きっぷ

約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その2 元の名は「鉄道連隊演習線」

新津田沼駅前の公園に残る蒸気機関車

※訪問は2025年1月15日

徒歩5分の乗り換え

JR津田沼駅の足下にある新京成線の方向案内

新京成線の新津田沼駅までは徒歩5分ほどの距離。乗り換え駅として5分という距離が長いか短いかは微妙なところだが、初めて来る人は、最初にJRの改札口にある地図をチェックしないと、ちょっとウロウロするはず。矢印に沿って駅舎から出ても角度的に新津田沼駅は見ることはできない。もっとも今は携帯アプリもあるし、おそらくそのあたりを歩いている人に尋ねれば、ほぼ百発百中で教えてくれる。この距離が生まれた理由については後述することにする

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公園の保存車両

新津田沼駅にやって来た。私が向かったのは、駅ビルの向かいにある小さな公園

機関車が保存されている

新京成線の、かつての名前は「鉄道連隊演習線松戸線」。かつての名前と言っても、戦争の終了時まであった軍事用施設を戦後に工事を施した上で利用しているもので、性格も目的も全く異なるため「かつての名前」との言い方は正確ではない

機関車についての解説が分かりやすい

鉄道連隊とは?

戦争終了時まで習志野の地は広大な軍用地だった。現在は1日十数万人が利用する巨大ターミナル駅となっている津田沼駅周辺のにぎわいは、戦後にかつての軍の施設が続々と民間利用されたからである。その軍の演習場の中を走っていたのが演習線

そもそも鉄道連隊とは何ぞや、という話になるが、少なくとも私は新京成線の存在がなければ、かつて鉄道連隊という隊があったことを知らずにいたはずだ

鉄道連隊とは戦地において鉄道を敷設し、その運用も担う連隊。敵軍の鉄道破壊も行う。専門技術と知識が必要なため、ひとつの連隊となっている。手がけた鉄路で有名なのは映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道だろう

その連隊は複数の路線を建設したが、その中のひとつが松戸線。戦争が終わるとともに鉄道連隊は解散となったが、そのまま残された線路跡が注目され(レールは戦時下の金属供与に使用された)、京成と西武が争った結果、地元ということで京成に払い下げられることになった。戦後わずか1年後の1946年(昭和21)のことだった。機関車の解説板に西武ユネスコ村にあったと記されているのは、最初にレールや資材が払い下げられたのが西武だったため。京成は翌年に工事を開始し1947年には早くも新津田沼~薬師台の2・5キロが開業。徐々に延伸され1955年には全線開業となった

元々が軍事用の演習線であるため、路盤はクネクネとしていた。新京成線の工事にあたっては、改良が行われたが、すべてというわけにはいかず、現状の路線もかなりのスネークぶりだ。松戸~京成津田沼の全線は26・5キロだが、直線距離が16キロほどなことを考えると線路は長めだ。なお松戸に至る最後の1区間は新京成が自力で敷設した部分となっている

京成に払い下げられたにもかかわらず、新京成という別会社を設立したことについては、人が住んでいなかった演習線の沿線に列車を走らせ、果たして経営が成り立つのか、という危惧があったともされる。しかし沿線人口は順調に増えていき、営業成績も順調。3月いっぱいで親会社の京成電鉄に合併され、会社としては80年近い歴史に幕を降ろすこととなった

私的にはグーグル地図を開けたところ、ピンク色で表示されたルートにちょっと感動した。4月以降は京成電鉄の松戸線と名前を変えるが、グーグルの表示はどうなるのだろう

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約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その1 サンキューパスで津田沼へ

津田沼駅の駅名標

※訪問は2025年1月15日

秋葉原から千葉へと向かう

朝の秋葉原駅。といっても、いつもは夜明けするかしない時間帯ばかりの写真を掲載しているが、時刻はすでに8時半。この時間帯の秋葉原駅前の人が少ない位置とタイミングの写真は大変だった。今日は千葉方面へ行くのだが、当初予定していた時間からすでに1時間以上は経過している。先日まで紹介していた加古川線のような閑散ローカル線だと、寝坊厳禁で4時でも5時でも起き出せるが、訪問先の本数が多いと、すぐダラけてしまうのが悪い癖。この後、のんびり立ち食いそばの朝食セットを食べたりしてきっぷを買うと、9時前になってしまった

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サンキュー♥ちばフリーパスとは

過去、秋葉原駅には無数とも言えるほど来ているが、長距離きっぷや企画きっぷを買ったことがなく、指定席券売機のある改札を探してちょっとウロウロしてしまったため、さらに時間をロス

購入したのは「サンキュー♥ちばフリーパス」。2024年度版は9~10月と1~2月の2回にわたって発売され、当日でも買える。つまり現在発売中で、まだ1カ月近く利用できる。券面にある千葉県内のJR、私鉄が乗り放題となる。JRは全線だが、千葉県内を走る私鉄がすべて乗れるかというと、そうではないのがポイントのひとつ。2日間有効で3970円(小人1980円)。東京23区内のJR駅を発着とする「サンキュー♥ちばフリー乗車券」もあり、私が購入したのはこちらで4790円。都内から千葉に向かう際に使えるが、都内の駅ではJRの乗車駅と降車駅のみ有効で都内の京成の駅からは出入りできず、JRでも23区内の駅で乗り放題ではないというのも、もうひとつのポイント。都内から千葉県に入る方法はいろいろあるが、JRでしか入れないため、「ゆき」のきっぷには「総武線・京葉線・常磐線経由」と書かれている

また820円の差額は、利用する都内の駅が千葉県の最も近い駅までの片道が410円以上なら元がとれるという意味。今回の私の例を言うと総武線で向かうため、秋葉原から千葉県最初の駅である市川までの運賃は230円。翌日は阿佐ヶ谷のホテルに宿泊したので市川~阿佐ヶ谷は490円で計720円と100円の損となってしまった(笑)

あまり調べもせず、なんとなく大丈夫だろうと思って購入した私の責任だが、当初は松戸からの常磐線経由での帰路も思い浮かべていたため、やむを得ないところ。行程が決まっていれば単独で「パス」を購入したかもしれないが、「パス」については千葉県内の駅でしか購入できないため、今回の行程では一度市川で下車する必要があり、ちょっとした手間が生じる(市川駅にはバンバン電車が来るので大したロスにはならないが)。また発売は指定席券売機と制限があり、窓口ではもちろん、乗車券のみの券売機でも購入できない。千葉県の最初の駅が無人駅ということは、あまりないかもしれないが、茨城県から鹿島線で入ってくる場合は注意が必要となる

京成の参加が利用のきっかけ

総武線に乗車。時刻は9時になっていて通勤通学のピークは過ぎている上、下り方面。寝坊は自慢にならないが、楽勝で座れた。目的地は津田沼。錦糸町で快速に乗り換えれば早いが、せっかく楽々座れた上、やって来たのは津田沼行きだったので、このまま鈍行で向かうことにする

津田沼駅に到着。1日の乗車が約8万8000人(降車を含まない乗車のみの数字)と、新大阪駅の在来線の乗車人員6万9000人をはるかに上回るターミナル駅で、総武線緩行の半数は当駅での折り返しとなる

ここから新京成電鉄新京成線の新津田沼駅へと向かう

首都圏ならではの多数の利用がある津田沼駅だが、昭和40年代ならではのコンクリ駅舎。今回千葉まで出かけたのは、サンキューパスに京成と新京成が参加したことが大きい。サンキューパスは初めての利用だが、今春で会社としてはなくなる新京成電鉄に今のうちにぜひ乗っておきたいと思ったからだ

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~番外編 3つの線路幅を味わえる国内唯一の踏切

桑名駅近くの3種類の軌間が渡れる踏切

※訪問は2022年3月5日

※動画あり音声注意

桑名駅至近でアクセス容易

三岐鉄道北勢線の全駅訪問を紹介してきたが、最後に番外編として、オタク向け名所とされる国内唯一の踏切の紹介を

オタク向けというと、秘境感があふれている印象を与えるかもしれないが、ここ桑名駅からすぐの場所にある。踏切なので、もちろん料金は無料である

なお訪問は3年前のことなので、周辺の状況に多少の変化があるかもしれませんが、ご容赦ください

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歩行者専用がミソ

目的の場所まで桑名駅から、数分で着いてしまう

グーグル地図では一度道路を渡って回り道をするように表示されているが、実際は線路に沿って歩道があるので、もっと早く着く。北勢線の西桑名駅を右手に通り過ぎ、真っ直ぐ歩けば、そこが目的の場所

あまりにも絶妙な時間というか、ちょうど近鉄特急「ひのとり」が通過していった

あらためて踏切の外に立つ。ご覧のように歩行者専用の踏切となっている。自転車も手押しで可能なようだが、自動車はやって来ないのがミソである

国内唯一というのは近鉄の標準軌、JRの狭軌、そして北勢線の特殊狭軌(ナローゲージ)の3つの線路幅、それぞれ1435ミリ、1067ミリ、762ミリを同時に渡ることができる踏切という意味

こうして歩いてみるとナローゲージの幅の狭さがよく分かる。ひとつの踏切ではなく近鉄は益生第4号踏切、JR東海は桑名駅構内踏切、北勢線は西桑名第2号踏切と、各々名前が付いている3社の踏切だが、一体化していて、事実上ひとつの踏切となっている

運用的には、長めの踏切を渡っている途中で列車が来ても

本数の多い近鉄については独立した遮断機があり、手前で待つことができる。とはいえ

おっしゃることはごもっともで、あまり立ち止まってウロウロするわけにはいかない。そしてこの踏切は線路を挟んだ東西を住民の方々が、階段やエレベーターを利用せずとも渡ることができる貴重な生活道路にもなっている。私の滞在中もかなりの人が踏切を渡っていた

絶好の撮影ポイント?

ただ、このような平面的な写真だと読んでいる方も実感に乏しいかもしれない。何か良い場所はないかと、ふと見上げると

左手に跨線橋が見えた。階段もあって登れるようだ。あそこからなら良い写真が撮れるのではないかと足を運ぶことにする

そして撮影したのが、こちらの写真。随分と端からの撮影となっているが、危険防止のためだろう。跨線橋の途中は高いフェンスが張られていてカメラを差し出すことはできない。車もビュンビュン走る跨線橋の途中で立ち止まる人だらけになると通行のじゃまだし、何より危ない。当然といえば当然だ。近鉄の線路側から登って渡りきったところで何とか撮影となった

関西本線強化のネックに

西桑名駅を出た北勢線の電車がやって来た。このあたりでJRや近鉄の線路と離れつつある。地図でも分かるように北勢線は近鉄そしてJRの桑名駅の東側から出た後、グルリと回り込むように近鉄とJRの線路をオーバーパスとして西側へと向かう

JRの関西本線は国鉄時代末期に名古屋~亀山が電化され、スピードアップしたことで客足が伸びた。名古屋から四日市までは、主に近鉄との競合区間で単線非電化の国鉄は長らく圧倒的不利に立たされていたが、JR移管を契機に電化で伸びた客足をさらに増やして近鉄に対抗しようと複線化を計画。ところが、ここ桑名の北勢線オーバーパス部分を複線とするには大がかりな工事と経費が必要になることがネックとなり、結果的にごく一部の複線化を行っただけで現在に至っている

そんな景色も眺めながら足を運ぶんでみるのもいい。JRは特急「南紀」も含め全列車が停車する。近鉄も「しまかぜ」と名阪ノンストップ特急(津のみ停車)以外はすべて停車。通過特急についても時刻表でおおよその通過時間は推測できる。ナローゲージから近鉄特急までが同じ踏切を渡るシーンは、見ていて飽きない。簡単に行ける場所なので、ぜひ訪問を

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その13 最後の駅は村の集まり

七和駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

13番目の駅に到着

七和駅に到着。こちらが北勢線13駅で最後の訪問駅となります。時刻は9時17分。こちらは1面2線の島式ホームで、ちょうど列車交換のタイミングでした

こたらが駅の時刻表。北勢線はすれ違いのできる構造となっている駅が限られているので、ほぼパターンダイヤとなっている昼間に列車交換は全くないのとは対照的に、本数の多い朝夕は多くの交換シーンが見られる

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駐車場がないのに利用者数5位

七和駅は1914年(大正3)の開業。北勢鉄道が敷設したオリジナルの駅のひとつ。当時の所在は七和村。桑名市のHPによると明治の町村制施行の際、7カ所の村や地域が合併して誕生したことが村名となった。七和村は1951年(昭和26)に桑名市へと編入されたが、村内にあった駅は当駅と、三岐鉄道移管後に廃駅となった坂井橋駅

その際にできた星川駅は今で言うところの七和村にあった駅だが、もちろん駅の設置時に七和村は存在していない

構内踏切から駅舎へと向かう

駅舎は三岐鉄道になってから建て直されたもの。駅を出てすぐ駐輪場はあるが、古い駅だけあって駅前のスペースは小さく、北勢線で力を入れているパーク&ライド用の駐車場はない。にもかかわらず、1日あたりの利用者数は568人(2023年)と13駅中5位と上位にある

利用者数を押し上げているのは桑名工業高校の存在だ

駅から徒歩約10分。同校が1962年にできたことで利用者が増えたため、駅の位置を学校からのアクセスが便利な場所にずらした経緯がある

現在は無人駅だがホームに目をやると

いぶし銀的な上屋と古い駅らしい木製の長いベンチがある

収支の向上と今後の課題

これで北勢線の全13駅の紹介が終わった。ときおり歴史もたどってきたが、近鉄が廃線を打ち出してから地元の熱意で三岐鉄道に移管され、いくつかの駅を統廃合した上でのパーク&ライドの積極的な導入や、全駅に遠隔操作できる自動改札機を設けて効率化を進めてきたのは、これまで記した通り。これにより収支は大幅に改善して近鉄時代に年間7億円もあった赤字は近鉄時代の半分ほどになったが、それでもまだ赤字経営で、地元の負担に支えられながら走っている

今後の課題は老朽化してきた車両の更新。今も近鉄時代の車両を使い続けているが、最も新しいもので1977年製と50歳近い年齢で、中には70歳を超えた車両も現役登録されている。車両の更新が進まないのはナローゲージという特殊構造に起因していて、地方で私鉄に乗ると、かつて都心を走っていた列車を見かけることが普通にあるが、ナローゲージは全国に3路線しかなく、しかもそのうち2つが、かつては同じ近鉄だった四日市あすなろう鉄道と北勢線で、都心を走っていた大手私鉄の車両を譲ってもらうわけにはいかない。つまりは新規車両の導入しかないわけで、これには多額の費用がかかる

七和駅の構内踏切部分を外から見る。近鉄を思わせる布製の屋根が健在。ホームの施設は古いものも、そのまま使用できるが、車両については限界がある

どういう形での導入になるかは分からないが、新車両の登場を期待しよう

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その12 変化を待つ駅の光景

在良駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

高架?の下へ到着

在良駅に到着。「ありよし」と読む。ホームは高架下にあるが、他の鉄道路線とは西桑名駅を出て間もなく交差してお別れしたはず。一体何だろうと興味がわく構造となっている

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東名阪道の直下を走る

高架の正体は東名阪自動車道

当駅そのものが東名阪道の桑名インターの間近にあり、ここで北勢線の頭上を通る

在良駅の開業は1914年(大正3)で、こちらも北勢鉄道が開業した際に設けられた1期生。1951年(昭和26)まで存在した在良村に基づく。桑名市HPによると、明治の町村制施行の際、西別所村、蓮花寺村などがひとつの村になる際、この付近を在善(ありよし)郷と呼んでいたことにちなんだという

1面2線の細いホームを持つ。これまで紹介してきた北勢線の島式ホームは新駅らしく広いものばかりだったが、この狭いホームは近鉄時代からのものだということを認識させてくれる。ただ当然のことながら、線路が敷かれたころ、そして在良村が存在した戦後間もないころに東名阪道はない

最初の写真で分かる通り、ホームから駅舎へは構内踏切を経て向かう。北勢線の駅はバリアフリー対応のものが多いが、当駅については構造が古く、構内踏切からホームについては階段となる。駅舎については、近鉄時代の古いものから三岐鉄道に移管して自動改札機が設置された際、現在のものに建て替えられている

工事の真っ最中

駅舎で最初に目にとまったのが

カバーをかけられた自動改札機。実はこの3月1日から北勢線ではJR西日本のICOCAシステムを導入。ICカードでの乗車が可能になる。タッチシステムにより定期券も、いくつかの限られた駅にしかない窓口ではなくネット上で購入することが可能となる。今回私が利用した1日乗車券もネット上で買うことができ、スマホで自動改札機を通過できる

つまりは、このように気を遣わなくて済むようになる

そして自動改札機を使えないゆえの臨時的な措置だろうが、きっぷの回収箱が設置されていた

ある意味、このような暫定的な時期だけの貴重な出会いとなった。訪問は1カ月以上前のことなので、現在は順調に自動改札機の更新が行われていると思われる

こちらはホーム上の時刻表。それほど長い歳月を経たものではないはずだが、横雨や横風、気温の上下に影響されてか、かなり年季の入ったものになりかけている。ちなみに当駅にも駐車場はあることはあるが台数は少ない。隣駅の蓮花寺が大きな駐車場を伴って、当駅からわずか600メートルの場所に移転したこともあってか、2023年の在良駅の1日あたりの利用者数は213人。217人の西別所駅(こちらには駐車場がない)とはわずかな差ながら13駅中最下位となっている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その11 統廃合の新駅には農産物販売所

大泉駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

いかにも新駅らしいホーム

大泉駅に到着。こちらで列車交換を行うダイヤとなっていた。東員駅でも見た広めの島式ホームや上屋の感じがいかにも新駅という雰囲気を出している

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2つの駅を統廃合

当駅は2004年(平成16)に誕生した20歳を迎えたばかりの新駅。「大泉東」「長宮」という2つの駅の間に設けられ、この2駅は廃止された。開業時は単式ホームだったが、1年後に現在の島式ホームとなった

ホームからは構内踏切を介して駅舎に向かうが、この方式も東員駅と同じ。北勢線は古くからの駅をのぞくと、バリアフリー対応が強く意識されている

当駅の住所は「いなべ市員弁町大泉」。もちろん当駅ができるずっと前の話だが、周辺はかつて「大泉村」だった。大谷神社から湧き出る泉の水が万病への薬とされたことで大泉という地名になったという。大泉村は1941年(昭和16)に員弁町となり、現在はいなべ市

農産物販売所を併設

地図で大泉駅を確認すると、周辺には何かがあるというわけではなく、その分、線路沿いを南北に見ると、それぞれ大きめの集落があるが、これが大泉東駅と長宮駅がそれぞれあった場所。両駅とも1914年(大正3)の北勢鉄道1期生(大泉東駅はもともと大泉駅を名乗っていて後に大泉東駅となった)だけに、駅を中心として集落が形成されていた。2つの駅が廃止されたといっても、駅間はわずか800メートルで、それまで両駅を利用していた住民向けの道路も建設された

構内踏切を渡ると駅舎に到着

こちらが駅舎。隣に見える似たような色合いの建物が気になるところだが

全景はこのようになっている。隣にある建物は地元の農産物販売所である「ふれあいの駅 うりぼう」。到着したのは、まだ朝の8時半にもなっていない時間で、間もなくの開店前にお店の方が掃除をしている時間だった。もともとは員弁町役場近くにあったものを当駅が開業する際に移設した。そのため、駅舎とは隣接というよりも、一体化した建物のようになっている

2つの駅を統廃合した新駅は140台以上が利用できる路線内で最大の駐車場を備えていて、パーク&ライドのみならず販売所にも安心して車でつけられるようになったことになる

新駅が誕生してからしばらくは駅員さんのいた時代もあったようだが、現在は無人駅で窓口は閉ざされている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その10 駅を移転したその理由は?

蓮花寺駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

1カ月を経ての再訪

朝7時すぎの桑名駅前。冬至の季節でこの時間でも暗がりが残る。1カ月ぶりに桑名にやって来た

本日は残る北勢線、三岐線の回収である。三岐線は積み残しが出そうだが、北勢線はできれば午前中に全13駅コンプリートとしたい

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駅名の割には無骨な駅舎

前回の訪問が11月19日で今回が12月17日なので、ちょうど1カ月が経った。最初の乗車電は1カ月ぶりに出会うだけで懐かしさを感じてしまうサッカークラブ「ヴィアテイン三重」車だった

その蓮花寺の駅舎。「蓮花寺」という駅名から優雅な駅舎を想像していたが、随分と無骨というか、率直な感想を述べると、あまり「お愛想」のない姿形である

当駅は1914年(大正3)の開業。敷設した北勢鉄道の1期生で路線内では最も長い歴史を持つ駅のひとつ。当時は在良村に所属した。戦後間もなく桑名市に編入された。駅名はもちろん最寄りのお寺に由来する

全国でよく見かける蓮花寺は当地でも健在。周辺は神社も多く古来からの神聖な場所のようだ。旧来からの駅舎が建て直されてこのようになったのかとも思ったが、どうも理由は駅前にあるようだ

駐車場のために駅を移転

歴史を見ると当駅は三岐鉄道移管後の2008年(平成20)に移転している。理由はこちらで

駅前に駐車場のスペースを確保するため。北勢線の駅紹介で何度か紹介してきたが、三岐鉄道移管後、パーク&ライドに沿った駅の統廃合や新駅設置が行われている。駐車場を作るスペースがない駅が廃駅となった例も多い。蓮花寺については、北勢鉄道そして近鉄時代からの小さな駅舎があるだけだったが、阿下喜寄りにある在良地区市民センターの前へと100メートル以上駅を移転させ、市民センターの駐車場をパーク&ライドの拠点としたのだ。駅舎ももちろん新設となった

この移動によって、もともと駅間距離の短い北勢線ではあるが、蓮花寺と在良の駅間はわずか600メートルという距離になった

線路に沿って道路もあるため、徒歩で10分かからないような位置関係となった

単式ホーム構造の駅だが、蓮花寺は周辺の地名にもなっていて、家々が並ぶ新興住宅街でもある。2023年の蓮花寺駅の1日の利用者数は538人。13駅中、7位の数字となっている

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その11 改名で市の玄関口に 朝とは異なる満員電車

西脇市駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

徒歩で向かう玄関口

どこをどう見ても廃線跡の道をてくてく歩く

遊歩道になっているようだ。廃線跡なのだから、歩いていけば現在は西脇市の玄関口となっている西脇市駅に到達するはず、というか必ずたどり着く。地図アプリも必要ない。これほど安心できる道はないのだが、ある種の寂しさを感じるのも、また事実だ

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ゆっくりと西脇市駅へ

昼間の加古川線の西脇市~加古川は1時間に1本の運行で、ほぼ毎時45分発のパターンダイヤに近いものとなっている。徒歩約20分と分かっているので、それに合わせて向かうことも考えたが、せっかく来たのだから、余裕を持って散策しながら行こうと喫茶店を出た。楽しい会話に席を立つタイミングを微妙に外してしまった側面もあるが、1時間に1本の運行があるのだから駅まで行けば後は何とでもなる。同じ加古川線でも西脇市~谷川が遅刻厳禁なのとは大違いだ

廃線跡ばかりを歩くのももったいない気がしたので一般道路も歩いてみる。時間は11時で、もう寒くはない。歩いていると汗ばんでしまうほど。3時間前に霧の比延駅でブルブル震えていたのがウソのようだ

街並みが古くて道路の拡張にも限界があるようで歩道部分が少ない

グーグル地図で表示されるコースは私が歩いたものと、ほぼ同コース。表示されている通り旧西脇駅跡近くのホテルから真っ直ぐ廃線跡の道を歩き、実際はそのまま駅までたどり着くはずだがグーグル先生もうまく道路を見つけられなかったのか、一度一般道に出る案内となっている

駅近くの踏切までやって来た。踏切の名前は「野村第三踏切」で旧駅名の「野村」のまま。野村は地名で

道中、地元の掲示板もあった

駅舎は開業時から?

駅前ロータリーには遊歩道「やすらぎの道」の案内がある。つまり廃線跡。アピカ西脇とはホテルのある旧西脇駅跡のこと

先ほどの踏切の向こうには遊歩道入口がある。右の線路が加古川線の谷川方面だ

西脇市駅は1913年(大正2)の開業。これまで書いている通り、当初の駅名は野村。播州鉄道が西脇まで敷設した際の途中駅だったが、1924年に谷川まで線路がつながった際に分岐駅となり、1990年の鍛冶屋線廃止で西脇駅がなくなったことで「西脇」を引き継いで改名された。ただそうした経緯から当駅は西脇市の代表駅というより、玄関口としての色彩が強い

駅舎は開業時からのものを基礎にしているようだが、入口の三角屋根は西脇市駅になってからのもの

有人駅だが、みどりの窓口は廃止され、みどりの券売機が設置されている。ご覧の通りICリーダーが設置されている。加古川線は加古川から当駅までがICエリアとなっている

構内は分岐駅時代からの名残で2面3線構造と大きい

電車に乗ろうとしたら

駅前には加古川線の利用を促す看板もあった。全くの結果論だが、ここに来て電化して20年の西脇市~谷川の廃線を持ち出すなら、鍛冶屋線の方を残しておいた方が収支としては良かっただろう。もっともその場合は阪神淡路大震災の際にバイパス線として見直されることもなかったし、未だに非電化だった可能性すらあった

西脇市では市の中心部から西脇市駅へと加古川線との接続を考慮したコミュニティバスを走らせているが、万能とは言えず、西脇駅があった30年以上前と単純に比べるわけにはいかないものの鉄路の利用者は減少している。私は一見さんで鉄オタでもあるので廃線跡を楽しく歩いたが、真夏に真冬、雨の日も含め20分も歩くのは現実問題としては大変だ

ただ加古川に至る加東市、小野市の沿線では加古川駅での接続の利便性もあって駅の位置は悪いながらも一定の利用者数はある。神戸市内から小野市の中心部を経由して加古川線の粟生駅でJR、北条鉄道と交わる神戸電鉄は、加古川から新快速に接続するJRにすっかり客を奪われ、廃線の危機を迎えているほどだ

そんなことを考えながら電車の発車時刻が近づいてきたので駅舎に入ると、この日は周辺の高校は一斉に試験日だったらしく、高校生が続々と集まってきた。西脇市駅は市の外れ部分にはあるが、駅伝で有名な西脇工業や西脇高校の最寄りで高校生の利用も多い

加古川線といえば国鉄の103系が原型も分からないほど改造されて走っていることで有名で、103系が走る西脇市~加古川での再会を楽しみにしていたのだが、昼間は125系の単行が主力らしく、この時にやって来たのも125系。途中駅でも高校生を中心に出入りがあり、車内は朝の新快速かと思うぐらいのギューギュー詰め(新快速は12両でこちらは単行だが)

終点の加古川では専用ホームで折り返しとなる加古川線電車を待っていた高校生が入れ違いにドッと乗り込んできた。車内で乗客の数を数えていたのは5時間ほど前。全線で50キロに満たない路線の別々の姿を短時間で見ることになった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その10 廃線の影響を聞く 鍛冶屋線跡も少し紹介

※訪問は2024年12月10日

喫茶店で休憩

西脇駅跡を散策して少し休憩することにする。といっても朝が早かったため、時間はまだ10時にもなっていない。いくら西脇の中心部とはいっても、まだ飲食店は開いていない時間だが、喫茶店はあった

モーニングをいただく。店内は地元の方々でにぎわっていた。いずれも私よりも年配ではないかと思われる皆さんと、お話をしながら西脇の現状などを教えてもらった

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鉄道駅がなくなったことで

古くからの駅には2つのパターンがあって、すでに土地がない、鉄道が嫌われたなどの理由によって町はずれに設置されるパターンと町の中心部に設置され、その後も駅を中心に町が発展してきたパターンに分類される。県庁所在地の駅などは、前者のパターンが多く駅を降りたら何もなくて、あ然としてしまうが、西脇については後者だったようだ。「本町」という地名が駅周辺に残るのもそういうことだろう

ただ駅がなくなって30年以上が経過し、町の中心部は空洞化が目立つようになったという。前記事で年に1回、仕事で必ず西脇を訪れていたことを記したが、いつも車だったと話すと「車なしの生活は無理」と教えられた。廃線時期は全国各地に、いわゆるロードサイド店が広がっていったころで、そういえば西脇周辺での食事も駐車場付きの道路沿いにある店ばかりだった

旧西脇駅周辺は新しい大型ビルやマンションが目立つ。おそらく昭和以前からのものであろう古くからの街並みを抜けると急に目の前にビルが現れるという印象だ。いずれも廃線後に建てられたものであることは容易に察しがつくが、その一角にホテルがあり、1階部分はバスターミナルとなっている

神戸、大阪までのバスも出ているが本数は決して多くはなく、特に神戸行きのバスは少ない。以前は満員のお客さんを乗せていたそうだが、神戸の中心部へ行く際はもっぱら車を利用。三宮の駐車場は料金が高く渋滞が多いので明石や西明石に車を停め、新快速で三宮に出るという。西脇から神戸の西側へは国道175号線があるが整備が進み、途中のバイパス部分も完成して有料自動車道を使用せずともアクセスは容易になっている

途中、神戸市営地下鉄の西神中央駅付近も通るので、地下鉄乗り換えでのアクセスもある。どうして、そんなに詳しいのかというと、道中の三木も含めた西脇へのアクセスをいろいろな方法で試したことがあるからだ

鍛冶屋線の廃線跡

さて文中で鍛冶屋線について何度か触れたが、鍛冶屋線は西脇から北へ伸びていた野村(現西脇市)から鍛冶屋を結ぶ13キロの路線である

もう少し先まで延伸する計画だったが、鍛冶屋駅までで建設は終わった。もともとが播州鉄道という私鉄の手によるもので、他の国鉄線とつなげる予定はなかった。旅客輸送の他にも地場産業の中心だった播州織の生糸を運搬する重要な役割を担っていた

13キロなので車だとすぐに到達してしまう。今から10年前の5月に廃線跡、廃駅跡を回った

10年も経過しているので改めてまた訪問しなければならないと思っているが、当時の写真を少しだけ紹介する

車両が保存され鉄道記念館もある市原駅跡

中村町跡は公園となっていた

そして鍛冶屋駅跡

こちらも車両が保存され公園化している

さて楽しかった喫茶店トークも終わり、そろそろ西脇市駅へと向かうことにしよう。徒歩だと20分ぐらいだとのこと。「一番分かりやすいのはロイヤルホテルの南側の突き当たりを真っ直ぐ進むこと」と教えられた

そこに行くと

「やすらぎの道」とあるが、なんて分かりやすいんだ。これはどう見ても廃線跡である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その9 歴史に翻弄された都市の中心駅は今

旧西脇駅の跡

※訪問は2024年12月10日

新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す

新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい

ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう

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徒歩約20分の道程

加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる

途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる

旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である

西脇駅跡に到着

いかにも中心部の周辺

周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡

こう見ると、なお分かりやすい

会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて

西脇駅の歴史が記されている

運命の分岐点

加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった

ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる

車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある

歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという

鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった

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