約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その2 元の名は「鉄道連隊演習線」

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※訪問は2025年1月15日

徒歩5分の乗り換え

JR津田沼駅の足下にある新京成線の方向案内

新京成線の新津田沼駅までは徒歩5分ほどの距離。乗り換え駅として5分という距離が長いか短いかは微妙なところだが、初めて来る人は、最初にJRの改札口にある地図をチェックしないと、ちょっとウロウロするはず。矢印に沿って駅舎から出ても角度的に新津田沼駅は見ることはできない。もっとも今は携帯アプリもあるし、おそらくそのあたりを歩いている人に尋ねれば、ほぼ百発百中で教えてくれる。この距離が生まれた理由については後述することにする

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公園の保存車両

新津田沼駅にやって来た。私が向かったのは、駅ビルの向かいにある小さな公園

機関車が保存されている

新京成線の、かつての名前は「鉄道連隊演習線松戸線」。かつての名前と言っても、戦争の終了時まであった軍事用施設を戦後に工事を施した上で利用しているもので、性格も目的も全く異なるため「かつての名前」との言い方は正確ではない

機関車についての解説が分かりやすい

鉄道連隊とは?

戦争終了時まで習志野の地は広大な軍用地だった。現在は1日十数万人が利用する巨大ターミナル駅となっている津田沼駅周辺のにぎわいは、戦後にかつての軍の施設が続々と民間利用されたからである。その軍の演習場の中を走っていたのが演習線

そもそも鉄道連隊とは何ぞや、という話になるが、少なくとも私は新京成線の存在がなければ、かつて鉄道連隊という隊があったことを知らずにいたはずだ

鉄道連隊とは戦地において鉄道を敷設し、その運用も担う連隊。敵軍の鉄道破壊も行う。専門技術と知識が必要なため、ひとつの連隊となっている。手がけた鉄路で有名なのは映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道だろう

その連隊は複数の路線を建設したが、その中のひとつが松戸線。戦争が終わるとともに鉄道連隊は解散となったが、そのまま残された線路跡が注目され(レールは戦時下の金属供与に使用された)、京成と西武が争った結果、地元ということで京成に払い下げられることになった。戦後わずか1年後の1946年(昭和21)のことだった。機関車の解説板に西武ユネスコ村にあったと記されているのは、最初にレールや資材が払い下げられたのが西武だったため。京成は翌年に工事を開始し1947年には早くも新津田沼~薬師台の2・5キロが開業。徐々に延伸され1955年には全線開業となった

元々が軍事用の演習線であるため、路盤はクネクネとしていた。新京成線の工事にあたっては、改良が行われたが、すべてというわけにはいかず、現状の路線もかなりのスネークぶりだ。松戸~京成津田沼の全線は26・5キロだが、直線距離が16キロほどなことを考えると線路は長めだ。なお松戸に至る最後の1区間は新京成が自力で敷設した部分となっている

京成に払い下げられたにもかかわらず、新京成という別会社を設立したことについては、人が住んでいなかった演習線の沿線に列車を走らせ、果たして経営が成り立つのか、という危惧があったともされる。しかし沿線人口は順調に増えていき、営業成績も順調。3月いっぱいで親会社の京成電鉄に合併され、会社としては80年近い歴史に幕を降ろすこととなった

私的にはグーグル地図を開けたところ、ピンク色で表示されたルートにちょっと感動した。4月以降は京成電鉄の松戸線と名前を変えるが、グーグルの表示はどうなるのだろう

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