宮之城線跡の薩摩長野駅の駅名標

※訪問は2018年9月14日

前日は加世田泊

前回の記事で少しだけ2018年9月の鹿児島の旅について触れたが、ちょうど川内駅訪問のタイミングとなったので、その時に行った宮之城線の廃線跡巡りについて、振り返ってみたい

まず前日の9月13日だが、指宿枕崎線で枕崎まで南下した後、バスで宿泊地の加世田へと向かった。現在の地図は鹿児島中央から枕崎に至る線路しか描かれていないが、1984年までは鹿児島交通枕崎線が枕崎を結んでいた

現在は道路しかないので道路での表示となるが、薩摩半島は鉄道でグルリと回れるようになっていた

加世田駅の場所はバスターミナルとなり、南薩鉄道記念館となっている

1983年の豪雨で沿線が甚大な被害を受け、一部で運行が再開されたものの、全線復旧することなく翌年に廃止されている

展示物は充実している。加世田からは枕崎や伊集院はもちろん、鹿児島市内の中心部まで路線バスが鹿児島交通によって運行されている。1~2時間に1本と本数も多く、所要時間は90分で、それとは別に鹿児島空港行きのバスもある

路線バス利用だったので立ち寄れたのは加世田のみだったが、翌14日は川内駅でレンタカーを借り、宮之城線跡をじっくり回ることができた

JR移管直前に廃線

宮之城線は川内を起点に薩摩大口までの66キロを結んでいた。1987年1月、国鉄民営化(同年4月)の直前に廃線となった

薩摩大口は鹿児島本線の水俣と肥薩線の栗野を結んでいた山野線との乗り換え駅でもあったが、山野線もJR移管後の88年2月に廃線となっている

廃線から30年以上が経過しているが、沿線には駅跡などが多く残されている。すべてを紹介していくとキリがないので一部だけ紹介する

樋脇駅(薩摩川内市、廃線当時は樋脇町)

当時の駅舎と構内がそのまま残されている

そして路線名にもなった宮之城

宮之城町(現さつま町)の代表駅であり、さつま町の中心部にある

跡地は鉄道記念館となっていてバスターミナルの役割も果たしている。バス停名は今も「宮之城駅」(行き先によって同じ敷地内でも停留所の名前が異なるので注意)。廃線跡を巡るような川内駅行きのバスももちろん出ているが、鹿児島中央行きのバスの方が本数は多い

スイッチバックの謎を理解

次いでやって来たのが薩摩永野駅跡。一度も乗車できないままだった宮之城線だが、かねてより不思議なことがあって、地図を眺めていると当駅はスイッチバック構造だったのだ。地図でも当駅付近のみが突き出した形になっていることが分かる

その理由は現地で分かる

観光案内図に「永野金山ものがたり」の解説があった。当地は江戸時代に発見された金山により、薩摩藩の財政に大きく寄与。戦後間もなくまで掘り出しが続いたという。1924年(大正14)に川内~樋脇が開業した宮之城線は1935年に当地まで到達した後、約2年間は終着駅だった。まだ金山は続いていて、関連した人口も多いということで、そこに鉄路を通すため、わざわざ山中まで難工事をしてスイッチバック構造で敷設したのだった

跡地には鉄道記念館が建てられている

当時の駅名標をそのまま持ってきたようだ

周辺駅の駅名標が並ぶ

もうひとつ重要なことは当駅は鹿児島空港とは至近だということ。鹿児島空港から当地、宮之城を経て出水へ至るバス路線は本数も多めに設定されているが、ここから空港までは路線バスで30分もかからない。今年10月の鹿児島訪問時も、そのバスの車窓を眺めながら出水に行こうとしたが、

そして終着駅の薩摩大口。当駅は乗り換え駅として機関区もあり広い構内を持っていたため、廃線跡の規模も大きい。駅付近は旧大口市(現伊佐市)の中心部で大きな町である。最初にこちら側に来れば、廃線跡だとすぐ分かったのだが、道路を挟んだ逆側に行ってしまい、そこにあるのは

およそ廃線跡とは思えない立派な建物。ウロウロしていて分かったのだが、これは駅の跡地に建てられた大口ふれあいセンター。ただ幸運なことにビル4階が「大口歴史民俗鉄道記念資料館」となっていることを知り、早速訪問

こちらの展示物もなかなか充実したもものだった。平素は施錠されているが、1階の受付で訪問の旨を伝えると開けてくれる。なかなか1日では回りきったり見学するのが大変な廃線跡だが、大切に保存されているものも多く、訪問はオススメである

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