山手駅前を通る旧道を見るとクネクネが連続するつづら折りとなっている。道路でこれなので鉄道工事となると、さらに難所で筑前山手駅を含む篠栗~桂川の開業は1968年(昭和43)。短絡線としての計画から60年以上が経過し、石炭産業は曲がり角を迎えていた。全通から20年も経たない国鉄時代に篠栗線の貨物輸送は廃止される

転機が訪れたのはJR移管以降。博多への通勤通学圏として注目されるようになり、博多~吉塚に独立した線路が敷かれたことで、すべての列車が博多まで直通。篠栗までの間に3つもの新駅が設置され、やがて電化。沿線はマンションが建ち並ぶ住宅街となった。新駅設置で駅間が短いにもかかわらず、篠栗までの各駅の利用者はいずれも1000~4000人である。飯塚の事実上の中心駅である新飯塚から博多までは快速で50分で結ばれている

電化時には利用者増に備えるため、各駅で列車交換可能な構造への改良工事が行われたが、唯一そうならなかったのが、構造的に無理な筑前山手駅だった

駅近くには篠栗四国八十八箇所の第五十二番札所がある。山手地区には6つの札所があるようだ

ホームからの階段に篠栗町立篠栗小学校萩尾分校の紹介もあった。当駅からも車で10分かかる分校は、同校のHPによると開設は1883年(明治16)で現在の児童数は10人だという。過去の学校日記も公開されていてホームでの電車待ちの間、楽しく読んでしまった

トンネルから出てくる電車を待つ。わずか3キロしか離れていない、お隣の篠栗駅の利用者は4000人を超える。これからの盛夏に80段の大変かもしれないが、アクセス容易なパノラマ駅は、旅のお供にぜひ加えてほしい

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(前編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

「山手」のイメージとは

「山手」という地名から何をイメージするだろうか。鉄オタ的感覚は別として一般的に思い浮かぶのは高台にある住宅街だろう。高級住宅街に代表されるようなかなり古い地名もあるし、新たに造成されたニュータウンのような場所もある

鉄道的には山手線(やまのてせん)を知らない人は日本中で探しても、かなり少数派だろう。こちらは大都会を支える東京の基幹路線となっている。駅名を見ると有名度は地域によって異なるかもしれないが「山手」(根岸線)、「松井山手」(片町線)、「甲南山手」(東海道本線)と、いずれも住宅街の駅。共通して言えるのは戦後にできた新しい駅だということ

という認識のもと、今回降り立ったのは福岡県の篠栗線にある筑前山手駅である。開業は1968年(昭和43)と、こちらも戦後生まれの駅という共通項がある

先に駅の運賃表を見てみよう

博多から7駅の篠栗線の駅。篠栗線は福岡の最中心部である博多から1駅の吉塚から分岐する路線だが、筑前山手を発着する電車はすべて博多まで直通する。所要時間は25分、運賃380円とアクセスも良い

篠栗線には快速が走っていて当駅は通過するが、それでも全く困らない本数は確保されている

待っていたのは眺めの良すぎる棒状駅

ということで到着。見て分かる通り棒状ホームだ。この日は博多とは逆側からの訪問となったので電車は博多行き。これだけで雰囲気は分かりそうなものだが、電車が過ぎ去った後のホームからの景色は

山と高規格の自動車専用道が見えるのみ。逆側を見ると

山あいののどかな風景を見下ろすことができる

横浜の山手駅は一度しか訪れたことはないが、神戸の甲南山手駅はご近所だし、京都府の松井山手駅は仕事の関係で何度も訪れたことがある。いずれにせよ、この3駅とは随分と異なるようだ。少なくとも住宅街ではない

写真で分かる通り、ホームはかなり高いところにある。まずは下まで行かなければならない

ホームの真ん中あたりに「改札」があるが、ICリーダーと運賃表、時刻表があるだけの無人駅である。エスカレーターやエレベーターといったバリアフリーはないようだ

かなりの段数になりそうだが、ウサギさんに見送られて階段を降りていくことにする。といっても必ずまた昇ってこなければならないのだけど

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師走の外房線各駅訪問~千葉市内に戻って終了 早くも発表された「秋」のダイヤ改正

鎌取駅の駅名標

※訪問は2024年12月14日

3駅まとめて紹介

鵜原から上総一ノ宮で乗り換え、大網を越え

土気駅まで戻ってきた

ここから千葉市に入り、1日の利用者が万単位の駅が続くので3駅まとめて紹介したい

そして誉田駅

こうして見ると「とけ」「ほんだ」と意外と難読駅であることに気付く

そして鎌取駅

過去に大網と本千葉は訪問済みなので、外房線は全駅完了となった

難読とした土気、誉田(開業時は野田)は1896年の房総鉄道が蘇我~大網で開業した時からの明治29年生まれなので、歴史的には外房線の原点でもある。駅ができた時は、それぞれ誉田村、土気本郷町だったので周辺の景色が今とはまるで異なるものだったことは想像に難くない。いずれも千葉市となったのは戦後10年、20年が経過してから

鎌取駅については戦後の1952年(昭和27)の開業だが、宅地開発も進み、今では1日の利用者が3万人を超える外房線では千葉、蘇我に次ぐ第3位の駅となっているので、単独駅としては1位の駅となった

ひらがなの駅名標が目を引く。当駅は島式の1面2線構造で朝のラッシュ時は人があふれかえって危ないと、当駅停車の本数を増やすことになったが、折り返し可能な構造ではないので隣の誉田折り返しの電車が登場している。また土気には東京方面への通勤用として朝夕の一部特急が停車するほか、誉田では列車の増結や切り離し作業が行われる

早々に秋のダイヤ改正を予告

外房線、内房線沿線から東京へと直通する朝の通勤快速廃止が発表されたのは私が外房線の各駅訪問を終えた直後。途端に県知事をはじめ。沿線各自治体の首長から猛烈な反発が起きた。全国ニュースでも取り上げられるほどで、結局は朝の快速を2本復活させることになった。線路や駅には容量があり、一度引いたスジを改めて引き直すのは容易ではないので、いったん発表したものを引っ込めて引き直すのは異例のこと

それでも反発は収まらないため、JR東日本では5月30日に9月1日からのダイヤ改正を改めて発表。それによると朝と夜に内房線、外房線に直通する普通4本を快速に変更するという。内房線、外房線それぞれ2本ずつの変更で、朝の始発駅は内房線は上総湊、外房線は上総一ノ宮である。3月以前の勝浦からの直通復活は実現しなかったが、自治体の要望を受け入れ、早々に「再々改正」に応じたことになる。ただし、これでもまだ火種は残っている状態で沿線からは不満の声があがる。「首都圏」が拡大しすぎて通勤通学が遠距離になった反面、コロナ禍で鉄道利用者が一時的に減少したことのひずみだともいえる

千葉から100キロに満たない外房線。1年前の内房線と合わせ、房総半島の各駅を回ってみた。当然ながら千葉から離れていくにつれ、幹線ではあるものの、ローカル線感が強くなっていく感覚は東京から1時間半で味わえるのは、なかなか貴重だ。また京葉線のダイヤを巡る沿線自治体の反発とは逆に外房線の各駅もバスとの競合は避けられなくなっている。安房小湊駅の記事で、小湊鉄道の目的地だったにもかかわらず、同社のバスはずっとやって来なかったと記したが、2013年に駅へと乗り入れたバスは東京行きの長距離バスである

その一方で古典的な木造駅舎も貴重な景色として残り、地元の方々に大切に使われている場面に出会える。また行川アイランドのような別の歴史にも触れられる。東京からは十分に日帰り圏内なので、ぜひ興味がわく駅や地域があれば、訪れてほしい路線である

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