2024年 9月 の投稿一覧

大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その3(終)

南小谷駅の増便バス停留所

※訪問は2024年9月10日

14人で出発

まず前提として触れなければならないのは、私が乗車したのは青春18きっぷ期間ながら最終日の平日だったということ。夏休みの土日なども含め、何回か乗車したのであれば、標本数も増えるわけで、数字を比べたり分析することも可能だが、標本数はひとつで、しかも平日のお昼すぎだったというお断りを入れさせていただきます

定刻より3分ほど遅れて到着したバス。乗り込んだのは5人。そもそも大糸南線に乗車して終点南小谷で下車したのは2両編成の電車で全部で9人だったので、それ以上の乗車があることは考えにくい。もうひとつ触れておくと大糸南線も松本~信濃大町は通勤通学にも利用される区間で昼間も1時間に1本の運行は確保されているが、信濃大町~南小谷は乗客、本数ともにめっきり減る。特に観光地でもある白馬を過ぎると車内も閑散とする。営業係数はかなり苦しそうな区間である

バスに乗車すると白馬から乗車してきたと思われる先客9人がいて計14人で出発となった(この区間も3駅に停車するが、乗車はほぼないと予測)。乗車方法は列車とほぼ同じだが、青春18きっぷの場合は先にきっぷを見せて降りる駅を告げる。大糸北線の途中駅はすべて無人駅だが、途中の駅または停留所から乗車した場合は降車駅で現金で支払う。ただ結論を先に言うと途中での降車はゼロだった

乗車にちょっと驚き

前記事でも触れたが、駅と道路の位置関係で既存の駅近くに停留所が設けられない場所があり、それが中土、北小谷、小滝の3駅。平素から1日の乗車が限りなく0人に近づいている駅で道路からも離れている。3年前の9月に大糸北線の全駅訪問を行った時も、すべて「貸切」となった駅だけに最初からメモに「0」と書き込んでいたほどだったが、北小谷で2人の乗車があってビックリ。北小谷の停留所は750メートル離れた道の駅に設置されている

北小谷はホームからの姫川の眺めは美しいが、駅前に公民館のようなものがあるだけで何もない駅。シュプール号のために交換設備を設けたが、やがてまち単式ホームに戻ったという歴史を持つ。大糸北線が最後のにぎわいを見せたのがシュプール号だった。今にして思うと「私をスキーに連れてって」の映画とユーミンの歌で始まったスキーブームの一翼を担ったシュプール号。深夜近くの大阪駅ホームが大にぎわいを見せていた光景はいつから消えたのだろうか

話は少しそれたが、北小谷駅の川向こうにある道の駅小谷には温泉が併設されていて、北小谷駅の訪問時は時間があれば行ってみたいと思ったものだ。増便バスをうまく使えば、道の駅で約2時間過ごせる。温泉に入って食事をすれば、ちょうど良いかもしれない。列車の駅までも15分あれば歩けるので、組み合わせると良い訪問ができるかもしれない

2021年の大糸北線全駅訪問時は、55歳以上は3日間新幹線も含めJR西日本乗り放題でグリーンを含む指定席も6回まで乗車できるフリーきっぷを利用した。グリーン車もバンバン乗れるのに大糸北線へ越美北線の各駅訪問などをする人間は、圧倒的な少数派だろうから実態に近い乗車率を目の当たりにできたと思うが、キハ120に16人も乗車している場面は少なかったと思う

この後、バスは2021年に宿泊した姫川温泉の最寄りである平岩へと立ち寄る。駅は新潟県だが、宿まで数分歩くと長野県となる。山中の県境は何もない険しいところ、のイメージがあった私はビックリしたことを覚えている

その時に国道148号が旧道から現在のコースに変わった際、平岩の駅前を通らなくなったことを知ったが、確かにバスは国道から平岩駅へ1度下って、また国道へと戻るコースをとった

自分の車窓側の根知まで来ると糸魚川まで10キロ。街も開けてくる。ここ根知から糸魚川まではバスもそこそこの本数があり、私も利用した

姫川~糸魚川はJR西日本で最後の未乗車になった区間で昨年2月以来の訪問。その時の頸城大野駅は雪に埋もれていた。今とは対照的な光景で11時になろうというのに雪を踏みしめた跡が極めて少なかったことも覚えている

南小谷からここまで乗車は北小谷の2人だけ、降車はゼロという状態だったが、姫川から高校生が2人乗車(こちらもちょっと驚き)。結果的に糸魚川で下車したのは18人

おなじみの旧車庫をあしらった糸魚川のアルプス口

これで1時間のバス旅は終了。夏休みはもっと多くの乗車があったと聞くので、今日は少ない方だったのか。青春18きっぷの期間が終わると、さらに減ってしまうのかどうかは実際に乗車してみないと分からないので、機会があれば秋にもう1度訪れ姫川温泉に泊まりたいとも思っている

来年3月に結果が出た時、どのような数字が発表されるのかどうかは分からないが、青春18きっぷのようなフリーきっぷを乗車した利用者をどうカウントするかも大きく数字を左右するだろう。フリーきっぷは乗車駅と降車駅が把握できないため、通常は数に入れない。芸備線の青春18きっぷシーズンは、ここ数年1日1本の新見~三次間の列車は、押すな押すなの超満員となっているが、JR西日本にこの季節の数字を入れようという意識は感じないので、どのような数字を出るのだろうか?

少なくとも来年3月まではバスと列車を組み合わせると、なかなか楽しめることだけは間違いない。ただひとつの留意点は、ハイデッカータイプの使用バスは乗り心地はとても良い一方で、お手洗いはない。路線バスで旅する際、お手洗い問題は必ずあるのだが、増便バスでも注意していただきたい点である

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大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その2

南小谷駅の改札

※訪問は2024年9月10日

所要時間は列車と同じ

南小谷は1日1往復ではあるが、特急「あずさ」が新宿からやって来る。所在地は「小谷(おたり)村」で、なかなか初見では読めないが大糸線に乗車していると何度も繰り返しアナウンスされるので1度乗車すると読めるようになる。電車特急の終着駅が「村」というのも、ある意味凄いことだ

列車が到着すると構内に増便バスの案内アナウンスが流れる。青春18きっぷでも乗車できる旨も放送された。この日は2024夏の18きっぷ最終日である

時刻表によると南小谷から糸魚川まで約1時間。これは列車とほぼ変わらない。ただし必ずしも既存の駅前に停車するわけではなく交通新聞社の時刻表にも欄外に「北小谷駅のバス停留所は駅から約750メートル、中土駅のバス停留所は駅から約1200メートル離れています」と記されている。750メートルはギリギリ許容範囲だが、1200メートルはちょっと離れすぎだろう。大糸線の電化区間内は駅間が近い場所がいくつもあるが、おそらくそれよりも長い

定刻より3分ほど遅れてバスがやってきた。私はバスについては詳しくないが、空港のリムジンバスでよく見られる形式である

なにゆえ山中を通るのか

大糸線は松本と糸魚川を結ぶ105キロの路線。歴史をさかのぼると、元々は信濃鉄道という私鉄が松本~信濃大町に敷設したことに始まる。沿線には観光地も多く利用も好調。1916(大正5)に全通すると、わずか9年後には電化を完了させた

と同時に信濃大町から糸魚川に至る旧千国街道は、新潟から信濃に塩を運ぶ古来からの役割に加え、軍事面でも注目されるようになった。有事の輸送はもちろん、山中奥深くにあることが「敵の攻撃を受けにくい」となったのだ。有事に備えた山中の鉄路には現在の天浜線もあてはまるが、計画時はまだまだ航空機ではなく海上からの攻撃の時代。海沿いの線路よりも山中の線路が「いざ」という時に役立つという発想だった。元は鹿児島本線としてスタートした肥薩線も、海沿いルートを走る鹿児島本線に名称を譲りながらも有事の貴重なルートであり続けた

そのような経緯で昭和に入ると国の手によって糸魚川を目指す工事が始まった。1935年(昭和10)には南小谷を越えて中土まで開業。糸魚川からは小滝までが開業した。それぞれが大糸南線、大糸北線と名付けられた。間もなく信濃鉄道も国家買収。通常、両端の駅にちなんだ路線名は、それぞれの駅名から1文字ずつ取るものだが(水郡線のように事実上の始終着駅から1文字取ることもある)、途中駅の信濃大町から「大」の字をとった大糸線という名称は、国鉄が工事に着手した際に決められ、信濃鉄道の買収後もそのままにされたゆえのものである

ただ小滝~中土は冬季の積雪にも見舞われる山中の難工事で、全線開通となったのは戦後10年以上も過ぎた1957年。国防という当初の役割は終わっていた。そもそも人が少ないと分かっていた場所にあえて敷設した路線。戦後に行われた電化工事が南小谷までで終わったこと、国鉄民営化の際に電化、非電化区間で会社が変わったこと。北陸新幹線の開業で大糸線沿線の観光地へは新幹線利用の方が早くなったことなど、マイナス要素が積み重なった

現在、糸魚川から松本までの経路をグーグル先生に尋ねると北陸新幹線を利用した長野経由のコースが案内される。そちらの方が早い。黒部観光の入口となる信濃大町へも長野からのバスルートが優勢である。大糸線105キロのうち非電化区間はわずか35キロしかないが、糸魚川から白馬、信濃大町、安曇野といった観光地へ移動するのは本数も少なく直行列車もない。いわば負の積み重ねとなっているわけだが、今回の増便バスは今夏の青春18きっぷ期間中は、かなりのお客さんを乗せていたと聞く

18きっぷの最終日、1時間のバス旅を始めよう

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大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その1

大糸線の増便バスで糸魚川に到着

※訪問は2024年9月10日

乗車は南小谷から

南小谷駅までやって来た。時刻は13時20分。目的はこちら

来年3月まで運行されている「大糸線増便バス」に乗車するため。写真は白馬駅で撮ったもの。糸魚川~南小谷の大糸線非電化区間は1日7往復と少なく(県境となる平岩止まりが他に2往復ある)、糸魚川での新幹線乗り継ぎや、南小谷での大糸南線乗り継ぎが不便であることから、さらにバスで4往復を加え乗り継ぎをよくしようというもの。特に北陸新幹線については昼間も1時間に1本の停車があるにもかかわらず、大糸線との接続があまり考慮されていない。かつて大糸北線の全駅訪問を行った時も最初の壁がこれで、最初の駅である姫川まで約30分歩くことになった

増便バスのひとつのミソが白馬発着となっていること。これは観光地として集客力のある白馬へ南小谷での乗り換えを介さずに直接運ぼうというものだ。大糸線は南小谷で電化、非電化が分かれるだけでなくJR東日本とJR西日本で会社が変わるが(在来線では現在唯一の両社接続駅)、増便バスならJR東日本管内の白馬まで直接行くことができるが、今回はあえて南小谷から乗車することにした。やはり大糸線で北線と南線の乗り継ぎは南小谷からにしたいし、どのぐらいの利用者がいるのか見たかった

増発でなく増便の理由

南小谷の時刻表。大糸南線も松本から出ると信濃大町で運行がガクンと減り、ローカル線ではおなじみの「お昼休み」の時間には2~3時間運行がない時間帯もあるが、大糸北線はもっと少ないことが分かる。北線と南線の接続は良い時間も悪い時間もあってバラバラで、これもまた大糸北線の利用者増を妨げる要因のひとつとなっているのだが、4往復のバスはそれを埋める役割も果たす。JRのきっぷを持っていれば乗車可能で、もちろん青春18きっぷでも乗ることができる

例えば私が到着したのは13時20分だが、現在の時刻表だと80分の待機を強いられるが、実際に乗車したバスは13時57分と約40分の待機で済むので1本早い新幹線に乗車することが可能となる

ただ、ここで素朴な疑問となるのは「わざわざバスで増便しなくても列車を増発すれば良いのでは?」ということ。1日4往復を増やすだけなら、列車で対応できそうなものだが、大糸北線では複数の駅で交換設備を撤去した結果、途中駅で列車のすれ違いができるのは、途中の7駅で根知駅のみという現状があって増発ができない。よってバスによる増便となったわけだが、ここでもうひとつの疑問が生じる。今後、列車の増発ができないことが分かっていてバス増便をするのはなぜ?ということだ

ここで最初の写真に戻ると「実証運行」という文字が見える。つまりはニーズを把握してみようというのが狙いとなっている。バス増便は2019年に次いで2回目となるが、その間にJR西日本は利用者が少ない大糸北線の存廃論議をしたいと表明していて2019年は10~12月の3カ月だけの実施だったのに対し、今回は10カ月もの長丁場。この間の数字を根拠に何らかの意思表明をするのではないかとも言われている。ちなみに費用総額は約1億2500万円で、国の補助金約5900万円を活用。JR西日本が3300万円を負担。沿線自治体も負担した

要はバス転換に向けた動きのひとつで、もっと言うと、この区間に公共交通機関が必要なのかどうか、バス転換した場合にJRがどのぐらい関わるのかを見定める場ともなっているとも感じることができる

増便バスの停留所は駅舎を出た所にある。JR西日本の文字とロゴが分かりやすい。コタツもあって冬場も過ごしやすく、夏場はエアコンが快適な待合室でしばらく休憩した後、バスを待つ

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その9(最後を締めるのは素のままの木造駅舎)

上神梅駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

最後の訪問はもちろんこちら

トロッコ列車を大間々で降りて1駅折り返し。わ鐵訪問最後の駅となりました。ラストを締めるのはここしかないでしょう。上神梅駅。時間は17時15分だが、1年で最も日の長いこの時期はまだまだ夕刻の気配すらない

単式ホームを降りると駅舎の内側がお出迎え。これだけでもう十分すぎる

ラッチもおそらく一度も手が入っていないもの

こちらは正面からの様子

1912年(大正元年)の開業時からの駅舎がそのままの形で残る。「そのまま」と記したのは、窓枠や入口などのガラス部分にアルミ補強が一切施されていないからだ。古い木造駅舎は全国各地に残るが、アルミ補強が一切ない駅舎は、さらに絞り込まれ少数派となる。これはやむを得ないことで木造の建築物を維持するためには、ガラス部分は強度を保つためアルミで補強するしかない

ちょっと変わったところでは、2年前に訪れた松浦鉄道の蔵宿駅

こちらは駅舎内に店舗を開店させるため、扉や窓枠をアルミ補強したが、その後撤退する際に元の「木」だけの姿に戻したという、さらに珍しい例だった(その後、再び店舗が入居しているようで現状は不明)

住所は「大間々町上神梅」。町村制施行前は上神梅村と下神梅村があった。「神梅(かんばい)」の地名については諸説あるが、崖地が多い渡良瀬川沿いの地を「かんば」と言い、当て字として「神梅」が採用されたという説もある

日々の清掃のたまもの

わ鐵は大間々以北は本数が大きく減ることは以前も伝えた通りだが、ここ上神梅も大間々から1駅進んだだけで駅周辺は静寂となる

当駅は水の神様として知られ、県内一の初詣客でにぎわう貴船神社と直線距離では目と鼻の先となっているが、渡良瀬川にさえぎられ徒歩だと遠回りを余儀なくされる。駅の利用者数は1日20人ほどで神社へはみどり市の中心部からの車利用が多いようである

駅舎前から線路に沿って歩くとアスファルトの広場があり駐車場になっているが、ここはかつての貨物線跡らしい。なぜ知っているのかというと近所の方が教えてくれたからだ。駅前で写真を撮っていると「いい写真撮れましたか?」と話しかけてくれた。当駅にはいつも同業者(鐵道ファン)が来るようだ

駅舎内はきれいに清掃されていて駅前の花壇もきれいに手入れされている。近所の方々が毎朝、きれいに清掃するという。これも過去何度も書いていることだが、地方の無人駅を日々きれいに清掃する地元の方には、その度に頭が下がる思いだ

廃校となった駅近くの小学校の話など、いろいろな話を聞かせていただいた

だからこそ駅名板、入口、改札とゴミひとつ落ちていないこんな写真も撮ることができる。少し傾いたラッチが趣を高めている

駅舎そしてプラットホームはもちろん登録有形文化財となっている

足尾銅山との歴史や駅名の由来や変遷、そしてホームのレストラン、トロッコ列車。サルとの思わぬ対面もあった。短い時間ではあったが、濃度の高いわ鐵の旅だった。次回は日光を経由する行程で訪れてみたい

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その8(登録有形文化財の駅舎からトロッコ列車乗車)

足尾駅のホーロー駅名板

※訪問は2024年6月15日

開業以来の駅舎

足尾駅の駅舎は開業した1912年(大正元年)以来のもの。わ鐵の駅舎の多くは三セク転換後に新たに建て直されたが、当駅はそのまま残されている。木造駅舎の駅でよく見かけるが、丸いポストが残されているのも景観を損なわないようにするためだう

駅舎は登録有形文化財となっていて、当駅ではその他にも

レンガ倉庫やプラットホームが登録有形文化財となっている

駅舎は基本的には無人。「基本的」と記したのは

営業時間が短いから。旧足尾線時代からの中心駅のはずなのになぜ、と思われるかもしれないが、それは旧足尾町の中心地はお隣の通洞駅となっているからで、足尾銅山の観光などは通洞駅が拠点となっている。もっとも厳密に言うと、この両駅間に足尾の街並みが広がっていて

両駅間はほぼ線路に道路が並行していて歩いても10分ほどの距離である

古典的な多くの駅と同じく改札と手荷物受付が並んでいる。もちろん手荷物受付は現役ではないが、木製の凝った形が往時を物語る

当駅はいろいろな賞を総なめにした映画「海街diary」のロケ地でもある。私も見たこの作品は鎌倉が舞台となっているが、足尾駅も山形県にある温泉地の駅という設定で登場するので、あらためて見る機会があれば、ぜひ見逃さないでいただきたい

トロッコ列車で大間々へ戻る

構内には貨物車の入れ替え作業に使用されていた機関車であるスイッチャーも、役割を終えて保存されている

足尾駅訪問を終えたら、ここからはトロッコ列車に乗車する

わ鐵の人気観光列車であるトロッコ列車には「わたらせ渓谷号」「わっしー号」の2種類があり、前者は機関車によるけん引式で冬季は休業、後者は自走式のディーゼル車で通年の運行。機関車の機回しが必要な渓谷号は大間々~足尾のみの運行だが、わっしー号はその必要がないので桐生~間藤の全区間で運行が可能となっている

乗車には整理券が必要で1回の乗車ごとに一律520円(子どもは半額)

整理券はわ鐵の有人主要駅や旅行会社で販売しているが、ローソン、ミニストップでも購入が可能。予約状況はわ鐵HPで公開されているが、人気列車なのでかなり埋まっている。旅の予定が決まったら、事前にコンビニで購入するかHPで購入するのがオススメ

また整理券があれば車内は自由席のわっしー号と整理券を提示して乗車時に座席指定を受けるわたらせ渓谷号の違い、季節ごとの運行本数やダイヤなど詳細は、わ鐵HPを参照していただきたい

もうひとつ重要なことは乗車券+整理券で乗車できるトロッコ列車は、群馬県内の私鉄、JRで広く利用できる「ぐんまワンデーローカルパス」では乗車できない。別途乗車券もしくはわ鐵の1日フリーパスが必要になるので留意していただきたい

美しい車窓を見ながら大間々に到着。時刻はすでに17時になろうとしているが、1年で最も日が長いこの季節はもう少し時間がある。最後にもう1駅訪問する場所が残っている

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その7(静態と動態、思わぬすぎる出会い)

足尾駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

10年超の遭遇

間藤からひとつ戻っていよいよ足尾駅に到着

いきなり古典的なホーローそして、いつ設置されたのか考えるだけで興味をそそる「海抜六四〇米」の木板のお出迎え。開業は1912年(大正元年)。沢入駅から当駅までが延伸した際に終着駅として設置された。前記事でも紹介したが、足尾本山まで延伸されたのは2年後。これは貨物専用線だったが、途中に間藤駅が設置され、当駅までが旅客輸送の対象となった。つまりは栃木県に鉄路が入ってきた。旧足尾線のわ鐵は群馬県と栃木県にまたがるが、全線の4分の3が群馬県となっていて敷設の目標だった足尾銅山を含む栃木県側の部分は少ない

そんな歴史ある駅で出迎えてくれたのが

キハ35ではないか。静態保存の状態はお世辞にも良いとは言えないが、貨物ヤードに停まっている。東京時代の2011年の久留里線以来の再会だ

駅訪問の際は基本的に予習はせずに行くことにしている。初対面の気持ちを大切にしたいから。こうやって記事を書いている時のデータや歴史は駅に着いてからの待ち時間や、下手すると帰宅してからの調べたものがほとんど。だからその分、見落としも多いが、それも一期一会だと思っている

だからその分、このような「出会い」の感動も大きい。もっともこんな大きなものを見落とすはずもないが

SLが役割を終え、ディーゼル車の需要が高まったころ、非電化の通勤通学路線に多く投入された列車。ご覧のように戸袋がないのが特徴で、ドアは吊り下げられたような形になっている

現在は旧車両が使用されているローカル線の駅も、扉の高さに合わせて列車が停車する部分だけホームがかさ上げされているが、以前はそうではなく「よっこらしょ」とホームから昇るように車両に入る必要があった。写真は貨物ヤードのホームなので旅客用ホームとの高さの違いは分からないが、かなり高低差がある。バリアフリーの発想がない時代、お年寄りは大変だったと思う。それを少しでも緩和するため、ドア入口に段差を設けたため、強度や重量の問題があって戸袋を作れなかった。それでこのような特徴ある姿になったのだ

私にとってのキハ35はなんと言っても和田岬線。和田岬線に乗車したことがある方は分かると思うが、兵庫と和田岬の2駅しかない同線はドアが開く方向も片側しかない。そのため開かずの扉側は完全に閉鎖された上、一部の座席が取っ払われて立席専用のようなスペースとなっていた。わずか5分で到着するので問題なかったのだろう。この車両は2001年の電化まで使用された

解説文があった。「現在でも久留里線で活躍」と記されている。久留里線でも10年以上前に運用が終わっているので少なくとも十数年前から、このままの状態だったことが分かる

「動態」との出会い

足尾駅は2面2線構造だが、キハ35が保存されている貨物ヤードは駅舎側で、逆側の森となっている部分にもかつての貨物列車の栄華を物語るように多くの側線が残る

駅名標とともにキハ35を撮ろうとしたら、その間に何かが登場。よーく見ると

おサルさん。カメラを構えていると森の方から線路を横切りホームにひょいと乗ったと思うと一心不乱に花を食べている。花に実があったのかもしれないが、さすがに近づく気はしない。この写真はズームで撮ったもの

少なくとも私が駅でサルと出会ったのは、これが2回目

昨年3月の名松線・伊勢竹原駅以来だ。この時は駅前の民家にある農作物を失敬するために現れた1匹のみだったが側線が残る森の方を眺めると

いることいること。森の中にサルの集団が生息しているのか。ひょっとして最初に目撃したサルにならって花を食べるためゾロゾロと線路を渡ってくるのではないかと身構えたが、皆さんルールがあるのか「勝手踏切」の利用者は1名のみだった

ということで、ソロソロとおサルさんたちから離れて駅舎へと向かう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その6(鉄道紀行バイブルの終着駅)

間藤駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

一気に終点へと向かう

一気に終点の間藤駅に到着した。これでわ鐵は全線完乗となった。終着駅らしく奥に車止めが見える

三セク化されるまでは、ここからもう1区間線路が続いていた。足尾本山駅という貨物駅だった。足尾鉄道によって敷設された路線は1912年(大正元年)に足尾まで延伸された後、2年後の1914年に足尾本山まで延伸。これをもって足尾線の全通とされるが延伸が8月で3カ月後の11月に間藤駅が開業。足尾~足尾本山はあくまでも貨物支線の扱いだったが、中間に設置された間藤で旅客営業を始めたことで間藤から足尾本山の約2キロは長らく貨物専用線として利用されることとなった

足尾銅山は1973年(昭和48)に閉山したが精錬事業用の貨物運行は続けられ、終了したのは国鉄がJR民営化された1987年のこと。以降は休止扱いの駅となり、そのままわ鐵に引き継がれたが、三セク転換と同時にJR東日本のみならずJR貨物の駅としても廃止。そのまま放置され1998年(平成10)に鉄道免許が失効して自動消滅となった。線路が途切れたのはその後のこと

終着駅としては珍しく勾配標が残るが、間藤駅は写真で分かるように20パーミルを越える坂の途中に設置され、昭和半ばのSL時代までは当駅でスイッチバックして足尾本山へと向かう必要があったという。勾配標はその名残ともいえる

駅舎内に張られる時刻表2万キロ

駅舎内には「時刻表2万キロの終着駅」の展示コーナーがある。作家の宮脇俊三さんの記した全国乗りつくし(完乗)の「時刻表2万キロ」は当駅が最後に降りた駅ということで、全国からファンが訪れるようになった。宮脇さんは続く「最長片道切符の旅」と合わせ「完乗」「最長片道切符」の存在を広く世間に認知させた。時刻表2万キロが1978年(間藤駅で降りたのは1977年)、最長片道切符の旅が1979年の発刊。現在のようにスマホ片手に情報を集められる時代ではない。いわばこの2冊の本は鉄オタのバイブルでもあった

展示コーナーには間藤駅を描いた時刻表2万キロの部分や宮脇さんの年表、自筆原稿などが飾られている

日光までバスでつながる

現在の駅舎は三セク転換後のもの。無人駅だが立派な駅舎を有する。当駅までもかなりのお客さんが乗っていたが、かなりの方が当駅でそのまま折り返す観光客のようだった

駅舎内の時刻表は終着駅らしく到着時刻と出発時刻を併記したもの。朝は数分滞在しただけで、すぐ折り返してしまうものが多いが。昼間は駅を堪能する時間が十分あるダイヤとなっている。私は14時45分着の15時9分発で折り返した。駅訪問なら昼間を推奨する

この間藤駅のもうひとつのポイントは駅から日光までバスでつながっていること

これも知名度の高いコースで所要時間は30~40分。わ鐵と日光を同時に楽しめるようになっている。間藤駅の所在地は日光市なので当たり前のことのように思えるが平成の大合併までは足尾町だった。途中は山ばかりなので、ある意味貴重なルートである

その分、本数は決して多くはなく1日6本(訪問時のダイヤ)。これからの紅葉の時期は渡良瀬川沿線の車窓も含め、利用者が多い路線になるという。訪問の際は時刻を調べてから出かけてほしい

駅名標にはニホンカモシカが描かれているが「ニホンカモシカに出会える(かもしれない)」が駅のウリのひとつ。ただあくまでも「かもしれない」を忘れずに

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その5(神戸と書いて「GODO」の列車レストラン)

神戸駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

「KOBE」の方が難読

「ごうど」駅に到着。有名すぎる存在になっているが、「神戸」と書いて「ごうど」と読む

古い駅舎が残る。わ鐵の駅舎は三セク転換後に建て直されたものが多いが、こちらは木造駅舎がそのまま使用されている

駅名板もかなり古いものが使用されているが

よく見ると漢字の「戸」の部分に修正された跡がある

開業は1912年(大正元年)。名前は「神土駅」だった。開業時は東村(現在はみどり市)に所在。その東村は明治の町村制施行時に神戸村などが合併して誕生したもの。つまり地名は昔から神戸だった。現在も駅の所在地は「みどり市東町神戸」である。ただ駅を設置するにあたり、兵庫県の神戸駅と同じになってしまうということになり「神土」の文字を充てた。以来80年近く「神土駅」を名乗ってきたが、JRから切り離され、三セクとなった際に本来の地名である「神戸」となった。このあたりは「そおり」だった読みが地名の本来の読みぶある「そうり」となった前記事で紹介した沢入駅と似ている。駅名はもちろん、読みだけの場合でも全国とつながるJRの駅名変更はとても手間のかかるものだ。そのあたりの対応はわ鐵内でも相老駅とは対応が異なる

こちらは接続駅ゆえの対応だろう

ただ俯瞰的に見ると神戸育ちの私からでも「こうべ」と読むのは難読の部類に入る。人名も含め、最も多いのは「かんべ」だろう。「ごうど」さんも私の周囲にいたが「こうべ」さんは、私は会ったことがない。「博多」「札幌」なども大都市ゆえに誰でも読めるが、ローカル線の普通のみの停車駅だったら難読駅となっていただろう

途中下車のできる駅

神戸駅のもうひとつの特徴として私鉄や第三セクターでは例が多くない「途中下車可能駅」だということが挙げられる。整理券では当駅までの料金を徴収されて無理だが、乗車券を持っていれば途中下車が可能。それは、こちらも有名な

構内に「列車のレストラン 清流」が設けられているから

かつて東武を走っていた特急車両をそのまま利用している。週末のお昼時ということで多くの利用がありレストラン内の写真は撮れなかったが

舞茸ごはん定食をいただくことに

こちらは駅舎に張られていた清流の案内。当駅は無人駅なので列車利用がなくてもレストラン利用は可能

こちらは清流入口だが、入店した際にいた団体さんらしき人々が一斉に出たと思ったら、また入ってくる。列車の利用者と合わないな、と思っていたら駅の外には貸切バスの姿。大間々駅でもトロッコ列車に乗車するための団体バスが広場に待機していた。列車の本数が限られているため、施設利用もしくは観光列車の最寄りへは団体バスの運行。これは1日3往復しかない只見線でも旅行会社が採用している方法。鉄道とバスをミックスしての観光は今後のローカル線やローカル私鉄の在り方のひとつだと思う

ホームの構造は元々は2面3線。わ鐵となってレストランができた時に1線をレストラン用の車両を置くようになった

またレストランは使用せずとも当駅に列車が到着した際は売り子さんが飲み物や弁当などを販売する

お腹も満たされ、この後は栃木県に入っていこう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その4(意外な難読駅は郵便局との合築 路線概要も)

沢入駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

読みは「そうり」

大間々を過ぎると急に山深くなるわたらせ渓谷鐵道。大間々からググッと栃木県との県境まで乗車。沢入駅で下車する。「沢入」と書いて「そうり」と読む意表を突かれる難読駅。かつては東村にあったが平成の大合併で現在はみどり市

渡良瀬川を渡ったところに駅があり、川を挟んで集落が広がる

開業は1912年(大正元年)。現在の駅舎は三セク転換後に改築されたもの。三セク転換後、もうひとつ改められたことがある。開業から80年近く、当駅は「そおり」駅だった。地名は「そうり」だが最初に付けられた駅名が足尾鉄道→国鉄→JRとずっと維持されていた。地名と駅名の読みが微妙に異なる例は各地にあるが、JRだと日本中にある駅の、たった1駅の名前を変更するだけで、いろいろ面倒なことが起きるので、そのままというケースが多い。当駅も同様の扱いだったが、JRから切り離されたことで地名と同じ読みとなった

群馬県と栃木県の3自治体を通る

わたらせ渓谷鐵道は全長が44・1キロ。群馬県の桐生駅から栃木県の間藤駅までを結ぶ。平成の大合併があったおかげで通過自治体は群馬県の桐生市、みどり市、栃木県の日光市の3つしかない(ただし地形の関係で桐生市から出た列車はみどり市に入った後に再び桐生市に入り、またみどり市に戻るという形となっている)

多くの説明は必要ないだろうが、元は国鉄そしてJRの足尾線。足尾銅山の鉱山を運ぶために足尾鉄道という私鉄が1911年(明治44)から徐々に線路を延ばし1914年に全通させた。ただ鉱山は国策として重要ということで、わずか4年後に国有化された

足尾銅山については全盛期は国内の3~4割を占める全国一の銅産出地だった一方、日本で初めてとされる公害の地としても有名。足尾線も多くの鉱山物資を運搬する路線として活躍したが、やがて銅は掘り尽くされ銅山は1973年(昭和48)に閉山。その後も精錬事業は続けられたが、徐々に事業は縮小。足尾線も1984年に廃線対象となる第2次特定地方交通線の指定を受け、1987年に一度JRとなったものの1989年(平成元年)に第三セクターわたらせ渓谷鉄道となった。と同時に貨物輸送は完全に廃止。現在は地元の旅客輸送だけでなく観光輸送にも力を入れる路線となった。愛称、通称は「わ鐵」で沿線の各駅でもこの表記はよく目にする

郵便局と一体

話を沢入駅に戻そう

当駅には郵便局が入居している

訪問が週末だったこともあり、郵便局はお休み。過去何度か郵便局が入居している駅を紹介したが、こちらもあくまで入居しているだけで駅業務は行わない

駅舎は後らしいものだがプラットホームと待合室は登録有形文化財となっている。なぜか列車とかぶり、待合室単独の写真を見つけられなかった

ここからもう一度桐生方面へと戻る。時刻は12時半を回った。お昼の時間となっている。となると向かうは「あの駅」だろう

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その2(こんな奇跡ってありますか)

※訪問は2024年8月27日

抜海駅百周年

「この先、豪雨のためしばらく停車します」の運転士さんのアナウンス(単行でお客さんは私を含め10人ぐらいだったので、アナウンスというより、ほぼ肉声である)

ということで、これからしばらくはお客さんたちによる朝5時台の「雨中抜海駅撮影会」となった。見た感じではかなりのお客さんが同業者(鉄道ファン)と思われる。皆さん、過去に抜海で降りたことがあるかどうかは分からないが、初めての方は、思わぬ貴重な体験となったかもしれない

私は昨年も来ているし、列車到着の20分前には駅に着いているので、もう撮影することはないが駅舎内にこのようなものがあった

「開業100周年おめでとうございます」

去年これがあったかどうか記憶にない。抜海駅の開業は1924年(大正13)6月。つまり今年の6月で100歳の誕生日を迎えた。もしかすると今年になってからのものかもしれない

確実に今年になってのものは駅前の通りを数十メートル進んだところにある

記念の石碑。地元有志によって建てられた。駅前ではなく、やや離れたところにあることが駅そして駅舎の置かれた現状を物語る。抜海駅はここ3年、稚内市の負担によって駅の維持管理が行われてきたが、市はすでに今年度で限りでの費用負担終了を表明。少なくとも現時点では9月24日から構内が棒状化されることだけは正式決定しているが「最北の木造駅舎」の将来は不透明である

代行タクシーで160キロの大移動

ということで抜海駅で1時間の待機を経ての結果は代行タクシーによる輸送。名寄以北はしばらく運行が難しいとのことでJR北海道さんが用意してくれたタクシーに分乗して名寄と稚内を目指すことに

北海道の地図は他の地域に比べると縮小サイズが異なる。抜海から名寄はすぐのように感じるかもしれないが

なんと160キロ以上もある。これは東京から東海道本線に乗車すると富士を軽々と越え、清水あたりまで行ってしまう距離。しかも高速道路はない。ただ途中はバイパスもあって国道40号もほとんど信号はないので2時間半で到達してしまう

つまり何のことはない、今年も稚内市からの南下(脱出とも言う)は鉄道ではなく自動車だった。「抜海駅から乗車」の目標はかなったが、乗車までだった。当然、雄信内も南幌延はバスである

突然声をかけられ

ということで名寄駅に到着。2時間半もタクシーに乗車するという、なかなか稀有な体験となった。とにもかくにも朝の9時半にここまで運んでくれたJR北海道さんに感謝である

駅には運休情報が並ぶが旭川に向けては特急以外は通常運行を行っているようで無事に南下できそうだ(結果的に午後からは全線で運行を再開した)

と、普通はここで話は終わりとなるのだが、最大の驚きはこの後。名寄から旭川行き列車に乗っていると、突然「高木さん」と声をかけられる。見ると2013年まで東京で勤務していた時の同僚

「何してるのですか?」

それはこちらのセリフだ。彼はロードのサイクリングが趣味で夏季休暇をとり北海道までやって来て、早朝に西興部を発ってここまで輪行で来たという

「オ、オコッペ?」

「いやぁ、朝からずぶ濡れで50キロ。大変でした」

と笑う。彼の趣味は知っていたが、思わぬ再会よりも、その元気さに驚いた。それにしてもピンポイントで名寄からの列車で会うかね。実は彼と私は結構ご近所さんで街でバッタリ会って食事をする機会もちょこちょこあったのだが、高円寺や阿佐ヶ谷の駅で出くわすのとは訳が違う。ここは名寄である。そもそも宗谷本線が通常通り運行していたら、この出会いもなかったのだ。私は旭川まで至る途中で下車。彼は苫小牧まで出てフェリーで帰京するという。10年以上前は世間に浸透していなかったLINE交換をオッサン同士でして別れた

それにしても宗谷本線は私に稀有な体験させてくれる路線である

その日は旭川で宿泊。当日の夜、実は少し悩んだ。翌朝の始発から行動すれば少なくとも雄信内へは行くことができる。天気予報も大丈夫そうだ。ただ問題は私と宗谷本線の相性である。昨年は旭川までたどり着いた翌日からは好天で根室本線の廃駅となる駅や、同じく根室本線の今となっては貴重な東滝川駅訪問、特急ニセコ乗車などを暑いぐらいの太陽の下で行うことができた。今年についてもこの日以降は雨とは全く無縁。要は宗谷本線乗車の際だけピンポイントで悪天候に見舞われた。しかも両日とも天気予報は良くはなかったが、決して運行ストップとなるものではなかったのだ

私が行くと、またストップするような気がしてヤメ。結果的には通常通りの運行となっていたようだが、これはこれで正解だったと思い、思い出だけを胸に秘めるとしよう

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