私鉄

今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その4~貴重な高架車庫と阪神淡路大震災

※訪問は2024年4月16日

かつての駅名がところどころに残る

急な用件が入ったため、散策を打ち切ることになり一夜明け。新在家駅から再スタートである。といっても、おそらく30分もかからず終わるのだが

右側に国道43号の防音カバーがある。国道に食い込むように走っていた線路は再び43号から離れることになる。奥に公園が見えるが

またもや「いかにも」の公園が現れる

浜田公園。近所の幼稚園か保育園の子どもたちが遊んでいたが、先生たちもここが線路だったということは知らないだろう

この先に東明(とうみょう)郵便局があり

東明交差点がある。国道43号から六甲アイランドに向かう交差点で東西南北とも交通量は多く、大型車両が走る

新在家駅は1905年(明治38)の開業時は東明駅を名乗っていた。現在の新在家と大石の間に別の新在家があり、あまりにも駅間が近すぎたためか(現在も大石~新在家は1キロしか離れていない)昭和に入って間もなく廃駅となったそうだが、その痕跡はさすがに今は分からない。初代の新在家駅が廃止され、東明駅が新在家駅に名称変更。つまり場所も含めると現在の新在家駅は3代目ということになる

そして東明という住居表示は現在消滅していて郵便局や交差点の名称に名を残すのみとなっている

東明車庫→石屋川車庫に

東明の交差点から現在の高架線へと北上すると

佃煮のお店とビルがあって実は石屋川の高架車庫はすでに終わっている。東明郵便局の北側が石屋川車庫。日本初の高架車庫として線路が付け変わった1967年(昭和42)に誕生した

今回の散策コースはこのようになる

ちょっと寄り道が多いが、線路は浜田公園から東明公園を通って石屋川駅に向かっていた。石屋川車庫という名前が付いているが、地図で分かる通り新在家駅の方が近い。線路付け替え前は地上に車庫があり、最寄りは新在家とされ、車庫の名称も新在家車庫もしくは東明車庫だった(調べると両方の名称が出てくる)

高架車庫には「阪神電鉄石屋川事務所」と記されている

こちらは事務所側から新在家駅方向の景色。高架下は以前は家電量販店だったが、現在は阪急系列のスーパーとなっている

合流地点へ

再び佃煮のお店に戻ると道路を挟んだ向かいは東明公園という長方形の公園で奥は保育園。経緯は分からないが、廃線跡はほとんどが公園もしくは学校や幼稚園などの公共施設となっていて民間利用は少ない。あくまで想像だが、廃線時は都会の一部としての町が出来上がっていて、線路跡の形が民間利用に不向きだったのだろう

ただしすでに高架化されていた石屋川駅との合流地点は趣が異なる

タクシー会社となっていて、形状は明らかに線路への合流地点である

そして石屋川駅に到着。当駅も石屋川をまたぐ形でホームがある

1995年の阪神淡路大震災で石屋川駅は石屋川車庫とともに甚大な被害を受けた。崩壊といってもいいほどの被害で車庫は再建まで1年以上を要した。震災で復旧に最後まで時間がかかったのは西灘~御影の主に線路付け替え部分だった。石屋川駅は2面2線構造から島式ホームに姿を変えている

当駅は普通のみしか停車しないが、車庫があるため始終着の設定があり、現在も早朝には当駅始発の普通が運行されているが、終電は2年前のダイヤ改正で廃止された。大阪からの終電は石屋川止まりで、普段は静かでロータリーもない駅周辺に深夜零時ごろからズラリとタクシーが並ぶ光景が見られた(先に行く客よりも寝過ごし客が主な利用者だった)が、今は御影止まりで車庫までは回送扱いとなったため、その姿も消えた

駅のすぐ北側は国道2号で空襲にも震災にも頑張った御影公会堂があり、食堂のオムライスとハヤシライスが有名である

記事は4回に分けたが実際に歩くと、ゆっくりでも1時間もあれば楽に歩けてしまう。道中には飲食店も多い。都会の廃線跡はあっという間に道路や住宅、店舗に転用されてしまうものだが、半世紀以上が経過しても、その痕跡をたどることができる。あくまでも廃線ではなく付け替えなので記念碑などはないが、初夏の過ごしやすい季節にちょうど良い散策路である

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その3~線路上には小学校

※訪問は2024年4月15日

エポックを見越して造られた新駅

阪神の大石駅。大石駅は2面4線構造。線路の付け替えで都賀川の上にホームができた際に現在の形となった。なぜ2面4線構造になったかというと1968年(昭和43)に山陽電車の乗り入れが始まったからだ。この昭和43年というのは神戸市の鉄道にとってはエポックな年で、神戸高速鉄道が開業。山陽電車と阪急、阪神が線路でつながった。山陽電車は元々、兵庫駅がターミナルそして国鉄(当時)との連絡駅となっていて、姫路方面から来ると、神戸市中心部のやや手前で線路が終わる形になっていたが(戦前までは神戸の繁華街の中心は新開地だったので新開地まで徒歩圏内の兵庫駅が終点でも正しい姿だった。兵庫駅前には山陽電車の廃駅跡を思わせるものはほとんど残っていない)、神戸高速鉄道という第三種事業者によって三宮まで乗り入れることが可能となった。その頃は三宮が神戸の中心になっていたので山陽電車は三宮まで入れることになったのだ

ただ姫路から山陽電車の特急が乗り入れることが可能にはなったが、阪神、阪急ともにホームは手狭で、そもそも大阪側へと折り返す態勢はあるが、姫路方面へと折り返す態勢はなかった。そこで選ばれたのが阪急は六甲、阪神はここ大石だった。姫路発の山陽電車の特急は阪神、阪急ともに三宮が終点ではなく、六甲と大石のどちらかに向かう形式をとっていた。つまり山陽電車で三宮にやって来ると乗る電車によっては阪急か阪神か、どちらかの三宮駅で下車するというユニークな形となっていた。ちなみに山陽電車の特急は三宮から東は阪急、阪神ともに各駅停車だったが、阪神の西灘駅だけは規格が異なるということで山陽電車の普通も通過していた時代があった

大石駅の現位置への移転は1967年で神戸高速鉄道開業の1年前。山陽電車の当駅折り返しを見越しての2面4線構造だった。しかし、その後に山陽電車が原則時に乗り入れを三宮までとし、特急については姫路から大阪までの阪神の直通特急にほぼ一本化。朝のラッシュ時に停車していた阪神の急行については、急行という種別の電車がこの区間で消滅したため普通のみの停車となった。つまり2面4線の設備そのものが不要となったわけだが、今も山陽電車の一部はこの設備を利用して当駅で折り返す。ただし客扱いはせず回送扱いである

線路の延長上には小学校があるが

都賀川を西側から見ると、一部が石積みではなくコンクリートであることに気付く。この部分はかつて阪神電車の橋脚があった場所とも思えなくもないが、線路が付け替えられたのは50年以上も前の話でコンクリートが妙にきれいすぎる。実は、この付近が散策でちょっとしたナゾだった

今回紹介するのは、この徒歩コースだが廃線跡らしいコース上に小学校そして幼稚園がある。写真で分かるように、校舎の形がいかにも線路の場所に建てましたという形をしていて私も長年、そう信じていたのだが、神戸市立西郷小学校のHPによれば、明治31年(1898)に「現在地に新校舎完成」とある。当時は神戸市ではなく大石村。その後、付近が西郷町となって西郷尋常小学校に。ちなみにHPを見ていて自分の無知に驚いたのは西郷町が神戸市に編入されたのは1929年(昭和4)だということで、結構最近のことだった

その後の歴史では1963年の国道43号開通、1970年の阪神高速道路開通は記されているが、校舎の全面改築開始が1988年とあるだけで阪神電車の線路付け替えによる校舎の変化は書かれていない

ただし小学校と幼稚園を過ぎると現れる東町公園は地図の形状で分かる通り、明らかに廃線跡に設けられた公園である

旧新在家駅の跡へ

「いかにも」の遊歩道を歩いていく。新しいマンションの建築中のようだが、マンションの間にある廃線跡というのがミスマッチである

やがて廃線跡の先に阪神高速が見えてきた。阪神高速と国道43号はセットになっているので、廃線跡は国道43号に合流することになる

ここで廃線跡が一度消える

なぜかというと新在家駅が国道43号の拡張に場所を提供したためだ。このあたりが利用された場所だと思われるが、当然ながら道路があるだけで痕跡はない。国道43号は手狭になった国道2号のバイパス線でもあるが、この頃は社会全体がモータリゼーションに突入している時期で、後に国道43号の騒音が社会問題になるとは思われていない

新在家の交差点に到着。奥に見えるのが現在の新在家駅である

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その2~グラウンドと横長の公園

※訪問は2024年4月15日

公園の姿で一目瞭然

阪神電鉄は本線と阪神なんば線、武庫川線の3線からなり、すべて合わせても50キロに満たず、いわゆる大手私鉄では長らく最も短い営業キロだった(1990年に相模鉄道が大手私鉄となり、わずかに阪神が上回る)。そのため廃線区間も少ない。路面電車を除くと完全に廃線となったのは武庫川線の武庫川駅(西宮市)以北と出屋敷駅(尼崎市)から出ていた海岸線の2路線ぐらいだが、ともにわずかな距離しかない。今回歩いたのは付け替えルートで廃止になった駅があるわけではなく(初代の新在家駅は廃駅となっているが、それは昭和初期の話)、厳密には廃線ではないが、それでも貴重な遺構といえる

前回記事で最後に掲載した西灘駅東側の、かつての線路コースを歩くとすぐにグラウンドに出る。これは西灘公園の一部のようだが、この先の地図を示すと

まさに一目瞭然。スタート地点が、かつて地上を走っていた分岐点で、グラウンドだけでは分からないが、その後の西灘公園の横に長い形は、くっきりとかつて線路が走っていたことを示している。それにしてもグーグル地図での表示がわずか7分。駅間は短い

グラウンドを抜け(正確にはグラウンドを突っ切るのではなくグラウンド北側の小径を歩いた)、道路を挟んだ西灘公園の入口に到達。いかにも「廃線跡でございます」の風情。振り返ると

グラウンドはこのような感じで見える。道路を挟んだ両側の階段はちょうど向かい合わせだ

震災の慰霊碑

公園内を進む。もう1週間早く訪れれば写真的には桜で彩られていたかもしれない

やがて

公園の小径は広くなる。この幅は、駅があったためだと想像できる。かつての大石駅跡地だろう。この付近も1995年の阪神淡路大震災で甚大な被害があった場所で

亡くなられた方の慰霊碑がある。震災から来年で30年。つまり震災後に生まれた方も30歳になる。神戸市内の公園には所々で震災に関連した碑を見かけるが、歳月を感じてしまう

公園を出ると都賀川に到達して広い道路に出る。道路の北側には現在の大石駅。1905年(明治38)と120歳になろうとしている駅だが、現在の高架ホームは川の上にある。各地の川の上にある駅が珍しいとされるが、阪神だと有名な武庫川駅以外にも芦屋駅、香櫨園駅が川の上にホームがある。10代のころから、ずっとそんな景色を見ていたので珍しいという感覚がない

この後、都賀川を渡って新在地駅へと向かう

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その1~西灘からスタート

阪神の西灘駅の駅名板

※訪問は2024年4月15日

かつての路面電車乗り継ぎ駅

こちらは国道2号の西灘交差点。奥が芦屋方面で手前にある阪神の西灘駅を超えると国道43号との合流点と阪神高速の摩耶ランプがある。合流点は43号の終点でもある岩屋交差点だが、三宮方面から車で来ると、道なりで進むと43号に入ってしまう形となっている。これが今回の散策のポイントにもなっているのだが、それに関しては後述する

阪神の西灘駅。この日はJRでやって来て摩耶駅から歩いた。その間はビッシリ住宅街で初めて降りるとさっぱり分からないかもしれないが、摩耶と西灘、この両駅は極めて近く徒歩5分ほど。西灘駅の誕生は1927年(昭和2)で摩耶駅は2016年(平28)と、ついこの間だが、大阪へは摩耶駅の方が利便性が高く、利用客を奪う形となっている

摩耶駅の誕生もあって西灘駅は神戸市内の阪神の駅では利用者は住吉に次いで2番目に少なく1日の利用者は3000人にも満たないが、かつては1枚目の写真の国道を阪神国道線という阪神電鉄の路面電車が走っていて、私が小学生の頃は西灘が終着駅で、乗り換え駅だった(当駅付近は1974年に廃線)。もうひとつ西灘駅について説明すると、阪急にも西灘駅があって現在の駅名は王子公園。私の高校時代は西灘駅だった。ただし阪急の西灘駅に対応する阪神の駅は岩屋駅で、このあたりはちょっとややこしい

今回は、ここから阪神電車の廃線跡をたどりことにする。三宮からわずか3キロ。都心部の廃線は、そう例は多くないが、正確に言うと線路の付け替えである。阪神の神戸三宮駅は地下で2駅目の岩屋が堀削駅となっていて、続く西灘駅までの間に地上に姿を現し、ここ西灘から高架となる

しかし以前は国道2号を高架でまたいだ後は地上を走っていた。1967年に西灘~石屋川が高架化された。4歳のころだから、私には記憶がない。半世紀以上も前のことなので、おそらく人々の記憶からもほとんど消えているだろう。都会の廃線というのはあっという間に住居や施設に変わってしまうので痕跡を探すのも容易でなくなるのだが、実は石屋川までの3区間は、しっかり廃線跡が残されているのだ。今回はそこを散策する

徒歩の前に腹ごしらえ

3区間といっても阪神の駅間距離は短く、この付近は線路で1キロにも満たない駅間が並んでいて、西灘から石屋川まで線路だと2・5キロ。線路を歩くわけにはいかないので若干遠回りになるが、それでも大した距離ではない

今回の徒歩コースはおおよそこんな感じとなる。阪神の線路は現在の高架線から南側を走っていた。特に新在家駅は現在の国道43号に食い込んだような場所に駅があり、駅の跡地は道路の拡幅に利用された。散策のポイントとなると記したのは、このためである

西灘駅のすぐ東側にはこのようなスペースがある

奥に見えるのが西灘駅。どう見ても、ここから線路が地上に降りていた跡

その延長上に民家が並んでいて分かりやすい

ここから廃線跡巡りとなるわけだが、時間はちょうどお昼どき。付近は住宅街だが、廃線跡を回るのなら、ぜひ来てください、と言わんばかりの位置にスシローがある

腹ごしらえをして改めてスタートである

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天候に左右された2023年を振り返る(前編)

2023年も間もなく終わり。今年はというと、行く先々で気候に左右された年でした。そこでこの1年を簡単に振り返ってみたいと思います

廃駅訪問から1年がスタート

年明けは廃駅の参宮線「池の浦シーサイド駅」訪問からスタート。

バスでも近鉄、JRでも比較的訪問が容易な廃駅。夏に行ってみたい廃駅です

翌日は青春18きっぷの残り1回の権利を使用して紀勢本線から関西本線、草津線、東海道本線で帰ってすたのですが、たまたま居合わせた電車の写真が今にして思うと貴重なものになりました

念願叶う

2月は「西日本グリーンきっぷ」で念願のやくもパノラマカーのかぶりつきシートに着席。長年の夢がかなって満足でしたが、新神戸~岡山~米子~倉吉~京都~金沢~上越妙高とたどった旅で糸魚川や富山よりも鳥取県が最も寒かったです

映画を見てから約40年

3月はJALのタイムセールとJR東日本の鉄道開業150周年ファイナルパスを使用して東北へ。昨秋にもお世話になりましたが、この発売がないと新幹線全駅訪問は下手すると未達成で終わっていた可能性が高い。仙台まで空路で、それほど寒くはなかったのですが岩手県に入った途端にものすごい寒さでした

おかげで川部駅の旧駅舎にもギリギリ間に合い、カウントダウンに入った川部駅のみどりの窓口で青春18きっぷを買うことができました

その足で映画「砂の器」を見てから約40年。こちらも念願かなって羽後亀田駅に行くことができました。亀田の街は駅からかなり離れていて、駅がこんなに寂しいところにあるとは知らなかった。秋田県内の羽越本線の駅で古い駅舎が残るのはここだけ。映画やドラマの功績が大きいと思いますが、窓口もなくなり、ホームも旅客用は単式となりました。今後が心配です

この月は突如、地元の和田岬線に同業者が全国から押しかける事態がありました

またとにかく歩いた名松線全駅訪問もこの月。まだ動植物が本格稼働していない季節でしたが、家城以遠の山中では、ゴソゴソという物音がしたかと思うとシカやイノシシに出会い、伊勢竹原では駅前にやってきたサルともバッタリ。新緑の季節を過ぎると夜に歩くのは絶対やめようと思いましたね

昭和以来の訪問

4月は青春18きっぷの残りで山陽本線沿線をウロウロ

結果的に18きっぷを使用して笠岡ラーメンを食べに行くという旅となりましたが、めちゃ美味かったです

そして、こちらもタイムセールを利用して最後に訪れたのが昭和だったという沖縄へ。37年ぶりの訪問では、ゆいレールの全駅訪問を行いました

意地で「最南端」へと向かった

5月は私にとっては全国で2県あった「最後に訪れたのが昭和」の残る1県である大分へ。大分県については最後が昭和というより幼少期で旅客用として普通にSLが走っていたころだったので、記憶もあいまい

日豊本線をジワジワ南下した後、延岡に宿泊して宗太郎へ

そり後は今も残る美々津駅近くの鉄道総合技術研究所だけを見に行くつもりでしたが車窓を眺めているうちに、どうしても実験線の「最南端」を間近で見たくなり、急きょ予定を変更して翌日

現場へと向かいました

別府からは八幡浜までフェリーで。八幡浜には10回以上行ったことがありますが、四国~九州の船に乗るのは初めてだったのでうれしかったです。また大分県では土地勘もなくキョロキョロしっ放しだったのに四国に上陸すると、急に勝手知ったるなんとやらになってしまう自分の感覚がおもしろかった

この月はJALのタイムセールに追われるまま活動も活発で月末には北海道へ。留萌本線の残る区間の全駅訪問を行い

廃線間近となった根室本線の各駅訪問をしようとしたところ、金山駅から乗車しようとした占冠村営バスの時刻表が外れているという事態に大いに焦りました

小幌駅訪問の後は洞爺湖温泉の「湖の膳舎なかむら」へ。10年前、東京で勤務していた時に行きつけとしていたお店が当地へと引っ越し。当時はマンションの玄関から徒歩10秒で行けたお店が1500キロも離れてしまったわけですが、再会を果たせました。料理も変わらず美味しかったです

長崎新幹線に初乗車

6月は会津若松からレンタカーで旧熱塩駅を訪問した後、喜多方ラーメンを食べ

只見線に乗車

月末には7月へとまたがる九州への旅へと出発して九州新幹線の長崎ルートに初乗車

雨の前線を避けるように移動した旅となり、豊肥本線は運休となるギリギリのタイミングで大分県に到達

5月に続いて佐伯へと向かい、佐伯~宗太郎の「名前シリーズ」の各駅訪問。列車本数が極めて少ない上、途中の移動では

冠水で道路がさえぎられるというアクシデントもあって、全駅の乗車または下車はかなわなかったものの

2日かけて「上岡」「直見」「直川」「重岡」の4駅を訪問(つながる4駅を1日で回れなかった)。現地で月替わりを迎えました

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~駅舎は郵便局として生まれ変わる

江見駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

70キロもトコトコ移動

青堀駅で館山~木更津の全駅訪問を終え、いよいよ房総半島の南に向かう。降りたのは

南国ムードのような木も見えるが、季節は真冬。草木にはあまり元気がない。すでに鴨川市に入っているが、青堀からは結構な旅だった

青堀から70キロ。東海道本線だと大阪から草津よりもまだ長く終着駅として有名な野洲まで行ってしまう距離。もちろん新快速のようなスピード違反の列車はなく、トコトコと普通で約1時間半。線路としては房総半島の南端をグルリと回って東京湾から太平洋に面するようになっている。決して乗り鉄ではなく、同じ乗り物に1時間も乗れば飽きてしまう私には、なかなかしんどい時間だった

自動ドアで駅舎へ出入り

江見駅は1922年(大正11)の開業。安房鴨川はもう目前だったが、南三原から当駅までが延伸された際に、とりあえずの終着駅として設置された。安房鴨川までつながるのは3年後のこととなる。長らく大正期からの駅舎が残っていたが、今は趣を異にする

ホームから駅舎を経て道路に出ようとすると自動ドアのお迎えがある。内房線の駅ではなかなかお目にかかれない。少なくとも大正期からのものでないことだけは間違いない

外に出ると

駅舎であり、郵便局でもあることが分かる

当駅は過去にも登場した

由利高原鉄道の子吉駅を訪問した時のものだが、駅舎の郵便局として江見駅も少し紹介した。子吉駅ではかなり前から簡易郵便局が入居しているので、このあたりは微妙な表現となるが、江見駅は「初めて駅と郵便局が一体運営化した駅」ということになる。郵便局業務と駅業務をともにこなしているからだ。それまであった開業時からの駅舎を解体して2020年に現駅舎&郵便局の登場となった

残念ながら土曜日ということで郵便局は休み。平日の営業時間内なら郵便局の窓口が並び、JRのきっぷうりばもある

「通向け」のこだわり

ポストにこだわりがある。もちろん駅舎と郵便局が併設されているので電車をあしらったものだな、ということは分かる。しかしよく見ると「形式」の後に「クモユニ74」と記されている。クモユニ74とは、かつての郵便車である(正式には郵便・荷物車)。房総半島には1974年にやってきた。ポストの塗装が青色とクリーム色の横須賀線カラー、いわゆる「スカ色」となっているのは、房総半島にやってきた際、スカ色に塗装され直されたからである。JRの声を聞くころには郵便輸送も終わりを迎え、1987年に車両の役割を終えたが、ポストとして蘇ったのである。窓口で郵便物を出すと209系の風景印を押してくれるそうだ

駅紹介の時は、江見駅の時に合わせて記そうと、あえて書かなかったのだが

同じ内房線の安房勝山駅も同じく駅業務と郵便局業務の両方をこなす駅として生まれ変わる予定となっている。来年の夏にも開業する予定で、そこからの情報は持ち合わせていないが、大正期からの駅舎をそのまま郵便局にはなかなかできないため、駅舎の建て直しが予想される。もしかするとすでに形が変わっているかもしれない

跨線橋からの構内風景。大正期からの駅舎が消えるのは寂しいことだが、立派な形で生まれ変わり、無人駅が有人駅となって人が集まるようになるのは良いことだと思います

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続九州新幹線の全駅訪問~みずほの一部も停車する肥薩おれんじ鉄道の終着駅

川内駅の駅名標

※訪問は2023年10月3日

新幹線開業時に大きく変化

川内駅に到着。これで九州新幹線のすべての駅を訪問したことになる。2018年の9月にも川内に来たが、その時は新幹線ホームに立っていない。その時は宮崎空港から日南線で志布志まで行き、旧大隅線沿線を走る路線バスに2時間揺られ垂水下車。フェリーで鹿児島に渡り、当地で1泊した後、指宿枕崎線で指宿、西大山、枕崎を経て加世田までバス。加世田で宿泊した後、バスで伊集院へ。ちょうどサッカーW杯の直後で「はんぱねぇ~」が流行語になっていた大迫勇也選手の母校である鹿児島城西高校の最寄りが伊集院だったので、よく覚えている

その後、川内まで来て当地泊。翌日は改めて鹿児島へと向かい、今度は肥薩線で八代(正確にはSL人吉の終着熊本)まで行った。八代駅の項で紹介したのはその時の写真である

川内駅は大きな橋上駅舎を持つ。開業は1914年(大正3)と古く、国鉄時代から拠点駅として機能してきた。戦後に建てられた、いわゆる国鉄コンクリート駅舎が続いていたが、2004年の九州新幹線部分開業時に現在の駅舎となった。新幹線開業の直後に周辺の町村と合併して川内市から薩摩川内市となったが、駅名はそのまま川内である

薩摩川内市が誕生した際、甑島(こしきしま)の上甑村、下甑村も参加している。読み書きともに難易度激高の島への高速船乗り場へは当駅からバスで向かう。改札を出ると分かりやすく案内がある。キビナゴで知られる甑島は観光地でもあるが、大きく「通常運行」と目立つように表示されていることで分かる通り、気候の影響を受けやすいので運行には注意が必要

鹿児島本線の「飛び地」で他駅とは事情が異なる

肥薩おれんじ鉄道との共同使用駅となっているが、改札は共通で八代から117キロにも及んだ肥薩おれんじ鉄道はここが終着。川内から鹿児島中央までは再び鹿児島本線となり、約50キロがJRとなる。いわば鹿児島本線の「飛び地」。九州新幹線の成り立ちを各地に照らし合わせると、こちらも三セク移管となりそうだが、西九州新幹線のような時限的措置がとられるわけではなく、恒常的にJRのまま推移しそうだ。しかもIC乗車が可能。いろいろ「大人の事情」があるのだろうが、推測で私が触れるわけにはいかない。ひとつ言えるのは、今回のようにJRしか乗れないきっぷを手にした場合、利用者目線からだと大いに助かるということ

こちらは新幹線の改札(写真は2018年のもの)。その横にあるのが

在来線と肥薩おれんじ鉄道の改札がある(写真は2018年3月のもの)

新幹線については部分開業時した時からの鹿児島中央をのぞく他駅とは大きな違いがあって、当駅には鹿児島中央~熊本の速達タイプの「さくら」が停車し、わずかではあるが最速達タイプの「みずほ」も停車する

肥薩おれんじ鉄道の一部乗り入れ

在来線の構造は島式ホームの2面2線。左にホームが見えるが現在は使用されていない。廃線となった宮之城線ホームも加え、以前は3面5線だった

車止めの向こうが肥薩おれんじ鉄道。つながっていた線路をさえぎるように車止めが置かれていて、その向こうにホームとしては同平面の肥薩おれんじ鉄道が島式ホームを持つ

JR線乗り放題の権利を生かして鹿児島本線の駅を回った。当日は薩摩川内市内に宿泊し、翌朝はお隣の隈之城駅へ。肥薩おれんじ鉄道は朝夕のみ一部列車が川内のひとつお隣の隈之城まで直通するので、そちらに乗ってみたかった

なぜ1区間のみ乗り入れるかというと、隈之城の駅前にはれいめい中学・高校があるから。多くの高校生が降り、折り返し列車内は閑散としていた

くまモンに癒やされる列車に揺られて川内に到着となるが、列車は在来線ホームを通過するかの勢いで進み、肥薩おれんじ鉄道のホームに到着。車止めの写真を掲載したが、片側のホームはつながっている

乗車してきた列車が見える。肥薩おれんじ鉄道の駅舎はホーム上。同一ホームだが、JRが1、2番線なのに対し、3、4番線がふられている

こちらは肥薩おれんじ鉄道の駅名標。奥に貨車が見えるが川内はJR貨物の駅でもある

前回は鹿児島中央まで在来線に乗車したが、今回はきっぷの特性を生かし新幹線乗車である。川内~鹿児島中央は在来線で約50分だが、新幹線だとわずか11分。1区間利用はかなりあるようで乗車は8時16分だったが、通勤と思われる会社員の姿が多く見られた。車両基地の関係もあって早朝には川内始発の鹿児島中央行きという1区間だけの列車も運行されている

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続九州新幹線の全駅訪問~線路の設置も気配りされたツルの飛来地

出水駅の駅名標

※訪問は2023年10月3日

お出迎えは

鹿児島県に戻って出水駅に到着

まず目に入るのは

ツルのオブジェの出迎え。渡来が始まると全国ニュースになることで知られる越冬地で、本来は難読の地名に入る自治体名、駅名だがかなりの割合で「いずみ」と読める。考えてみると九州新幹線の先行開業の各駅「新八代」「新水俣」「出水」「川内」は、初見で読むのは難しいものばかりだが、ニュースになる機会が多いためか、読める駅ばかりとなっている

私の訪問時はまだ渡来の季節ではなかったが、ツルの情報について伝える「出水ラムサールナビ」によると10月17日に「初渡来を確認しました」とナベヅル5羽の渡来報告があり、1カ月半後の12月2日には1万1410羽にもなっている。2021年にはラムサール条約の湿地となった

海沿いを南下してきた肥薩おれんじ鉄道(旧鹿児島本線)は、出水平野の手前で平野の中心部を避けるように弧を描いている。これは大正期の1923年(大正12)に鹿児島本線が敷設される際、ツルの保護のため渡来地を避けるようにしたため。当時の鉄道には国策については自然保護など二の次の印象を持たれがちだが、そのあたりはきちんと配慮されていたのだ

旧駅舎が健在

その出水駅は肥薩おれんじ鉄道でも重要な拠点駅となっている

新幹線の改札を出ると地元の小学生もお出迎え。この向こうが新幹線開業の際に駅舎も新たにできた東口だが、旧来の玄関口となる西口に向かう

新幹線の改札口から西口までは跨線橋となっていて肥薩おれんじ鉄道のホームに直接入ることができ、その先が西口である

国鉄時代からのコンクリート駅舎が、今も使用されている。戦後間もない1951年に木造駅舎から移行した。当時の出水は機関区も設置されていて、貨物も含め大いににぎわう交通の要衝。そのためいち早くコンクリート駅舎となったため、昭和30~40年代に全国で建てられた、いわゆる国鉄コンクリート駅舎とは趣を異にする

肥薩おれんじ鉄道は別駅舎

肥薩おれんじ鉄道の出水駅も車両基地を備えた拠点駅のひとつで当駅始発の列車も設定されているほか、乗務員交代などで5分以上停車する列車も多い

駅舎はJRとは別となっていて、国鉄、JR時代に関係者が利用していた建物を改造して使用している

その西口には蒸気機関車C56が展示されている

解説にすべてが記されているが、1937年に製造された後は主に九州内で活躍。72年と73年にはお召し列車のけん引という重役を担った。お召し列車の運行に携わるというのは、運転士はもちろん、整備担当まで大変名誉なことだが、その年のうちに交通機関としての任務を終えている事実に、鉄道としての時代の節目を感じる

出水駅の新幹線ホームでは新幹線通学の高校生を何人か見かけた。川内まで11分、鹿児島中央まで23分。新幹線開業前は電車特急でも西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで90分を要していた。電化(1970年)以前は、そもそも特急という設定がほとんどなく、急行で出水~鹿児島中央が2時間。通勤通学で利用するという発想にすらならない。非電化時代はともかく、電化後の在来線特急との比較だけでも新幹線が大きな革命だったことを感じる

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続九州新幹線の全駅訪問~JR在来線の「終点」八代へ寄り道 肥薩線の復旧を願う

八代駅の1番線ホーム

※訪問は2023年10月3日

新八代から1駅

八代の中心駅はもちろん八代駅

新八代から鹿児島本線に乗り換え

新八代は鹿児島本線の九州新幹線が部分開業した2004年に八代~千丁間に設置。元々、この駅間には距離があったので、そう違和感はない

もっとも地図で分かる通り、線路は弧を描くように敷設されている(理由については後述)ので真っ直ぐ歩くと30分ほどで行ける

その八代は九州新幹線の開業で八代~川内が三セクの肥薩おれんじ鉄道となったため、鹿児島本線の「終着駅」となった(川内~鹿児島中央は新幹線と並んで走るがJRの鹿児島本線である)。線路はつながっているが、ここから先は肥薩おれんじ鉄道となっている。駅名標の「だん」は肥薩線の段駅で、当駅を出るとしばらく両線は併走するので、JRのお隣の駅は段となっている

肥薩おれんじ鉄道の起点駅

鹿児島本線の終点ということは、肥薩おれんじ鉄道の起点駅。ホームは奥の0番線。ただし一部列車は新八代まで乗り入れ運転を行うため、その車両はJRと共有のホームに入線するが停車位置は異なるので注意が必要

肥薩おれんじ鉄道ではIC乗車ができないため、乗り換えの途中にICリーダーがポツンと置かれている

駅舎は2019年に新築されたばかりのもの。明治からの駅舎が頑張っていたが、2016年の熊本地震の際で駅舎は残ったものの、一部に破損があったため安全面の考慮もあって建て替えとなった

JRとホームはつながっているが、会社は別ということで駅舎は別となっている。JRの駅に隣接する形で肥薩おれんじ鉄道の本社があり

本社に隣接して駅舎がある。有人駅

JR貨物の駅でもあり、構内は広い

肥薩線の思い出

JRのホームで時刻表を見る

肥薩線については2020年の豪雨で甚大な被害を受けたため運休が続く

きっぷ売り場にも爪痕はまだ消えていない

2018年9月、肥薩線の八代~人吉を「SL人吉」で巡った

こちらは一勝地駅

同駅に停車中のSL人吉

こちらは坂本駅での停車中

各報道によると11月24日に熊本県は肥薩線沿線12自治体との協議で、上下分離方式(線路や施設を自治体が持ち、鉄道会社が運行を担う)による復旧案を決めたという。自治体が負担する復旧費の12億7000万円は県が出費し、運行再開後の維持費は見込み7億4000万円のうち県が6億9000万円を負担。市町村の負担は5000万円に抑えるというもの。この案を元に近くJRとの話し合いに入るという

八代駅は町の中心部から、やや離れた場所にある。国鉄の駅と町の中心部が離れているのはよくある光景だが、当駅の場合は事情が異なっていて、もともと駅は町の中心部で私鉄の終着駅として1896年(明治29)に開業した。最初に示した地図では、線路が弧を描く、さらに西側。その後、鹿児島本線として現在の肥薩線を球磨川に沿って敷設することになり、町の中心部ではスイッチバック構造になって何かと不便ということになり、中心部に向かっていた線路を強引に東に向けるようにしたため、弧を描く線形となった。最初から肥薩おれんじ鉄道のルートで鹿児島本線が計画されていたら、もっと異なる駅事情となったかもしれない

5年前の時点では、まさかこんなことが起きるとは思っていなかった。肥薩線については吉松~人吉間については過去3度乗車したが、人吉~八代については、この一度きり。ぜひ肥薩線の旅をもう一度したいと思っています

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続九州新幹線の全駅訪問~肥薩おれんじ鉄道の駅にも要注目の新水俣

新水俣駅の駅名標

※訪問は2023年10月3日

乗り換えのない駅はなし

熊本から新八代を飛ばして新水俣駅に到着。時刻表の関係で効率優先とすると、こうなる

2004年に先行開業した九州新幹線の新八代~鹿児島中央。この間の駅で他の鉄道との乗り換えのない、全くの新幹線単独駅はない。新八代は在来線との接続駅となったことで新幹線との交差地点に新駅が設けられたし、出水は元々がJR鹿児島本線の駅。川内も同様で鹿児島中央は言うに及ばない(新幹線開業とともに駅名が西鹿児島から変更となった)

新水俣も新八代と同様、JRも肥薩おれんじ鉄道も新駅が設けられた駅となるが趣は多少異なる

新幹線の改札付近

こちらは新幹線側の駅舎。ホームは2面3線構造で部分開業時は当駅~鹿児島中央という、新八代のみ行かない列車が設定されていた

観光物産協会も入っている

一瞬の交差に設けられた新駅2つ

コンコースの入口には肥薩おれんじ鉄道との乗り換え案内がある。新幹線の改札を出てすぐなので迷うことはないだろう

新水俣駅は旧鹿児島本線の肥薩おれんじ鉄道と新幹線が一瞬交差する場所に設置されている。両社ともに新駅だ。肥薩おれんじ鉄道は海側の水俣市街地に向かうが、新幹線は山中を突っ切る

元々の鹿児島本線は現在の肥薩線ルートで、鹿児島へはそちらの方が距離が短い。軍事的な理由や都市の多さから海沿いを行く鹿児島本線があらためて敷設されたが、各都市を順番に回っていくため、線路の距離も長い上、線形も良いとは言えない

新幹線はその欠点を解消すべく、できるだけ直線的に敷設されたため山中を行く形となった。そのため比較的駅が多く設置されている九州新幹線の中では珍しく、新八代~新水俣は同じ熊本県内にありながら42キロも離れている

元々は信号場

肥薩おれんじ鉄道の新水俣駅は新幹線の駅舎外にある

駅名板と時刻表がポツンとあるのみ。ホームへは構内踏切で向かう。駅舎のない無人駅だが、列車交換(すれ違い)は可能

それもそのはず。元々は「初野信号場」という列車交換のための設備だった。初野というのは地名である。信号場というのは両隣の駅間が長い単線区間などで列車交換をするために設けられた施設。駅となっていないのは、場所が山中など周囲に何もない場所が多く利用者が見込めないから

ただ信号場だけに設備は整っていて、ホームさえ設ければ駅に昇格させるのは比較的容易だ。そこに目をつけて駅を新設したのは素晴らしいアイデアだと思う

構内踏切で細い通路を通ってホームへと向かう

ちょうどくまモンとともに列車がやって来た

写真で分かる通り、ホーム幅は極めて狭い。信号場に頑張ってホームを造った苦労がうかがえる。肥薩おれんじ鉄道はJR貨物が走り当駅を通過するため(観光列車は大部分が停車する)、ホームには転落防止柵が設置されている上、徐行での通過となっている

肥薩おれんじ鉄道の駅名標。お隣が水俣市の中心駅の水俣で約4キロ

新幹線の駅舎の横を去っていくくまモン。なかなか良い光景。これだけでも価値がある

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