鉄道開業150年記念 秋の乗り放題パス

2年がかりの呉線全駅訪問~日本一短いトンネルへ親切な案内

※訪問は2022年10月1日

駅を出るとすぐに分かる

安芸川尻に到着。すでに呉市に入っていて(2004年に川尻町が呉市に編入する)、本数が多くなる広まは2駅目である

JR(国鉄)の駅ではおなじみの名所案内だが、こちらはかなり以前に作られたもののようだ。名所は駅を出るとすぐ分かる

「日本一短いトンネル」への案内板が目に入る。その名もズバリ、川尻トンネル。全長8・7メートルという情報も記されていて分かりやすい。どうやら歩行者用道路で「日本一」へ案内してくれるらしい

さっそく歩いていこう

と考える間もなく、トンネルが見えてきた

もう少し近づくとこんな感じ。トンネルという山の中を貫いているようなイメージがあるが、こちらは上は道路。山を通したというよりも、堀削の中を列車が走り、その上が跨線橋のようになっている

これはトンネルの上の道路。ここを歩いたり、車で走っていると、予備知識がなければ日本一短いトンネルとは気付かないかもしれない

来た道を振り返ってみた。駅のホームはすぐそこ。単線に戻った瞬間にトンネルに突入。そしてすぐ抜ける

さすがのグーグル地図も、線路沿いの歩行者用の道路というか通路は表示されていないようだが、その意味でも駅前の案内板の効果は大きいし、何よりも目立っていて、とても親切である

ホームの名所案内に「日本一」が表示されていないことは最初に述べたが、それもそのはずで2014年まで日本一短いトンネルは吾妻線(群馬県)の樽沢トンネルの7・2キロだった。八ッ場ダム建設によって吾妻線の線路が付け替えられることとなり、川尻トンネルが日本一に「昇格」した。つまり新たに建設されたトンネルではないのだが、このように案内板を掲げてくれると十分に名所アピールとなるし、何も知らずに来た人にも分かりやすい

開業以来の駅舎

さて順番は逆になってしまったが、ようやく駅の紹介

安芸川尻駅は1935年(昭和10)の開業で当時からの駅舎が現役。私が訪問した半年前の2022年3月までは、みどりの窓口の設置駅だったが、みどりの窓口の営業が終了すると同時に無人化された

ちょうど巡回の方が点検を行うタイミングだったが、少し前まで駅員さんもいただけに駅舎内の待合スペースは大きい。そして目に入るのは鯉のぼり。わざわざ「C」と描かれている上、10月の訪問だったので、これは広島カープに依るものと思われるが、現時点で一度きりの訪問なので、「常駐」しているものかどうかは分からなかった。実は訪問の前日、カープはクライマックスシリーズへの道が絶たれていた。県内のテレビで早くも来季の課題特集を行っていたので、鯉のぼりが強く印象に残っている

島式ホームで貨物ヤード跡の側線が残るが保安車両の置き場となっているようだ

こちらは観光列車用の駅名標

名残惜しいがホームから、もう一度日本一短いトンネルを見てお別れとなった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~港、マッサン、街並みと呉から東側の中心駅

※訪問は2022年10月1日

広島~呉開業後に時間を要して竹原開業

竹原駅に到着。1970年に改築された国鉄らしい駅舎。広島から三原に進むと広で多くの運行が分断され、列車本数も減るのはすでに記した通りだが、呉から東側では最も規模の大きい駅となっている。呉線は計画時は「呉鎮守府両翼鉄道」という名称だった。名前から想像できるように軍港の呉への鉄路。呉の海軍鎮守府は1890年(明治23)に設置されたが、陸路が不便なことが指摘されていて、1903年に呉線の原型となる海田市~呉が開業。広島と線路でつながった。だが、呉以東については、海沿いや峠越えなどの難工事が予想されるため、そのまま放置された形となり、ようやく工事が着手されたのは1923年(大正12)と20年が経ってから。もう昭和に入ろうとしていた。工事は呉と三原から進められ、呉~須波が1930年(昭和5)に開業したのを皮切りに、1932年に三原~竹原が開通した。まずは竹原まで鉄路を通すことが重要だった。しばらく竹原は終着駅だったが、1935年に全通。ただし線内の一部では海側が見えないよう柵が設けられたり、ホームや車内は憲兵が目を光らせるようになったのは、その後間もなくのことだった

瀬戸内の中心港としても繁栄

観光列車用の駅名標。竹原市は「かぐや姫サミット」に参加している。平安時代にはすでに竹原という地名があった。京都の下鴨神社の荘園の中に、その名が見られる。地名の由来は荘園の管理者の名前から、竹が生い茂った原があった、と両方の説がある。下鴨神社の荘園だったことで、町を流れる賀茂川のほか、賀茂の名前が多く残る

戦国時代は良港を求めての奪い合いとなり、江戸時代になってからは製塩で繁栄。港は北前船の寄港地となり、当地の塩は全国に運ばれ、港に米が集まるようになったことで盛んとなった酒造りも開始。塩と酒は広島藩に大きな富をもたらしたという。安芸の小京都と呼ばれる歴史は下鴨神社からだが、街並みは江戸時代に形成されている。朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴酒造は、呉線の工事のため持っていた塩田の一部を提供したという

幻の寝台特急停車駅

駅を出ると竹原市の中心部が広がる

現在、竹原駅を始発とする列車は朝の1本のみだが列車によっては長時間の停車も行われる。かつては呉線経由で東京から下関を結び、わずか3年半(1975~78)で廃止となった幻の寝台特急「安芸」の停車駅(上りのみ)でもあった

みどりの窓口は3年前に廃止されたが、みどりの券売機は設置されている。これは広から東側では唯一の設置

さて竹原の到着は11時すぎ。最初からランチに困らないのは竹原だろうと予想して訪問順を決めていた

予想通り、複数の選択肢があったが、目に入ったのはトンカツ屋さん。ボリュームたっぷりで美味だった。これで夜まで十分体力も持ちそうである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~三津の杜氏で知られる開業以来の駅舎

安芸津駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

「安芸」の「津」ではありません

安芸津駅に到着。全国各地には旧国名を冠する駅が多数あるのは、周知の通りで広島県内にも「安芸」を冠する駅はいくつもある。呉線内にも複数あるが、当駅については事情が微妙に異なる。津という地名があって、そこに国名を冠したのではなく、元々の自治体名は三津。当駅も1935年(昭和10)の開業時は三津駅だった。戦時中に周辺の自治体との合併があり、新たに誕生した自治体が「安芸津町」。戦後になって駅名も安芸津となった。2005年の平成の大合併を経て現在は東広島市となっている

なお三津といえば、愛媛県の松山にも三津駅があるが、こちらは伊予鉄道の駅。同名を避けたのか、後から駅を作った国鉄が「三津浜」と名付けたのは1927年と、安芸津駅より少し早かったが、「浜」が付いたおかげで呉線の駅は「安芸三津」ではなく、堂々と「三津」を名乗ることができるようになった。スタート時が安芸三津駅だったら、駅名は今もそのままだったかもしれない

観光列車の停車駅用の駅名標。忠海はウサギだったが、当駅は杜氏が描かれている。三津町は明治以降、軍用酒として採用されたこともあり、多くの酒蔵で栄え「三津の杜氏」は固有名詞化。県外にも広く流通して呉線も運搬で大いに寄与した。今も構内には貨物の側線が残る

開業時からの駅舎はちょっと変わった構造

駅舎は開業当時からのもの。安芸津町の中心駅だったこともあり、雄大な駅舎で駅前ロータリーは大きく、タクシーも停まっている

こちらは駅舎内

簡易委託の有人駅。かつてはみどりの窓口設置駅だったが、IC乗車が導入されたころにはすでに簡易委託化されていた。自治体が簡易委託を請け負っているようで、無人の時間帯もかなりある

2面2線構造だが、小さな盛土の上にホームがあるため、駅舎側のホームには小さな階段で入り、向かいのホームには地下道で向かう。戦前からの存在で跨線橋のない駅は呉線では珍しいが

駅舎内には、かつてもうもうと煙を吐きながらSLが入線していたころの写真があり、撮影は昭和43年、つまり1968年となっている。駅舎側のホームへの出入りは今と変わらないようだが、ホームの行き来は構内踏切で行っていたようだ。大きな貨物ヤードも写っている。呉線は電化ギリギリまでSLが走っていた路線でもあり、1970年の電化と同時にSLがすべて姿を消すというドラスチックな変貌を遂げている

ただ導線を拡大してみると、これらの案内は字体から、いずれもかなり古く国鉄時代からのもののようである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~年季の入った駅舎とホーム待合室

安芸幸崎駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

1時間に1本の運行

忠海から1駅三原方面へと戻って安芸幸崎で下車。忠海は竹原市だったが、こちらは三原市。というか三原から2駅目と言った方が分かりやすい

呉線のダイヤパターンを説明すると、昼間は三原~広間は1時間に1本。広から広島方面に向けては1時間に2本の運行となる。この2本はすべて快速で広~呉までが各駅停車で呉から広島に向けては普通が1時間に1本。三原から広島へと向かうと、多くの列車は広で乗り換えとなり、広を境に運行本数が大きく異なる。広島~呉の普通しか停車しない駅は昼間は1時間に1本の停車しかないが、朝のラッシュ時は1時間に3本の運行があるのに対し、広~三原は本数にあまり変化はない。全線が単線電化区間ではあるが、電車での乗降をしていると広から西は広島の通勤通学圏で、東はローカル線感が漂う、そんな印象だ

もっともコロナ禍を期に山陽本線も都心部を少し離れると運行が1時間に1本と半減されているので、本数そのものは変わらなくなっている。逆に言うと、この1時間に1本という数字がさらに減らされると、路線としては危険水域である

また世の中の印象としては呉が呉線の中心にあるようなイメージがあるかもしれないが、三原~海田市の全長87キロで海田市~呉は20キロしかなく、かなり広島側に寄っている。つまり駅訪問は1時間に1本のダイヤをいかにうまく乗りこなすかになっていて、このように後戻りしてまた進むという、これまで記してきた城端線や内房線と同じ作業となっている

全国各地の駅とは異なる

安芸幸崎駅はご覧の通りの木造駅舎が残る。開業は1931年(昭和6)。三原~須波のみ開業していた路線が1区間延伸された。1区間といっても6・7キロもあり、これは現在も呉線の最長駅間。その時に述べるが、広から西と東では駅間の距離が大きく異なるのも呉線の特徴。新駅の開業がほとんどなかったからだ

呉線の各駅を降りると全国各地の海沿いを走る路線と大きく事情が異なっていることに気付く。町ができる課程というのがあって、海沿いの町はほとんどが漁港を含む港を中心に形成されるため、多少の例外はあるものの、駅舎も海側に設けられることが多い。それが自然な形だ

それに対して呉線の開業時からの駅の多くは海や港とは逆側に駅舎がある。忠海駅も港との位置関係を見ると随分不自然だ。瀬戸内海を望む車窓は美しいが、駅舎を出ると見えるのは山だけで、どうやって海側に行けば良いのか困ってしまう

安芸幸崎駅は1956年まで存在した幸崎町に基づく。国名が付いているのは大正期に開業した日豊本線の幸崎駅(大分県)があるからだと思われる(読みは「こうざき」)。幸崎は古代から漁港として知られた町だったが、駅舎を出ると

こちらは駅前の通りをちょっと進んで振り返ったものだが、駅前は住宅街という感じで静かだ。漁港として栄えたイメージが全くわかないが、幸崎の町は駅から徒歩で10分ほど離れた場所にある

線路から遠いのなら、いざ知らず、線路は町の中を通っているのに、なぜ?と思うかもしれないが、駅のすぐ南側には造船所。駅は当時の工場への通勤の便宜を図るため現在地に設けられた。ただし駅舎は山側に。沿線の多くは海を向いてぼんやりできるような場所ではなかったのだろう

早めの訪問を強く推奨

駅は無人化されて久しい

駅舎入口には快速停車駅になった記念碑がある。現在、広から東の区間には定期の快速は走っていない。1980年に廃止されている。当駅が快速停車駅となったのは1978年のことなので、わずか2年しか快速が停まっていなかったことになるが、石碑は40年以上残っていることになる

駅構造は2面2線で駅舎と逆側のホームにある待合所も年季が入っている。プラスチックの番線表示が私の好みである。だが待合所を支える柱の補強具合が、やや痛々しい

駅舎側の縦駅名標

柱を支える金属もさびが目立つ

屋根を支える柱もこのような様子で特に補強工事は行われていないようだ。これは経験に基づく私の個人的な感想だが、この素敵な木造駅舎を早めに訪れることを強く推奨したい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

天候に左右された2023年を振り返る(後編)

7月初日から足止め

7月は佐伯のホテルで迎え

早朝から名前シリーズを無事に全駅訪問。たった4駅ですが2日かかります。10月も同様の行動となるのですが、佐伯~延岡の超難関区間を訪ねる際は、必ず朝の6時台に活動を開始して7時台には強制終了となるので、ホテルに戻って改めて朝食というパターンが定着してしまいました。この日は蒸し風呂に入っているような気候だったので朝からあらためてシャワーを浴びたりする(笑)

ただ雨の方はというと最も活発な前線は九州を去ったようなので、すっかり安心

結果的に佐伯から延々と普通のみを乗り継いで日豊本線小倉に到着後、まだまだ明るいため、せっかくの旅名人きっぷなので小倉モノレールを堪能しているうちに前線が東に移動して山口県内のJRが全線ストップ。帰れなくなりました

もっとも足止め先が小倉という大都市だったので宿をとり、一度は残る1回の権利を持ち帰ろうとしていた旅名人きっぷは翌日に消化することにして事なきを得たのですが、山口県の鉄道網は、この時の雨で大きな爪痕を残しています

翌日は旅名人きっぷはフル活用して平成筑豊鉄道と

筑豊電気鉄道の両社に乗車。よく混同される両社ですが、全くの別会社。平成筑豊鉄道は元国鉄の第三セクター、筑豊電気鉄道は西鉄の子会社です

この月は四国バースデイきっぷを利用して

営業中の田井ノ浜駅で降車。コロナ禍が明けて久しぶりの営業となった海水浴用の臨時の当駅。訪問は青春18きっぷ利用初日の平日で、さすがにまだ人の姿は少なかった。自分の誕生日が7月で良かったと思える瞬間。この旅では香川県内の駅はほとんどいかなかったにもかかわらず、高松で2泊もしてしまい、どちらかというと「高松での飲み」が中心でした

雨のおかげでライトレール

この後は酷暑のおかげで行動は停止。急な葬儀で横浜に出かけることはありましたが、この後の1カ月間、猛暑の中で何をしていたのか、ほとんど思い出せません。活動再開は8月後半からで、残る4回の青春18きっぷをそろそろ使い切らないとマズいとなり、広島へ。当初は呉線方面へと出かける予定でしたが、三原で新幹線を降りると激しい雨のため呉線は遅延。山陽本線も遅延していましたが、しばらく経つとダイヤも復活しそうだったので、思いつきで瀬野で下車

久しぶりのライトレールは。おそらく私にとっては最後の乗車になりそうです

そして31日からは月またぎで北海道へ。これは私にとっては一生忘れられない体験になることは、ほぼ間違いありません

トラブル続出の北海道

到着の当日は天候にも恵まれ、旭川空港から順調に稚内へ到達

折り返しで抜海で降り立ち、地元の宿で楽しいひとときを過ごしたまでは良かったのですが、翌日に宗谷本線が全線でストップ。旅人宿「ばっかす」のご主人の機転で稚内→(バス)→札幌→(JR)→旭川というルートを教えてくださり、無事に旭川にたどり着くことができましたが、大回りをしての500キロもの移動はかなり大変でした

そして、これはあまり書いてこなかったのですが、北海道上陸とともにカードのトラブルが発生していました。カード会社も電話をくださるのですが、旅先の移動中ばかりで、うまく通話がつながらない。稚内でバスのチケットを確保してから出発まで2時間近い時間があったため、これは良い時間だと、こちらから電話。ただカード会社でよくあることで、オペレーターとの電話が全くつながらず

稚内に行ったことのある方なら、距離感が分かると思いますが、駅で電話をかけ、つなぎ放しにしたまま防波堤ドームまで歩き、探索して駅へ戻ったころに、ようやくつながった。感覚的には稚内から札幌までのバス6時間より、長かったです

カード会社との話はまだ終わらず、今度は向こうから電話をくれることになったのですが、当日は移動だけで電話に出る時間がなさそうなので

翌日に廃線予定の根室本線各駅を回って一度富良野に戻ってくるタイミングの、おそらく富良野カレー店の前で並んでいるであろう時間帯を指定したところ、ピッタリその時間に電話をいただき、電話を切った直後に入店の順番が来てトラブルは解決しました

北海道から帰ると今度は青春18きっぷの残る2回を消化すべく高山本線へ。あまり世の中で話題にならないのですが、廃ホーム上に神社がある角川駅が路線すべてで最も印象に残る駅となりました

9月は

珍しく観光で長野県の戸隠神社で戸隠そばを食べたりして

広島県の庄原で芸備線・木次線のイベントに参加

岡山での乗継ぎ割引もなくなっているので、岡山まではおとなび割引で新幹線を利用。岡山からは普通を乗り継いで備後庄原まで行ったのですが。3080円という運賃にビックリ。考えてみると、このあたりの区間って青春18きっぷのようなフリーきっぷか、神戸市内からの通し運賃でしか乗車したことがないので、こんなに距離があるとは実感できていませんでした

平日にもかかわらず、備後落合駅は件の1日1本の集合便に乗車する人でいっぱい。18きっぷの季節はもっと凄いのでしょうね

イベントを夕刻に終えると、バスで広島駅まで行き新幹線で帰宅。考えてみると、この日は一切、芸備線には乗車していない。この時間帯なら、このコースが最速なのでやむを得ませんが、芸備線のイベントに来て芸備線に乗らずに帰るというのは、ちょっと複雑な気持ちでした

完全制覇…とはならず

10月はハロー自由時間きっぷで九州新幹線の全駅訪問を達成。これで全国各地の新幹線駅すべてを訪問したと喜んでいたら、北陸新幹線の飯山駅という乗り残しがあったことに後で気付く。昨秋、JR東日本パスで上越新幹線と北陸新幹線の各駅を訪問した際に乗車した新幹線が飯山駅通過だったのです。わずか1駅だけ残して、これは痛恨。来春の敦賀延伸以降の課題となりそうです

この旅では再び宗太郎ルートにチャレンジして市棚駅訪問。またもや訪問後、延岡駅のホテルで朝食となりました

この後、鉄道の日記念パスでようやく高山本線の全駅訪問を達成

その足で名鉄訪問となりましたが

名鉄275駅で最も利用者の少ないこどもの国駅に寄ったり

信号の赤↔青だけで飽きない西枇杷島のデルタ線が楽しかったです

急な「主役」に驚き

11月は降り鉄にとっては、徒歩も苦にならない最も良いシーズンなんですが、歯科医の自費治療で会社員時代の1カ月分の手取りに近いお金が消えていったので、どこにもでかけず。12月の声を聞いて青春18きっぷによる外房線の全駅訪問を行いましたが、その後、大きなニュースになって驚きました

こちらが浪花駅時刻表。6時36分発の青文字となっているのが、話題となっている勝浦6時25発の1日1本の東京行き通勤快速です。この時は貴重な1日1本だなぁ、としか思っていなかったのですが、まさか県知事や市長、町長が正式抗議する事態になるとは考えてもいませんでした

前編より長くなってしまいましたが、おそらくそれは後半の方がアクシデントが多かったからだと思われます。年明けは青春18きっぷの残り2回分を使用すべくスタートするつもりです

皆さま、よいお年をお迎えください

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

悲運の岩徳線を行くその6~駅舎に意気消沈も思わぬ幸運

西岩国駅の駅舎内

2022年10月3日12時30分

悲運の象徴

西岩国に到着しました

岩徳線はまず1929年に岩国~当駅の1区間だけが開業。この時点で将来は山陽本線となることが決まっていたため、それまでの岩国駅を麻里布駅に変更し、新設された当駅を岩国駅としました

その後、徳山側(正確には櫛ヶ浜側)からも徐々に工事が進み、岩徳西線と命名されましたが、麻里布~岩国の岩徳東線は全通時までの5年間も1区間だけの運行が続けられていました。東側が最後に残ったのは欽明路トンネルの工事に他ならないのですが、1区間だけをこれだけ長期運行するのは、それだけ重要だったことになります

ちなみに麻里布は現在も岩国駅の所在地で住所はまさに「岩国市麻里布町1丁目1番地」。ただ当時、岩国市はなく麻里布町という独立した自治体で、すでにあった岩国町の中心部付近に設置されたのが岩国駅なので、麻里布駅への改名と新駅が岩国駅を名乗ったのも自然なことでした(岩国市岩国という住所は錦帯橋付近です)

再改称となったのは麻里布町や岩国町などが合併して1940年に岩国市が発足してから。麻里布町の麻里布駅も岩国市に存在する駅となり戦時中の1942年に再び岩国に名を戻し、岩国駅は西岩国に。その後、山陽本線から岩徳線になり、現在に至る。岩徳線の悲運の象徴のような駅でもありました

ただ幸運だったのは、岩国駅としてスタートしたため立派な駅舎となったこと。終戦前日の1945年8月14日の大空襲で岩国駅は消失しましたが、西岩国駅は残りました。価値ある建物ということで現在は岩国市がJR西日本から譲り受け所有しています

予想できない事態

そんな西岩国駅は…と解説していきたいのですが

改札から外を見ると何やら足場のようなものが見え、雰囲気がおかしい

外に回り込むと

泣くしかない

改修工事中でした。一気にやる気をなくしてしまい、その後は以前紹介した

錦帯橋観光に変更。写真や中身はややダブりますが、お昼過ぎながら岩徳線の駅巡りはもうヤメ。自分の考えていたコースだと、駅間徒歩が生じる上、回り終えるには日没ギリギリです。この日は錦帯橋のふもとで子供たちが水遊びをするほど暑かったのでヘタレヤメの側面も大きい。何よりも欽明路の駅でやって来た列車を乗らずに見送ることになるなど、自らの道程に大いに問題ありです

貴重な場面に出会えた

ということで改めて出直すことにして岩国から山陽本線を広島へとたどっていくこととする

まずは岩徳線の玖珂駅の項でも触れた和木駅

開業して15年の新駅にして山口県最東端の駅。現在、玖珂郡には和木町しかありませんが、かつては今日立ち寄った玖珂駅と同じ郡だったと思うと広さを感じます

そして広島県に入って最初の駅である大竹駅。こちらは広島県最西端にして最南端

見ただけで説明は不要の昭和40年代の国鉄コンクリート駅舎。全く知らなかったのですが

新駅舎の建設中でした。橋上駅舎となって両側から駅に入れるようにするとのことで、駅舎のおかげで逆側から駅に入りにくくなっているのを解消するためには、やむを得ないこと

結論から言うと2月から新駅舎の使用が開始され、新駅ではみどりの窓口はなく、みどりの券売機となっているので、貴重な写真となりました。飛び出している「きっぷうりば」がいいですね

西岩国は改修中でしたが大竹は駅そのものが変わるということで、ある意味、改修工事に感謝です。ただ岩徳線のリベンジはしなければならないと思いつつ、帰路につきました

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

悲運の岩徳線を行くその5~オレンジ色のガードレール

欽明路駅の駅名標

2022年10月3日11時

季節外れの猛暑の中

周防高森と玖珂の間をあえて時間のかかるバス利用としたのは、一応理由があります。次の玖珂~欽明路は徒歩と決めていたからです。駅間は線路で1・9キロしかなく地図を見ると線路沿いに道路がある。架線という目印のない非電化区間の駅間徒歩では線路を見失わないというのが重要で、過去にも高山本線の速星~越中鵜坂や参宮線の池の浦シーサイド~松下などの例を記事にしてきました

グーグル地図では、このような行程が示されましたが地図を見て分かるように線路の北側を歩かなくても南側の線路沿いにもちゃんと道がある。28分もかからないと思います。幸い(?)なことに、列車の時間まで、あと1時間以上ある。少々おかしな目に遭っても大丈夫でしょう

早速歩き始める。黄色いガードレールを見ると「山口県に来たなぁ」と思う。山口県では1963年に山口国体が開催された際、県の特産品である夏みかんにちなんで県道のガードレールを全面的に塗装したそうです。ですから黄色ではなく「みかん色」「オレンジ色」が正解。全国でもオレンジ色のガードレールがあるのは山口県だけとか

どんどん歩く。農地では稲刈りが終わったばかりでしょうか。ただそんな季節だというのに今日は暑い。10月とは思えない気候です。ちなみにこの翌日から急に涼しくなりました

線路を渡る時は慎重に。欽明路は1面の単式ホーム。ホームと逆側にたどり着くと大変なことになります

先生に勝った

すると踏切を渡ったところで何やら分岐点

なんだこれは? 先の地図にあるように先生の指示は左側の県道。しかし真っ直ぐ線路沿いに行けるのでは? 注意書きの主語が岩国市ではなく玖珂町となっていることから、十数年以上前に立てられた看板のようですが、ちょっと逡巡した後に「行っちゃえ!」。歩行者と自転車以外は通れないので先生も認識していないのだろうと勝手な判断

急に行き止まりがやって来る恐怖におびえながら進んでいくと

何やら見えてきた

これは駅の入口。誰もいない所で思わずガッツポーズ。暑さの中、少しでも徒歩を少なくすることができて良かったです

岩徳線で最も若い駅

欽明路駅です。1990年の開設で岩徳線では最も新しい。JRになってから設置された唯一の駅でもあります

単式ホームに駅舎というか待合室があるだけの簡易な構造。若い駅ですが待合室も新しく建て直されたもののようです

ストレートな線路上に設置されています。向こうに見えるのが山陽自動車道。その向こうには岩徳線が山陽本線から「降格した」原因ともなった3キロ以上にも及ぶ欽明路トンネルが待っていて、岩国側の隣駅である柱野までは6・7キロと岩徳線で最も駅間の長い区間。駅の所在地は欽明路ではありませんが、トンネルだけでなく県道にも欽明路道路という愛称が付けられるなど、地元では親しみのある名前のようです

周辺は新しい住宅街となっていて請願ながら駅の設置も納得。ポストから郵便が回収されていきました

ホームには付近の案内

塔ヶ森というのは当駅を最寄りとする山で展望公園があります

注意です!

その一方でこんな注意書きも

なかなかリアル。付近探索の足が止まってしまいました

さて私が乗車するのは12時6分発の岩国行きですが、その前に11時49分の徳山行きもやってきます。こちらは歩いてきた玖珂に向かう列車で、これには乗車しません。こういう本数の少ない路線で目の前の列車に乗車せず見送るというのは駅巡りとしては問題なのですが、その反省は後回しにするとして、この列車からも数人の降車があり、そのうちのご婦人一人はスタスタとマムシ注意の方に歩いて行きました

岩国行きのタラコが到着。久しぶりに列車に乗ります

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

悲運の岩徳線を行くその4~のんびり隣駅を目指す

玖珂駅の駅名標

2022年10月3日9時15分

バスに乗車後、口頭で行き先を告げる

周防高森駅から徒歩5分ほど。旧山陽道でコミュニティーバスの時刻表をチェック。目指すはお隣の玖珂駅

こちらのバスで行けそうですが、ちょっと問題があり、ここからだと右回りは、ほぼまっすぐ玖珂駅を目指すのですが、左回りはグルリ回って行くので結構な時間がかかる

岩国~徳山には岩徳線とほぼ並行する路線バスが1日5往復運行されています。国道2号を行くバスで、必然的に岩徳線の駅の近くを通り、山陽新幹線の新岩国駅や錦帯橋まで連れていってくれる、ある意味、使い勝手の良いバス路線です

ただ周防高森では国道2号は駅の北側、旧宿場町とは逆サイドを通る。時刻を調べるとちょうど合うものはない上、ここまで降りてきてしまったからには駅の逆側まで行くのも面倒、ということで10時4分を待つことに。ちなみにすべてのバスの出発時間が2分刻みとなっているのは、一度駅まで行って戻ってくるからです

駅の写真を撮ったりした後、40分ほどを過ごしてバスがやって来ました

先日紹介した気仙沼訪問時(旅の順序はこちらが先)も同じ形式でしたが、コミュニティーバスに乗るとよくある、というか、たとえ降車ボタンがあっても初めて訪れた地では土地勘がないことが多いので、乗車時にバスの運転手さんに口頭で行き先を告げるのがほとんど

バスは周辺の病院、スーパー、運動公園、音楽ホールなどに立ち寄っていく。なかなか楽しい車窓を堪能しながら40分ほどで玖珂駅に到着

実は歩いてもほとんど変わらない(笑)。先に紹介した国道2号を走る路線バスは時間が合わないと記しましたが、バスの時間まで待っても、あまり変わらない時間に到着します。しかし、いずれにせよ3時間も運行がないので、ここは町のあちらこちらを見ながらの車窓が正解だったと思います

難しい2文字

玖珂駅に到着しました。1934年の開業時からの風格ある駅です。駅舎自体はもっと大きいのですが左半分は岩国市の玖珂支所と公的施設となっています

簡易委託駅できっぷ販売を行っています。「ご乗車ありがとうございます」の文字がいいですね

ホーム側からの「きょうもお元気で」もいい

2面3線構造ですが跨線橋は入れないようになっていて今はホームは1面のみの使用。隣の周防高森で列車交換できるので、列車本数から2駅も続けて交換設備は要らないようです。ただつなげるように造られている跨線橋は駅舎と逆方向に向かうもので、国道2号はそちらを通っていることもあり、重要な通路となっています

今は入れないホームですが、きれいに手入れされています

玖珂駅は旧玖珂町の中心駅。平成の合併まで玖珂郡玖珂町でした。玖珂郡は大きくて現在、玖珂郡に所属する自治体は和木町ひとつしかないのですが、和木町は広島県に隣接している海沿いの町で山陽本線の和木駅は岩国と大竹の間に位置していますから、ここからはかなり遠い

地名については黒い「玖の玉」、白い「珂の玉」に由来するとのことですが、2文字とも普段はほとんど見かけない文字です

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

悲運の岩徳線を行くその3~旧宿場町の駅

周防高森駅の駅名標とキハ40

2022年10月3日8時50分

路線の中心となるべき駅

周防高森に到着しました。岩徳線の駅は山陽本線となるべく戦前に開設された駅と、ローカル線になった戦後に設置された駅に二分されますが、前者は本線対応の長いホームを持つ一方、後者は簡素な構造の駅となっています。両隣の米川、玖珂はいずれも戦前からの駅

いつの間にか岩国市に入っています。山中を走るローカル線の岩徳線ですが、平成の合併を経たことで郡部の駅はひとつもない。周南市の徳山から来ると下松市を経て再び周南市に入り、次いで岩国市。ちなみに下松市の駅はこれまで紹介した周防花岡、生野屋、周防久保の3駅ですが、山陽本線の下松市の駅は下松ひとつしかありません

高森は旧宿場町でもあり、岩徳線の真ん中あたりに位置することから路線の中心駅にしようとしていたようで

元は2面3線の広大な敷地を持っています。多くの人が降り、また乗ってきました

立派な施設だったことがうかがえますが、単行の列車は施設を持て余し気味。雑草も目立ちます

駅舎は開業時の1934年のもの

古風な三角屋根にある駅名板の文字が、なかなかおしゃれ。岩徳線の列車はすべて岩国~徳山の運転で区間運転はないのですが、平日の早朝に1本だけ当駅始発の列車が設けられています

駅舎内の様子。簡易委託駅で曜日や時間帯にもよりますが窓口は開いています。椅子も古くからのものを使用しているようです

さて問題はここからどうするか。前回も伝えましたが、ここから3時間、運行がありません。徳山から乗ってきた列車は当駅で交換するため、3分ほど時間があり、写真を撮るだけなら可能ですが、せっかく岩徳線では貴重な駅舎もあって周囲に町も広がっている駅に来たのです。あまり先のことは深く考えていませんが、とりあえずゆっくりしましょう

ご覧のようにタクシーもいるので、本当に困れば何とでもなる。コミュニティーバスがあることは分かっているので、そちらもチェックすることにします

駅から5分ほど歩くと旧山陽道に出る。高森は宿場町で古い町並みが残ります。現在、いろいろ議論が行われている中国山地のローカル線ですが、線路を敷いた理由はちゃんとあって旧街道に沿って建設されています

当駅は2006年まであった周東町の中心駅で役場もありますが、地図で分かるように以前の市街地とは逆の駅の北側を国道2号が走っていることから、町の中心も駅舎の逆側に移っているようです。まだ朝の9時ですが、そちらに行けばファミレスもコンビニもある。私の経験では地方に行くと役場の近くにコンビニがあることが多い。ただ当日は10月とは思えないほど暑い日だったので向こうまで行くのは、ちょっと遠慮してバスの時間を調べることにします

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

悲運の岩徳線を行くその2~山陽本線から「降格」した歴史

周防久保駅に到着したキハ40

2022年10月3日8時15分

駅からの大動脈

周防花岡から周防久保に到着。乗車列車は単行となりましたが周防花岡で多くの乗客が下車してしまったため、十分な容量となっています。ここで列車交換のため10分の停車

こちらは生野屋の時刻表。朝夕の通勤通学帯、中でも朝に特化したダイヤであることが分かります。私が乗車しているのは当駅8時12分発の岩国行き。この後、3時間以上列車がありません。その次も2時間半、2時間と間隔が空く。列車の停車時間を利用して駅訪問とするのは本意ではないが、3時間列車がないのでやむを得ません

駅舎を出ると国道2号線のバイパスが目の前を走る。その奥には新幹線と山陽自動車道。大動脈に寄り添いながら在来線はローカル線という光景が続きます

戦時中の決定

山陽本線は岩国~徳山間を瀬戸内海に沿って敷設されています。前記事でも触れましたが岩徳線より20キロ以上も長い。先にできたのは現在の山陽本線ですが、短絡で真っ直ぐつなげようとなるのは当然の流れ。工事が開始されたのは大正期で道路整備もまだまだの時代ですが、そもそもは古来からの山陽道が現在の2号線なので、その意味でも短絡線で岩国と徳山を結ぶのは自然なことで、全通時はこちらを山陽本線とすることで工事が開始され、1934年に全通して山陽本線となり、旧来の山陽本線は柳井線となりました

短絡で結ぶためトンネルも勾配もいとわずの工事で欽明路駅の東側にポッカリ口を開けている欽明路トンネルは3000メートル以上と当時としては、かなりの大工事。他にも1000メートル超1本を含む7本ものトンネルを掘りました。だが、これが後々にマイナス要素となってしまう

間もなく戦時体制に入っていくと、輸送力強化のための複線化が求められる。同様に軍も物資運搬も含めた海の需要が急速に高まります。SLの時代に長大トンネルはあまり好ましくない上、複線のためもう1本、3キロ以上のトンネルを造るのに一体、どれだけの時間と手間がかかるのだ、ということになり1944年の柳井線の複線化が完了したことで柳井線は山陽本線へカムバック。全通まで岩徳西線、岩徳東線と呼ばれていた「山陽本線」は岩徳線となりました。戦争まっただ中のこと。たった10年の山陽本線。戦後も改めて工事が行われることなく現在に至ります

短絡線の構想が戦後だったら、など「イフ」を挙げるとキリがありませんが悲運の路線となってしまったことは間違いありません

周防久保は1934年からの駅舎が、そのまま残ります。岩徳線では貴重な駅舎のある駅

国鉄時代に無人化されています。バス路線の多い駅でもあり、近くには住宅地があります

駅名標はきれいです

山陽本線時代の駅でもあり、ホーム有効長は長い。発車時刻となったので列車に戻ります

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります