2023年3月15日
伊勢大井12時35分→徒歩→伊勢川口13時10分
伊勢大井駅を県道側から見ると、このような感じ。車の窓からはよく見えるに違いない。「違いない」と書いたのは、ここから再び徒歩が待っているからです。お隣の伊勢川口までは線路で2・8キロ。ただし若干の回り道が生じるので、上ノ庄~権現前の2・8キロとは事情が異なります
一度、名松線とクロスして歩かなければなりません。そして今回の各駅訪問で知ったのですが、グーグル地図というのは徒歩コースを選択すると歩道がない幹線道路はできるだけ避けて案内するようになっているようです。こちらの地図もそうなっていますが、当然県道をひたすら進みます
妙な妄想にも取り憑かれ
伊勢川口発13時39分の伊勢奥津行きに乗車予定なので時間には余裕があります。しかし時間に余裕があるというのと、また歩くのか、という疲労感は別問題。計画では駅間徒歩は、これで最後の予定です。そう思うと、最後のひと踏ん張り、と力が60歳の人間にわいて来る…はずがありません
地方あるあるで幹線道路にはビュンビュン車が走っているのに、歩道を歩く人は誰もいない、というおなじみすぎる光景。この孤独感もまた力を失わせる原因かもしれません。すると、いつの間にか背後からやって来たパトカーが徐行で傍らを通り過ぎていく。確かにふだん誰も歩いていないはずの道路をトボトボ歩く見慣れないオッサンはどう見ても不審者。チェックしたのでしょう
「いっそのこと不審者として尋問してくれんかな」と思ったりする。そこで時間をとられると列車には間に合わなくなるわけで「尋問のおかげで全駅訪問が不可能になるので伊勢川口駅まで乗せていってください」なんて流れになると歩かなくていいんだけどなぁ…なんてことを考えているうちにパトカーは遙か遠くに消えていきました。朝の7時前から行動しているのです。そんな妄想まで出てくるほど疲れているようです
アプリによって県道から線路沿いの細い道に誘導されると、そこには運転士向け「伊勢川口」の案内。過去の駅間徒歩でも何度も励まされた「もう少し」の合図です
やがて
ホームが見えてきました
戦時中までは乗り換え駅
伊勢川口は今や各地で見かける「バス停駅」となっています。ただ名松線で、この形式が見られるのは全14駅(松阪をのぞく)で、ここだけ。というのは多くの駅が元々、ホームと待合所のみの構造で駅舎が壊された唯一の駅だからです
数年前までは開業時からの立派な木造駅舎がありました。なぜかというと津の町の中にあった岩田橋という駅から久居駅を通り、当地が終着だった中勢鉄道という路線があって、その乗り換え駅だったから。津市のHPによると、1908年(明治41)に部分開業して1925年(大正15)に伊勢川口まで到達したそうなので、名松線や近鉄より先に敷設されています
その後、会社が近鉄(当時は参宮急行電鉄)の傘下に入ると、近鉄が線路を伸ばし始め、後に開業した名松線とは伊勢川口で、近鉄とは久居で接続されていましたが、軽便鉄道だった中勢鉄道は速度が遅いため、名松線や近鉄に客足がシフトしていき、戦時中の1943年に廃線となりました。立派な伊勢川口の駅舎はそのためのもの
そのため駅の規模も大きく、今も現役の側線が残ります。保線用のもので名松線では唯一の側線となっています
レールが積まれるとともにヤード跡も広さを感じさせるもの
今も残っていた中勢鉄道の駅跡
最初の当駅の写真にあった駅に隣接する新しい建物は保線用のもののようで施錠されています。つまり残るものは駅舎跡の広い土地と保線の線路のみ。かつてはすれ違い可能駅だったことも分かりますが、今は単式ホームとバス停形の待合所のみ
ヤード跡付近には述語のない立ち入り禁止の立て札がありました
現在の駅の利用者は1日20人ほど。私がいる間は「貸切」でした。伊勢奥津行きに乗ることにします
と、ここからは帰宅してからの話ですが
「中勢鉄道伊勢川口駅跡」がしっかり登録されていました。津市の広報誌にも「わずかにプラットホームの痕跡が残る」とある。80年も前の廃線なので、ほとんど気にも、とめていませんでした。写真を見ると、これがホーム跡だと言われて初めて分かるレベルですが、まさか今も残っているとは思ってもいませんでした。ただホームの北側には、かなり遠回りを強いられます。時間の制約もあり、何よりここまでの徒歩による疲労もあって、分かっていても、さらに歩く気力があったかどうかは、今となっては定かではありません