きっぷ

城端線の全駅訪問を思いつく~何よりも最優先事項で訪問となった駅

高儀駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

ひらがなだと一層気分が

やって来たのは高儀駅。お察しの通り「たかぎ」駅で、今回の訪問ではまず時刻表チェックから始めた

私が知る限り、「高木駅」は日本でひとつしかない

福塩線の高木駅(広島県)で、これは年明けの1月10日に3年ぶりに訪れたもの

もうひとつ、身近なところ、神戸のお隣の三木市にも、ついこの間まで高木駅はあった

三木鉄道の高木駅。国鉄三木線が三セク三木鉄道に転換されたものの、2008年に廃線となった。こうして見ると普通の道路にしか見えないが、駅の跡地であることを教えてくれる案内板があるので往時をしのぶことができる(訪問は2019年11月)

三セク転換後に設置され、約20年の存在だった

そして今回の「高儀駅」である。城端線の訪問は急きょ決めたが当駅だけは、そこそこの滞在時間がとれるよう日程を考えた

縦駅名標は平仮名とローマ字のみの表記なので、より気分が高揚する

19世紀から120年以上の歴史を有する

高儀駅は砺波市との境界線近くにある南砺市の駅。平成の大合併前は福野町

市境の線引きがやや複雑だが、駅から1~2分歩くと砺波市に入ってしまう。開業は1899年(明治32)だから、19世紀生まれで120年以上の歴史がある。少し前の1897年に城端線の元となった中越鉄道が開業していて、砺波(当時の駅名は出町)~福野の間に設置された。高儀の住居表示は今も残っていて、駅から10分ほど南に歩いた場所となる。現在は当駅と砺波の間にもうひとつ東野尻駅ができているが、設置当時は東野尻村からのアクセスも考慮されたという

そんな歴史ある高儀駅だが

現在は簡易的なコンクリート駅舎。駅としては1970(昭和45)に早々に無人化された。現在の形になったのはJRとなった1987年(昭和61)なので、この駅舎になってからも40年近くが経過している

その時に構内は棒状化された。かつてのホーム跡は40年の歳月を物語る

現在の姿となる前は開業直後からの木造駅舎が残っていたようで

駅前広場と花壇に面影を残す

駅舎内の待合室はきれいに清掃されている

私は「高木さん」には出会ったことがあるが「高儀さん」には出会ったことがない。富山県を中心に北陸方面にはいらっしゃるようだ。町村制度が始まった明治以降では高儀という自治体は誕生しなかったが、高儀村は江戸時代にはすでにあった地名らしい

せっかくなので駅名板もあるだけ撮っておこう

こちらが駅舎の外側にあるもの。凸型になっているあたり、40年前は簡易的な駅舎にするにしても工夫が凝らされていたことが分かる

こちらは内側のもの。年月を経てかすれた感じがいい

今回の駅訪問で最重要とした駅に立ち寄れてとても満足して当地を後にした

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城端線の全駅訪問を思いつく~終点のひとつ手前も新設の棒状駅は踏切に名を残す

越中山田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

駅訪問の鉄則

油田から7駅進んで

越中山田で下車。7駅といっても17キロしかない。高山本線なら40キロほど進みかねないが、とにかく駅が多い。待合所が前々記事で紹介した東石黒と同じ形状で理解できると思うが、こちらも戦後の新設駅。棒状ホームと待合所のみの構造で貨物の扱いをしたことは一度もない

開業は1951年(昭和26)の8月10日。同日に東石黒駅そして東野尻駅とともに設置された。ちょっと意外だが、路線内で「越中」が付くのはここだけ

次は終点の城端。過去に訪問済みということや滞在時間が短くなることで今回は城端はスルーとしたが、ローカル線において終点駅の手前というのは駅を巡る上で重要。比較的早い時間に折り返してくることが多いので、ここで待つという手段もあるし、折り返しまでの時間を利用して次の駅まで徒歩で先回りすれば、2駅を回収できる

昨年は名松線の比津駅と伊勢八知駅を訪問した際、この手段を利用した

駅への手段が鉄道以外になく、徒歩もままならない時は、じっと待機。越美北線の越前下山という駅は、とても歩くような道路ではないので、そちらの方法を利用した

小学校の名前を残す踏切

もっとも越中山田駅については、1時間に1本の運行があり、両隣の駅までもそう大した距離ではないので、のんびり折り返しを待つことにする

隣駅は終点の城端ということで線路の先には山々が迫っている

駅名は1952年まで存在した山田村に由来する。駅周辺には集落がある。駅の開業翌年に福光町となり、現在は南砺市(富山県には、もうひとつの山田村があり、こちらは2005年まで存続。現在は富山市となっている)

こちらは駅の遠景。ホームへは踏切横の小さな階段から入ることになるが、その踏切をぼんやり見つめていると、気になる文字があった

「山田小学校」とある

踏切名も「山田小学校踏切」となっている。だが周囲に学校らしきものは見当たらない。調べると、かつて駅付近には、山田村立から福光町立となった山田小学校があった。明治初期から100年以上の歴史を持つ学校だったようだが、1981年に閉校となっている

「山田小学校のあゆみ」というサイトを参考にこの記事を書いているが、生徒さんたちは越中山田駅の清掃活動に取り組んでいたようでたびたび表彰も受けている。金沢鉄道管理局長からの表彰もあり、最後は国鉄総裁賞も受賞。ただし小学校のあゆみの次の行が閉校式だった…

閉校から40年が経過しても、新しい看板に更新されながら小学校は残っている

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城端線の全駅訪問を思いつく~ハッと思ってしまう意外な難読駅名の由来

油田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

隣駅とセットで理解

東野尻に次いで油田にやって来た。ご覧の通りの単式ホーム。ただ向かいに廃ホームが残る。かつては、交換設備があったようだ

ただ注目は駅名である。「油田」は「あぶらでん」と読む。多くの人が思うのは「ゆでん」だろうが、いわゆる湯桶読みという訓音読みは、それだけで難読になってしまう

一瞬、富山にかつて油田(ゆでん)があったのか、と思ってしまうが、そうではない。これはお隣の戸出駅とセットにすると分かりやすい

城端線の駅は1駅だけ紹介したことがある。昨年2月にグリーンきっぷで旅をした際、当駅に立ち寄った

「戸出」(といで)だけだと、油田との関係は分からないが、時代ははるか昔の平安時代までさかのぼる。このころから当地は油の産地だったようだが、そのころに石油なんてものが使用されるはずはない。油というのはごま油のこと。付近ではエゴマが多く栽培されていた

それにちなんで「灯油田」(とうゆでん)が地名の由来で、歳月を重ねるうちに「とうゆでん」→「とゆで」→「といで」と変化したとか。隣町となる油田は、文字もそのまま残った

明治の町村制では、それぞれ戸出町、油田村となり油田村は、戦後の1952年(昭和27)の砺波町誕生まで存続。現在は砺波市である

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現在は簡易的な駅舎

油田駅の誕生は1900年(明治33)で、1897年生まれの戸出駅より若干若い

現在の城端線が最初に開業したのが戸出駅設置の1897年で、同じくその時に開業した砺波駅(当時の駅名は出町)との間に開業した。少し遅れたとはいえ、もう120歳を超える歴史を持つ

ただし駅舎は簡易的なもの。かつては木造駅舎があったようだが、国鉄末期に無人化され、JRになって間もなくの1989年(平成元年)に現在の姿となった

簡易的とはいっても駅舎には事務室があり(どのぐらい使用されたのかは不明である)、待合室も扉が開閉できるものとなっている。駅舎そのもののデザインも欧州風なおしゃれなものだ

駅からすぐのところには江戸時代から続く若鶴酒造があり、ここには北陸唯一のウイスキー蒸留所がある

そんな油田駅だが、駅舎はあるものの少し気をつけなければならないことがある

最近の流れではあるがお手洗いにはカギがかけられ閉鎖されている。長時間滞在する場合には事前に備えが必要である

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城端線の全駅訪問を思いつく~戦後生まれの棒状駅からスタート

東石黒駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

1時間に1本の運行

高岡から約40分。東石黒駅が本日最初の訪問駅

こちらが当駅の時刻表

城端線は基本的に1時間に1本の運行で高岡~城端を走る。臨時扱いの観光快速を除くと、すべてが普通列車で、平日の朝のみ高岡からあいの風とやま鉄道に乗り入れて富山まで直通する列車が2本運行されている。話はそれるが、この2本は高岡~富山で見られる貴重な気動車ということになる。運用にあたるのは、いわゆる「タラコ」のキハ40、47

1時間に1本というのはローカル線では本数の多い方だ。元々はひとつの路線だった高岡からの氷見線は、城端線より少ない。前記事で記した通り、全体で14駅しかも30キロの中に詰め込まれているので全駅訪問はそれほど難易度は高くない。2キロにも満たない駅間もあるため、徒歩も駆使すれば次の列車に間に合ってしまう。もっとも訪問当日は9月10日と、まだまだ酷暑の日だったので、できるだけその手段は避けよう

駅の開業までは戦争をはさむ

東石黒駅は棒状ホームと待合所のみの簡素な構造

立派なキロポストがホームに建っているが、開業当初から現在の姿

設置は戦後の1951年(昭和26)。駅が造られることは戦前から決まっていたが、戦争をはさんで開業となった。駅の構造が旅客営業のみの対応なので貨物の運用は最初からない

駅名は1954年まで存在した東石黒村に基づく。東石黒村は福野町を経て現在は南砺市。ちなみに東石黒村があったのだから石黒村もあったが、こちらは戦後、福光町に入る形となった。ただし今はともに福光町

福野、福光の両駅は19世紀からの歴史があり、その中間に設置されたため、距離も近い

線路に沿って真っ直ぐ歩くと福野の街に入り、福野駅に着くことができる。線路とともに歩けるという駅巡りでは絶好のルート。ただ繰り返すが、この暑さでは歩かないのである

駅の全景はこんな感じ

自転車置き場があり

踏切横の小さな階段を昇ってホームに入る

ただし駅全体を見ると

その気になれば、小さな土手を上がると柵もなく容易にホームに入れてしまう、よく北海道で見られる構造。もちろん、それが合法的なものかどうかは不明。1日に50人ほどが利用する駅で、滞在中はどのような入り方、降り方を地元の皆さんがされるかどうか注目していたが、ちょうど朝の通勤通学の時間帯が終わったばかりで駅にやって来る人はいなかった。ずっとホームにいたのは明らかに同業者(鉄道ファン)で、なおかつ駅訪問を趣味としているであろう方と私の2人きりだった

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城端線の全駅訪問を思いつく~急きょ行先を変更して富山から高岡へ

城端駅のホーム

※訪問は2023年9月10日

直前のニュースに触発されて

昨年の夏の青春18きっぷ最終日の朝。私は富山の駅前にいた

本来ならここから高山本線の残った駅の回収に向かうはずだったが、前日のうちに急きょ予定を変更した

11月の記事でも記したが、理由は①あと1日では高山本線の全駅回収は不可能だと判断したこと②直前に城端線と氷見線の三セク編入検討のニュースが流れたこと-の2つ

報道では今後、協議に入るとなっていたが、こういうのは話がトントン拍子に進むものである。表現は乱暴だが、JR西日本としては新幹線以外と接続しないローカル線とは、一刻も早く縁を切りたいだろう

ということで富山からあいの風とやま鉄道に乗車して高岡を目指すことにする

わずか30キロに14駅

城端線は高岡駅と城端駅を結ぶ29・9キロのローカル線。この距離は東京~横浜より、ほんの少し長く大阪~三ノ宮より、ほんの少し短い。そして約30キロの間に14もの駅があるという(高岡駅は城端線所属となっている)、まるで私鉄のように路線だが、実際に元々私鉄だった路線である

中越鉄道という会社が1897年(明治30)に福野までを敷設したのが最初だから、130年近い歴史を持つ。ちなみに当時の起点は高岡ではなく黒田仮乗降場で、これは現在の新高岡駅近く。なぜこのような場所が起点となったのかというと、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったから。国鉄が金沢からやって来ることは決まっていて、もちろん接続駅とすることは決まっていたが、駅の場所が未確定だったため、仮乗降場を設けた。高岡までの線路がつながったのは、翌1898年のこと(仮乗降場は廃止)。つまり国鉄より先に開業した路線で、富山県では初の鉄道である

そしてもうひとつのポイントとしては、最初から城端が終点だったことが挙げられる。山中に伸びて行き止まりとなっている路線は、先の延伸計画がありながら、工事が行われず、結果として未成線、盲腸線となっているものも多いが、中越鉄道が目指したものは、どちらかというと海で、豊かな農業地帯の農作物を伏木港へと運ぶことを目的とした。後に現在の氷見線も同社が敷設している

国有化されたのは1920年(大正9)。当初は城端から伏木までが中越線で、伏木から氷見までが氷見線だったが、戦時中の1942年(昭和17)に城端~高岡が城端線、高岡~氷見が氷見線と現在の形となった

駅が多いのは元が私鉄だったことはもちろん、戦後に5つもの駅が新設されたため。30キロしかない区間に5つの新駅なので明らかに多いが、駅舎の有無やホームの形式で戦後生まれかどうかが分かりやすい

高岡から出発

そんな城端線だが、私が過去に訪れたのは高岡、新高岡、戸出、城端の4駅のみ。全線の乗車は果たしているが、駅の経験値が乏しい。それだけに各駅が楽しみである

高岡駅はあいの風とやま鉄道の管轄となっている

構内ももちろんあいの風とやま鉄道の管轄だが、城端線と氷見線は専用のホームが与えられている。ちなみに両線のホームは主に1番線と7番線で間にあいの風とやま鉄道のホームを挟み、中間線も存在すめため遠い

ホームに行ったのは7時半過ぎ。通学の高校生がドッと降りてきた。降りきって間もなく出発である

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~最後の駅は唯一の岐阜市内「所属」

長森駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

43番目の駅に到着

長森に到着。これが高山本線44番目、最後の駅となった。225キロにも及ぶ路線とはいえ、のべ8日とお世辞にも効率の良い周り方とはいえないが、全駅で乗下車のどちらかは行えた。そして岐阜から富山へと長い路線ながら、意外にも岐阜市内にあるのは長森だけだ(岐阜駅は帳簿上の所属としては東海道本線となる)

2面2線のホームの向こうには岐阜市中心部の高層な建物が見えるが、駅周辺は農地が広がる。ちなみに岐阜までの線路の距離は4・2キロと、それなりの距離がある。ただ岐阜駅から東海道本線が直進して高山本線が北上するようなイメージがあるかもしれないが、実際は弧を描くのは東海道本線で高山本線が弧を描くのは鵜沼からだ

長森は平安時代からの地名

開業は1920年(大正9)で、お隣の那加と同じく岐阜~各務ヶ原が開業した際に設置された。一番列車の種別は分からないが、高山本線で最初に歴史を刻んだ駅である

駅の場所はもともとは南長森村。北長森村と同じく1940年(昭和15)に岐阜市と合併、編入となった。長森とは平安時代からの古い地名で、同名の荘園があったという。後に長森城が築かれ、地域の中心となったが、その後に稲葉山城つまり岐阜城へと主役は変わっていった

ただ幕末のころには長森城跡に切通陣屋が造られ、政治の舞台へと返り咲いた時もあったという

切通陣屋は今も切通の住所、駅名(名鉄)が残る。一方、長森については駅を中心に施設名、学校名、店舗名などに広く名を残すが住所としての長森は駅からかなり離れた場所となっている

早々の無人化と簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。以前の形は分からなかったが

財産票を見ると50年近く前に現在の姿となったようだ。「JR」の2文字が見られない。1960年代に無人化されているので、かなり早い。利用者もお隣の那加、さらに蘇原よりも少ない。岐阜からわずか1駅。宅地化が進んだ現在もそうなのだから、50年前は周辺の住宅ももっと少なかったと思われる

おもしろいのは駅名板で丁寧にカバーされている

それでも貨物ヤード跡は岐阜側に残る。岐阜からわずか1駅。どのような貨物が運ばれていたのだろうか

ちょっとした思い出

長森で30分の待機の後、岐阜行きに乗車するわけだが、書き漏らしたお話をひとつ

前日、飛騨小坂に向かう際に乗車したのがキハ25の1だった。武豊線が電化されたことで高山本線のJR東海区間は当該車両が回ってきたこともあって、車両が大きく変わった。「初代」ではあるが、生まれは2011年

本線とはいえ、多くの部分がローカル線となっている高山本線だが、車両はピカピカである。もちろん乗り心地もいい

そして1区間のみ乗車して無事に岐阜到着。takayama-main-line1で始めた記事のURLは最後46までになったしまったが、高山本線については、こちらで〆としよう

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~駅前広場はすぐ名鉄の線路&踏切

那加駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

簡易的な駅舎も三角屋根

蘇原から那加に到着。隣駅が長森、そしてその次が岐阜。つまり当駅を含め、あと2駅で全駅訪問は終了だ。まだ11時前。焦る時間ではないし、カウントダウンに入ったのだから、進んだり戻ったりするのは、もうヤメである。30分間隔の運行なので、蘇原からは1駅進んで30分待機を繰り返すことにした

駅舎は簡易的なもの。かつては木造の三角屋根の駅舎があったが、1998年から現在のものとなった。簡易的なものながら、三角屋根になっているのは、旧駅舎に敬意を表してのものだろうか。このころは簡易的な形になっても、現在各地で見られるバス停型と比べると、それなりの気遣いがあったことが感じられる

ただし駅舎内は小さな待合所があるだけ

開業は1920年(大正9)。高山本線が岐阜~各務ヶ原で最初に開業した際に設置されている。1963年から各務原市だが、当時は那加町

かつてはつながっていた両駅

駅舎を出るとスペースの小ささにちょっと驚かされる

目の前にあるのは名鉄の線路と踏切。その前が道路。駅前の広場は狭く、名鉄の線路を越えないと道路に出られない形になっている

踏切を通過する名鉄の電車。位置関係がよく分かる

名鉄の駅は新那加駅。微妙にずれた場所に位置する

JRと名鉄の線路間が微妙な空間だが、ここは以前、線路が敷き詰められていた場所だった

前記事で蘇原駅について、陸軍飛行場に隣接する工場で働く人のために1942年に設置されたと記したが、1920年の開業時は飛行場の「最寄り駅」は、この那加駅。現在の名鉄各務原線は各務原鉄道という私鉄が敷設したもので、開業は1926年1月。こちらは当初から1917年に開設された陸軍飛行場をターゲットにしていて、駅名も「一聯隊(いちれんたい)前」(現各務原市役所前)、「飛行団前」(現六軒)、「各務補給部前」(現三柿野駅)、「二聯隊前」(現名電各務原)という駅名が並んでいた

国鉄より飛行場に近い場所に敷設したが、軍事関係の貨物を私鉄だけで運ぶわけにはいかない。そこで国鉄との接続駅として選ばれたのが那加駅。各務原鉄道の車庫が設けられ、両社を結ぶ連絡線が設置された。この線路は戦後も飛行場を接収した米軍いわゆる進駐軍が利用したという

名鉄駅はもともと各務原駅

こちらは名鉄のホームから見た新那加駅の入口。新那加駅は地下に改札口がある有人駅で北側つまり那加駅側からも南側からも両方から入れる。かつて連絡線や車庫線があった場所は公園と駐車場となっていて、JRの駅を出て踏切を渡らず駐車場の方に歩いていくと名鉄の入口に達する

ちなみに新那加駅は最初、「各務原駅」としてスタートしている。名鉄(当時は各務原鉄道)の各務原駅は、その後、現在の三柿野駅が名乗り、現役の各務原駅は3代目である

高山本線と名鉄の乗り換えは鵜沼と新鵜沼がメインとなっていて、那加と新那加の乗り換えというのは、あまりない。新那加駅の乗り換え案内も、イオンモールへのバス案内と比べても、かなり控えめ。それでもJRと名鉄の間の空間は、歴史を残している

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~戦時中に開業し、戦時中に村から町へ

蘇原駅の駅名標

訪問は2023年10月20日

ピーク時は有人駅に

上麻生を9時11分に発ち、美濃太田での接続(20分)乗り換えを挟んで蘇原に到着。残るは3駅で時間は10時半前。何度も繰り返しているが、ここまで来ると昼間のこの時間帯でも30分に1本の運行がある

駅舎は簡易的なもので、もちろん無人駅。かつては大きめの木造駅舎があったが、1997年に現在の形となった。無人化はもっと早く、国鉄末期。国鉄からJRへのカウントダウン時に全国で無人化が多数行われた。ただし、派遣という形で駅員さんが滞在する日もある

名鉄の三柿野駅の方が近いが、航空自衛隊岐阜基地でイベントがある日は多くの利用者があるため、臨時駅員が派遣される。元々の蘇原駅はそんな性格の駅でもあった

開業は1942年

高山本線の最初の開業区間は岐阜~各務ヶ原の約13キロで1920年(大正9)で設置された途中駅は長森、那加の2駅だった。その後、1934年(昭和9)に全通開業となったが、蘇原駅の開業は1942年(昭和17)で、当時は戦争のまっただ中

蘇原駅と三柿野駅の間には川崎重工業の岐阜工場があり、航空機が製造されているが、ここは隣接する陸軍飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)の軍用機、戦闘機を製造していた。戦争が始まると軍需が高まって多くの労働者が必要となったため、駅が設置された

ちなみに名鉄の三柿野駅は「航空廟前」、お隣の六軒駅は「飛行団前」という駅名だったが、戦時体制となった際「情報漏れを防ぐ」という理由で現在の駅名へと変更されている

各務原市は1963年に蘇原町など4町が合併して成立した。元々は蘇原村だったが、各務原飛行場が1917年(大正6)に設置されると軍需で町として発展。蘇原駅が開業したころは、工場で働く人がさらに増え、人口も増加したため、1943年に蘇原町となった

現在の駅舎内はガランとしているが、多くの人が利用したため、戦時中の建設にもかかわらず駅舎は大きかった。飛行場があるため、周辺は空襲の対象となり、名鉄の三柿野駅は駅舎が焼失したが、蘇原駅は戦災を免れて残ったという

ホームは2面3線構造ですれ違いだけでなく待避も可能。側線跡も残る

戦後は岐阜市内はもちろん、名古屋方面へのベッドタウンにもなっている。本数が多い名鉄の三柿野駅には劣るものの、2000人ほどの利用がある。その前の訪問が200人にも満たない上麻生だったこともあって、駅前の自転車の数に圧倒された

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~抜けるような秋空と蒸気機関車の展示館

上麻生駅の駅名標

※2023年10月20日

格好いい町の中心駅

上麻生に到着。これで残るは各務ヶ原より南の3駅のみ。30分に1本と運行の多い区間なので時刻表とにらめっこする必要はない。高山本線の私的な各駅訪問では事実上、こちらが終着駅のようなものである

一昨年夏に青春18きっぷで高山本線をトコトコ走った際、上麻生と下麻生の2駅は同じ自治体に存在する駅だと思い込んでいたが、実際は異なっていた。上麻生は加茂郡七宗町、下麻生は加茂郡川辺町と、そもそも「麻生」という自治体が現在はない。元々は上麻生村、下麻生町(村)という自治体が存在したが、戦後10年が経過した「昭和の大合併」で自治体としてはなくなっている。自治体が異なるのだから、コミュニティバスもつながっていない。歩けないものかと考えもしたが

国道沿いの一本道ながら山中を1時間以上歩くのは、できるだけ回避したいと今回の道程となった。もっとも前記事で記した下麻生での長時間停車を発見できなければ、それぞれの駅で1時間以上待つのなら徒歩という手段も脳裏にはあった。グーグル先生は徒歩ルートを検索すると「ほぽ平坦なルート」「高低差27メートル」と実に親切に教えてくれる

上麻生駅のある七宗町は1955年(昭和30)に上麻生村と神渕(かぶち)村が合併。七宗村として誕生。1971年に七宗町となった。読みは「ひちそう」。町の9割を山林が占め、山々を「七宗山」と呼んでいたことから、格好いい町名となった

簡易的な駅舎がポツリ

駅の開業は1924年(大正13)。下麻生から1区間延伸された際に設置。もちろん当時は上麻生村である。その後、2年間にわたって終着駅だったが、それもそのはずでお隣の白川口までは途中に信号場も挟む10キロという長い区間。いかに山中にあるかを物語る。実際、七宗町の町役場最寄りの当駅は七宗町全体で見ると東の端っこ部分にある

そんな上麻生駅の駅舎は簡易的なものである。下麻生駅と同じ時期となる2003年に開業時の木造駅舎が現在の姿となった。駅前の木は現駅舎になった時に植えられたもののようだが、今は駅舎が隠れるようになるほど成長している

裏側から見ると駅はこのような構造

駅名板は美しいステンレスのプレートとなっている

蒸気機関車を丁寧に展示

駅を降りてすぐ目につくのは

SLの展示館。高山本線に乗車していると車窓からとても目立つ。入口には腕木式の信号がある。管理は七宗町が行っているようで、柵に開館は平日の9時から16時で、見学を希望される方は町役場まで連絡してください、と記されていた。私の到着は8時46分で、9時11分の美濃太田行きに乗車する予定でさすがに断念

展示館の前には機関車の解説があった。読むとなかなかの歴史を有していて製造は戦時色の強まった1937年。戦時中の1942年に美濃太田の機関区に来たことは確認できているが、戦災で帳簿が焼失してそれ以前の歴史は不明となっている。終戦間際の1945年5月に小松島機関区に行った後は、平磯、高崎、小郡と「転勤」を繰り返していて、まさに昭和史の証人である。これだけ丁寧に保存されれば、いつまでもきれいなままでいられそうだ

駅に戻る。2面2線構造で跨線橋からの山々が美しい

カーブ状のホームからは抜けるような秋の青空が広がっていた

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~残った2駅の回収方法はアプリさまさま

下麻生駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

残った2駅の難易度が意外と高

各務ヶ原から美濃太田に戻り、当駅始発の下呂行きに乗車。だが、実は大いに焦らされた。順を追って説明していこう

まず美濃太田以北の本数が多い区間で最後に残ったのが上麻生と下麻生の麻生2駅。下呂までの区間は年間通じて発売される週末の1日が乗降自由となる「青空フリーパス」(当ブログでは出場頻度が高い)の区域内で、今回の乗り放題パスや青春18きっぷの季節外でも利用できる。だったら楽勝だろうと昨年4月のGW中にその区間内の回収に出かけたのだが、この麻生2駅を残してしまったことが致命傷になった。隣り合う両駅を効率良く回収するのは意外と難しい。どうやっても両駅で1~2時間の待ち時間ができてしまう上、両駅を結ぶバスもない。歩くのもやや通そうだ

必死で時刻表とにらめっこしても良い案が浮かばない。すると前々日の富山で携帯アプリを見た結果、妙案を発見できた。私は古い人間なんで、基本的には冊子の時刻表派だ。以前にも書いたが、60歳を超えても裸眼で普通に時刻表の文字を読めるのが密かな自慢で、ある意味、うまく読めなくなった時が「潮時」かな、とも思っている

ただ紙の時刻表ではよく見ないと分からない情報がネットの時刻表にはある。駅での停車時間だ。紙の時刻表でも駅間距離の割には所要時間が長すぎることで停車時間の長さを推測することができるが、ネットでは列車別の時刻が表記されていて○分着、○分発が容易に分かる

その結果、8時8分美濃太田発の下呂行きに乗れば、下麻生で15分もの長時間停車があることが分かった。ちょっとしたすれ違いのための停車で駅訪問とするのは私的には基本的に行わないが、15分もあるのなら許してもらおう

ということで前日は16時には駅訪問を止めて早々に夜の街に繰り出すことができた

まさかの同一ホーム前後出発

そして冒頭の美濃太田駅である。駅の電光案内で確認したところ、下呂行きは1番線からの発車。基本的には岐阜行きが使用するホームで、乗車予定の下呂行きの5分前に8時3分の岐阜行きを見送った後、5分後の乗車列車を待っていた。すると駅員さんが近づいてきて「どちらへ?」と尋ねられたので「下呂方面へ」と言うと

「あちらです」

と指差した先にいたのが冒頭の写真の列車。もう発車までわずかな時間しかない。ダッシュ気味で写真を1枚だけ撮って何とか乗り込めた

こう書いていくと「同じホームなのに気付かないはずがないだろう」と思われるかもしれないが、両方の列車は橋上駅舎の階段の前後に停まっていて私の位置からは完全な死角となっていて見えないのだ。おそらく駅員さんも、そのあたりは折り込み済みで、私のような、うっかり人間がいないかどうか毎日チェックしていると思われる。とにかくこちらに乗れないと次の列車は約2時間後の9時55分。実に危ないところで、声をかけてくれたことには感謝しかない

で、車内はこんな感じ(汗)

朝8時の美濃太田駅は岐阜を目指したり、当駅で下車する通勤通学の人であふれているが、逆方向は私を含め3人。しぱらくドアの開かない後ろの車両までチェックしなかったが、同様の光景だと思われる。次の列車が2時間後なのも納得である

広い空間に簡易型駅舎

下麻生に到着。ご覧のように2面3線構造だが、乗車列車は基本的に美濃太田方面が利用する3番線に停車。また雑草の生え方を見ると、登板頻度はそれほど多くはないようだ。後で調べると下り列車が停車するのは、この1本のみのようだ

おかげで跨線橋の昇り降りが生じてしまったが、貴重な体験をしたと言っておこう

駅舎は簡易的なコンクリート駅舎。これだけなら分からないが

広い駅前広場にポツンと簡易的な駅舎。過去の写真を見ると、かなり大きな木造駅舎があって2003年に現在の姿となった

開業は1922年(大正11)。美濃太田から当駅まで延伸された際に設置され、しばらく終着駅だった。1956年まで存在した下麻生町に基づく

下麻生には港があって江戸時代は大いに栄えた

地図で見ると駅から国道41号に出て上麻生方面へと向かうと10分ほどで下麻生の交差点に出て(元々の中心部はこのあたりのようである)、右に折れると公民館と橋があるが、橋の南側の川幅が広くなっている。ここがかつての下麻生湊。飛騨川は急流で岩も多いため船の運航には向いていない。ただ下麻生湊のすぐ上流で弧を描き、川の流れが緩くなった場所が広く、この先は穏やかな流れとなる。その地形を利用して1本ずつ丸太を流し、ここ下麻生湊で回収。木をまとめた上で船やいかだで下流に運ぶ重要な中継地だった。年間25万本もの木材が名古屋方面へと運ばれていたという。この光景は昭和初期まで見られたが、高山本線の開通で役割を終えた

こちらは駅舎内の様子

跨線橋からの俯瞰。当駅は朝に1本、当駅始発列車が、夜に1本、当駅止まりの列車が設定されている。いずれも、この3番線を使用するようだ

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