福塩線

まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~「列車では行けない」駅でシメ

備後矢野駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

最後にもう一駅

福塩線の全駅訪問は終わったが、列車のダイヤを利用してもう一駅。こちらは訪問済みではあるが、列車で下車したこともなければホームから乗車したこともないので、ぜひこういう機会に行っておきたかった

それは備後矢野駅。なぜ、そのようなことになったかというと、そもそもの本数の少なさももちろんあるが、駅舎内に入店している食堂によるところが大きい

「福縁うどん」という餅入りうどんが有名なこのお店は人気店で、私の訪問は4月初旬の週末で、まだコロナ禍にあったが、お昼時はかなりの列となっていた。私もその1人だったのだが、お客さんのほぼ全員がマイカーで公共交通機関での訪問は私一人だったと自信を持って言える

もっとも公共交通機関といっても列車ではなくバスである

停留所から、それなりの距離はある。にもかかわらず、朝夕を待たずにバスでの訪問にしたかというと福塩線を利用しては飲食ができないからだ

備後矢野駅に来る列車は午前は上下とも7時台で終わり、午後は三次行き15時39分、府中行き15時53分が始発。お店はお昼の営業で夕方も15時か16時までだと思うので、列車でやって来てお昼を食べ、食べ終わったら列車で去るというのは、かなり困難な作業。駅舎内に店舗がありながら、そこへは列車での到達が困難だという「列車で行けない」駅となっている

もっとも飲食が目的でないのなら、三次方面からの列車を降りると10~20分後に折り返しの列車がやって来ることが多い効率の良いダイヤではある

備後矢野到着は18時前で、日没が近づいていた

この日はお店は休み。というか営業日でもすでに閉店している時間だが、後片付けや翌日の仕込みで誰かがいてもおかしくはないかもしれない。ただし、休業日ということで駅舎内は真っ暗。どちらかというと暗すぎて驚くレベルだった

車内の写真展

18時。そろそろ去る時が来たようだ。この後は府中経由で福山に出て、さすがに福山からは新幹線で帰る

さてキハ120の中では、このころ福塩線の写真展が行われていた

過去の沿線風景が車内に展示されていて、見とれてしまうものが多かったが、ポスターとなっている昭和45年の備後三川駅のラッシュアワーに目をひかれた

現在、備後三川駅の1日の利用者数は48人(2022年)。写真を見る限りではひとつの列車で軽くその数字を超えそうだ。区間運転も含め、1日に10往復以上が福塩北線を走っていた時代のものだ

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~淡水浴場って?

河佐駅の河佐峡案内

※訪問は2024年4月3日

湖に沈んだ駅

河佐駅前にあった周辺案内図

駅の開業は1938年(昭和13)。上下~府中町(現府中)がつながり、福塩線が全通した際に設置された。1956年に府中市となった河佐村に基づく。梶田、中畑そして八田原の3駅は戦後の開業で、まだ生まれていない。それまでは福山~府中が福塩南線、塩町~上下が福塩北線という名称だったが、全通したことで正式に路線名が福塩線となった。当時からすでに府中以南は電化されていて、府中以北は非電化だったが、通称とはいえ北線、南線という言葉が80年以上後も、そのまま残っているとは多くの人が考えなかったに違いない。というか現在の方が沿線風景が違いすぎる上、運行が完全に分断されているため北線、南線の色合いがより濃くなっている

そして先述した八田原駅はこの案内図だと芦田湖の底に眠っている。新たに建設された八田原ダムによって廃駅となった。1963年10月に開業して1989年4月に廃駅とという、わずか35年の駅だった。周辺案内図では河佐~備後三川の間は線路が描かれていないが、この区間はダム建設による新線付け替えに伴うトンネル区間となっている。八田原トンネルという名称に鉄道としての名を残す。約6キロにも及ぶローカル線では異色の長さで、キハ120でトコトコ揺られると、その長さが実感できる。当然だが、トンネル内は携帯も圏外。そのようなサービスは採り入れられていない

地元で親しまれる河佐峡

減築された駅舎内

この日の私には雨をしのげるありがたい場所ではあったが、基本的には無機質。ただしに写真の左手に見える文章が残されている

「小生 河佐峡の旅」とある。文章の書き手については私の知識では分からないが、夏に河佐峡を訪れた時の思い出だ

途中の農家で取れたての野菜を分けてもらったという話が、以前の日本の風景を思わせる

河佐峡とは駅から徒歩15分(府中市観光協会HPによると20分)のところにある淡水浴場である。実は3年前に福塩線沿線をウロウロしていて「淡水浴」という言葉を人生60年で初めて知った。文字の通り、海水浴に対して淡水での遊び場。当たり前だが福塩線沿線は当然、範囲を広げても地元では有名なレジャーの場だ

そして私の計画では列車を待つ間の80分は現地まで足を運び「河佐峡」と書かれた赤い橋を見ることになっていた。道としては分かりやすそうだし、この季節(4月3日)にまさか水に浸かることはないので、ちょっと滞在すればちょうど良い

だが、この時間帯は雨が激しく断念。この日は午前の三江線遺構訪問といい、雨に道中を遮られる1日となったことが悔やまれる

ということで、サムネの写真にもある通り「奥備後の行楽地」である河佐峡の情報は観光協会HPによるものだが、ウォータースライダーを備えた川の水泳以外にもキャンプ、バーベキュー、釣りが楽しめるという

そして先ほどの訪問記に戻るが、こちらの筆者がハムと肉を買い込んだであろう「こざっぱりした」商店は今も現役である。駅前には店舗が2つも並んでいて、ともに今ならコンビニ、昔の言い方をするとよろず屋になってしまうのだが、1日に5往復の列車しか来ない駅前で買い物に困らないというのは、なかなかないことだ

ちなみにリュックを背負って歩いていた当時の夏とは違い、近ごろの夏は20分も歩くと、それだけで干上がってしまいそうだが、Xのフォロワーさんの情報だと夏場はありがたいレンタサイクルがあるという

時間となったのでホームで列車を待つ。構内踏切による2面2線。これで福塩線の駅は全駅訪問となったが、赤い橋を見られなかったことだけが心残りというか、ちょっと達成感に欠ける全駅訪問となってしまったことが残念でもあった

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~ようやくたどり着いたラストピース

河佐駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

三次から1時間半

7時間の待機(というか時間つぶし)を経て、ようやく三次から福塩線に乗車。14時40分発に乗り込み

河佐に到着したのは16時8分。約90分間のキハ120旅。正直長かった。1時間半とい乗車時間も長いし、たった2駅を巡るための朝7時からの活動時間も長い。ただ長い分、これで福塩線も全駅訪問可能かと思うと、それなりの感慨はある。日没まではまだまだ時間があるはずだが、雨の空は暗く、かなり薄暗い

その河佐駅は写真で分かる通り、すれ違い可能な構造を持つ2面2線。貨物ヤード跡もレールが敷かれたまま残っている

河佐駅は鉄道以外の訪問手段がないことが特徴。3年前の訪問時、府中~上下を走る路線バスのお世話になったことはすでに書いたが、そのバスは河佐、備後三川の両駅付近からはかなり離れた所を走っていて備後矢野付近で再び近づく

最も近いと思われる落合という停留所から2キロ、徒歩で約30分(日本全国、落合はあちこちにある)。まぁ、歩けと言われれば歩ける距離ではあるが、鉄道とバスとの時間がなかなか合わない。バス利用の場合、バス停で降りて鉄道駅に向かうのは目標も時刻もはっきりしているが、その逆はなかなか不安である。山中であればなおさら。そもそも停留所がどのような形で設置されているのかも分からない。私の過去記事でもバス停もしくは、その付近でウロウロしたことを何度か書いている

それに対し、備後三川は若干事情が異なり、広島駅から世羅町の中心部を通り、上下、甲奴を結ぶ「ピースライナー」という路線バスが1日4往復運行されていて備後三川駅の近くを通る。3年前はわざわざバス会社に電話して「上下~三川局前」の区間だけの乗車が可能なのかどうか尋ねたほど。結果的には鉄道のダイヤとうまく合わずに乗車はしなかったが、3年前に河佐と備後三川の二択で選択肢の多い備後三川を残さなかったことが悔やまれる。というか、1月の福塩南線全駅訪問の際、府中駅あたりで2時間ほど時間をつぶせば良かっただけなのだが

河佐で待機80分

こちらが河佐の時刻表。16時8分着でやって来て、この後は福山に出るつもりなので、となると18時15分の乗車とだが、さすがにそこまで待機していられないので17時30分でいったん三次方面へ向かい、どこかの駅を再訪するつもり。要は約80分の待機となる

順番が後になったが、こちらが河佐の駅舎。かなり減築されたようだが雨は十分凌げそうで、隣に立派なお手洗いもある

本来はこの80分を利用して行きたいところが明確にあったのだが、それは雨の振り方次第となってきた

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~7時間の時間つぶし

神杉駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

どうする7時間

福塩北線の残る2駅の回収。1駅目の吉舎は無事終わったが、問題は残る1駅の河佐駅。ただ

時刻表で分かる通り、現在は8時過ぎ。次の河佐方面は15時11分で7時間後だ(12時58分は臨時列車で本日の運行はない)

さすがにここで7時間過ごすわけにはいかないので、あの手この手の時間つぶしを発動することにする

まずは芸備線の神杉駅で降りてみる。こちらは2年前に芸備線の三次~備後落合の全駅訪問を行って以来の訪問だが、塩町と神杉の二択で前回は神杉で乗車したものの下車はしていなかったため、下車することにした。また塩町は場所的に過去複数回降りていて、神杉の桜がきれいだったこともある

なぜ下車しなかったかというと、前回はなかった石碑にその理由がある

立派な石碑だ。元々は塩町を名乗っていたが、それまでの田幸駅が福塩線の接続駅となって塩町に改称。それに伴い当駅は神杉駅となった。田幸駅は後からできたので、駅間距離は短く1・5キロしかない。ゆえに列車を待っている間に徒歩移動となった

線路沿いには歩けないが、それでも20分で到着してしまう。もっとも私は近道を行こうと田んぼのあぜ道チャレンジを決行。例によって(?)失敗したので30分以上かかってしまったのだが(笑)

本日二度目の体験

神杉は駅舎とホームまで距離があり、その間には旧貨物ヤードや留置線が残っている。駅舎側からのホームの姿が私は好きである。2年前の写真にも右側に見える無蓋車があったので、これはしばらく「不動」なのかもしれない

三次に戻る

と、本日2度目の貸切体験。青春18きっぷシーズンのローカル線ではなかなかできない体験を1日2度もしたことになる

三次で乗り換え

ひとつお隣の西三次駅へ。かつてはここが三次駅だった。現在の三次駅は備後十日市を名乗っていたが、三次町と十日市町、他の6村が合併して三次市が成立した1954年に駅名変更。3年前までは三次駅時代の面影を残す立派な駅舎があったが解体され、ホームのみが残る駅となっている

周辺は住宅街だが、三次駅に近すぎるためか利用者は三次~広島で最少の1日10人(2022年)となっている。貨物輸送でも栄えた駅で、広めの構内に雰囲気は残るが、切り株だけにされた木と雨ざらしのベンチがやや寂しい

三江線跡と三次名物も

再び三次に戻り

バスに乗り込み三江線の駅跡訪問。こちらはすでに記事化した

またまた三次に戻り、今度は昼食。三次名物の唐麺焼き。お腹は満たされたが、まだ時間はある。7時間というのは長い

向原駅へ

「山陽新幹線開業記念 向原町国鉄職員一同」とある

時代の転換期を表している

そして今日何度目になるのか、三次に戻ってようやく福塩線の午後の部が始まる

待ちに待った府中行き。ようやく乗車となるが、青春18きっぷというのは実に便利なもの、偉大なものだと改めて思った

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~素晴らしき駅舎と後鳥羽上皇

吉舎駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

福塩北線では利用者最大

吉舎駅に到着。この列車は、ここでしばらく待機して三次へと折り返す

吉舎駅の時刻表。朝の府中方面への時刻表がなかなか壮絶だ。5時台に1本、6時台に1本しかない。前記事でも紹介したが、これは1本が吉舎止まりになったため。6時33分が朝の「終電」となっているが、この列車は7時50分に府中に到着するため府中に近い所では通勤通学、主に高校生の通学に利用される。ということは吉舎以南の福塩北線の利用者が極めて少ないと簡単に予想できてしまうのだが、福塩北線で最も利用者が多いのは、ここ吉舎である。2022年の1日あたりの乗降数は242人。芸備線との接続駅である塩町の262人とあまり変わらない。福塩北線の沿線で町としては最も大きい上下駅でさえ114人。以下は2ケタ前半の数字が並び、備後安田は2人、中畑はデータなしとなっているので限りなく0人なのかもしれない(ただし私は3年前の訪問で中畑駅から地元のご婦人と一緒に列車に乗った)

吉舎駅の利用が多いのは前記事でも触れた広島県立日彰館高校の最寄りだから。周辺駅の利用者数を見ても、当駅の利用者の多くが高校生の通学のためだということが分かる

なお12時58分の府中行き、14時1分の三次行きがともに斜体文字で記されているが、これは臨時列車

試験日や入学式など早めに終わりそうな学校の日程に合わせて運行されるもののようで、学校があるということは青春18きっぷで利用するのは難しいということになる。もちろん私の訪問日は当然運行されていない。その一方で福塩北線の訪問には実に便利な乗り物でもあるのだが、JR西日本のHPには掲載されておらず、運行日は調べるには現地の人に聞くしかないという、なかなか難易度の高い乗り物でもある。ただ今回の旅にあたり携帯アプリの時刻表を順に眺めていくと、アプリには時刻がしっかり掲載されていて驚いた。一体どうやって調べるのだろう

後鳥羽上皇の言葉に基づく

その吉舎駅は1933年(昭和8)の開業。塩町(当時は田幸駅)から当駅まで福塩北線が開業。以降2年は終着駅だった。駅舎は当時からのもののようだ

駅名板と入口ののれんが目を引く。のれんは日彰館高校の皆さんによるものだ

中央に「よきやどりかな」と書かれている。これは地名の由来で、承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐へと流される際、ここに宿泊し「吉(よ)き舎(やど)りかな」と語ったという。駅が設置された際は吉舎町で平成の大合併で三次市となった

のれんはホーム側の改札にもあって

こちらは「銀山街道 吉舎」と記されている

銀山街道は石見銀山と港を結ぶ道で中国山地を抜け笠岡へ向かうコースと尾道へ向かうコースがあったとされ、途中の街は福塩線の路線とかなり一致する。街道があって集落と街ができ、ずっと後になって街を結ぶ鉄路が敷設された

息吹は今も残る

無人駅だが、事務所は残り木製の手荷物受付もそのままの姿。「精算口」の文字も残る

ホーム案内は手作りのようだが、こちらもかなり歴史を重ねている

3年前の同時期、福塩線の沿線はほぼ葉桜となっていたが、今年の開花はやや遅いようである。貨物ヤードもそのまま残る。福塩線ではJR移管とほぼ同じタイミングで貨物輸送が廃止された。役割を終えて40年近くが経とうとしている貨物ヤードの向こう側には自動車道の高架が見える

町の中心部を国道184号が貫くと同時に尾道自動車道も横断している。2014年に吉舎ICと三次がつながり、翌年に尾道へも全通となった。全線無料で吉舎からだと三次まで約10キロ、尾道までも約40キロで車だとあっという間に着いてしまう。福塩線の沿線も甲奴、世羅、尾道北の各ICを利用すれば上下や府中までもすぐである。ただ後鳥羽上皇や銀山街道は車で通過すると、気付かないものだというのもまた事実だと駅を降りてそう強く思った

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~貸切列車で吉舎へ

吉舎駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

三次発吉舎行きに乗車

朝の三次駅。前夜は三次のホテルに宿泊した

ちなみに今回は以前お伝えした

芸備線の市岡駅、坂根駅訪問の翌日の出来事

とにかく今日中に吉舎駅そして河佐駅の回収を目指す。と言っても2駅の残し方が悪すぎて、困難というか、妙な意地がないとなかなか大変である

三次~府中の福塩線は3年前の時点では朝3本、夕方3本の計6往復だったが、現在は朝の三次行きの「最終」が吉舎止まりとなっているため、府中までは2本しかない。河佐まで行くのは、その2本。残し方が悪いと書いたが、この両駅はかなり離れていて

まぁまぁ遠い。線路で32キロとそれだけだと大阪~神戸とほぼ同距離で大したことないように思えるが、トコトコと非電化単線路線を行くと約1時間かかる

三次発の朝の福塩線は5時発、6時発ときて次が7時37分の吉舎行き。まず検討したのは5時発で、これは6時22分に河佐に到着。1時間待つと三次行きがやって来て、吉舎に8時22分到着。前述した吉舎止まりが折り返す関係で吉舎駅で30分待つと8時50分発の三次行きがあって9時20分に三次に戻って来られる。効率は良いが、寒さ負けに加え、暗いうちからかなりの雨が予想されるので却下。もっとも、この記事を書いている2024年7月25日に同じことをしろと言われると、この酷暑の中では涼しいうちにできるだけ活動したいので何も考えずに5時を選択しただろう

次の6時発は出発時はもう明るくなっているし手頃な感じ。だが時刻表を見て大きなショックを受けた。河佐に7時25分に到着するのだが、折り返しとなる三次行きの出発時刻が7時27分となっている。これってつまり河佐で列車交換することだ。さすがにたった2分で駅訪問とはならない

思えば3年前の福塩北線訪問時、河佐と備後三川のどちらかを断念する二択を迫られた際、あまり深く考えずに備後三川訪問としたのだが、その時に河佐を選択していれば、備後三川に20分滞在で、今回うまく2駅を回収できていた。まさか3年後にこんなことになるとは当時考えもしなかったが、随分大きなツケを支払うことになった

ということで7時37分の吉舎止まりに乗車。1度三次に戻り14時40分の列車まで何とか時間をつぶすことにした

予想外の貸切列車

ホームでは「吉舎」と行先幕が入った福塩線のキハ120が待っていた。この前の運用は分からなかったが、2両編成を単行にする作業が行われていた

乗り込むと間もなく出発したが

なんと貸切発進。ちょっと面食らう

福塩線の朝の3本が減便されたのは利用者減が理由だと思われるが、それでも1本が吉舎行きとして残ったのは、吉舎駅が日彰館高校の最寄りだからだ。ただし今は春休み。このようなことも起きるのだろう。この列車は塩町で芸術的な乗り継ぎに対応していて、塩町に到着すると備後落合方面からの三次行きも同時刻に到着。1面2線の狭いホームを利用した平面乗り換えが行われる

これが2022年4月の写真。右側に芸備線の列車がチラリと見えているが、その日の運行にあたったカープ列車に高校生が移動していた

ということで8時10分に吉舎到着。ちなみに前述した塩町で、もう1人の乗車があり、2人の下車。明らかに同業者だったが、青春18きっぷの季節に7時台のローカル線が貸切というのはあまりない光景なので、吉舎止まりは魅力がないのかな、と思っていたのだが、ちょっと安心した

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~3年前の振り返り

※訪問は2021年4月4~5日

北海道&東日本パスの道中をお伝えしている最中ですが、暑い中に7月の話を伝えることに、やや疲れてきたので今年4月の旅をしぱらく振り返ることにします

不退転の意思で臨む必要のある福塩北線

先日まで1月に行った福塩南線の全駅訪問をお伝えしたが、この時点で福塩線の未訪問駅は2駅

では、残り2駅に行くことにしようと今年春の青春18きっぷを利用して吉舎そして河佐の2駅を訪ねたのだが、その前に3年前の4月に行った福塩北線の訪問を振り返ることにする

福塩南線の記事で何度か触れたが、福塩北線の各駅訪問はなかなかハードルが高い。理由は簡単で「朝の3本、夕方の3本しか列車がない」こと(ちなみに現在は朝の1本が三次~吉舎の折り返しとなっていて、さらに難易度を上げている)

そしてもうひとつはダイヤの問題だが「新大阪発の始発の新幹線に乗っても府中発の午前便はすでに終わっている」こと。実はこれが大きい

これは当時の府中駅の福塩北線の時刻表だが、始発の新幹線に乗ると9時に府中に着けるが、すでに午前の列車は終わっている(前述したが現在は午前の3本目はなくなっていて、午前の「最終」は7時4分発となっている)。赤い文字は臨時便で、また後に出てくるが18きっぱーにはほぼ無縁の乗り物である。とにかく綿密な計画と強い意思が必要な路線である

初日は18きっぷの出番なし

ということで初日に購入したのは

府中までの乗車券。もちろん青春18きっぷの期間内なのだが、いろいろ計画を練った結果、初日は18きっぷを利用しても元をとれないと判断した

府中~上下には路線バスが走り、こちらは2~3時間に1本ぐらいの間隔で運行されているため、福塩線の駅まで近いところを通る停留所なら利用できる

ということで

府中駅前のホテルに荷物を預け

バスで下川辺駅へ

別系統のバスに乗り換え

バスで30分

冷たい雨の中、矢多田という備後矢野駅まで徒歩10分ほどの停留所で下車

ここから駅までの道はおそらく旧道だと思われるが、お昼の12時前、たまに車とはすれ違うものの、人と出会うことはなく、唯一出会った動物は牛舎の牛で存在を知らなかった私は「モ~」という鳴き声にビックリしたことを覚えている

備後矢野駅の名物「福縁うどん」に無事出会うことができてちょっと感激。再び矢多田の停留所へと戻り、府中方面へ約20分戻り

河佐安藤という停留所で降りると川を挟んだ向こう側に

超シブいホームだけの中畑駅があり、このころにようやく福塩線の午後便が始まる

備後三川駅まで行って府中へと折り返し、この日は終了

5時半スタート、バスも少なく

翌日は5時28分府中発でスタート。とにかく朝の3往復を目いっぱい有効に利用しなければならない。もちろんこの日は18きっぷで運転士さんにはんこをもらった

1時間かけて備後安田に到着。まだ朝の6時台

福塩線で最も標高の高く福塩北線では歴史的には最も重要駅である上下駅に到着

1駅三次側の甲奴に進む

福塩線は南線が約23キロで14駅(福山含まず、府中含む)なのに対し、北線は約55キロで12駅(府中含まず、塩町含む)。つまり駅間は北線がかなり長く、おまけに山地で坂が多く徒歩移動に向かないのだが、甲奴~梶田間は2・4キロで坂もなく、まぁ歩ける距離だ

そこで

米元大統領もやって来たという甲奴の街並みを通って

ホームのみの梶田駅で下車

駅から徒歩5分ほどの道路にはバス路線があって

なんとも立派な時刻表。8時25分に間に合わせて三次行きに乗車。これは三良坂を通るバスで

立派な三良坂駅に到着。朝の最後の列車で

塩町に到着した。この時点で10時。さすがに午後便は待っていられないと切り上げとなったが、河佐については日没でヤメ、吉舎については写真で分かる通り、三良坂駅にはタクシー会社が入居しているため、乗ればすぐ着くという計算でやって来たのだが、身体が動かなかった

というのが3年前の経緯。それ以来の福塩北線となるが、とにかく残った2駅は絶対回収のつもりで現地へと向かった

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~500本目の記事はゴールのこの駅

高木駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

※動画あり音声注意

スタートは松浦鉄道

いつもお読みいただき、ありがとうございます。今回の記事が当ブログ500本目の記事となります。開始したのは2022年9月6日。674日での到達となりました。あいさつだけの1回目の後、最初の記事は松浦鉄道

見返すと文中の見出しもなく、やや読みにくい。そして写真が随分と小さく、これは鉄道ブログとしては致命的です。最初に写真を掲載したところ、スマホで閲覧した場合に、写真が出てくるのにおそろしく時間がかかったことで小さくしたのですが、その後に大きな写真も軽くする方法をさすがに覚えて現在に至るという情けない話で、まだまだ試行錯誤の途中ともいえます

ただこのトシになると、わずか2年前のことでも細かいことは忘れてしまうものですが、こうやって読み返すと「そうだったなぁ」と思い出が蘇ってきて、自分にとっても有意義なブログになっていると思います。X(旧ツイッター)と当ブログの2編成で情報を発信していますが、駅単体の客観情報はXで、詳細な訪問記と主観を交えたものはブログで今後も伝えていくつもりですので、よろしくお願いします

それぞれの記事の閲覧数が自分から見られるようになっているのですが、本数を重ねていくうちに当時は「反応少ないなぁ」と思っていた記事のカウンターが結構なものになっていて、この記事を書くためにさかのぼってみると驚くような数字になっていたりしてビックリするとともに励みになっています

最後だけはこの駅と決めていた

ということで福塩南線最後の訪問となったのは

高木駅。時刻表も見ずに福山をスタートした福塩南線の各駅訪問だが、最後はここにすることだけは決めていた

正確に言うと当駅は2019年12月に訪問済みで、福塩南線の全駅訪問は前回の上戸手駅で終わっているが、さすがにここまで来て、この駅に寄らないわけにはいかない。現在、全国で「高木駅」は唯一となっている。他にもあったが廃線、廃駅となった。同じ読みの「高儀駅」は城端線の項目で紹介したが、これは漢字が異なる

2023年の名字ランキングは1位「佐藤」、2位「鈴木」、3位「高橋」で、それぞれ百数十万人がいるそうだ。ただ駅名となると「佐藤」「鈴木」はなく(京急に鈴木町という駅は存在する)、高橋駅(佐世保線)がようやく登場する。意外と人名と駅名の親和性はないようにも思えるが、そもそも旧国鉄では旧国名をつけたりして同名駅を避けるようにしている

さて、この高木駅の位置はというと、お隣の鵜飼駅、その次の府中まで、それぞれ駅間距離は1キロと900メートルしかない

道路も2・1キロ。つまり2区間分でも30分で歩けてしまう距離なのだ。当駅から福塩線は福山市から府中市に入る(厳密には新市駅の敷地の一部は府中市となっている)が、駅周辺はすでに府中の街中の雰囲気

駅は鵜飼とほぼ同じ構造でスロープでホームに入る。1914年(大正3)の開業。住宅街にある単式ホームと待合所のみの駅

3年前と同じ景色だった。当然今回も駅名標前で自撮りを行ったが、すでにホームで電車を待っている人がいて、ちょっと恥ずかしかった(笑)

福山行きの105電車がやって来た。時間は12時40分。福山を出て4時間ほどで全駅訪問を達成したことになる。高木駅を最後に固定しなければ、もっと早く終わっただろう

実は福塩線では北線の河佐、吉舎の2駅が未訪問で、府中に近い河佐駅はこの日のうちに回収しておきたいと考えていたのだが、府中の「午後の始発」は15時。予想外に早く全駅訪問が終わってしまったため、2時間以上の待ち時間が府中で生じることになってしまった。それはちょっとかったるいかなぁ、と福山に戻って帰路につくことにしたのだが、それから3カ月後に福塩北線で苦労することになる。それについては、また後日

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~大きなビルを背後に持つ棒状駅

上戸手駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

ひときわ目立つビルとのコントラスト

戸手駅から上戸手駅に到着。見ての通り、単式ホームの駅だが駅舎の写真を撮ろうとすると大きすぎる存在がある

駅舎があって線路があり、その向こう側にそびえる2つのビル。すっかり雨が上がった直後だったのでコントラストが美しい

そのビルは「自重堂」の本社

地図でも分かる通り、大きな敷地である。駅から徒歩だと写真で分かるように踏切を越えればすぐたどり着く。自重堂とはワークウェアを中心とした大手アパレル。創業が1924年(大正13)で同社のHPによると関東大震災の直後で自戒の意を込めて自重の2文字を社名に盛り込んだという

2022年の駅の1日の利用者は874人。旧新市町の中心駅である新市駅より利用者は多い

駅舎は新築のコンクリート製

駅舎は戸手駅と同様のコンクリートの簡易的な駅舎である。2021年の利用開始と戸手駅とほぼ同時期。それまでは待合所のみだったことも同様。また駅前の広いスペースから、かつてはもっとしっかりした駅舎があったと思われるが、いつのころまでどのような建物があったのかは分からなかった。また現在の駅舎ができるころにホーム上屋が撤去されたようだ

開業は1914年(大正3)。当時の駅名は「両備天王」。国鉄となった1933年(昭和8)に現在の駅名となった。駅の近くにある素盞嗚(すさのお)神社は「天王社」とも呼ばれる

駅名変更は90年も前のことだが、かつての駅名を伝えるものが駅に通じる踏切である

名前は天王東踏切。過去にも今はない学校名がそのまま踏切の名前になっている駅を紹介したが、全国各地で由緒ある名前の踏切を見かけることがある。ちゃんと読みをふってあって「てんのお」と読むことを知る

踏切にはこのような注意書きがある。確かにそう言われると見にくい。ただ警報器に遮断機まで備えられているので、さすがに気付くだろう。そう思っていたら警報器が鳴っているにもかかわらず突っ込んだ自転車が渡りきれずに立ち往生。詳しくは書かないが、結果的には私が遮断棒を持ち上げて救出することになり、事故は起きなかった。ただ目の前で実際にそんな場面に遭遇するとは思わなかったのでビックリ

踏切から駅へと戻る。小さな階段で電車を待つ。さて、いよいよあと1駅である

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~ちょっとした山中の徒歩移動で出会った旧駅名標

戸手駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

雰囲気の異なる駅間徒歩

近田駅からお次の戸手駅までは徒歩移動である。もう何回も繰り返しているが、昼間は1時間に1本の福塩南線は1駅ぐらいなら歩いた方が早い区間がほとんどである。今回も空白を埋めるために徒歩となったが、駅間のレール距離は1キロしかなく歩いても大したことはない

今回はわずか15分。どこの駅もそうなのだが、都心の私鉄並みというか下手すると、それ以上に駅間は近い区間が多い

ただ地図を見て分かるのはちょっとこれまでとは雰囲気が異なる点。住宅街の中を走っている印象の福塩南線だが、これから県道ルートを行こうとすると住宅の少ない徒歩区間となるようだ

ルートを細かく見てもらえば理解できるかもしれないが、最初は絶対に車の通れない坂道に案内され、やがて県道に出る。この道路は万能倉~駅家の移動でも利用した県道で、その延長上にある。石見銀山街道と記されているが、石見銀山から港へ運ぶためのもので、日本海側の港に向けての街道や山中を抜けて瀬戸内海へと向かう街道など4つの街道があったとされるが、瀬戸内海方面へと向かう街道は笠岡へ向かうコースと尾道へと向かうコースがあったとされ、福塩線特に福塩北線の成り立ちと密接なつながりを持っている

地図では線路とくっついての道路となっているが、やや高台を通る。地図を見るとさらに北川に旧古代山陽道がある。かつては現在のメイン道路である国道486号ではなく、こちら側がメインコースだったのだろう。もっとも駅家付近ではひっきりなしに車が走る県道も、このあたりは閑散としており、車とはほとんど出会わなかった。その分、雨もあがって快適な徒歩コースだった。もっともこの記事を書いている7月8日の最高気温35度とかいう気候だったら、とてもじゃないが歩いていないだろう

新しい駅舎と出会う

駅前の広場に出てくると簡易的な駅舎と出会う

コンクリートで真新しい。駅の開業は1914年(大正3)。現在は福山市新市町だが2003年(平15)までは新市町。1955年(昭和30)までは戸手村。駅前の広大なスペースから、そこにはそれなりの駅舎があったと思われるがJR移管後に解体されたらしく、しばらくは待合所のみの駅だった。現在の姿は3年前から。簡易的なものではあるが、駅舎が約30年ぶりに復活したことになる

ホームに上がるとかつては列車交換のできる対面ホームだったことが分かる。その向こう側にもスペースがあり、さらにもう1本線路が敷かれていた形跡があるが、いずれにせよ現在は棒状化され事実上1面1線構造

しかしその廃ホーム上には貴重なものが残されている

おそらく国鉄時代の駅名標。備後本庄駅にも残されていることはすでに紹介したが

備後本庄駅のものとは違って木製の駅名標である。おそらく鳥居式駅名標だったと思われるが、鳥居を構成する上の部分がどこかに行っている。気候によって朽ちてしまったのか、あまり上部だけがないまま放置されているのは見たことがないが、その割には文字はしっかり読み取れる。このように雨ざらしで置かれると、やがて消えていくものだが、きれいに残っている。文字部分だけを更新したのかもしれないが、いずれにせよ貴重なもの。福塩南線では備後本庄駅のものが有名だが、木製のこちらもぜひ見てほしい存在だ

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