JR

延岡~宗太郎の5駅完了~その2 5駅の中で最も規模の大きい周辺を持つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

キーワードは「細」

北川駅に到着

位置はこちら。佐伯まで950円もすることで、かなり距離があることが分かる

時刻表はもう「定番」となってしまったが、1日1・5往復。つまり大分県側から列車で朝の7時過ぎに降り立つと、先に行く列車はなく、その時間が「始発にして終電」。折り返し電車も13時間以上後の20時22分なので駅周辺に夜まで過ごすような訪問先がない限り、事実上折り返しはないことになる。私は6時25分着でやって来て7時8分で延岡に戻る

ホームは島式で見て分かるように非常に細い。跨線橋も同様で

こちらは後に列車の到着間際になってのものだが、外に出る跨線橋も細い。大人同士のすれ違いも困難な幅で、上下列車が同時刻に停車したら、ホーム内での乗降も大変そうだが、そのような電車の設定は今はなく、1日の利用者数は近年のデータは発表されていないが、おそらく10人を割り込んでいると思われる(私が利用したのは平日だったが、1・5往復のうち1往復を利用し、私以外の乗降客は1人だった)

旧北川町の代表駅

延岡~宗太郎の各駅は停車列車の本数はさることながら、特急の本数は多く列車交換に伴う運転停車のため、各駅ともすれ違い可能な構造となっていて、比較的ゆったりとした構造となっているが、北川だけは頑張って設置した構造となっている。この区間は大正期の宗太郎越えなった頃からの駅と戦後の駅に区分されるが、市棚と日向長井が戦前から、北川と北延岡が戦後の駅。宗太郎は戦前は信号場で戦後になって駅に昇格した

北川については旧北川村(後に北川町となって現在は延岡市)の中心部に近いということで駅が求められ、1949年(昭和24)に市棚と日向長井の間に設置された経緯があり、このような構造となっている

40分ほど時間があるので中心地方面へと歩を進める

駅を出て川を挟んだ向こうが北川町の中心部

川向こうとは言っても駅を出るとすぐ立派な橋があり中心部へと到達する。地図で分かる通り、徒歩5分

朝もやに包まれ良い風情だ。橋を渡った所に旧北川町役場の延岡市役所北川町総合支所がある。平成の大合併で2007年に延岡市となった

駅舎は消滅

再び駅へと戻る

橋の方から駅を眺めると駅舎があって跨線橋があるように見えるが、近づいてみるとこれは違う。駅を出てその前を通ってからこちらにいるので既に答えは出ているのだが

北川地区の水道を司る水源地の建物のようで鉄条網で厳重に守られている

駅前には立派なお手洗いがあり、市棚駅同様、私は大いに助けられた。しかし建物は2つもあるが駅舎はない。開業時からの駅舎は平成になってから解体されたという

そしてお手洗い前の地面で分かる通り、駅前はアスファルトの部分が少なく

駅から外に出る道路は車の轍が水たまりになっていて一瞬途方にくれそうになったが、水源地の建物の隣に小さな階段があって事なきを得た

川からの朝もやは写真としては優れているが、滞在の40分は小やみになったかと思うと本降りの雨がやってくる状況で結構困った。お手洗いのひさしと隣接する駐輪場で雨宿りさせてもらったが、大いに助かったのは、そそれも含まれている

ホームへ戻る。屋根のある部分はあるが、これぐらい降ると役立たないレベルだ。消滅した駅舎の代わりに跨線橋に駅名標が掲げられている

ホームには石碑らしきものが建っているが文字は読み取れなかった

延岡行きの787特急車両が到着。名残惜しいが北川駅を去ることにする

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延岡~宗太郎の5駅完了~その1 いつもの列車で細いホームに降り立つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

夜明け直前の延岡駅から

朝の5時40分。この時間の延岡駅は昨年の10月以来だが、何やらいつもの光景になってしまった。ほぼ日の出の時刻だが、昨日夕刻からの雨がずっと降っていて雨雲に覆われ暗い。あまりにも酷い雨だと予定変更もあるかとも考えたが、少なくとも現在は小雨なので決行である。これぐらいの雨で予定変更していたのでは、ここまで来た意味がない

1日1・5往復の列車しか停車しない延岡~宗太郎の5駅訪問を今回で終わらせるつもりだ

初回が昨年5月9日で

2回目が昨年10月5日

この2回で宗太郎、市棚、日向長井の3駅を訪問。きっぷ売り場の運賃表を見ると

残るは北川と北延岡の2駅。とにかく早朝の1往復と夜20時台の上り(延岡→宗太郎)1本しかないので、すべての駅で乗降のどちらもこなそうとすると早朝からのべ5日間、延岡駅に行かなければならない。どちらかだけにまけてもらって、日向長井は3分間の交換停車中の時間を訪問とさせていただき、残る2駅を訪ねることにする

今回はきっぷを買っての乗車となった。前日に空路宮崎に入り、旅名人きっぷで宮崎県内をウロウロして夕刻までに延岡に到着

前日に宮崎空港駅で発券した2種類のきっぷ「旅名人きっぷ」は昨日1回目を利用して宮崎県内をウロウロした。今日は午前中のうちに大分県に入り「福岡・大分DCきっぷ」を利用するのだが、後者はエリアが大分県内つまり宗太郎以北となっている。大分県側から宗太郎まで来て、宗太郎から再び大分県に戻るのは事実上不可能なのだが、大分県内の駅と決まっているため日豊本線の南限は宗太郎。つまり早朝の部のみは現金乗車しかないのだ。1日に3700円分乗らないと元がとれない旅名人きっぷの1回分の権利をそれだけに利用するのはあまりにももったいない

いつもの列車に乗車

早朝の改札口

そして特急車両を利用した普通の佐伯行きに乗る。「3号車自由席」となっているが、過去にも紹介した通り、客扱いをするのは先頭の4号車のみ

本日の乗車は私を含め3人。一人はおそらく同業者(鉄道ファン)で、もう一人はスーツ姿の女性でビジネス客のようだ。この列車は車掌さんが乗っていて検札を行う。きっぷを提示すると「北川ですね」。料金表の写真で分かる通り、宗太郎までのすべての駅で料金が異なる。女性の方は佐伯で特急に乗り継ぐようだ。乗車したこの列車は、車両そのものは特急「にちりん」の大分行きとなるが、列車種別は普通から特急になるという説明をしていた

北川へは路線バスもある。北延岡、日向長井も通り、北川駅から徒歩5分ほどの熊田という停留所が終点で所要時間は30分ほど。もっとも「バスもある」とはいっても平日は1日3・5往復、週末は2往復である

延岡から15分で北川に到着。細長い島式ホームの駅となっている

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~最後までとっておいた呉駅で締める

呉駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

26番目の駅はやはり

呉線で最後の紹介となる26駅目(三原、海田市をのぞく)

呉に到着。訪問そのものは初めてではなく、90年代の終わりごろ二河球場によく来たので、その度に呉駅で降りていた。ただし駅周辺は大きく景色が変わっていて、特に南側はかつての巨大な貨物ヤード跡が残っていたが、再開発ですっかり姿を消していた

足かけ2年に及ぶ呉線訪問で、何度も当駅を通過したが、最初は車窓の変化に驚いた

観光で訪れる人の多くは、南側へと向かう。駅と直結となるペデストリアンデッキでゆめタウンを経由して大和ミュージアムにそのまま行けるからだ

観光用の駅名標にも、もちろん戦艦「大和」が描かれているし、列車の接近メロディーは「宇宙戦艦ヤマト」である

戦前にコンクリート駅舎

北側の駅舎は私の記憶にあるものだ

現在の駅舎は4代目。JR移管を翌年に控えた1986年(昭和61)に完成した。呉線以外の乗り入れがないにもかかわらず、1903年(明治36)の開業から4代目というのは、かなりの建て替えの多さだが、これは戦争を挟んでいるため。明治生まれの初代はもちろん木造駅舎だったが、20年後の1923年(大正12)には、早くも2代目駅舎となっている。当時としては画期的なコンクリート駅舎で呉以東の三原への工事が決まったこともあり、軍都・呉にふさわしいものを、と建て替えられた。なお呉駅を出てすぐ東側は高架となっているが、これは建設時からのもので、昭和初期の車も少ない地方路線だということを考えると画期的。「踏切が多いと軍需輸送の際、妨げになる」という軍のアピールで高架化された

地方路線とはいっても、終戦時の人口は40万人と呉市は全国でも指折りの人口を誇った都市だった。市内を路面電車が走っていたことからも都市需要が大きかったことが分かる

しかし立派な2代目駅舎は1945年7月の空襲によって全焼。全焼というより壊滅に近いものだったという。それでも軍都への鉄路は重要だということで空襲の直後には仮駅舎が建てられ、終戦間もない同年8月には3代目駅舎建設が始まり、翌年5月には完成している。早すぎる復興だが、これは呉を占拠した連合軍が鉄道を必要としたからで、東京と呉を結ぶ連合軍の専用列車も運行を開始した。連合軍は呉市電の復旧も手助けしている。さんざん壊滅させておいて、即座に復旧に協力したことになる

呉線の思い出

すでにコンビニおにぎりで昼食は終わっているので、駅ビル内のロッテリアで一休み。呉線の中で駅ビルがあって多数のテナントが軒を並べているのは当駅のみである

前記事でも触れたが、路線内でみどりの窓口があるのは新広と呉だけで、特に呉には立派なものがある。ただ営業時間は短く、お昼休みの間はみどりの券売機を利用する旨が(駅員さんは改札に常駐している)。時計を見ると14時15分。営業再開まで45分もあるが、おそらくきっぷの変更か払い戻しだろうか、お年寄り夫妻がきっぷを手に待っていたことだけを報告しておく

ホームは2面3線構造。広と当駅間は、昼間は快速のみの運転(広~呉は各駅停車で呉から快速運転となる)で普通は当駅で始終着となる。2、3番線は広島方面だが、3番線は一部三原方面への列車も出るので番線案内には何も書かれていない

呉線を初めて利用したのは小学生の広島への修学旅行の時だった。今にして思うと新幹線が暫定的に岡山まで延伸されていた絶妙のタイミングだったが、岡山から広島までは呉線経由の急行。「こんな海沿いを通るんだ」と思ったことだけを覚えている

山陽本線の地図を見ると赤穂線、呉線、岩徳線のバイパス的な3路線があり、それぞれの歴史を背負っているが、幹線は呉線のみで他は地方交通線である

かつて東京や大阪からの直通列車が走っていた経緯もあって、山陽本線の三原~海田市の途中下車可能な乗車券を持っている場合は、呉線内の各駅でも途中下車は可能である。ただし三原近辺の駅へ行く場合は海田市経由か三原経由かで運賃は異なる(IC乗車だと必然的に同料金となる)。また矢野駅が広島市内となっているため、該当のきっぷへの注意書きが大きく書かれている。矢野までが330円で広島までが510円なので目立つよう喚起する必要がありそうだ

これで26駅すべての紹介が終わったが、駅の紹介をしている課程で仁方駅が簡易駅舎になってしまったことを知った。1日に900人もが利用する駅としては寂しいニュースだが、かつては長大編成の列車が走っていた呉線の各駅には戦前からの駅にも平成に入ってからの駅にも、歴史と理由があることを知った各駅訪問だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~路線内で最も新しい駅は利用者数第4位

新広駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

広駅とは至近

新広に到着。時刻は13時40分と平日の昼間だったが、ホームが小さいこともあって利用者が多く感じる

開業は2002年で呉線では最も新しい駅。一番若い駅ながら1日の利用者数(2021年)は5628人で路線内4位(三原、海田市をのぞく。以下の路線内も同様)を誇る。1位はもちろん呉で2位は矢野で、ここまでが1万人以上。3位は広で5760人だから、新広と広はほぼ同数といえる

広と新広は極めて近く

なぜかグーグル先生は徒歩ルートだと、駅舎と逆側にある労災病院経由の歩き方ばかりを指南してくるので自動車ルートにしたが、20分もあれば十分歩ける距離。新広~広は線路だと1・3キロしか離れていない。また逆側の安芸阿賀ともわずか1・4キロ。元々近かった広~安芸阿賀の間で、かゆい所に手が届くように設置された形だ

みどりの窓口は呉以外では当駅のみ

みどりの窓口がある。昼間は長時間の休憩がある(実は呉駅も同様)ものの、この2~3年でバタバタとみどりの窓口が営業終了したため、路線内でみどりの窓口があるのは呉と当駅の2駅のみ

そのみどりの窓口も路線内では最も新しく、設置は2017年と、ついこの間のこと

おしゃれな駅舎である。元々は簡易委託駅としてスタートしたが、利用者が増加したため開閉式の自動改札機とみどりの窓口が設置された

利用者が多いのは駅を降りると分かる

駅前ロータリーを行くと広島国際大学の呉キャンパスがあり、高校もある。正面に見えるのは消防署

呉市の支所や図書館も備えた広市民センター。2007年に完成した。先述した労災病院は駅に隣接する形となっていて、駅舎と逆側にあるが、バリアフリーで移動できる

こちらは駅前にあった周辺地図

いろいろな施設が駅付近に集まっているため、利用者が設置時の想定よりはるかに多くなったため、呉市も出資する形で駅の改良が行われた

2016年の呉市の発表によると設置時は2400人だった利用者の想定が3642人となり、駅の利便性を高める整備事業を行うこととなり、JR西日本と協力してホームの拡幅やみどりの窓口を設置し、1億7461万円(予定)を呉市が負担することになった、とある。つまり自動改札機もみどりの窓口も市の出資によるものだ。とはいえ、昨今の状況からみどりの窓口の営業がいつまでも続くとは限らないが

窓口の営業時間帯の問題もあるだろうが、呉線の全駅訪問で私が駅員さんにきっぷを提示したのは、呉、竹原そして当駅の3駅だけだった

狭いスペースに駅が設置されているため、ホームは単式。乗り間違えがないよう、複数の注意書きがある

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~全線開通へ三原への第一歩は30年経ってから

安芸阿賀駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

路面電車が先行

安芸阿賀駅に到着。駅名標で分かる通り、呉のひとつ三原寄り。呉線は海田市から呉までが1903年(明治36)に開業したが、当駅の開業は1935年(昭和10)。1区間の延伸に30年以上かかったことになる。広島と海軍の呉鎮守府を結ぶことが当初の目的だったため、その後の延伸については動きが鈍かった。しかし「東京から直通列車で海軍基地まで行けないのはどういうことか」と論議が高まり、1927年(昭和2)にようやく三原と呉の両方から延伸工事が開始された。三原からは1930年に須波までが開業したのを皮切りに順調に線路が伸び、1932年には竹原までたどり着いたが、呉側からがなかなか進まなかった。呉と安芸阿賀駅の間の休山(やすみやま)トンネルが2・5キロにも及ぶ長大トンネルで難工事だったため。貫通したのは工事開始から6年も経った1933年のことだった

こちらは駅前の地図。呉線の広以西は新駅や復活駅が多く駅間は短いが、呉と安芸阿賀は4・1キロと比較的長いのはこのためだ。呉市の中心部とは休山を挟んだ位置にあり、元は阿賀町だったが、1928年に呉市に編入され、安芸阿賀駅の開業時はすでに呉市となっていた

もっとも呉の中心部と阿賀とは、山を回り込むように走っていた後の呉市電となる路面電車で1927年につながっていた。路面電車が走るほど呉市は大規模な街だったことが分かる

かつては松山行きのフェリーも

現在の橋上駅舎は2006年(平18)から。それまでは開業時からの木造駅舎だったが、構内の南側にあった側線を撤去する形で従来駅舎があった北側だけでなく南口が設けられた

南側は海側。以前紹介した

松山市の堀江駅。仁方駅との連絡船の四国側の駅だったが、この記事でも紹介したように堀江港と阿賀港とは仁堀航路とは別に呉・松山フェリーが開設され、結果的に仁堀連絡船の客を奪うことになった。その呉・松山フェリーも2008年に安芸阿賀駅から車で10分と、かなり遠い場所に乗り場が変更され、翌年に航路廃止となった。新駅舎から間もなくのことだった

開閉式の自動改札機が設置されている

張り紙にもある通り、昨年9月いっぱいでみどりの窓口は営業を終了した。みどりの券売機が設置されている。無人駅ではないが、昼間と夜間は無人駅になるようだ

ホームは2面2線。後から張り付けた広方面の案内が印象的だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~呉線で唯一の特定都区市内に存在する駅

矢野駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

「特定の特例」を生む

坂から1駅広島方面へと進んで矢野に到着。両駅とも快速停車駅(朝の一部広島行きをのぞく)なので移動は楽々である

こちらは駅名標。お隣は山陽本線との分岐駅である海田市。海田市は山陽本線の駅ということになるので、広島から来ると最初の駅となる

駅名標には「広」マーク。これは乗車券のルール上、広島市内の駅であることを示すもの。乗車券には「特例都区市内」という設定があり、201キロを超えるきっぷを買って、その発駅や着駅がこの設定区域に入ると、すべて中心地となる駅からのものとして計算する。大都市で適用され、大都市には駅が多く1駅ごとに発券すると面倒だということで、今回の例だと広島市内にある駅はすべて広島駅発着で計算してしまおうという制度。乗車券は101キロを超えると途中下車できるが(大都市近郊区間内ではできない)、この制度は201キロを超えると適用される。現在は11都市で12の区域(東京は23区と山手線が存在)が指定されている

広島駅に発着が集約されていることで得をすることも損をすることもあるが、今回はきっぷのルールが主目的ではないので、その部分は触れない。ただ201キロを超え「広島市内」と書かれたきっぷを持っていた場合は途中下車ができず、西側から山陽本線を来た場合、海田市で一度降りてしまうと、きっぷは回収され、海田市~矢野の乗車券を別途購入しなければならない。ただ坂までのきっぷだと途中下車は可能となる

矢野は呉線の駅では唯一、広島市内にある駅で当然、広島市内マークが駅名標に付いているわけで、先ほど例に出した海田市にも

広島市内マークが付いているが、海田市駅の所在地は広島市ではなく安芸郡海田町。ちなみに広島寄りの向洋駅も府中町。なぜこのようなことになっているかというと矢野が広島市の飛び地にあるためだ

呉線で2番目に利用者の多い駅

矢野と同じ理由で山陽本線の海田市以東の安芸中野、中野東、瀬野の3駅も飛び地にある広島市内駅となっている。平成の大合併のはるか前、瀬野川町が1973年に広島市となったことで安芸中野、瀬野の2駅が広島市内の駅となった(中野東は広島市となってから開業)。1975年に矢野町も広島市となり、矢野駅も広島市内の駅に。基本的には行政上、広島市にある駅は広島市内駅となるので、そのような扱いとなるが、向洋と海田市を広島市内駅扱いにしないと便宜上、不都合が生じるので安芸中野と同じタイミングで広島市内駅となった

矢野駅は坂駅と同じ1903年(明治36)の開業。呉線の最初の駅のひとつ。当時は矢野村だった。

1日の利用者は1万1924人(2021年)で呉線では2番目に多い。ちなみに呉線内で1万人を超える駅は呉(1万6266人)と当駅だけ

2008年からの橋上駅舎前にはズラリとタクシーが並んでいた。駅舎は矢野の代表産業だった日本髪の添え髪をモチーフにしているという

矢野は天然の良港がある上、海以外の三方を山で囲まれ防御面でも優れているため、古来から時の為政者に重宝され、平安時代末期から街作りが行われ、鎌倉時代末期から戦国時代にかけては幾度も激しい攻防戦が行われた

みどりの窓口は4年前に営業を終え、みどりの券売機にプラスしてオペレーターとの会話機能が付いたみどりの券売機プラスが設置されている。駅員さんは主に昼間の時間帯は不在となるようだ

構内にはセブンイレブンもある。矢野駅到着は12時すぎ。坂そして当駅と昼食を摂る場所はいくらでもあったが

メシよりもダイヤ優先である。いつものパターンでコンビニおにぎりが今日も昼食である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~開業時に設置された明治期以来の駅

坂駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

呉線では5位の利用者

呉線の沿線は平成の大合併が続き、いわゆる「郡部」は坂町しかない(分岐駅の海田市はのぞく)。人口1万2000人の坂町だが、鉄道駅は3つもあって、いずれも呉線。既に紹介した小屋浦、水尻そして今回紹介する坂駅である

その坂町に到着。駅名から分かる通り、同町の中心駅

2面3線のホームを持ち、1903年(明治36)に海田市~呉が開業した時に設置された5つの駅のひとつ。2021年の1日の利用者数は5584人で呉線内では5位(三原と海田市をのぞく)

以前は国鉄型のコンクリ駅舎だったが、2000年に現在の橋上駅舎となった

橋上駅舎と商業施設

こちらが以前から駅舎があった南口。橋上駅舎になったことで、海側となる北口とは自由通路で結ばれた。北口はいわゆる再開発地域となっていて、大型店舗が並ぶほか、広島翔洋高校や町役場もあって利用者が増えている。広島翔洋高校は平成になって坂町へと移転してきた

こちらは北口。国道31号は北口側を走っているため、大型店舗はロードサイド店でもある

橋上駅舎にあった周辺図。「商業施設」とだけ書かれ、いつ設置されたものかは分からないが、北口の方に大きなスペースがさかれている。町の中心が北口に移りつつあるのか

呉線が開業したころは坂村だった。戦後の1950年(昭和25)に坂町となって現在に至る

なおグーグル地図を見ると、坂町には「横浜」がある。かつては横浜島という島が埋め立てによって陸続きとなったという

無人駅ではないが、時間帯によっては無人となるようだ。みどりの窓口は昨年に営業を終了したが、みどりの券売機が設置されている。呉線では全線でIC乗車が可能だが、開閉式の自動改札機を導入しているのは6駅のみ(三原と海田市のぞく)で、そのうちのひとつ

坂町の鳥がメジロだということは小屋浦駅の項でも紹介したが、坂駅の屋根の緑っぽい色はメジロをイメージしたものとなっている

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その6(2年間でなくなったものと再構築協議会)

東城駅の駅舎

※訪問は2024年4月2日

※動画あり。音声注意

わずか2年間で再現できなくなった旅

国道沿いにあった新見市営バスの停留所。前回は備中神代駅からこのバスを利用してここまでやって来た。風にあおられ張り紙がゆがんでいるが、よく見ると

路線バスからデマンド化されたようだ。つまるところ、2年前の私の旅はもう再現できないのである(ただし市岡駅の項で紹介した新見から当駅付近、市岡を経て旧哲西町の中枢部に至る1日2往復の路線バスは健在)。地元の方にとって便利になったのかどうかは私には分からないが、地方都市のコミュニティバスによくお世話になる私はバスに乗車してみると、ほぼ貸切だった、という経験を何度もしている

東城経由で三次へ

複雑な気持ちで駅へと戻り、列車を待つ。今日は三次に宿泊する

駅に隣接して公民館がある。訪問時は屋根の修復工事をしている最中で、初めて来ると駅舎かと思ってしまう建物は今も利用されているようだ

いろいろな鳥のさえずりとともに16時36分発の東城行きがやって来た。この日は春休みの最中で空席はあったが、新見駅へ通学する高校生にとっては帰宅時の貴重な列車(次の列車は2時間後)で2年前に乗車した際は満員だった。岡山県内を走る新見~東城は一応、通勤通学に対応したダイヤとなっていて東城~備後落合より本数の多い平日は1日6往復となっている(備後落合行きの早朝1本は当駅通過)

広島県に入り東城に到着

前述した通り、新見方面と備後落合方面へは本数がかなり異なる。そして三次へはもう列車では行けない。現在は17時前で2時間後に備後落合行きはあるが、その先に行くことはできない

ただ列車はないがバスはある。東城~備後庄原を結ぶバスが1日に4~5往復していて(平日と週末で異なる。1本は広島駅行き)

この17時13分に乗車する。庄原への「最終」で貴重な一本

随分とこぶりなバスだが、すぐに中国自動車道を快走するので驚いた。備後庄原へは40分かからず着いてしまう

東城から庄原までショートカットで、しかも高速利用なので、そりゃ早い。ただし料金は1360円

備後庄原では備後落合発17時11分の三次行きを途中で追い越し待ち受ける形になる。バスの到着は17時49分で芸備線の出発は17時59分。つまり東城、備後庄原とも10~15分程度の絶妙な乗り継ぎで三次まで行けてしまう。坂根駅のバス廃止とは別の意味でまたもや複雑な気持ちになってしまった

再構築協議会の開催

さて芸備線を巡っては、全国初となる再構築協議会が3月26日にスタートした。昨秋にできた法律に基づくもので、国と鉄道会社、沿線自治体が鉄道の在り方や交通手段の再構築について話し合うもので、分かりやすく言うと赤字路線を廃線にしたい鉄道会社が「自治体の抵抗が激しいので国も考えてください」というもの。乱暴な言い方をすると鉄道会社(基本的にはJRとなる)が「国の(廃線)決断を期待する」といいうことになる。大きな全国ニュースとして取り上げられたのは、もしこの法律に基づいて廃線が決まれば、全国各地で多くの赤字路線がドミノ式に廃線となってしまう可能性があるからだ

芸備線の中でも主に対象となっているのは今回列車とバスで乗り継いだ新見~備後庄原で、報道によるとJR西日本が利用者の少なさを説明。各駅の利用者数まで開示したという。数字だけを見ると、駅だけでなく、列車も時間帯によっては1日3往復区間の東城~備後落合では利用者ゼロがあるという

ただし列車の調査は4月の春休みとGWの間のようで、観光客の端境期を狙ったという見方ができなくもない

1987年に国鉄からJRになった際、新見~備後落合は1日8往復が運行され、うち6本が三次直通だった(1本は途中から急行にる運用)。その後8往復が5往復となり、2005年から現在の3往復となった。徐々に運行が削減される課程でJR側と自治体の話し合いができなかったのかが悔やまれるが、ちょうど平成の大合併のころでもあり、鉄道事情まで手が回らなかったという事情もあるだろう

しかし1日わずか3本では利用しようにも利用できないのも事実

その一方で、こういう時に必ず出るバス転換の話だが、誰がどう責任をもって路線を維持するのかの問題もある。過去、廃線後の代替バスが全国で運行されたが、利用者数と資金面でバス路線そのものが廃線になってしまった例は数多い。また現在はバス運転士の不足で都会のバス路線も廃止を余儀なくされている。しかも鉄道の廃線は大きなニュースとなるが、バス路線の廃止ニュースはひっそりとしか扱われず、いつの間にか地方の町が衰退していく

私が利用した東城~庄原のバス路線があることを調べ(おそらく乗っていない)、バスの方が便利で早いという意見もあるようだが、これは単に両方の駅とその周辺を結ぶためだけのもので、途中の町はすべて通過している上、1360円という料金は日常利用ではちょっと出せない金額である

全国各地で地方路線の現状は厳しく、今回訪れた坂根駅は伯備線との接続駅である備中神代のお隣の駅で、そちらを利用する人が多いのでは、と思う方もいるかもしれないが、備中神代駅の1日の利用者は12人(2021年)しかいない。新型特急で話題を集めた伯備線も新見以北の普通の運行は、昼間は3~4時間に1本という閑散区間となっている

コロナ禍になってからのここ数年で鉄道会社の経営も苦しくなり、芸備線ばかりがクローズアップされることになっているが、うまく議論が進まないと「そもそも田舎は要らない」ということにもなりかねない。会議の場所が、新見でも庄原でも三次といった現地ではなく、広島というのが少々不安ではあるが、良い知恵を絞り出せることを期待しよう

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その5(キリ番県道だった)

坂根駅を出発するキハ120

※訪問は2024年4月2日

遅い桜

駅前ロータリー。かなり広く以前は駅前もそれなりの規模だったことが想像できる

今回、岡山から北上する際の伯備線の車窓から見えたのは美しく咲き始めた桜で山の上の方まで一斉に開花しつつあった。それが芸備線に乗って市岡駅に降り、付近を散策。坂根に降り立っても、まだまだ固いつぼみばかり。随分気候が違うのだな、と思っていたが、この後、当日中に訪れた東城、備後庄原、三次は満開間近だった。今年は3月が冷え込み4月になると急に陽気となったため、桜も大慌てで咲いて、あっという間に散り時を迎えたようだが、さほど離れていない場所での桜前線の違いは興味深いとともに、植樹された時期は分からないが、今後も駅を見守ってほしいと感じた

坂根駅の時刻表。市岡とほぼ同じだが、私は15時53分の新見行きでやって来て、16時36分の東城行きに乗車予定。もっとも正確には「予定」ではなく「マスト」である。約40分の待機だけで乗降の両方が果たせるのだから、大変優秀。もっとも40分では、そう遠くまで行くことは不可能。市岡の150分をもっとうまく振り分けてくれれば、理想だが、1日5・5往復では、なかなかそううまくはいかない。ただ15時台から18時台の2往復を使いこなせば、伯備線にありながらも事実上は芸備線の駅で列車以外の訪問が困難な布原にも降り立つことができる

控えめすぎる駅への案内

再び国道182号。この国道は新見と福山を結ぶ当地では主要な道路で芸備線とほぼ並行して県境を越え東城へと至り、東城から一気に南下して福山へと向かう

新見側から東城方面へと向かうと、このような標識があるが、実は坂根駅の存在を示すものはこれだけしかない。写真には写っていないが、道路を挟んだ右側に民家が並ぶ小さな集落がある。駅の入口へとなる道路部分にはいくつかの民家が見えるが、いずれも人の気配はない

注目すべきは「200」の数字。これは県道200号を意味して「坂根停車場線」という名称がある。国道と駅を結ぶ短い道路が県道になっているのは普通にあることで

先日紹介した呉線・安登駅の「日本一短い県道」

他に記憶にあるのは、こちらは北海道の話で主管はどうなっているかは分からないが、2015年9月に間もなく廃駅となる「白滝シリーズ」訪問の際、当時の

上白滝駅に向かう道路。極めつけは

旧白滝駅が国道にほぼ張り付いているにもかかわらず、ちゃんと駅との数メートルを結んでいた道路にも、それぞれ名称はあった(現状は私には不明)

一方、神代川を渡った125メートルで舗装もちゃんとされている県道200号には道路番号は付いているものの道路名はなく、従って坂根の文字はない。そもそも坂根駅への方向は標識にあるが、駅までどのぐらいの距離があるのか明記されておらず、しかもこれは頭上にある道路を通る運転手用のものだ。中国自動車道がなければ国道から駅もよく見えるだろうが、見通しは悪く、言い方を変えると駅の存在そのものがスルーされている状況。これで良いのだろうか

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その4 (衝撃から2年を経ての再訪)

坂根駅の駅名標

※訪問は2024年4月2日

アクリル板の乗降「2人」駅

市岡から坂根まで1区間の乗車。これまでの記事で書いた通り、国道に沿った緩やかな下り坂で歩くには絶好。徒歩で30分ぐらいで行ける距離だが「乗り降りを目指す」のが目的である以上、これは乗るしかないのである。乗車列車は三次から新見まで乗り継げる、これもまた1日1本の列車で、車両は私が市岡で下車したものの折り返し。事実上の1日1本なので、最初に新見から乗車した備後落合行きと同様に満員。もちろん座れないが、すぐ降りるので最前方に進む

駅間距離は2・6キロなのですぐ到着なのだが、この間にも比較的平地にもかかわらず、JR西日本名物の25キロ制限区間があって、ちょっと時間はかかる

とにかく無事到着だ。降りたのは私一人。乗車はなかったと思う。ないのも当然で2021年の統計では、当駅の乗降客は1日2人。これは芸備線内では道後山、高と並ぶ数字。乗降客データで1人という数字は基本的にないので「同率最下位」かというと、さらに下というか番外編があり内名、備後八幡の2駅は「データなし」となっている。ちなみに前記事まで紹介していた市岡は14人

この数字は1日平均なので、1週間続けて利用した人が1人いても年間の数字にならすとあまり影響しない。また青春18きっぷなどフリーきっぷの利用者はカウントされない。だから今回の私はノーカウントである。このフリーきっぷの概念は列車の乗客数も同様で、今回のように超満員の列車となっても18きっぷでの利用者は乗客がいないのと同じ扱いとなる。もっとも18きっぷのこの区間の利用者は、ほとんどが乗り通しだろうけれど

アクリルの壁がある簡易駅舎となっている。見て分かるが右手にトイレがあり、左手には自転車置き場。2年前は自転車が1台停まっていたが、今回はなかった。それでも銀のバス停の簡易駅舎と比べると雨風はある程度防げる形式だ

単式ホームだが、かつては2面構造だったことが分かる。開業は1930年(昭和5)。備中神代~矢神が開業した際、途中駅として設置された。開業時からの因美線にあるような木造駅舎だったが、20年前に現在の形となった

2年前の驚き

前回は備中神代からバスで当駅までやって来た。もし列車での到着だったら、かなり印象は異なっていたと思うが、ワゴン車の新見市営バスであらかじめ坂根駅での下車を告げていたため、運転手さんに「この奥に駅があるから」と停留所で降りた時の衝撃は忘れられない

今回も停留所がある国道182号まで3分ほど歩いて再現してみよう

「なんだぁ、これは」

声が出そうになった。目の前にあるのは中国自動車道。自動車専用道があるのはいいが、築堤の上を走っているので駅はのぞきこまないと見えない

中国自動車道がこの付近を通るようになったのは1978年のこと。駅が全く分からないという状況での建設によくどこからも文句が出なかったと思うが、まだまだ芸備線はこの付近でも1日に十数往復が運行されていたころである。当時は大きな心だったのか

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