私鉄

2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~利用者最少の駅まで根性見せよう

※訪問は2025年3月10日

ちょっと迷った末に

こちらは鯖石駅前の「継電器室」。当駅が交換可能駅になった時に設置されたものか。次の中央弘前行きは約30分後にやって来る。それまで雪景色でも眺めて過ごそうか、と思いつつ地図を眺めていると、ふとあることに気付いた。「30分以内に歩けば宿川原駅も訪問できるんじゃないか?」

ただしこれは正直迷うところではある

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痛む膝と地方幹線道路あるある

鯖石と宿川原の距離感はこんな感じ

線路の駅間距離は1・3キロで歩いても大して変わらない。徒歩20分と指南されたので十分間に合いそうだ。ただ石川駅から義塾高校前駅まで歩いた際、水たまりを飛び越えた時にズキンとなった膝が痛い。しかしここで宿川原を回収すれば義塾高校前から大鰐までの6駅すべてが回収できる。7月にも当地訪問を考えているため、大鰐のひとつ手前の駅をポツンと残しておくのはいかがなものか。ちょっと迷った末に

ゴーサインである。こちらは鯖石駅近くにあったもの。何か確認しようと思ったが雪で近づけない。というか余裕がない。とにかく前へ進むのみ

宿川原への道程は7号という幹線国道を進む平坦コース。以前の記事にも書いたが、この日は気温10度超えで晴れそして無風。積雪に目を奪われがちだが、徒歩には絶好のコンディション。これだけの積雪を眺めながら気持ちよく歩ける環境というのは、そうはなさそうなぐらいの徒歩日和だったが、とにかく膝が痛い

それでも歩く

駅間徒歩を行う時は、二度とない機会だと思ってまめに写真を撮るのだが、後で見るとこの1枚しかなかった。よほど余裕がなかったのだろう

ご覧の通りさすが一桁国道。歩道もきれいに除雪されていて歩くことに何も問題はない。もちろん車はビュンビュン走っている。もっとも「地方幹線道路あるある」で車の通行量は凄いが歩いている人はほとんどいない。朝だったらワンちゃんの散歩の方に出会うものだが、15時という時間ではそれもない。ドライバーの方からすると、大きめのリュックを背負って足を引きずりながら誰もいない国道を歩く年寄りはきっと奇異な不審者に見えたに違いない。実は「通報されたらどうしよう」とちょっと思った(笑)

そして列車出発の10分前に無事到着した

移動の歴史を持つ利用者「2」の駅

無事に到着した駅は奥に見える山の積雪と重なった景色が美しい

スロープから単式ホームに入る。待合所があるだけの簡素な構造。当駅の開業は1952年(昭和27)で、大鰐線の1期生だが見た目が妙に新しいのは2002年に移転しているからだ

地図で見ると鯖石寄りに宿川原大橋があるが、以前はもっと大鰐寄りにあった。駅は橋に寄り添うような場所にあったが、橋の移転と同時に鯖石寄りに200メートル移転した。当駅は町村制施行で大鰐村(現大鰐町)の一部となった宿川原村に基づく。「宿川原」を検索すると全国に無数に同様の地名があることが分かる。その中にはもちろん南武線の宿河原駅(川崎市)もある。「宿川原 時刻表」で検索したところ、こちらの駅は上位ではなく南武線の駅のほか、大阪府茨木市の宿川原停留所が出てくる。1970年の万博会場付近はかなりウロウロした方だが、恥ずかしながら国道171号沿いのこの地名は全く知らなかった。そしてバスの本数も多い。検索上位に来るはずだ

話は少しそれたが、川に近い宿という意味で全国に多くの「宿川原」があるのだろう。地図にある駅近くを通る県道201号はおそらく国道7号の旧道で集落がある。ただ駅と橋の移転は集落からやや離れただけでなく平川の向かいにある集落からも遠くなってしまい、そのためか当駅の2003年度の1日あたりの利用者数は、わずかに2人とJRの閑散ローカル線のような数となっている

ホームの向かいはりんご畑となっている。これはこれで美しい景色で現在は全く異なる景色となっているのだろう。ただ駅の実用という意味では、りんご畑に面しているのでは利用者が少ないことは容易に想像できる

電車がやって来た。山の積雪にりんご畑そして単式ホーム。鉄道の写真としては映えるものかもしれないが、かつては集落と橋の結点に駅が存在したことを思うと、少し寂しい気持ちになってしまう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~細長ーい待合所が印象に残る

※訪問は2025年3月10日

再び大鰐町へ

石川プール前から1駅大鰐方面へと戻って鯖石駅に到着

この駅間はわずか800メートルということは前記事に書いたが、うまい具合に20分で折り返しが来るダイヤとなっていたので、これは電車に乗る一択だろう

のんびり歩くとほぼ同時刻着となりそうだ。もっともいずれにせよ当駅でのんびりした待ちタイムになってしまうのだが

そして再び大鰐町に入っている。駅の北側にある橋が市町の境界になっているようだ

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ひときわ目立つ待合所

駅でとりわけ目が行ってしまうのはホームの待合所。細くてぐーんと高く感じる。なぜこのような構造になっているかというと、当駅は駅舎もないホーム+待合所のみの駅ながら列車交換可能駅だからだ。現在は朝の通学時間帯を除くと昼間は1時間に1本の運行となっているが、以前はもっと多かった。1981年(昭和56)には快速運転を実施、交換設備のある駅を増やすことになって白羽の矢が立ったのが、ここ鯖石

そのためホームを100メートル大鰐寄りに移設したが、スペースの確保にも限界があったようでホーム幅は現在のものが手一杯。現在の姿となった(過去のホーム跡らしきものがあるかどうか見たが確認できなかった)。通過列車があると危なそうだが、現在は快速の運転はなくその心配はない。待合室横にぶら下げられた使用されていない列車案内表示になごりが残るのみだ

待合所はその際にできたものだが、中に入ると細さがよく分かる

所狭しという表現がピッタリだが、当駅の1日あたりの利用者数(2023年)は30人。そのような状況が訪れるかどうかは分からない。ちなみに14時58分着の電車で降りたのは私のみだった

正式駅名は魚ヘンに青

当駅を語る上で、もうひとつ見逃せないのが「正式駅名」である。この記事もずっと「鯖石」と書いているが、サムネや待合所の写真を見ていただければ分かるように「鯖」の文字は右側が「青」。弘南鉄道HPにも鯖石という駅名の隣に「駅名のサバ=魚へんに青」と注意書きがある。要は駅名の旧字体が環境依存文字になっていてPCで文字化けする可能性があるため、このような表記になっている

環境依存文字については、文章の最後に「●」は「●の下に●」と注釈が入ることが多いが、近年はその存在そのものが一般的に浸透していて、超有名人などについては注釈なしで、その部分だけひらがなにすることが多くなっている。今書いている記事については、ひとつひとつ●になってしまうのも面倒なので「鯖」の文字を使わせてもらっている

そもそも鯖石は当地で地名で江戸時代にはその名が見られるそうだが、当時は「青」が使用されていたが、現在は「鯖」が使用されていて「青」は駅のみとなっている。駅の開業は1952年(昭和27)と大鰐線の一期生で、現在に至るまで「鯖」に変更することは十分可能だったと思われるが、ここまで「青」で頑張ってきた。さすがにこれから駅名が変更されることはないだろう

こちらは構内踏切からのホームの様子。減便によって交換設備は不要になってしまったのかと思いきや、朝の7時台と8時台の計2本、当駅での列車交換が見られ、そのもようは弘南鉄道HPに動画でアップされている

開業当初から駅舎が設置されることはなかった駅。一見、何もないようで実は歴史や環境依存文字までも教えてくれる駅である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~路線の最新駅は全国唯一の「プール駅」

※訪問は2025年3月10日

2つの自治体のみに所在

前回記事の続きになるが、大鰐駅の様子。ちょうど旅行者らしき若いカップルが券売機できっぷを求めるところだった。繰り返しとなるが、大鰐線内の有人駅は中央弘前と大鰐の2駅のみ。他の駅には券売機すらないのでご留意いただきたい

大鰐から乗車して3駅目

石川プール前に到着した。ここから中央弘前まですべての駅が弘前市に所在する。大鰐線の各駅は弘前市と大鰐町にしか所在しない。全14駅(起終点含む)のうち13駅が弘前市、残る3駅が大鰐町。これまでの各駅紹介では、もともとの所在自治体を記してきたが、1952年(昭和27)と戦後の開業の大鰐線でも駅の所在自治体の統合が進んできたことが分かる

大鰐からやって来ると鯖石までが大鰐町、石川プール前からが弘前市と市町境をまたぐ形になっているが、両駅間の距離はわずか800メートルしかない

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唯一の平成生まれ

石川プール前駅の開業は2002年と平成14年で大鰐線唯一の平成生まれ駅。義塾高校前駅の記事でも触れたが、こちらの開業が1987年の昭和62年で二番目に新しい駅となっているので15年の差がある。もっとも平成になって新駅がどんどんできているようなら廃線にはならないのだが

単式ホームに待合所のみの簡素な構造。待合所は部屋の形にはなっておらず、いわゆる吹きさらしだ。銀世界の存在が雰囲気を後押ししているが、周辺にはこれと言って何もない。国道7号線方面まで歩けば集落がある

「これ」というもの、それがすなわちプールである

尼崎市の駅はちょっと違う

雪に埋もれて何のことか分からなくなっているかもしれないがホームに隣接して「弘前市立温水プール石川」がある。温水プールを造るのだから、周辺にはもともと何もないはずだ。地図を見ていただくとプールに隣接して清掃工場があることが分かるが、そこから出る熱を利用した温水プールとなっている。駅は温水プールとほぼ同時開業。つまりほぼプール利用者のための駅となっている

こちらは駅の出入口とプールの位置。駅の構造について待合所は吹きさらしと記したが、寒い日でもギリギリまで施設内にいれば、風雪の中、長時間駅で待つこともないのだ

そして当駅で特筆すべきは「日本唯一のプール前駅」だということ。プールが付くだけなら阪神電車に「尼崎センタープール前」駅があるとのツッコミを受けそうだが、こちらは泳ぐためのプールではない。30代のころ、5年ほど尼崎市民だった。それより前の若いころはボートレースに随分凝っていたことがあって、こちらの駅には随分とお世話になったが「泳ぐプールだと思って降りてみたら違った」という勘違い話を耳にしたことがないほど「プール前」が泳ぐプールでないことは認知されている

温水プール石川のHPを見ると料金は大人も1回330円と安い。年末年始以外は基本的に開館しているようだ。当駅の2023年度の1日あたりの利用者数は21人。コロナ禍前はもっと多い数字だったようだ。敗戦後の当館アクセスがどうなるかはまだ未定だが、子ども同士、中高生同士でプールに行く手段が減ってしまうのは残念である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~駅名が一致しない珍しい共同使用駅 

※訪問は2025年3月10日

終点ならぬ起点駅に到着

大鰐駅に到着。これで大鰐線は完乗である。そして当駅は路線の起点駅。弘前市の中心部にある中央弘前からここまでやって来たのだから、中央弘前が起点で大鰐が終点だろうと思ってしまうが真逆。これはなぜかというと、以前の記事でも紹介した通り中央弘前から先への延伸計画があったからだ

中央弘前から先も板柳まで延伸することになつていたので起点は大鰐。ただしこれはあくまでも帳簿上のもので実際に乗ってみると大鰐駅には終点感が漂っている

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除雪車とのランデブー

あらためて大鰐駅。除雪車と旅客用電車のランデブーが美しい。降りて気付いたのだが、この日一度も見かけなかった同業者(鉄道ファン)が何人か同乗していて皆さんと並んでの撮影会となった。これだけいらっしゃるのなら前記事で紹介した義塾高校前駅での積雪の岩木山をバックにカーブ状ホームに入線する「ツーショット」もおすすめしてあげたくなった

大鰐駅は奥羽本線の大鰐温泉駅との共同使用駅。共同使用駅にもいろいろなパターンがあって、こちらは改札は別だが改札内でホームはJRと弘南鉄道で自由に移動できる形式

改札内は自由移動という形式はかつての国鉄が三セク化されたものに多く見られ、元々が同じ会社なのだから使用ホームもそのままということになっている

大鰐駅のようにJRと(一度も国鉄になったことのない)私鉄によるホームの移動も自由という形式は意外と少なく、有名なのは三重県における津、松阪、伊勢市の近鉄とJRによる共同使用だが、三重県内でも鳥羽や桑名のように自由な往来ができなくなった駅もあり、どちらかといえば減少傾向にある。確かに完全なライバル関係にある会社、路線が改札内の空間を共有しているのは、なかなか現代風ではない

そしてさらに特筆すべきなのは共同使用駅でありながら駅名が異なるという点。ホームも同じなのだから駅名は同じにするのが利用者にとって便利だろうと思うが、弘南鉄道は「大鰐」、JRは「大鰐温泉」である。このパターンはなかなか珍しく、大鰐から比較的ご近所のJR東日本と津軽鉄道の「五所川原」「津軽五所川原」、JR九州とくま川鉄道の「人吉」「人吉温泉」ぐらいしか思いつかないが、人吉については元々が国鉄の同駅だった

スイマセン行けませんでした

もっとも駅名が異なるといっても最初からそうだったわけではない。最初はともに「大鰐」「五所川原」だった。大鰐駅については国鉄駅の開業は1895年(明治28)と、なかなか古い。弘前電気鉄道の乗り入れは半世紀以上後の1952年(昭和27)だ。1970年に弘南鉄道に経営が移ったタイミングで「弘南大鰐」と最初の駅名変更。ところが1986年の国鉄民営化の1年前に再び「大鰐」に戻る。先の記事でも触れたが、同じタイミングで新石川駅も石川駅へと変更されている。これで1年後に発足したJR東日本と弘南鉄道で同駅名となったが、今度はJRが1991年(平3)に「大鰐温泉」と現在の駅名としたため、せっかくの同駅名回帰はわずか5年で終わりを告げてしまった

当駅は2面3線のJR、島式の弘南鉄道と計5つのホームがあり、弘南鉄道は4、5番線。ともに行き止まり形式となっていて冬場は最初の写真のように除雪車が留置されているようだ

JRと弘南鉄道のホームは跨線橋で結ばれている。駅の出入口は南北にあるが、北口は弘南鉄道のみの出入口、南口はJRと弘南鉄道の出入口はそれぞれ別に存在している。つまりJRのきっぷで大鰐温泉駅で降りても北口からは出られないわけで

はがれかけているが、このような注意の張り紙がある。ただ私がこの日持っているのは弘南鉄道のフリーきっぷ。堂々と南口(の弘南鉄道出入口)に行けるわけで、跨線橋を登って向かう-というのが、ごく普通の行動なのだが、とにかく膝の痛みがかなりのものになっていて跨線橋の階段は無念のパス。これ以上悪化して動けなくなるわけにはいかない

北口にはかわいい駅舎があって駅員さんはここにいる。以前は南口しかなかったそうだが、1981年に北口ができて利便性が向上した

駅舎は道路に面しているわけではなく通路を歩いて外へと出る

こちらは駅舎というより駐車場と社員詰所の雰囲気

左側に目をやると、すっぽり雪に覆われたバス停があり、間近まで行くことも困難だが「予約制バス」と記されていた

現在は14時半。もう少し頑張ってみよう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~うらやましいほどの絶景に思うこと

※訪問は2025年3月10日

JR駅との分岐

JRの石川駅へと向かう途中に道案内がある

周辺は住宅地。東奥義塾高校・中学への道程を示している。右手前に行けばJRの石川駅。今は携帯アプリがあるので困った時はスマホを開けばいいが、以前だと住宅街の中で道に迷ってしまうかもしれない

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遠い200メートル

JRの石川駅である

普通のみの停車だが2面3線と立派な構造。奥羽本線は当駅を境に大鰐温泉(弘南鉄道の大鰐駅と所在地は同じ)側と弘前側で単線と複線に分かれる。そして大鰐温泉から再び複線区間となるのだが、1区間だけ単線となっている理由が大鰐線唯一の陸橋だと何となく想像できるのは現地で初めて分かることである

その石川駅だが、跨線橋から駅の全景を見る時間はあったにもかかわらず、やめた。どうも先ほどの水たまりをジャンプする際に膝に負担がかかったようで階段は極力パスすることにした。駅の待合室にはすでに電車を待っている東奥義塾の生徒さんがいた。来た道を戻っていよいよ義塾高校前駅を目指すことにしよう

「義塾高校前」と書かれた立派な案内看板があるが、実はここから以外と遠い

JRの石川駅と大鰐線の義塾高校前駅の関係性はこんな感じ

徒歩10分ほどと意外と遠い。地図で分かる通り、直線距離だと200メートルほどだが、この間には農地が広がっていて道路はなく回り込む必要がある

雪の向こうに

歩いていくと雪の向こうに駅が見えた。手前はおそらく農地だろう

そして義塾高校前に到着。単式ホーム構造で1987年(昭和62)の開業で大鰐線では2番目に新しい駅

周辺は農地ばかりで、もともと駅を設置する理由もない場所だが、弘前市の中心部にあった東奥義塾が当地に移転してきたことに伴い、新駅が設置された

ホームには待合室そしてきっぷうりば。平日朝の利用者が多い時間に駅員さんを派遣できる態勢が整っている

待合室は多くの生徒にも対応できるよう広く作られている

多くの生徒さんが集まり始めた。まだ13時半を過ぎたところだが、これは聖愛中高前駅でも見た光景で本日は試験などで早めに終わる日なのだろう。彼らは13時43分の弘前方面行きに乗るようだが、私は13時50分の大鰐行きに乗る

2番目に新しいとはいっても40年近い歴史を持つ義塾高校前。ほとんど通学に特化した駅だが、2023年度の1日あたりの利用者数は53人と通学駅としては少し寂しい。JRの石川駅も学校最寄りとなっているために競合しているともいえるが、すでに紹介した聖愛中高前駅が63人、弘前学院大前駅が93人と学校最寄り駅の利用者は決して多いとは言えず、このあたりに廃線理由のひとつがあるといっても良いぐらいだ。そのあたりはあらためて触れてみたい

私が乗車する大鰐行きがやってきた。雪の岩木山を背に入線してくる電車。もちろん四季それぞれの景色があるのだろう。日々、こんな景色を見ながら電車に乗れるのは実にうらやましい限りだが、それは私があくまで一見さんだからなのか

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~苦難の雪中徒歩をしつつ大鰐線の歴史も

※訪問は2025年3月10日

地図を見て二兎を追うことに

石川駅構内の手製地図。大仏公園への道順が示されている。次の大鰐行きまで1時間、中央弘前行きまで50分の時間がある。大仏公園とは旧石川城跡のこと。石川は地域の要衝で戦国時代まで激しい攻防が繰り広げられた場所。歩いてもすぐなので、たまには城址見学も良いだろうと思っていたのだが、別の地図を見て気が変わった

駅周辺はかつての石川町の中心部であることは前記事でも紹介したが、JRの石川駅があり至近に大鰐線の義塾高校前駅がある。道中コンビニもあることだし、おそらく1時間もかかるまい。弘前学院大前駅~聖愛中高前駅のように近くはないが、ここはJRと大鰐線の2駅回収、つまり二兎を追う作戦を発動してみようということになった。もちろん、ここから本当の雪中行軍になるとは想像すらしていなかったのだが…

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JRと全く並行する地方私鉄

大鰐線は中央弘前と大鰐を結ぶ路線だが、この区間はJRの奥羽本線と全く並行している。私鉄が国鉄(当時)に戦いを挑むように新路線を敷設するのは都会では珍しいことではないが、そもそもの人口が少ない地方では例は少ない。にもかかわらず弘前電気鉄道が新路線を開業させたのは、当初は弘前市を抜けて板柳町まで延伸させる予定だったからだ。三菱電機の支援を受けたことも後押しした。1952年(昭和27)と戦後間もない開業ながら最初から電化されていた。奥羽本線の電化はずっと後のことである

ただ開業後は国鉄や路線バスとの競合もあって苦戦が続く。1970年に弘南鉄道に経営が引き継がれた。弘南鉄道では細かく駅を設けて通学需要に対応、地元からの支援も受けて対抗してきた。現在、奥羽本線の弘前~大鰐温泉は途中に1駅つまり石川駅しかないのに対し大鰐線は12もの駅がある

その貴重な1駅であるJRの石川駅にも行けるのだから、これは徒歩の価値があるというもの

早速、線路と並行する道路を歩き始める。その道中はというと

こうなっている。駅の周辺案内図とは違って旧石川町の中心部を通らずショートカットするルートで、これなら大した距離ではない。ちなみに渡がスマホで開けたのはナビタイム先生で、ナビタイム先生はグーグル先生の地図で山田毘沙門天堂を通るコースを指南してくれた

岩木山とりんご園を見とれた後に…

やがてりんご園と岩木山を望む場所にやって来た。大鰐線には「りんご畑鉄道」の愛称が付けられているが、これは美しい。そして3カ月を経た今は全く異なる景色になっているだろう。この景色を見られただけで、この季節に来て良かったと思った。ただし、そんな気分は間もなく吹っ飛ぶ

前掲の地図を参照していただければ分かるが盛り土となっている奥羽本線の下を抜けてすぐに右折のはず。しかしそこにあった光景はというと

お~い!(号泣)

こりゃ無理だろう。足跡はあるが、私はそのような靴は履いていない。しばしぼう然。今さら駅まで後戻りなんてできないが、盛り土をくぐる前に線路に沿っていると思われる道があったことを思い出す。つまりはグーグル先生イチオシの道だが、その時にグーグル検索をする余裕など全くない。とにかく前進するのみ

ところどころに水たまりがあって私の靴では浸水注意だが、そんなことは言っていられないので、ソロソロ進む。後で写真を見返すと大鰐線唯一の陸橋がJRをオーバークロスする路線の見どころだったようだが、それは後で気付いたことで、そんな余裕はない。だから交点の写真も撮っていない

すると今度は

大きな水たまりが行く手を遮る。まるで陸上競技の水濠だ。しかも道が先で右に折れていて、その向こうがどうなっているのか不安がつのる。ただJRの線路は2本になっていて踏切が見える。駅はすぐそこだろうと、スリップに注意しながら道路の右へりを進み、最後はジャンプ。それなりの重量のリュックを背負っていることもあって、元々具合が良くなかった右膝がイテテとなったが、何とか通過

広い道まで出ることができて先ほど見えた踏切から駅の跨線橋が見えた。ようやくたどり着いた。間に合った

JRの石川駅に到着である。自販機でしばし休憩しよう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~誰もが目を奪われる数々の備品

※訪問は2025年3月10日

急に変わった周辺の景色

聖愛中高前駅から石川駅で下車

所要時間は約15分。電車の中ではこの後、どのようにすれば良いのかばかり考えていたので車窓に目をやる余裕はなかったが、先ほどまでは弘前市の市街地にいる風情だったのが、駅を降りてみるとりんご園などの農地が広がっている

最初から徒歩移動が決まっていれば、車窓を凝視して道の広さはどうだ、坂はあるのか、とチェックするのだが、この時は出たとこ勝負のようになっていたというか、1時間に1本というダイヤの余裕もあって、予習不足気味だった。実はこれが後に大きな後悔をもたらすのだが、それは次回の記事に回すことにする。というのも、この石川駅、伝えることが多すぎるのだ

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ホキさんそして凝った?ホーロー駅名標

電車が去った後の島式ホーム。カーブ状になっているが、まず目につくのは手前にある車両である

ホキさんが停まっている。ホキといえば石灰石運搬のイメージだが、ここ大鰐線ではとうの昔に貨物輸送は終わっている。弘前電気鉄道から弘南鉄道に引き継がれたタイミングなので半世紀以上前のことだ。よく見ると「石川駅常備」と記されている。どうも保線用のものらしい。雪で覆われて分からないが、当駅には貨物用の側線が残されていて、ここに常備されているようだ

構内踏切を渡って駅舎に向かうとホーロー駅名標が出迎えてくれるが、こちらがあまりに斬新である

それまでの文字を隠しているようで隠されていない。「頭隠して-」という言葉があるが、頭も尻も全く隠されていない。「しん」という文字があったことが分かる

当初の駅名は新石川

当駅は1952年(昭和27)の開業で弘前電気鉄道が設置した大鰐線の1期生。当時の所在地は石川町で現在は弘前市。駅名は先の写真で分かる通り「新石川」だった。「新」が付いた理由は簡単ですでに国鉄の石川駅があったからだ。両駅はちょっと離れているため、同じ駅名にはできなかったのだろう。ただし石川町の中心部は新石川だった

公民館の場所がかつての町役場だと思われる。郵便局や小中学校などもあることから大鰐線は石川町の中心部に駅を設置すべくここに線路を設置したのだろう。石川城跡(大仏公園)も近い。事実、大鰐線はJRの石川駅を過ぎたあたりでJRをわざわざ路線内唯一の跨線橋となっている陸橋を造ってまで交差して石川町の中心部に入っている

駅名変更は国鉄民営化の1年前となった1986年4月。「新」の文字を外し、間もなくJRとなる国鉄の石川駅と対抗することとなった

誰もが撮影する看板

駅舎のある大鰐線では貴重な駅のひとつ。一見、普通に見える駅名板だが「石川駅」の左隣にわざわざ1マスで「弘南鉄道」と記されている。この1マスはかつては「新」だったのか

かつては有人駅だったが現在は無人駅。窓口は塞がれている。繰り返しになるが、大鰐線の有人駅は大鰐、中央弘前の起終点の2駅のみ。右奥のお手洗いは一応現役だった

そして石川駅といえば、こちら

当駅を訪問した人が必ず写真に収め、SNSにアップする警告の看板。私が当駅というか、はるばる神戸から大鰐線にやってきた目的のひとつと言っても過言ではない。随分と大柄なこわもての駅員さんが旗を振って注意喚起というより警告を発している。写真で分かるように作成者は石川小学校のPTA。全国の踏切や駅で見かける「きけん」というものと違って実にインパクト大である。廃線となった後も、倉庫やゴミ箱行きではなく弘南鉄道に限らずどこかの駅で次の人生を送ってほしい

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~実は徒歩が最も効率の良い移動手段

※訪問は2025年3月10日

隣駅までは700メートル

弘前学院大前駅の次に目指すのは聖愛中高前駅。さてどうしようか?と考えるヒマも何もないのである。答えは歩くのみ

この駅間はわずか700メートルしかない。1時間に1本の電車を待つぐらいなら歩いた方が早いに決まっていると歩き始める

前記事でも紹介した通り、弘前学院大前駅周辺は学生の街として発展。商店街もある。その中を進んでいく

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平均の1区間距離は?

大鰐線は起点と終点を含め全14駅。そして全長は13・9キロ。つまり1区間あたり1キロほどの距離ということになる。もっとも距離にばらつきはあるし道路状況もある。必ずしも線路と並行して道路があるわけではないので、道路の距離は多少異なるが、大鰐線は総じて平地部を走っているし、幹線道路も近い。途中には飲食店もコンビニもある。極端なことを言うと健脚に自信ありの人なら全駅を徒歩で訪問するのも可能だろう。中でも今回の1区間はかなり短い

わずか15分で到達できる。駅間徒歩と言えるものかどうかも怪しい距離である

どんどん進んでいこう。道路はきれいに除雪されている。それにしても1階部分がすっぽり雪に覆われている景色はふだん見慣れていないだけに、ちょっと驚いてしまう。私の住んでいる所は1センチの積雪ですら、昼間はほとんど見ることがない。東京に住んでいたころ、たまに訪れる10センチほどの積雪に坂道ですってんころりしたぐらいだ

実は1月の寒い日に神戸の坂道を降りたところ膝を痛めてしまい、なかなか引かず、このころがピークだったのだが、まだ大丈夫。というのも写真は雪景色だが、この日の弘前は気温10度超えで全く寒くない日で、足下にさえ気をつければ実に快適な徒歩日和だったのだ

人気漫画の舞台

ということで

踏切が見えてきて無事に聖愛中高前駅に到着

単式ホームにスロープで入る簡素な構造である。当駅は大鰐線の開業から20年以上を経た1973年(昭和48)に開業した新駅。当初の駅名は城南。写真の右手、ホームの裏に学校があるが、これは県立弘前実業高校。駅名となった聖愛中学高等学校は駅の開業翌年に現在の場所にやって来た。快速が運行されていたころは通学の便は図るための停車駅だったこともある。駅から徒歩で10分ほどかかるが、西弘前駅が弘前学院大前駅へと改称されたのと同じ2008年9月1日に城南駅も現駅名へと改称された。両校は系列校であり、駅名変更は学校からの請願によるもの

ホームには待合所、待合室があり、学生さんの利用が多い駅だけあってホーム上に自販機がある。聖愛中高は人気漫画でアニメ化された「ふらいんぐうぃっち」で主人公が通う学校のモデルとされ、聖地巡礼の舞台にもなっているという。私はアニメや漫画については全くの門外漢なので何も語ることはできないが、スポーツの強豪校である弘前実業、聖愛高校は私がかつて専門にしていたジャンルである

弘前実業は甲子園に何度も出場しているほか、大相撲に人材を提供していることでも知られる。栃ノ海という横綱を輩出しているので、それだけでも十分に自慢だが、ロボコップ高見盛という人気力士の母校でもある。聖愛高校は男女共学となってからも甲子園に出場しているほか、バレーボールやバスケットの強豪校として知られる

こちらは待合室

この日は試験期間中だったのか、午前中のみの授業だったようで電車の到着時間が近づくと生徒さんが集まってきた。ホーム上で談笑する生徒さんたち。あと3年で廃線、廃駅になるとは思えない光景だった

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~駅巡りの超貴重駅はかつての本社駅

※訪問は2025年3月10日

目を引く発車案内標

弘前学院大前駅に到着。列車交換可能な島式ホーム。目を引くのは発車案内標で「かいそく」の文字が残る。現在、大鰐線はすべての列車が普通で区間運転もない。普通列車の大鰐~中央弘前が運行されているのみ。快速は2006年に運行を終えている。快速は平日朝の通学向けに運行されていた

ホームには弘前学院大学の案内がある。「徒歩2分のところに学校があるのだから快速停車駅だったのだろう」と思うのは当然だ。もちろん、それは合っている。ただ合っているが、ちょっと違う点もある

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スーパーとの合築駅

ホームを降りてまず気付くのは「コープあおもり西弘店」の看板

これでお分かりだろうが、当駅はスーパーとの合築駅となっている。開業は1952年(昭和27)で大鰐線を敷設した弘前電気鉄道の1期生。それもそのはずで、当駅には弘前電気鉄道の本社が置かれた。駅名は西弘前。本社と同時に車庫も設置された。つまり大鰐線をつかさどる駅だったのだ

やがて西弘前駅は学生の街へと発展していく。駅名の弘前学院大のほか弘前大も至近で駅付近には飲食店や商店が並ぶようになった。「西弘前」から「にしひろ」と親しまれる地域になった

弘前電気鉄道はやがてなくなり(弘南鉄道へ譲渡)、車庫も津軽大沢駅へと移転したが、後にスーパーがやって来た。スーパーの名前が「西弘前」ではなく「西弘」なのは、そのなごりだろう

駅名変更に困惑

現在の駅名に変更されたのは2008年(平成20)9月1日のこと。駅名というのは基本的に鉄道会社の専権事項で、特に私鉄においてはその力はさらに強まるが、変更の告知が1週間の8月26日だったこともあって「西弘」に愛着を持つ地元住民は猛反発。弘南鉄道は後に地元向けの説明会を行い、事前の説明をしなかったことを陳謝する事態にもなった

その弘前学院大前駅。私のような「降り鉄」にとっては実にポイントの高い駅だった。現在の駅舎となったのは2018年。まだ7年しか経っていないため、建物はピカピカだ

このテーマについては過去何回も触れているが、冬場の各駅訪問最大の敵は生理現象である。まず弘南鉄道の車両は東急からの譲渡車両であるため車内にお手洗いはない。となると各駅での設置を期待するしかないのだが、そもそも駅舎のある駅が貴重で、先に訪れた千年駅は閉鎖されているのか、お手洗いは見当たらなかった。ならば、この新しいスーパー併設の駅ならどうだ、と降りてみると、建物同様にピカピカのお手洗いもあった。男女兼用で事実上、男子専用のようなお手洗いもあるが、当駅は女性も安心して利用できるものだった(私の記事を読んで各駅訪問をしたいと思われる方がどれだけいるのか不明だが)

駅舎内の写真を撮ろうと思ったが、スーパーの敷地扱いなのかどうか分からないので撮影はやめておいた。ちなみに厳寒期にどれぐらい利用者がいるのか分からないが、ホームを望む構内踏切、駅舎の外にイスと時刻表が設置されている

運行をつかさどる拠点駅から学生の街、そしてスーパー併設駅へ。数奇ともいえる歴史を感じさせる駅である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~惹かれる駅名と高く積まれた雪

※訪問は2025年3月10日

貴重な駅舎のある駅

中央弘前から4駅目。千年駅で下車。写真で目に入るのは真っ白な雪だろうが、惹かれるのは「千年」という駅名だ。何か縁起物の風情が漂う。またご覧の通り、当駅はすれ違い可能な構造で、なおかつ駅舎のある駅。この2つを満たす駅は大鰐線にはなかなか少ない

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元々は村名

ホームから構内踏切を渡って駅舎に向かう

当駅の開業は1952年(昭和27)。大鰐線の前身である弘前電気鉄道が開業と同時に設置した。「ちとせ」駅というと、誰もが思い浮かべるのは北海道の千歳駅だろう。他にも「千歳駅」は全国に多い

かつては内房線の千歳駅を紹介したこともあるが、こちらは千年と文字が異なる。かつて当地にあった千年村に基づく。それでも開業時の駅名は津軽千年で「千歳」に気遣ったようにも感じるが、昭和の終わりごろに旧国名は外され現駅名となった

地図で分かるように今でも千年の地名は残っているが、駅舎のある場所は堀越村にあった。それでも駅名となったのは、千年という地名が由緒あるものだったからと推察される。江戸時代に津軽藩の殿様専用の行楽地として千年山と名付けられた場所があったことに基づいて村名となった。なお千年村は駅開業の3年後に弘前市に編入されている

背丈よりも高い雪

としいえ、どうしても目が行くのは雪の高さだ。私のような平素は雪が積もることはまずない地域に住んでいると「すごいな」と思ってしまう。後方の自販機と比べると、その高さが分かるだろう

しばらくすると人がやって来た

もっと分かりやすくなった

駅舎はかつては有人駅だったが現在は無人。駅名板の文字のかすれ具合が歳月と風雪を感じさせる。寒冷地の駅ながら駅舎は扉があるわけではなく、開放されたまま、悪い言い方をすれば吹きっさらし。その分、ホームの待合所はしっかりした部屋となっている

さらに特徴的なのは、駅舎の裏側。裏側というよりもうひつとの出入口。こちらはほとんど除雪されておらず、積雪の際は使用されないのかと思っていたら、後に当駅付近を通過した際、雪を踏みしめながら歩く人がいた。雪国の人はたくましい

駅にはこのような注意書きが残る

要は火気厳禁、燃えやすいものはダメということだろうが「有毒ガス」から「多量のマッチ」まで守備範囲が広い。そういえば子どものころ、セルロイドのおもちゃはストーブに近づけてはいけないと習ったことを思い出した。半世紀も前のことだ

こちらはホームの周辺案内図。4駅目といっても10分で到着する。中央弘前駅から4キロで、周辺は市街地。ふだんのローカル線駅巡りのクセで、すぐ駅から至近にあるコンビニ2軒に目が行ってしまうが、あっても不思議ではない場所である

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