JR九州

私的に最後の「JR路線」に乗車する~久大本線との結点は絶対名前を忘れない

※訪問は2025年5月27日

大いに役に立ったBRT

歓遊舎ひこさんからバスに乗り込み、あらためてBRTを大分県方面へと向かう

今度は大きいバスがやって来た。実を言うと最初に添田から彦山まで乗車したバスを「小さい」と表現したが、彦山で下車すると後ろからもう1台。2台セットでの運行だったのだ。もちろん私は1台目に乗車していて、2台目を見るとお客さんはいないように見えたが、満員で乗れないという危険を避けるため時間帯によってバスの大小や台数を決めているようだ

そしてもうひとつ、BRTに乗車して気付いたのが

USBポートの存在。最初に乗車したバスでは気付かなかったが、その後は携帯の充電に大いに役立った。私的ポイントは極めて高い。特にこの後は1時間の乗車となったので満タン充電である

スポンサーリンク

まずはJRの「鉄道路線」完乗

1時間かけて到着したのは

夜明駅。こちらはれっきとした鉄道駅で日田彦山線と久大本線の結点で日田彦山線の終着駅。ただし日田彦山線は鉄道時代から、すべての列車が2駅お隣の日田まで乗り入れていた。いわゆる帳簿上の終点だったわけで、そのなごりで今もBRTは日田まで運行される。夜明~日田は鉄道とBRTの両者が並行して走る区間となっている

とにかくこれで日田彦山線は完乗、JRの運営している「鉄道路線」は、これですべて乗車したことになる。もっともこの後、どうしても行きたいBRTの駅があるので再び添田方面のバスに乗り込むのだが、本数がそう多くはないため1度夜明まで来たのだ

高台に立つ駅舎

夜明駅の駅舎は階段を昇った高台にある。鉄道はこちらから、BRTのバスは階段の下からの発着となる

かつては日田彦山線が合流する2面3線の構造だったが、現在は2面2線となっている。周辺は特に何があるわけではないが、印象的なのは何といっても駅名だろう

開業は1932年(昭和7)で久留米側から少しずつ伸びてきた久大本線(当時は久大線)が福岡県との県境を越えた最初の駅だった。大分県最西端の駅である。2年後に日田まで延伸されるまでは終着駅だった。現在の日田彦山線の前身にあたる彦山線の乗り入れは1937年から

駅名は当時の夜明村に基づく(1955年から日田市)。もともとは焼き畑によって開墾され「夜焼」という地名だったものが現在の地名に変わったという説があるが、夜明という言葉の響きは何とも素晴らしいものがある。1度聞くと絶対に忘れない地名、駅名だ

夜明けの鐘や寅さん

現在の駅舎は2010年(平成22)に新築されたもの。すでに無人駅だったが、開業以来の駅舎の雰囲気を引き継ぐ形で建設された

駅舎の隣には

夜明けの鐘

駅舎内に解説があるが、地元の小学校で大正時代からチャイムとして使用されてきたもの

その隣には平成24年九州北部豪雨(BRT転換となったのは平成29年九州北部豪雨)の際に押し出されてきた岩を加工した石碑が設置されている

また映画の中で重要なシーンとして登場する「男はつらいよ」のロケ地にもなっていて駅舎内には当時の写真が飾られている。利用者は決して多くはないが、見どころもあり、駅名標の写真を撮るだけでも尋ねる価値のある駅である

なお私は10代のころに当駅の存在を知り、私が子どものころの青春スター石橋正次さんのヒット曲「夜明けの停車場」(興味のある方は検索してください)に関係があるものと長らく思い込んでいたが、そちらは違うようである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります





<p data-src=

私的に最後の「JR路線」に乗車する~路線内の最新駅で安心の昼食のはずが

※訪問は2025年5月27日

本日は不安なし

ローカル線の駅訪問を行う際、最も不安なのはランチタイムをどうするか、になる。近年はかつて優等列車が停車していた地域の代表駅ですら、駅前はシャッターや雨戸で閉ざされた店舗の跡があるだけで、その昔は駅で時間待ちをする旅人の胃袋を満たしてくれた駅前食堂は、いにしえのものとなりつつあり、不安というよりはなから諦めていることが多い。あらかじめ出発駅のコンビニでおにぎりやパンを一つ二つ購入して空腹を凌ぐのがほとんど。その分、駅の近くでたまたまコンビニがあったりすると、それを「神駅」と称している

だが今回については閑散ローカル線でありながらも、その心配はなかった。とにかく「食堂」がある場所で横付けしてくれるのだから

スポンサーリンク

日田彦山線で最も新しい駅

添田方面からBRTに乗車すると、最初にある旧鉄道駅が今回訪れた歓遊舎ひこさん駅(バスの停留所は途中に3カ所ある)。何やらバス停のような名前だが、豪雨被害までは、れっきとしたホームのある駅だった。バス停のように思ってしまうのは

駅の場所がそのまま「道の駅 歓遊舎ひこさん」になっているからだ

こちらが道の駅の駐車場に設置された停留所

道の駅は1999年(平成11)のオープンで、その裏手をたまたまレールが走っていたことで2008年に新駅を設置。鉄道と一体化した道の駅となった。日田彦山線では最も若い駅である。の鉄道に揺られて車窓をぼんやり眺めていると目の前の道の駅を通過していく体験は皆さんお持ちだろう。だが、そのほとんどは駅からはかなり離れた場所にあった、道の駅に立ち寄ろうにも不可能なことがほとんどだ。そもそも道の駅そのものが、もともと何もない場所に造られることが多いので鉄道駅とは無縁だ。それでも近年は北海道の木古内駅や福井県の美浜駅、越前たけふ駅のように鉄道駅と道の駅がセットとなった例も見られ始めた。ライバル同士だった鉄道が飛行場に直接乗り入れる方式が全国で広まったように、鉄道と車がセットになる可能性を感じることだと思う

わずか9年だった鉄道駅

ここが鉄道駅だった痕跡は入口にもまだ残っている

今も残るホームにはレジャー施設利用者のみが入れるようになっているが、入口前の裏側には

このようにJR九州のマークとともに駅名が書かれている。そしてこれは鉄道駅としては廃止ではなく、あくまで休止扱いなので間違ってはいない

また隣に回り込むとホームの一部が残されている。豪雨で被災したのが2017年のことなので、ホームに列車が停車したのは、わずか9年のことだった

一瞬絶句も

さて駅については一通り見たので、ここでランチタイムである。道の駅なので、すっかり安心してうどん店に入ると

無情の本日休業の立て札。事前に調べなかったが火曜日が定休日らしい。お隣の韓国料理店は開いているが、12時24分に当地に到着した私は12時58分発で再び夜明方面へと向かうつもりで、到着後にお手洗いを借りたほか、前述した写真を撮ったりしていたため、残り時間はとうに30分を切っている。サッと食べられるうどん店が休みとなると、何か道の駅の中で、この際お菓子でも酒のつまみでも何でもいいのでお腹に入れられるものはないかと店内に入る

地元の名産品を幅広く取り扱っているなぁ、と店内を歩いていくと、なんと

お弁当を発見。しかもこれで480円と超良心的な値段である。残り少なくなっていたものを素早くゲット。外のベンチで食べようとしたら、他にも複数の「お弁当グループ」が。皆さん車で来られていたようだが、有名なのだろうか

とにかくすっかり満たされた私は

子育てに精を出すツバメさんに別れを告げて無事予定のBRTに乗り込めることになった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

私的に最後の「JR路線」に乗車する~戦時中に建設された立派な駅舎を有した駅

※訪問は2025年5月27日

バスのサイズに驚く

こちらは彦山駅で撮影したものだが、添田駅で最初にバスを見た時の印象は「小さ!」だった。定員は25人となっているようだが、座席の数は20人に満たない。添田駅では私より年配の方が一緒にBRTを待っていたが、この方も初乗車だったようで「小さいんだね」と漏らしていた。ただ考えてみると、このサイズで間に合うからこそのBRT転換だったのだろう

スポンサーリンク

BRT転換で駅舎解体

BRT転換の要因となったのは2017年(平成29)の九州北部豪雨。特に添田~夜明間では駅舎の倒壊や橋脚の被害、トンネルへの土砂流入など甚大な被害が発生。長期運休は必至で、そもそもそれ以前に再開が可能なのかどうかというレベルの深刻な状況だった。福岡県と大分県の山間部の県境を走るこの区間は、当時すでに閑散区間となっていて復旧までの経費とその後の利用者数を考慮すると、採算がとれない試算だった。地元は鉄道による復旧を求めたが、2年間の話し合いの末にBRT転換で合意。2023年から、それまでの代行バス運転に代わっての日田彦山線BRTの運行が開始された。その際、バス転換で不自由になると予想された東峰(とうほう)村に所在する彦山~宝珠山については既存の鉄道路盤を利用した専用軌道とすることも盛り込まれた

彦山駅は添田町に所在するが、ここから大分県との県境に向けてが東峰村となる

彦山駅とお隣の筑前岩屋駅を車で行こうとすると、このようなとんでもない悪路になる。普通に考えると国道経由の遠回りルートで実際、代行バスもこの迂回ルートを通っていたが、鉄道は地図を拡大していいだけると分かるが、4000メートル以上もある釈迦岳トンネル経由で真っ直ぐ結ばれていた。そしてこの区間は戦前では工事が終了せず、戦争によって中断。戦後10年以上も経た1956年(昭和31)にようやく全通した難工事の箇所でもある

英彦山神宮への最寄りとして

あらためて彦山駅。添田方面から当駅までは1942年(昭和17)に開通した。1942年といえば、まさに戦時中だったが、英彦山(ひこさん)神宮への最寄り、入口として神社を模した立派な駅舎が建てられ、戦後の全通、そして路線名が日田彦山線となっても路線を象徴する豪華なものだった

ただ、その駅舎はBRT移行の際に解体され、現在の形へと姿を変えた。2面3線という駅の大きすぎるスペックはBRTに向かないものだった。駅舎の隣には休憩所も設けられ、駅としての規模は大きい。新駅舎も英彦山神宮の要素を採り入れたもので

生まれ変わった駅舎内はきれいで居心地がいい

こちらは停留所で、ここから先は専用軌道

こちらはバスが去っていくところで、専用軌道となる代わりに非電化単線の路盤を使用しているため、すれ違いはできなくなる

高台にある駅は被害時の防災拠点として添田町が整備していて駅舎横にあるベンチは、緊急時は炊き出しスペースとなるそうだ

こちらは駅前の様子。英彦山神宮への参拝拠点として栄えたなごりがある。正面の飲食店は、おそらくまだ現役のはずだが、訪問当日は営業していなかった

ということで次の夜明方面へのバスはしばらく来ないため「食」を求めて専用軌道を戻る形で添田行きのバスに乗り込むことにする

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

私的に最後の「JR路線」に乗車する~不思議な路線名誕生までは複雑な経緯

※訪問は2025年5月27日

路線名ゆかりの駅が第一歩

添田から約20分。BRTのバスは彦山駅に到着した。予定の時刻より5分ほど遅延しているが、ここまでは道路を走るバスだったので、遅延もやむを得ない。写真で見ていただければ分かるが、ここからバスは専用軌道に入っていく。つまり線路跡を利用したコース。ここから約14キロはバスのみが走るコースなのでBRTならではの強みが発揮されるコースとも言えるが、非電化単線の線路跡を走るためバス同士のすれ違いは、かつて駅だった場所でしかできないことが、かえって弱みであるが、これが後に各駅訪問の悩みのタネとなる

そして駅名からも分かるように路線名「日田彦山線」のゆかりになった駅でもある

スポンサーリンク

変遷の末に現在の路線名に

日田彦山線は小倉から3駅目の日豊本線城野駅から分岐。久大本線の夜明を結ぶ路線で68・7キロ。この両駅が帳簿上の起終点だが、現実的には列車は小倉から久大本線の日田まで運行されていた。そのなごりでBRTも夜明を経て日田まで運行されている。つまり日田~夜明は列車とBRTが並行して運行されている区間となる

路線名は日田駅と彦山駅からとられているのは一目瞭然だが、彦山駅は城野から47キロも離れた場所にある途中駅。普通なら起点と終点の1文字ずつをとったり、路線内の代表駅を路線名とするところだが、ちょっと違う。これには路線の成り立ちが変化した歴史が関係している

もともとは小倉の東側にあった東小倉という駅(今も形の上での駅として残るが旅客扱いはしていない)から日豊本線を経由することなく添田までを結んでいた私鉄路線だった。話はややこしいが、この線路は現在のコースとは異なり、田川地域の中心地である田川伊田も田川後藤寺も通っていなかったため別の会社が当地を通って添田に向かう路線を敷いた。その後、両線とも国鉄となり前者が添田線となり、後者が行橋から伸びる田川線の一部となった。田川線は1942年(昭和17)に彦山まで延伸する。このころまでは現在の西添田駅が添田駅を名乗っていた

一方、夜明側からは1937年に大分県と福岡県の県境である宝珠山まで線路が完成。彦山線という名称だったが、戦時下で工事が中断。線路がつながったのは1956年と戦後10年以上も経ってからのことだった。全通したことにより、添田線と彦山線そして田川線の添田~彦山が統合されて日田線が誕生したが、この時点で日田線は田川地区の中心部を通らないコースを通っていた。そのため間もなく日田線と田川線を結ぶ短絡線を設けた上で、4年後には中心部から外れた部分をあらためて添田線と命名。中心部を通る田川線のコースを日田線に組み込み、名称が日田彦山線となった

文字だけだと何のことか分からないかもしれないが、ざっくり言うと小倉から添田、田川から添田、添田から夜明と3つの路線の組み合わせで成立した路線で、そのうちの一部が分離された上で廃線になったということ。また歴史をさかのぼると路線名に使用できそうな名称がことごとく先取りされてしまっているような気がする。ただ1度なくなった「彦山」という文字がすぐ復活しているあたりがおもしろい。なお2代目となった新たな添田線は中心部を通らないことで利用者が低迷。国鉄末期に廃線となっている

路線の紹介をしていると随分と長くなってしまった。ただ専用軌道の部分にもかかわってくる話なので、できるだけ説明してみた

次回でようやく戦時中に誕生した駅の訪問記をお届けしたい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(後編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

80段の階段を利用

階段の途中には殺風景さを避けるため、絵画などが飾られている。その数80段。天空の駅として知られた三江線の宇都井駅(島根県)がバリアフリーなしの116段だったので、同様の80段もかなりの高さだと言える

階段を降りきると券売機はここにあり、ホーム改札部分と同様に時刻表が設置されている。待つにはそれほど困らない本数はあるが、昇りきった後にしばらく電車が来ない絶望感を味わうのを防ぐ意味でも、階段の上下に時刻表を置くのは良いことだと思う

見上げるとこんな感じ。まず高台への階段を昇ると券売機の場所に到達して、そこからはビルの階段を昇る形でホームへと上がる

前掲は裏側から見た方が分かりやすい

駅前には土俵?

駅前には国道201号が走り「山手」の交差点がある。朝の時間帯なので営業については分からなかったが、民家は少ない。公民館があり

これはおそらく土俵だろう。最近は見る機会が少なくなったが、小学校や公共施設には土俵が置かれていたものだ

駅周辺の地図があり、こちらを見ても山中の駅だということが分かる

篠栗線の歴史に起因

2022年の駅利用者は「データなし」となっている。公表されているコロナ禍前のものが約100人なので現在はさらに少なくなっていると想像できるが、電化されていて本数も多く、IC乗車もできる路線になぜこのような天空の駅ができたのかについては篠栗線の歴史をひもとく必要がある

篠栗線の歴史は古く、開業は1904年の明治37年で今年で120歳を迎えた。なぜこのような長い歴史を持つかと石炭輸送のためである。元々は同じく炭鉱で栄えた飯塚への短絡線として計画された。ただし開業時は吉塚から篠栗まで。なぜかというと篠栗から飯塚(桂川)方面には交通の難所である八木山峠があったためだ

鉄道図でなく道路図で示すと分かりやすい。現在は筑前山手駅ホームから見える八木山バイパスの一本道だが、筑前山手駅前を通る旧道を見るとクネクネが連続するつづら折りとなっている。道路でこれなので鉄道工事となると、さらに難所で筑前山手駅を含む篠栗~桂川の開業は1968年(昭和43)。短絡線としての計画から60年以上が経過し、石炭産業は曲がり角を迎えていた。全通から20年も経たない国鉄時代に篠栗線の貨物輸送は廃止される

転機が訪れたのはJR移管以降。博多への通勤通学圏として注目されるようになり、博多~吉塚に独立した線路が敷かれたことで、すべての列車が博多まで直通。篠栗までの間に3つもの新駅が設置され、やがて電化。沿線はマンションが建ち並ぶ住宅街となった。新駅設置で駅間が短いにもかかわらず、篠栗までの各駅の利用者はいずれも1000~4000人である。飯塚の事実上の中心駅である新飯塚から博多までは快速で50分で結ばれている

電化時には利用者増に備えるため、各駅で列車交換可能な構造への改良工事が行われたが、唯一そうならなかったのが、構造的に無理な筑前山手駅だった

駅近くには篠栗四国八十八箇所の第五十二番札所がある。山手地区には6つの札所があるようだ

ホームからの階段に篠栗町立篠栗小学校萩尾分校の紹介もあった。当駅からも車で10分かかる分校は、同校のHPによると開設は1883年(明治16)で現在の児童数は10人だという。過去の学校日記も公開されていてホームでの電車待ちの間、楽しく読んでしまった

トンネルから出てくる電車を待つ。わずか3キロしか離れていない、お隣の篠栗駅の利用者は4000人を超える。これからの盛夏に80段の大変かもしれないが、アクセス容易なパノラマ駅は、旅のお供にぜひ加えてほしい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる4~大いにバズった駅でのフレッシュな感覚

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

国道が国と市の境界

雨の中を国道まで出てみる。駅とほぼ隣接するようにビュンビュン車が走る国道10号が並行している

これが国道から見た駅の待合室の様子。後に触れるが、右奥に進んだところが下り線ホームの入口。かつて駅舎があった時代があり、写真の中央部に建っていたとされるが、私は資料を見つけられず、現地で痕跡も探せなかった

スポンサーリンク

そして国道に出る

「西屋敷駅前」という交差点がある。押しボタン式。話はそれるが、押しボタン式信号というのは、押してしばらく経ってから横断歩道が青になるものと、押した瞬間に青になるものに二分されるが、地方に行くと圧倒的に後者の方が多い印象だ。渡る人が少ないからだろうか。この後も2度ほどボタンを押すことになったが、すべて利用者は私のみ。何か申し訳ない気持ちになってしまう

宇佐駅や宇佐神宮への案内表示もある。国道沿いにある左の建物はレストランで、その奥にはラーメン店。訪問時は9時で、まだ開いていなかったが、どちらも現役の店舗のようだ

そして駅と店舗は所属自治体が異なる

西屋敷駅は宇佐市なのに対し、店舗は杵築市である。立石駅の紹介で立石峠を豊前の国と豊後の国の境界と記したが、厳密には峠を下りたこのあたりが国境というか、峠を下りた西屋敷駅付近まで杵築市が食い込んだような形となっている。国道が市境になっていて、雨が激しく歩を進めることができなかったが、国道沿いに国境の碑があるのは、そのためだ

SNS上で話題を集める

さて、この西屋敷駅。昨年SNS上で主役の駅となったことがある。出張で当地を訪れた方が逆方向の電車に乗ってしまい、それに気付いて慌てて降りたのが西屋敷。明るい時間帯だったが、あまりの何もなさと逆向きホームへの移動地下通路の不気味さを投稿したところ、大いにバズって、さらには有名ユーチューバーも後に現地訪問して「凄いところだ」となった

実際には下り線ホーム(大分行き)で降り、上りホーム(小倉行き)へ移動したそうで、私の行動は逆というか乗下車はともに上りホームだったので、上りホームから下りホームへの移動を体験してみた

まず上りホームから下りホームを眺める。写真の右手が国道方面。上りホームからはすぐだが、下りホームの先端はかなり遠くにあるように見える

国道方面へと歩くと、記事の最初の写真の右端にある分岐点へ

国道とは逆方向に。そこには巨大水たまり。これはバズったSNSにもユーチューブにも出てこなかったが、現実的にはかなり前進意欲をそぐものだった

ただ、ここまで来て行かないという選択肢はないので左手を見ると(真っ直ぐ行くとナゾの空き地)

これが下りホームの入口。カーブミラーが丁寧に付いているのが、ちょっとウケた。二輪車の通行ならあるかもしれない

そして何の表示もないが、これが下りホームへの出入口

ちなみにホーム方面の階段を利用せず、真っ直ぐ行くと

田園地帯が広がる。足下はかなり悪いが、いわゆる「自由通路」である

これが下りホームから通路へと至る歩道部分で確かに遠い。最初に下りホームで降りると不安でいっぱいになりそうだ

あらためて知った普通の感覚

ユーチューブでも、駅の構造や本数の少なさが詳細にリポートされていた

ただし私の感じでは、地方の駅にありがちというか、あっても別に不思議ではない構造である。本数が少ないとはいっても1日に10往復以上がある。バス路線は駅付近にはないようだが、その気になれば宇佐駅まで50分ほどで歩けるし、駅の近くには飲食店もある。食事もできるし、頼めばタクシーも呼んでくれそうだ。いわゆる「秘境感」はない

それでもSNSでの投稿やユーチューブを拝見して知ったのは「一般的な普通の感覚」だ。いつの間にか自分自身、このぐらいでは何も感じなくなってしまっていることを改めて教えられた。この記事を読んでくださっている方も、どちらかというと私寄りの人が多いのかもしれないが、考えてみれば1両編成の単行列車に驚く人や、電化と非電化の区別が分からない人も普通にいるのだ

上りホームの「昭和14」の待合所へと戻る。ここには日豊本線でたびたび見かける青い駅名標がある。1時間はあっという間に経過した。ちょっとフレッシュな気分になってやって来た電車に乗る。もっとも下車時と同じで乗車は私一人のみだったけど

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる3~集落のない元信号場駅には待合所のみ

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

私以外に乗降なし

立石からひとつ小倉方面へと戻り西屋敷で下車。時間は8時50分。事前に予想できたことだが、降りたのは私のみ。入れ替わりに乗車した人もいなかったと思う。小倉方面への隣駅は宇佐。そこまで行けば同駅での折り返しもあるし、手元の「福岡・大分DCオフろう!きっぷ」は特急も乗り放題なので、おそらく移動に苦労することはないが、だからこそ西屋敷で降りたのである。立石と並ぶ日豊本線ダイヤのボトルネック区間を訪れるのが趣旨だ

最初に記しておくが、当初の予定はしばらく来ない電車には見切りをつけ、宇佐まで歩くことだった

この区間の日豊本線は国道10号とほぼ並行して走っている。立石峠も越えた平坦コース。駅間徒歩で最も有効なのは線路とともに歩くことが可能な区間だ。道を間違うこともなく、最短距離で隣駅まで行ける。日豊本線のように電化区間だと少々それても見失うことはないのだが、今回の場合は道路の隣を線路が走っているので、そちらの条件も必要ない。しかも平坦。これだと50分の徒歩もそう苦にならない

しかし残念ながら、この日は雨だった。中津では降っておらず、立石でもパラパラ。天気予報は午後から晴れ。ただ、いい流れだと感じたのもつかの間。西屋敷に到着した私を待っていたのは本降りの雨だった。西屋敷は駅舎のない構造。よりによって、この駅でなぜ?と言いたくなったが、とにかく宇佐への徒歩移動は中止となった

こちらは西屋敷駅の時刻表。8時52分で到着して次は10時9分。1時間20分の待機である

戦後の駅昇格も財産票は戦前

上りホーム入口と下りホーム上にある待合所のみが駅の建造物。というか、この日においては雨を凌げる唯一の場所。ICリーダーが設置されている

駅の開業は戦後の1947年(昭和22)だが、待合所には

かなり年季の入った財産票がある。かなり薄くなっているが、「待合所」「S14 5.2」とある。当駅は1926年(大正15)に信号場として設置された。立石~宇佐が10キロもあるので信号場が必要だったのだろう。臨時や仮の乗降場となった記録は探せなかったが、駅への昇格は1947年(昭和22)。その過程で待合所が必要となった事案があったのだろう

こうして列車が過ぎ去った後の様子だけを見ると一見、単式ホームの駅にも見えてしまうが、右側のちょっと高い所にあるのが下りホーム。そもそも信号場としてスタートしたのだから単式ホームのはずはないが、立石~宇佐が複線化された際にこの位置にホームが設置された。立石駅の記事でも記したが、立石~当駅は複線化の際に下り線は立石峠をトンネルで貫く形にしたため、上り線と下り線が大きく離れている。当駅のすぐ立石側で線路は再び出会う

とにかく、ここから時間をやり過ごさなければならない。信号場としてスタートしただけに付近に集落はなく、私の貸切状態となったのも当然といえば当然だが、傘を手に周辺の散策に入る

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる1~時刻表のちょっとした空白地帯

立石駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

福岡・大分DCオフろう!きっぷ

朝の中津駅。前夜はこちらに宿泊した。一昨日に宮崎空港に到着して以来、ずっと雨。この時点では雨がやんでいてホッとしたが、この後も雨に行動が縛られることになる

手にしているのは「福岡・大分DCオフろう!きっぷ」。現在、9月までの期間限定で発売されている。発券は宮崎空港の券売機だが、ご覧のように福岡県と大分県の新幹線を除くJR線が特急も含め(指定席は3回まで)3日間、乗り放題という、なかなか便利なきっぷである

発売はインターネットのみでJR九州の会員になる必要がある。購入は1週間前までと規定はあるが、クレジットカードが1枚あれば会員登録できる。3日間で8000円はかなり安価で使い勝手があるが、7月からは1万円になるので注意が必要(それでも安価ではある)

大分県内なので宗太郎駅まで有効だが、大分県側から宗太郎まで行くとエリア内に戻ってくる手段はないので、この付近に行くなら宗太郎をまたいで超過料金を支払うというのが現実的な選択になる

ちなみに私は前日

延岡~宗太郎間の最後の2駅訪問を終えた後、延岡まで一度戻って大分県へと入ったが(記事で記した通り、延岡から北川、北延岡への移動は乗車券の現金購入)、大分県へ入る手段は特急しかないため、延岡~宗太郎の乗車券と延岡~佐伯の特急券を別途購入した

宗太郎越えと並ぶ難所の立石越え

本日の最終目的地は博多だが、この旅のひとつの目的地へと向かうため南下。7時51分の電車に乗って

8時27分に立石に到着

先に駅舎を紹介すると

大きく立派な国鉄型コンクリート駅舎である

ただ時刻表を見ると

とても寂しい。小倉から鹿児島まで460キロもを走る日豊本線は南下すればするほど本数が少なくなっていく路線だが、小倉~大分は原則的に複線(ほんの少しの単線区間については次の記事で述べる)で本数も比較的多い。にもかかわらず当駅の時刻表を見ると、特に大分方面においては4時間近くも普通列車の運行がない時間があり、小倉方面についても最大で2時間40分も運転間隔が空いていて、この間は特急のみが30分に1本の高頻度運転を行うという極端なダイヤとなっている

これはなぜかというと、小倉方面からは当駅から2つ隣の宇佐止まりの列車が多く、大分方面からは1つ手前の中山香で折り返す列車が設定されているからだ

宗太郎越は極端すぎるにしても、こういうダイヤは高校生の流動がない県境で出会うことが多いが、この間はずっと大分県である

にもかかわらず、このようなダイヤになっているのは、立石とお隣の西屋敷が立石峠越えという交通の難所に入っているため、現在は鉄道もトンネルと電化があり、道路も立派な国道10号があるため楽々と越えていける区間となっているが、現在は同じ大分県だが、元はというと豊前の国と豊後の国を隔てる国境だった。往来の少ない地域でもあった。このため今も普通の利用者が少ない区間となっている

つまり停車の少ない立石そして西屋敷の両駅を訪ねてみようというのが今回の企画。まずは立石駅をゆっくり見ることにする

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

延岡~宗太郎の5駅完了~その4(終) 駅名板の芸術点が高すぎた

北延岡駅の鳥居式駅名標

※訪問は2024年4月23日

高校生の姿はすでになく

時間はあまり与えられていないが、さっそく駅の観察に入る

かなり怪しくなった駅名標。初めてここに連れて来られたら(そんなケースはほぼないと思うが)両隣の駅がどこか分からなくなっている。ただしJR九州おなじみのイラスト入り駅名標にはアユが描かれていることは分かる。ちなみに前訪問駅となった北川のイラストはすっかり姿を消しているが、以前の写真を見るとホタルが描かれているようだ。そろそろ塗り直しをとも思うが、1・5往復の停車では意味をなさないのだろう。ただしサムネに使用した鳥居式駅名標はくっきりと文字が読める

延岡~佐伯間の各駅と同様、すれ違い可能な構造。ただし駅舎は撤去されている。お手洗いもないので冷え込む季節などでは要注意

開業は1953年(昭和28)で、1・5往復区間の5駅では最も新しい。ただ駅の開設理由については調べてみたが分からなかった。いわゆる「よんさんとー」の1968年10月の時刻表を見るとすでに1日6往復の停車となっているが、当時は駅舎もあってもちろん駅員さんもいた。ただ6往復とはいっても、優等列車の通過が12往復もある。まだまだ貨物の輸送は列車が花形だった時代で、貨物列車の通過も含めると線路は飽和状態だったはずで延岡~日向長井の距離が10キロもあることを考えると信号場的な役割があったのかもしれない。ちなみに現在も当駅は9往復もの特急が通過する

こちらは駅前光景。駅舎は平成に入って間もなく解体されたようだ。駐輪場には現役かどうかも釈然としないものも含め、2台の自転車。前記事で延岡学園の高校生は、ここに自転車を留めて通学すると書いたが、写真を撮っている間に高校生の姿はすでになく、通学模様は分からなかった

駅の両側は細い道路でつながっている

駅名板に目が釘付け

恒例となった野ざらし時刻表+運賃表+きっぷ入れのセット

これもまた恒例だが時刻表。同一路線で3駅続く南延岡、延岡、北延岡だが全列車が停車する他の2駅と「待遇差」が顕著すぎる

そんな中、ふと目にとまった駅名板に違和感を感じ近づいてみると

ローマ字の象形文字状態が凄い。目を凝らすと今の文字の下には、ずれていない文字がうっすらと見える。「Station」の部分を見ると元々は普通だったものが年月を経てずれたようにも思えるが、このような駅名板は初めて見た。駅名板の文字に芸術点がつくのなら、かなり高得点となりそうだ

バス停の場所は?

一通り駅周辺を見た後は「脱出」である。駅前は国道が走るが、ここを延岡行きのバスが走っている。北川駅でも触れた路線バスだが、調べたところ駅前にバス停はない。少し歩いたところに「差木野」という停留所があるはず。北延岡駅到着は7時18分でバスの出発は同35分ということになっている

こうして見ると楽勝のような気もするが、地方の路線バスは軽く見てはいけないことは、これまで各地で体験済み。そもそも停留所があるのかどうかも分からないし時刻表が掲げられているかどうかも分からない。今回の場合、地図にはイラストがあるので停留所はあると思われるが、なぜか同名の停留所が微妙な距離で2つ並んでいる

これは早めに行かなければウロウロすることになりかねないと歩を進める。この時間帯は雨はやんでいた

延岡市街がすぐだということで山中の雰囲気はない。2つのおにぎりが並んでいるということは重複区間のようだ。すると右奥にバスが見えるではないか

延岡行きのバスが止まっていた

差木野(さしきの)と読むと初めて知った。時刻表で分かる通り、平日は1日に4本。幸運なことに乗車するバスは当停留所が始発なので、早々にスタンバイしていたようだ。地図で示した停留所2つのうち、手前側が目的の停留所だったが探す手間も省けた。交通ICカードも使えた

佐伯~重岡の各駅訪問の際も見た光景だが、廃校もあってバス通学の小学生がいるようだ。延岡駅までは約15分。小学生とともに1・5往復区間の全駅訪問を終えることとなった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

延岡~宗太郎の5駅完了~その2 5駅の中で最も規模の大きい周辺を持つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

キーワードは「細」

北川駅に到着

位置はこちら。佐伯まで950円もすることで、かなり距離があることが分かる

時刻表はもう「定番」となってしまったが、1日1・5往復。つまり大分県側から列車で朝の7時過ぎに降り立つと、先に行く列車はなく、その時間が「始発にして終電」。折り返し電車も13時間以上後の20時22分なので駅周辺に夜まで過ごすような訪問先がない限り、事実上折り返しはないことになる。私は6時25分着でやって来て7時8分で延岡に戻る

ホームは島式で見て分かるように非常に細い。跨線橋も同様で

こちらは後に列車の到着間際になってのものだが、外に出る跨線橋も細い。大人同士のすれ違いも困難な幅で、上下列車が同時刻に停車したら、ホーム内での乗降も大変そうだが、そのような電車の設定は今はなく、1日の利用者数は近年のデータは発表されていないが、おそらく10人を割り込んでいると思われる(私が利用したのは平日だったが、1・5往復のうち1往復を利用し、私以外の乗降客は1人だった)

旧北川町の代表駅

延岡~宗太郎の各駅は停車列車の本数はさることながら、特急の本数は多く列車交換に伴う運転停車のため、各駅ともすれ違い可能な構造となっていて、比較的ゆったりとした構造となっているが、北川だけは頑張って設置した構造となっている。この区間は大正期の宗太郎越えなった頃からの駅と戦後の駅に区分されるが、市棚と日向長井が戦前から、北川と北延岡が戦後の駅。宗太郎は戦前は信号場で戦後になって駅に昇格した

北川については旧北川村(後に北川町となって現在は延岡市)の中心部に近いということで駅が求められ、1949年(昭和24)に市棚と日向長井の間に設置された経緯があり、このような構造となっている

40分ほど時間があるので中心地方面へと歩を進める

駅を出て川を挟んだ向こうが北川町の中心部

川向こうとは言っても駅を出るとすぐ立派な橋があり中心部へと到達する。地図で分かる通り、徒歩5分

朝もやに包まれ良い風情だ。橋を渡った所に旧北川町役場の延岡市役所北川町総合支所がある。平成の大合併で2007年に延岡市となった

駅舎は消滅

再び駅へと戻る

橋の方から駅を眺めると駅舎があって跨線橋があるように見えるが、近づいてみるとこれは違う。駅を出てその前を通ってからこちらにいるので既に答えは出ているのだが

北川地区の水道を司る水源地の建物のようで鉄条網で厳重に守られている

駅前には立派なお手洗いがあり、市棚駅同様、私は大いに助けられた。しかし建物は2つもあるが駅舎はない。開業時からの駅舎は平成になってから解体されたという

そしてお手洗い前の地面で分かる通り、駅前はアスファルトの部分が少なく

駅から外に出る道路は車の轍が水たまりになっていて一瞬途方にくれそうになったが、水源地の建物の隣に小さな階段があって事なきを得た

川からの朝もやは写真としては優れているが、滞在の40分は小やみになったかと思うと本降りの雨がやってくる状況で結構困った。お手洗いのひさしと隣接する駐輪場で雨宿りさせてもらったが、大いに助かったのは、そそれも含まれている

ホームへ戻る。屋根のある部分はあるが、これぐらい降ると役立たないレベルだ。消滅した駅舎の代わりに跨線橋に駅名標が掲げられている

ホームには石碑らしきものが建っているが文字は読み取れなかった

延岡行きの787特急車両が到着。名残惜しいが北川駅を去ることにする

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります