大都会に残る未成線跡~南方貨物線その7

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南方貨物線の橋脚の横で子供たちが遊んでいる

2022年11月10日11時

オフレールステーション

名古屋港線との合流地点をさらに先に行くと右手にはコンテナがゾロゾロ

オフレールステーション…ではないですね。貨物車置き場となっているようですが、事実上「墓場」のような雰囲気も

一方、かたわらの公園では子供たちの歓声が聞こえる。平日のお昼前ということで、まだ小学校に上がる前のお子さんたちが多いようです

付近のマンションは未成線がほぼ確定した後にできたものばかりだと思われますが、公園横の列車が走らない橋脚と動かない貨物車。物心ついた子供は必ず「あれ何?」と尋ねてくるはずで、その場合、親の皆さんはどのように説明するのでしょう。そもそも小学校では地元の歴史について必ず教えるはずなので、その場合は一連の構造物について学習するのか、教えるのか、とか考えてしまいました

痛手となったスト権スト

鉄道による貨物輸送に大きなダメージを与えたのが1975年11月末に行われたスト権スト。「国鉄の職員にもストライキの権利を」を掲げて1週間近く国鉄がストップしたもので日本中が混乱しました。ただ当時の状況を説明すると「スト権」を求めるのは分からないでもない。今では信じられないことですが、私鉄は普通にストライキをしていました。スト権ストのころは私も中学生となっていて記憶も明確ですが、全国でストライキとなると台風情報のように、テレビのニュースはストライキ情報を流し続けていました。「労使交渉が決裂したのでスト突入」から解除までのニュースを見ながら、うちの父も「明日は国鉄で行くか」と話していたものです

ストのおかげでプロ野球が中止されるぐらいですから影響は大きかった

今だったらライバル私鉄がストで止まってJRしか動かない、となったら、むしろかきいれどきとばかり張り切ったかもしれませんが、当時は「あちらはストができるのに、どうしてこちらはストができなすのだ」という理論となりました

そんな中、ストライキをされて最も困るだろうと予想されたのは旅客運輸ではなく貨物運輸。通勤通学の旅客は別の交通手段でも会社や学校に行けるし、何だったら休んでもいい(当時は在宅勤務という言葉はない)のですが、生鮮品などをはじめ、貨物には必ず期日内に届けないといけないものが多数あります

これに対して国側が行ったのは全国でトラックをかき集めることでした。テレビのニュースを見ながら「すごい数だな」と感心したのを覚えていますが、とにかくトラックを集めるだけ集めて列車代行を行った。「なんとかいけそうです」と安堵の表情の荷主がテレビに映る

この結果起きたのは「国鉄離れ」。全国で道路の整備が進むタイミングでもあったため、荷主からの信頼を失った鉄道貨物は大きくシェアを落とし、その後も減退一途。各地の鉄道駅で「貨物ヤード跡」が残ることになりました

すでに多くの赤字を抱えていた国鉄はさらに赤字が膨らむことになり、民営化の流れが加速することになります

そんなスト権ストがあったのは住民の反対運動によって南方貨物線の工事が中断していた、ちょうど真っ最中。工事に着手したころとは貨物輸送のニーズが変わっていたわけです

公園と橋脚は名古屋高速道路と出会ったところで、いったん途切れます。大きな道路に面しているので広告も分かりやすい

この真下を地下鉄の名港線が走っています

切れ目の向こうには橋脚を利用したというかサイズに沿った建物も見えます。中川運河と同じく向こう側に行けないのではないかとヒヤヒヤしましたが

すぐ北側に信号があってたどり着くことができました

現在はここ。まだしばらく公園が続きます

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