私鉄

カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その6 いなべ市の代表駅で半数が折り返す

楚原駅の駅名標

※訪問は2024年11月19日

発車番線に注意

楚原駅に到着。ご覧の通りの2面2線構造だが、昼間は半数が当駅で折り返す。朝のラッシュ時が終わると西桑名から当駅までが30分に1本、当駅から終点の阿下喜までは1時間に1本の運行となる。それゆえ西桑名行きは発車ホームが異なり

ホームの時刻表には発車番線が表示されている。時刻表を見ると分かるが、折り返し以外の阿下喜まで向かう列車と阿下喜からやって来る列車が必ず当駅で列車交換を行うのも特徴のひとつ

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いなべ市員弁町

楚原駅の駅舎。近鉄から三岐鉄道への移管の際、駅の統廃合が行われ、従来の駅舎も自動改札機の遠隔操作に対応するため、多くの駅で建て直しが行われたが、当駅は近鉄時代のまま。現在の駅舎が1992年(平成4)に新築されたばかりということもある。北勢線では数少ない有人駅のひとつととなったことも、そのまま利用される一因ともなっている

当駅は1914年(大正3)に現在の西桑名駅である大山田から当駅までの敷設が完了して北勢鉄道が新規開業した際の終着駅としてスタートした。当駅から先の部分は山中の難工事続きで、先に紹介した麻生田駅を含む阿下喜東駅(後に六石と改名され、三岐鉄道移管で廃駅)までが2年後に開業したものの、終点の阿下喜まで到達したのは1931年(昭和6)のことだった。駅の開業時は大泉原村に所在。1941年に員弁町となったが、最初に開業したことでも分かるように地域の中心でもあった。「楚原」も現在も当駅の利用者は多く、2023年の1日あたりの乗降客数は991人で西桑名、星川に次ぐ第3位である。有人駅となっているのもよく分かる。いなべ市の市役所最寄りは阿下喜駅だが、いなべ市の中心駅は人の多さからも楚原駅となっている

ちなみに鉄道むすめも「楚原さん」である

駅の住所は「いなべ市員弁町楚原」。平成の大合併でいなべ市が成立した後も旧町名はそのまま使われているが、「員弁」はもちろん「いなべ」と読むため、すべて平仮名にすると「いなべしいなべちょう」と「いなべ」が続く。市が誕生した際、「員弁」が難読だとして平仮名となった。当時は駅名にしても平仮名にすることが流行った時代でもあった。楚原もかなり古い文献に登場していて鎌倉時代には伊勢神宮領として「曾原」の表記があり「蘇原」という表記も見られるという

住宅街にたたずむ

駅の周辺はかなり規模の大きい住宅街

甲子園の高校野球やレスリングでも知られる「三重県立いなべ総合学園高校」の最寄りでもあり、駅の利用者数に大きく貢献している

訪問時はたまたま駅員さん不在の時間帯だったが、駅舎の待合室はエアコン完備で多くの利用者に対応している

緑の布製シートの屋根は近鉄を強く意識させるもの。最初に時刻表を見た時は、なんでこの駅で半分が折り返すのだろう、と思っていたが、行って納得、調べて納得だった

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その5 ロードサイド店の一角で「復活」

星川駅の駅名標

※訪問は2024年11月19日

新規開業も路線で2位の利用者

麻生田駅から桑名市内へと戻って星川駅で下車。当駅は2005年と三岐鉄道移管後に新たに設けられた単式ホームの駅だが、路線内では数少ない有人駅のひとつ。しかも2023年の利用者数は1日1019人と北勢線13駅の中では西桑名駅(3461人)に次ぐ第2位。事実上、西桑名駅は桑名駅と一体化しているので、ある意味1位と言ってもいいぐらいだが、数字の理由については現地を訪れると一目瞭然となる

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車窓からの景色

阿下喜方面から西桑名を目指すと星川駅の手前で車窓にMEGAドンキが見える。これだけだと、ありきたりな光景で「ドンキぐらいあるだろう」と思ってしまうが、駅から出ると、ちょっと驚く

左にあるのが駅舎で正面にあるのが三洋堂書店で右がMEGAドンキ。つまりこの2店舗と敷地を共有し、ロードサイド店の一角に駅がある格好となっている

周辺の店舗はこれだけではない。駐車場を出るとすぐ国道421号で、東名阪自動車道の桑名インターも至近であるためファミレス、回転寿司などのチェーン飲食店のほか、病院やチェーンホテルなど多くの施設が集まる。北勢線沿線では駅近辺が最もにぎやかな場所となっている。

別の駅を移転開業

当駅は三岐鉄道移管後に、500メートルほど離れた場所にあった「坂井橋」という駅を移転して新規開業した形をとっている

旧駅は、まさに坂井橋の近くにあった。員弁川を渡る貴重な橋の近くでマイカーなど存在しない大正期の開業時は貴重な場所にあったといえるが、駅前にスペースがない。北勢線は三岐鉄道移管後にパーク&ライドに重点を置く駅を目指しているので現在の場所が選ばれたのだろう。坂井橋駅は星川駅開業と同時に廃駅となっている

駅舎を正面から見ると

デザインはまさに「星と川」だが、駅の住所ともなっている星川は古い地名である。桑名市のHPによると、大和(奈良県)の星川から移住してきた人びとによって開発されたと考えられていて、平安時代の文献には「星川市庭(いちば)」という物資交換の市場が記録されていて、員弁川に港もあったという

そのように古い地名なので、実は過去にも「星川駅」が存在した。しかも2回も。初代は北勢鉄道の開業(1914年)と同時に設置され、現在の駅より西の嘉例川を渡った先にあったが、ホームを設置するスペースがないということで間もなく廃止。昭和になって嘉例川の砂利を運搬する目的で嘉例川西岸付近に2代目の星川駅ができたが、戦時中の電力節約のあおりを受けて休止駅となり、戦後20年以上を経て正式に廃駅となった。名称だけなら現在の駅は復活した3代目となるが、正式には坂井橋駅の移転という形になっている。駅間の近い北勢線ならではの話でもある

暑さも寒さも凌げるエアコン完備の待合室も備え、早朝や夜間以外の駅員さんがいる時間帯では定期券も買える。利用者数第2位にふさわしい施設を備えている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その4 こちらの難読駅は山中にひっそり

麻生田駅の駅舎

※訪問は2024年11月20日

30分に1本の運行

東員駅から終点である阿下喜行きの電車に乗る

こちらは列車交換の西桑名行き。訪問時は11月の後半だったが、すでにクリスマスムード

朝夕のラッシュ時は本数も増える北勢線は昼間は、きっちり30分に1本のパターンダイヤとなっている。内訳は途中の楚原止まりと終点の阿下喜行きが半々。つまり楚原以遠は1時間に1本となるが、駅の配置だけを見ると楚原は阿下喜の2つ手前。たった2駅区間なので、すべて最後まで行けばいいのに…と思うのが人情である。ということで車窓や乗車状況などもできるだけしっかり確認しながら電車に乗り込んだ

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朝のラッシュが終わると

9時を過ぎると朝の通勤通学ラッシュは終わり

突如として乗車車両は貸切状態に。人がいないと写真は撮りやすいが、誰もいないとナローゲージの車内の狭さが分かりにくくなる

列車は麻生田駅に到着した。1時間に1本となってしまう2区間の途中駅。格好いいデザインは

Jリーグ入りを目指すJFLのヴィアティン三重である。東員駅の記事で東員町役場の最寄りと書いたが、町役場近くには町の中心機能が集まっていてクラブがホームスタジアムとするLA・PITA東員スタジアムもその一帯にある

三岐鉄道移管後に駅舎設置

ということで麻生田駅だが

これは読めない

駅前にあった名所案内にも「麻績塚古墳」があり、いなべ市観光協会のHPによると、麻生田の地は古来から伊勢の神領であり、麻の栽培や紡織が盛ん。「和名抄」にもその名をとどめているという。古墳があり、埋葬された人物の名をとって一般に「麻績塚」と呼ばれ、墓の主は伝承によれば神麻績連。天物知命の后、また、桑名玖賀の姫ともいわれていると記され「その名のとおり、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたことがうかがえる」と綴られている。全国には「麻」の付く町は数多くあるが、当地でも麻の栽培が行われていたのだろう

駅の開業は1916年(大正5)。楚原から阿下喜までが延伸された際に設置された100年以上の歴史を持つ。開業時は山郷村に所在し、戦後に北勢町そして現在はいなべ市

楚原を出ると車窓は急に山深くなり、それまでの桑名市からの都市圏というムードが一変して当駅に着く。ここから阿下喜までも山中を行く。当駅の両側には近鉄時代はそれぞれ駅があったが、ともに廃駅となっていて、そんな事情も山深さを感じさせる要因となっているのかもしれない

駅舎はあるが、これは三岐鉄道移管後に建てられたもの。駅の全景は

このような感じで、かつてはホームと待合所だけだったことが想像できる。ただ写真では自由に入れるように見えるホームだが

おそらくかつての出入口だった箇所は塞がれていて駅舎に備えられた自動改札機を通らないと入れなくなっている。北勢線はその部分がしっかり守られていて、多くの無人駅も遠隔操作できる自動改札機が必ずあり、後で出てくるが、全13駅のうち自由にホームに出入りできる駅はひとつしかない

周辺はポツポツと民家が存在するだけだが、当駅もパーク&ライドができるようになっていて舗装されていない部分もあるが、駐車場は備わっている。なお北勢線の中では利用者数が最も少ない駅となっていたが、2023年のデータでは13駅中11位の260人となっている

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2025あけましておめでとうございます

2度目の年越し

あけましておめでとうございます

2022年9月に当ブログを始めて以来、無事に2度目の年越しをすることができました

これも皆さまに読んでいただているからこそのものだと思います。ありがとうございます

こちらは今年の3月に由利高原鉄道に乗車した時のものです

なかなか大阪や神戸で由利高原鉄道に乗ったことがある人を探すのは難しいと思いますが、一面の雪景色の車窓はなかなか雄大なものがありました

こちらはわたらせ渓谷鉄道

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私鉄には純然たる会社として独立しているものと第三セクターの2種類があり、三セクにも元々は国鉄やJRだったものが移管したもの、新線を設けるために新たに立ち上げられたものがあります

上に挙げた2社は国鉄としてスタートしたもの

こちら旧東北本線だった青い森鉄道の乙供駅。国鉄を引き継いだ三セクは旧来の駅舎がそのまま残されていることが多い

一方、こちらは有名な伊予鉄のダイヤモンドクロス。最初から独立した会社です

今年の目標は

各地の私鉄や三セクについては、折に触れて紹介してきましたが、青春18きっぷのルール変更もあって、今年は私鉄、三セクにも力を入れたいと思っています

実は各駅訪問についてはJRよりも私鉄、三セクの方がはるかにハードルが高い。とにかく現地まで行かなければならないし、うまくきっぷを買わないと金銭的負担が大きい

阪急のように大手私鉄なら話は別ですが運行本数もかなり厳しかったりします。ただ大手私鉄も運行区間が長い会社は全駅というと、かなり気の遠くなる作業となります。そもそもフリーきっぷの設定がない会社もあります

現時点で私が1分たりとも乗車したことのない私鉄は青森県の弘南鉄道と山形県のフラワー長井線、熊本県の南阿蘇鉄道です。都市圏に目を向けると湘南モノレールも乗ったことがありません。虫食いのように未乗車区間が残っている会社も多数あります

11、12月と三岐鉄道の北勢線と三岐線に乗って、前者はナローゲージという特別なシステムもありますが、とてもおもしろかった

思えばブログを開始した時、最初に紹介したのは松浦鉄道でした。ベタなことを言ってしまうとJRの記事の方が閲覧数がはるかに多いのは事実ですが、地方鉄道のおもしろさや良さも伝えていきたい。今年のテーマのひとつに「積極的に私鉄の紹介を行う」を挙げたいと思います

本年もよろしくお願いいたします

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その3 新生北勢線を象徴する駅

東員駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

有人の東員町の代表駅も開業は2005年

東員駅に到着。私が乗車した電車は当駅止まりで、この後は車庫に入る

車庫があり、運転司令をつかさどる、いわば北勢線の中枢駅で立派な駅舎を備える終日の有人駅。町役場の最寄りでもあり、東員町の代表駅。だが駅名や施設から想像されるものとは異なり、駅の開業は2005年と近鉄から三岐鉄道への移管後。110年もの歴史を有する北勢線で、どういったことなのかと思ってしまうが、実はこの駅こそが新しい北勢線を象徴する存在なのだ

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廃線寸前からの存続

北勢線は1914年(大正3)に大山田(現西桑名)~楚原が開業したのを皮切りに徐々に延伸され、最後の1区間は難工事だったものの、1931年(昭和6)に全線が開業。と同時に電化された。ナローゲージの方式が今も続くのは、業績が好調だったこと、総路線が約20キロと短い上に独立した路線だったからである

森林鉄道も含めると全国に数百もあったとされる軽便鉄道は徐々に姿を消していったが、北勢線は戦争もくぐり抜け、戦時中の統合で三重交通の傘下に入り、その後、近鉄の一部となった。だが、例によってモータリゼーションの波には勝てず業績は悪化。近鉄は2000年になって廃線を打ち出し、一度はほぼ既成化したかのようになったが、沿線自治体が存続を決定。三セク化には時間とノウハウがないことから三岐鉄道に運行を依頼。その際に土地は自治体が所有。三岐鉄道は車両や線路、駅舎といった鉄道施設を所有することになった

移管にあたって課題とされたのがパーク&ライドの拡充。大正期からの各駅は簡素な構造のものも多く、駅前に車が乗り入れるのもやっと、という形だったが、駅の統廃合を進め、新たに設置された駅は駐車場を充実させることに。前記事で取り上げた穴太駅は同じ場所で規模の大きな駐車場を設置できた珍しい例だ(ホームを従来とは逆側に移し、駐車場を設けられる側にした)

そして東員駅。北大社(きたおおやしろ)駅と六把野(ろっぱの)駅を統合して新設された。西桑名駅の記事でも触れたが、北大社は車庫のある駅で現在は信号場となっているが、東員駅は車庫も備えた形の駅となったわけで、西桑名にあった司令室も引っ越し。乗務員の宿泊所も設けられ、文字通り北勢線の中枢駅となった。ホームは北勢線の多くの駅で採用されているバリアフリー形式

このため当駅には終日、駅員さんがいる

駅の設置理由は

東員駅が現在地に設置されたのは町役場の最寄りだったため。以前から役場の近くに駅を設置する計画はあったそうだ

こちらが駅の全景。かなりの規模である。広いロータリーを持ち駐車場も140台分が確保されている

こちらは東員町のコミュニティーバス停留所。北勢中央公園口駅とは三岐線の駅

駅の北側は住宅街で、南側にはコスモス畑が広がる

楚原れんげさんに見送られて次の駅へと向かう

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その2 高校生とともに難読駅で下車

穴太駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

ひらがなから見せられても困ってしまう

西桑名から約20分で「あのう」駅に到着。どのような漢字が充てられているのか想像もできないが、サムネ写真にある通り「穴太」と書く。ちなみに当駅は「員弁郡東員町に所在する穴太駅」となっていて難易度は高め。自治体名は「いなべぐん とういんちょう」。普通に「とういん」と読むのも意外とハードルが高いかもしれない

「穴太」という地名は各地にあり、京阪電車の石山坂本線にも「穴太(あのお)」駅が存在する。「あなお」と読む地名もあるそうだ。私は以前、阪急神戸本線の園田駅(兵庫県尼崎市)近辺をよくウロウロしていたことがあり、当地の古い地名として「穴太(あのう)」が今も残っていることをたまたま知っていたため、おそらく「あのう」と読むのだろうとは思っていたが、各地にあるとはいえ、やはり難読である。地名の由来は各地それぞれあるようだが、交通的に重要な場所によく見られるという。三重県の穴太は大きな桑の木に空いていた穴から、毎年稲穂が生まれたことから「穴穂」と呼ばれるようになったとの説もあるという

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あまりの変化についていけず

穴太駅の駅舎。北勢線については20年以上前に乗車した。近鉄の時代だったが、近鉄が廃線を表明したことで慌てて乗りに行ったのだが、今は信号場となった「北大杜」という駅で降りたのみで、後は終点までの単純往復。今後の記事でも出てくるが、北大杜は車庫のある場所で車庫そのものは今も現役。北勢線は三岐鉄道に移管した際、駅の統廃合や新設が行われたため、以前乗車してからの変化に全くついていけておらず、ほとんど初乗車と同じだ。当駅についても難読という意識はあったが、降りてもいないので全く知識はない。駅としての歴史は1914年(大正3)の開業時と同じだが、駅舎は見て分かる通り新しい

棒状ホームだが、ホーム幅はしっかりとってある

パーク&ライトと高校生

今回すべての駅で降りてみたのだが、パーク&ライドのシステムが多くの駅で採用されている。パーク&ライドとは駅までマイカーで来て、そこからは列車で勤務先を目指すシステム。都心の渋滞を減らすとともに鉄道利用者を増やす二重のプラスを生み出すもの。大都市の近郊でも採用され、駐車場は安価にされているが、北勢線沿線では鉄道利用者においては駐車場は無料のようだ

また朝の通学列車に乗ってみて、沿線には甲子園の高校野球で名をはせた学校への通学があることも知った

当駅からは桑名西高校への通学バスが登下校時に運行されている

通勤通学帯から列車に乗るとピーク時と、その後の混雑具合や利用具合がよく分かる

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その1 「東」にあるのに駅名は「西」

西桑名駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

もともとは改札内を共有

朝6時45分の近鉄名古屋駅。時間帯は早く、方向的には通勤通学コースとは逆だが、人は多い

6時51分発の急行で桑名へと向かう。この時間帯に近鉄名古屋駅に来たのは初めてだが、大混雑とは言えないが発車ギリギリとなると、もう座れない。20分で

桑名に到着。JR東海、近鉄、養老鉄道の3社が利用。養老鉄道はもともと近鉄だったが、少し前までは津や松阪のように改札内は中間改札もなく共有されていた。4年前に新駅舎ができ、それぞれが別の改札となっている

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徒歩100メートルの乗り換え

今回は三岐鉄道北勢線の旅

桑名駅の東口から出て100メートルも歩くと北勢線の起点駅である西桑名駅がある。へばりついたような構造となっているが、元はもっと規模の大きな駅だった。そして起点駅でもなかった

駅の東側を国道1号線が走っているが、北勢線は国道を横切った先にある「桑名京橋」という駅が起点だった。だが1961年(昭和36)に渋滞が酷いということで、国道を横切る部分はカットされ西桑名が始発駅となった。西桑名駅も車庫も備えた規模の大きいものだったが、駅前の再開発で車庫は移転。かわいい駅となった

かわいい駅だが、路線内で圧倒的1位の利用者数(2023年は3461人。2位は星川駅の1019人)だけあって有人駅。行先案内がパネル式になっているのが印象的。写真を撮った時間は、たまたま電車の到着直前だったが、この後に到着した電車からはさすがに朝の7時台とあって通勤通学客がドッと降りてきた

さて、ここまでの記事で「東口」「東側」という言葉を意図的に使用してきたが、初めて当駅を訪れて感じるであろうことは「近鉄、JRの東側にあるのに、なぜ西桑名なのか」という疑問

これは種明かしをすれば何でもない、ここが西桑名という地名だったからだ。1914年(大正3)の開業時の駅名は「大山田」だった。これは所在地が大山田村だったから。1929年(昭和3)に大山田村は西桑名町となる。間もなく駅名も西桑名に改められ、1937年に桑名市が発足した後も駅名は変更されないまま現在に至っている。北勢線が近鉄の駅となってからも変わらなかったが、桑名駅と同構内にないのでは桑名駅と名乗らせるわけにはいかなかったのだろう

国内に3社しかない特殊狭軌

乗車するのは、かわいい駅以上にかわいい小さな車両。北勢線は線路幅762センチしかない特殊狭軌。日本の列車は旧国鉄からの流れをくむ狭軌(1067ミリ)と、新幹線や一部の私鉄で見られる標準軌(1435ミリ)に大別されるが、ごくわずかの特殊狭軌も残されている。かつては全国の森林などで活躍した軽便鉄道でよく利用された。スペースをとらずに敷設できるのがストロングポイントだが、車両は小さくなってしまうので人間を大量に輸送するには向かない。都市部を走っていたものも改軌が進み、現在残っているのは、ここ北勢線と四日市あすなろう鉄道(三重県)、黒部峡谷鉄道(富山県)の3社4路線のみ(四日市あすなろう鉄道は2路線保持)となっている

線路の幅にちなんで「ナローゲージ」とも呼ばれる。三重県のそれも比較的近いところに2社があるのも貴重だが、線路幅が標準軌の半分ほどしかない車内はどんな感じなのか。ちょうど通学時間帯で高校生が多く乗車する時間帯なので分かりやすい

「ひざ付き合わす」とは、まさにこのこと。一応、車内にはつり革もあるが、体格の良い男子生徒が並ぶと立つスペースも厳しい。つり革を持って立っているのは、座っている生徒のいわゆる「ツレ」が中心

とにかく、このかわいい車両で出発である

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開業50年超 日本最古のダイエーを訪ねる~その2 取り壊しは誤情報?

ダイエー曽根店のお好み焼き店

※訪問は2024年10月17日

そもそもの訪問のきっかけは

こちらは衣料品売り場。とにかく最上階を目指す

今回、20数年ぶりに当地を訪れたのは店舗取り壊しの情報が春から流れ続けていたからだ。とくにユーチューブでは訪問記が多数挙げられ、SNSでは「10月から取り壊し」に基づいた情報があふれていた

これは早めにお別れを言いにいかなければならないな、と思いつつなかなかきっかけがなく、時が流れていったが、現地を訪れたX(旧ツイッター)のフォロワーさんから「まだ大丈夫」との声をいただき、この日の訪問となった。確かに当初言われていた10月にとっくに入っているが、ダイエー曽根店のHPは何も変わらず、今週のチラシが入っている

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貴重だった駐車場は今も変わらず

当店が重宝されてきたのは駐車場の存在だ。「そんなあたりまえのことを言うな」との声が聞こえてきそうだが、私が生活のために当店を利用していた90年代、梅田から15分ほどの大都市圏で、万単位の利用者がある駅前のスーパーに駐車場は少なかった。近隣の人が徒歩や、せいぜい自転車で通うものがスーパーマーケットだった

当時、私は服部天神(そのころの駅名は服部)と庄内の間ぐらいのやや服部寄りに住んでいた。最寄りは服部で徒歩10分弱。ただ徒歩圏にスーパーがないのが悩みで、買い物はいつも駐車場のある曽根まで車で出かけていた。この景色は今も変わらない。日常的に都市部のスーパーを車利用している方なら、この光景に違和感を覚えるのではないだろうか

今も人が受付を行うアナログ式なのだ。現在は無人で機械が受付をするシステムがほとんど。この仕組みは少なくとも私の周囲にはない

お好み焼きで一息

6階にやってきた。喫茶店、中華といろいろなお店があり、どこに入るか迷ってしまう。私の記憶にある姿とほとんど変わらない。理髪店はヘアカラーのお店に姿を変えたようだが

迷った末にお好み焼き屋さんに入ることに

関西の人間らしく、お好み焼き定食。美味い

お店の方に建物の取り壊しについて尋ねてみた。と、帰ってきたのは、やや意外な答え

「ここのところ、来られるお客さんにずっと聞かれ続けているのですよ。ただわれわれは何にも聞いていないので」

どちらかというと、その質問は、もうウンザリという風情だった

ことの発端は豊中市の発表

瞬く間にダイエー曽根店取り壊しのニュースとなったのは豊中市の発表による。古い建物の耐震性の診断に当ビルも含まれていて、他の建物の多くが「耐震改修」「実施済み」とある中、当ビルについては「建替え」「令和6年10月着工予定」となっている。つまり10月から取り壊し工事が始まる、ということだ。だが、この記事を書いている時点で工事が始まったという情報は流れていない。それどころかダイエー曽根店のHPでは、おせち料理の受付まで記されている。少なくとも10月から解体工事が始まるというのは誤情報だったことになる。考えてみればお店で働く方々の処遇もあり、店舗の閉店は、それなりの告知があって行われるものだ。私もフライング発進した感はあるが、発表主が豊中市とあっては信じるのも無理はない

ただ、ことは老朽化ではなく耐震性。何らかの処置は必要だというのは想像に難くない。気になるのは

道を挟んだ向かいにスーパーの「KOHYO」が営業していること。曽根駅の高架下にあり新しい。ダイエーと同じく、こちらもイオン傘下の店舗で、こんな近い所で競合しているのは、やや不思議でもある(三宮でも隣同士で営業しているが)

考えてみれば、デパート並に「なんでもそろう」が、全盛期のダイエーの標準店舗だった。6階の飲食店街などは、ショッピングセンターのフードコートに慣れきった今の私たちにとっては、斬新な昭和の姿である

お好み焼き店は12月の予定まですっかり決まっているという。飲食街の雰囲気を味わうだけで貴重な体験だし、フロアに立つと20代、30代前半のころが蘇ってきた。必ず年内にもう一度訪れようと決めて曽根駅へと向かった

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開業50年超 日本最古のダイエーを訪ねる~その1 新入社員を迎えてくれた建物

曽根駅の駅名標

※訪問は2024年10月17日

20数年ぶりに下車

おことわり 今回の記事は10月17日時点での情報です

大阪府豊中市にある阪急宝塚本線の曽根駅で下車。以前はあたりまえのように降りていた駅だが、久しぶり。20年は軽く超えていると思う

2面4線の高架駅で規模は大きい。ただ優等列車の停車は朝の通勤通学帯の梅田行き準急のみで、基本的には普通のみ。4線のホームを持つのは待避用のためだが、昼間については待避線の出番はないダイヤとなっている

私が初めてこの駅で降り立ったのは1986年(昭和61)4月の社会人になりたて。当時は同じく2面4線ながらも地上駅で構内踏切でホームを移動する構造だった。宝塚本線内では蛍池駅も構内踏切だった(今もホームに構内踏切の跡が残っている)が、今にして思うと昼間でも10分間隔で普通と急行が上下で運行される駅で、よくもまぁ構内踏切が設けられていたなぁ、という感じがするが、当時は何も考えずに受け入れていた

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目指すは駅前のダイエー曽根店

今回の目的は駅前のダイエー曽根店訪問である。こちらのダイエーには初めて曽根駅で降りた後、10年以上にわたってお世話になった

6階建てでビル全体がダイエー。こちらも今となっては凄いことで、単なる食料品スーパーではなく、総合ショッピングセンターとなっているダイエー唯一の存在である

そもそもダイエーそのものが全国で姿を消している昨今だが、近畿圏ではまだかなりの店舗が残っていて、特に神戸市内では多くの店舗があり、商品はイオンのものばかりながら、日常的にダイエーを利用している人は多いと思う。ただしいずれもが食料品スーパーにほぼ特化したもので、曽根店のように衣料も扱っています、飲食店のテナントも入っています、というショッピングセンター形式は当店が営業を開始した1971年はダイエーでもよくある形態だったが、徐々に姿を消して今は当店のみ。神戸・三宮店も数年前にスーパー以外はすべて専門店の形式となった。さらに言うと、いつの間にか最古参のダイエーとなっている

買い物、飲食、バス待ち、床屋と用途多数

社会人生活の最初の住居は同じく宝塚本線の庄内だった。その後、服部へと転居する。梅田から見ると庄内は豊中市に入って最初の駅で、以下服部、曽根と続く。理由は当時の会社の最寄り駅が服部だったから。ただ場所は服部駅から徒歩20分と結構な距離で、そのため通勤用のバスを1時間に1本ほどの割合で走らせていた。とはいえ服部の駅前は狭く、バス乗り場は曽根に設けられていた。だから何かと曽根で降りることは多かった。バスは1時間に1本なので早めに行って、6階の飲食店街で食事をしたり、コーヒーを飲んだり。今でも覚えているが、出張から大阪空港に帰ってきて蛍池経由で曽根で降りたものの、バスは行ったばかり。参ったなぁ、と大きい荷物を持ったまま理髪店での時間つぶしとなった

1階は普通にスーパーで

途中に衣料や雑貨のコーナーはあって5階は100円ショップや文具店、眼鏡店などが入居している。私が向かうのは6階の飲食街である

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宇都宮ライトレールに初乗車~終点は路面電車のみが走る日本で唯一の自治体

芳賀・高根沢工業団地の駅名標

※訪問は2024年6月16日

恥ずかしながら初めて知った

ゆいの杜中央から10分ほどで宇都宮LRTは終点の芳賀・高根沢工業団地停留場に到着。降車したのは私を含め4人。1人は不明だが、残る3人はいずれも同業者(鉄道ファン)。近年は時刻表を持ち歩く人が少なくなったので、JRでは同業者の判別がしにくくなっているが、ここでは一目瞭然。なぜなら1日乗車券が首からぶら下げる仕組みだから

終着駅の恒例行事は車止めを撮ること。路面電車らしく終着駅といっても駅舎はなく、もちろん無人

宇都宮LRTの盛況ニュースが流れる中、この人数はあまにも少ないと思われるかもしれないが、停留所名で分かる通り、駅前には工場がドンとあって、他は農地が広がる。LRT利用者の多くは工場への通勤者で平日と週末で利用者が大きく異なる停留所となっている。LRTの路線的な性格からこのような停留所が多い

ここからは恥ずかしい話となるが、いつも通り予習をしない私は現地に来るまで沿線にこのような巨大な工場団地が広がっているとは知らなかった。もっと言うと、この終着駅は芳賀町にあるから。この停留所名を含む最後の4駅はいずれも芳賀町に所在しているが、地元の方にはまことに失礼ながら、そもそも芳賀町という自治体を存じ上げなかった。正確な路線名が「宇都宮芳賀ライトレール線」であることは知識としてあったが、2つの自治体名とは分からなかった(会社名は宇都宮ライトレール株式会社である)

日本で「唯二」そして「唯一」

平成の大合併が進行した現在、そもそも路面電車が郡部を走ることはそう多くはない。芳賀町ともうひとつは高知県のいの町と2自治体だけ。いの町はとさでんが走る。旧自治体名は伊野町で、かつてセンバツ高校野球でKK擁するPL学園を倒して優勝した伊野商業で全国に知られるようになった。ただ、いの町内はJRの土讃線が貫いていて中心駅はJRの伊野。特急停車駅である。芳賀町については、もともと町内に鉄路がなかったため、LRTの開業によって路面電車のみが走る自治体となった。つまり日本で「唯二」であり「唯一」の自治体が誕生したことになる

宇都宮LRTの全長は14・6キロ。鬼怒川を越えると蛇行するように進んでいるのは主な工業団地や施設、ニュータウンを通るため。大きなカーブも存在するが、そこは路面電車の特性が生かされている。30年以上前からあったLRT構想は工業団地の誕生で市内の渋滞が酷くなったことに起因するという。工事にあたっては専用軌道がわずか5・1キロで、他は従来の道路との併用区間で渋滞がより激しくなる、バス事業者を圧迫するとの反対意見もあったが、開業から1年で出だしは好調。9月13日には累計利用者が500万人に達した。当初の予測よりも3カ月早いという

停留所を2区間戻って芳賀町工業団地管理センター前で下車。理由は簡単で生理現象のため。路面電車の宇都宮LRTは車内はもちろん停留所にも当然お手洗いはない。この停留所は芳賀町内、町外を走るバスも集まるトランジットセンターとなっていて、タクシーのほかパーク&ライドの駐車場、駐輪場も備えられている芳賀町の交通の中心地としと整備されている。もちろんお手洗いも備わっている(各停留所のお手洗いの有無については宇都宮LRTのHPで紹介している)

宇都宮LRTは東武宇都宮駅方面へへの延伸がほぼ決まっている。現在は宇都宮駅東口のみに停留所があるが、北側から回り込むような形で在来線ホームと東北新幹線ホームの間を通す大がかりな工事が行われ、西口にも停留所が設けられる。また電圧の問題解消は分からないが、東武との乗り入れ構想もあるらしい

道路を直角に曲がって宇都宮駅の電車がやって来た。最初の宇都宮LRT体験はここで終了。小山、宇都宮は何かと来る用事が多い場所なので、駅で降りては今後も工事の進ちょくを見守りたいと思う

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