秋の乗り放題パス

城端線の全駅訪問を思いつく~最後の駅も昭和26年組で全駅乗降完了

東野尻駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

「おなじみ」のスタイル

東野尻駅に到着。これで城端線のすべての駅を訪問したことになる。「すべて」といっても、高岡を含めわずか14駅しかないし、確実に1時間に1本の列車がやって来る路線なので、難易度は高くはない。駅間も短いところが多く、一部に徒歩を加えれば、あっという間に終わってしまうだろう。もっとも今回は初手が、猛暑の残る9月上旬だったので、とてもじゃないが歩く気はしなかったけど

さて、こちら東野尻駅は単式ホームに待合室のみ、という、ある意味城端線では、おなじみのスタイル。9月に最初に降り立ったの東石黒も同様だった。ちなみに同じ形式の両駅そして越中山田駅は、いずれも1951年(昭和26)の8月10日に開業した同じ誕生日の駅。路線そのものの開業や延伸ではなく、すでにあったわずか30キロの路線の途中駅が3駅も同時に開業するのは、戦後では、なかなかレアである

かつての東野尻村に基づく

待合室は昭和26年組や1956年に開業した林駅で一斉に更新されたもの。周辺には小さな集落と農地が広がる

ただし少し歩くとコンビニや大きなスーパーが国道沿いに並ぶ地域でもある。駅名は1954年まであった東野尻村から。東野尻村があったのだから、野尻村や西野尻村もあったが、今はすべてなくなっている。東野尻村は砺波町に編入されて現在は砺波市

野尻という地名は当時の庄川は今の流れとは異なり、小矢部川と合流していたことによるとされる(2つの川によって造られたのが砺波平野)。重要地域で野尻氏が野尻城を築き、支配していた。もっとも、それは「野尻村」の話で、現在の地域的には福野町に入る。最寄り駅で言うと高儀駅や福野駅。東野尻村は、その名の通り、やや東側に位置した

存続危機を乗り越え三セク移管

ホームと待合所のみの構造だが、1日の利用者は約300人と一定の数がある。砺波工業高校は、砺波駅より当駅の方がやや近く、その利用もあるようだ。ホームには地元の方々の手による花壇があり、彩りを添えている

そんな城端線だが、北陸新幹線の延伸時にはピンチがあった。前記事で新幹線がやって来た代わりに貨物輸送がなくなった記事を書いたが、路線そのものの危機がそれ以前にあった

北陸本線が三セク移管することで氷見線と城端線は高岡で接続する両路線以外は他の在来線と接続しない路線となってしまうことで、一時はJR西日本が城端線のバス転換もしくは運行本数の削減を表明。見方によっては「脅し」のような案だったが、これは地元の猛烈な反対により撤回。路線も運行本数もそのままで運行は維持されているが、このころから鉄路維持の動きが始まり、地元では氷見線との直通運転や電化が検討されてきた。地図を見れば2つの路線はつながっているが、旧北陸本線である、あいの風とやま鉄道のホームを挟んで城端線と氷見線のホームがあるという高岡駅の構造もあって、すぐには直通運転は難しい状況にある。観光列車の「べるもんた」は直通運転を行うが、高岡駅ではロング停車となっている

城端線の各駅で、1日の利用者数が1ケタという駅はない。コロナ禍の2021年のデータでも最小は東石黒駅の48人。2ケタは3駅のみと、非電化ローカル線としては優秀な方である。5年をメドとしている三セク移管までに新型車両の導入も順次行われる

高岡から15・5キロ。次回の訪問はいつになるか分からないが、変わりゆく景色をあれこれ想像しながら、素敵なキロポストを目に焼き付けて城端線を後にした

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城端線の全駅訪問を思いつく~新幹線開業と時を同じくして貨物列車が消えた木造駅舎

二塚駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

この駅をわざわざとっておいた

二塚に到着。1カ月前、青春18きっぷで城端線を訪れた際、2駅だけ残して撤退したのは、こちらをじっくり見たかったから。高岡または新高岡から城端方面へ向かうと、左手方向へ線路が分岐しているのが分かる

これは気になる。調べると、ついこの間まで城端線で唯一の貨物列車が運行されていたとのこと。いつか、じっくり時間をとって訪ねてみたいと思っていた

まずは位置関係

元々は高岡の次の駅が二塚だったが、北陸新幹線の延伸によって、その間に新高岡駅ができた。そのため新高岡までは至近。徒歩でも問題ない。途中に高岡市の運動公園やイオンもある。ちなみに城端線の前身である中越鉄道は、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったため、1897年(明治30)の開業時は黒田仮停車場を設けてとりあえずの起点としたが、仮の起点駅はこのあたりにあった

歴史を感じる駅

古くからの木造駅舎が残る

財産票によると1920年(大正9)からの駅舎。当駅の歴史は移り変わりが大きく、中越鉄道の開業から2年後の1899年、新たに二塚駅が誕生。駅名は当時の二塚村に由来する。鎌倉時代に当地で亡くなった武将の遺言によって2つの貢ぎ物を埋葬したことで二塚の地名になったとされる

だが、この駅はわずか3年で廃駅となってしまう。当時の村の集落から離れていて利用者が少なかったようだ。復活は12年後の1914年(大正3)。停車場として再開業。廃駅となった時も簡易な停車場だった。正式に「駅」となったのは財産票の1920年で、中越鉄道が国鉄に移管された時。その際、現在の駅舎が建てられた。今でこそホームだけの簡易駅は珍しくないが、当時は「駅」というのは偉いものだったのだ

立派なホーローの駅名標が健在である

なお二塚村は戦時中の1942年に高岡市に編入されて自治体としては消滅した

2015年までは貨物駅

分岐線の話に戻ろう

駅そのものは2面2線だが、側線が今も残る。もっともレールがあるだけで列車が走ることはない

跨線橋から眺めると側線は城端線の線路をまたいで左奥に消えていくのが分かる

駅舎を出てそちらの方向に歩いていくと

分岐した線路は左奥へと進んでいき、その先に工場らしきものの煙突が見えるが、それが線路の目的地。中越パルプ工業の二塚工場

経路で隠されてしまっているがグーグル地図にはまだ線路が残っている

工場ができた1957年(昭和32)に専用線が敷かれた。貨物専用線としては新しい部類に入る。この貨物輸送は国鉄からJRになっても続けられ、1日に2往復の貨物列車が当地を走り、2015年まで続けられた。2015年といえば、3月に北陸新幹線の延伸で新高岡駅が開業した年である。時を同じくして貨物列車は臨時列車扱いとなり、半年後に列車そのものがなくなった(正式な貨物駅としての廃止は2017年)

貨物列車の休止とともに二塚駅にも変化が訪れる。駅の無人化だ

駅舎は立派だが、改札にはきっぷの収集箱があるだけ。貨物列車の運行に必要だった駅員さんはいなくなった。同様の事例は高山本線の坂祝駅でもある

駅舎には事務所もあるが、もちろん使用されていない

事務所内にはひょうたんが並んでいた

きっぷの窓口跡に加え、手荷物の受付跡もある。新幹線の開業と新駅の誕生は大きなエポックだが、同時に貨物列車の休止、駅の無人化という小さなポックがあったことを残してくれる駅である

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城端線の全駅訪問を思いつく~終点の城端への再訪からあらためてスタート

城端駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

乗継割引使用で8年ぶりの訪問

1カ月ぶりに城端線にやって来た。今回は「秋の乗り放題パス」を使用。前回、未回収だった2駅を巡り、その後に氷見線の未回収駅を経た上で富山に移動して高山本線の全駅訪問を終了させる(高山本線については先に記事化済み)

ということで

6時30分発のサンダーバード1号で大阪駅を出発

3時間かけて新高岡までやって来た

1カ月前は逆コースで帰宅したが、これだけ来ているのだから、あいの風とやま鉄道にも貢献しようと新幹線ではなくあいの風とやま鉄道で金沢へ

IRいしかわ鉄道との直通に乗車した。料金は870円。この時の乗継割引利用については

この時の記事で。結論からすると新高岡~金沢の特急料金は880円だが、1区間新幹線に乗車しただけでサンダーバードの料金が2400円→1200円になる。通しで乗車券を買えることや、スピードの違いを考えると、この春までは圧倒的に新幹線利用に軍配が上がる。制度そのものもサンダーバードも既にカウントダウンに入っているので、今のうちの利用をおすすめしたい

新高岡から乗車して約40分。終点の城端線で下車。前回の訪問が2015年10月だったので、8年ぶりの訪問となった

あらためて訪問の意味

8年ぶりでも変化は分からなかったが、写真では分かりにくいが、観光用のものも含め、駅名標がズラリ並ぶこの角度はやはりいい

終着駅の風情は全国どこに行っても癒やされる

今回の再訪問は城端駅でじっくり時間をとるためのもの。前回は滞在数分ですぐ折り返してしまう列車に乗ってしまい、慌ただしすぎた

もうひとつ言うと、昨年の今ごろ放送されていたトレビドラマ「最愛」で最寄り駅として城端がいつも登場していたのを見て、また行きたくなった。吉高由里子さんと井浦新さんは、今年の大河ドラマでも共演しているが、最愛ほど接する場面は多くはないようだ

旧城端町の中心駅で観光拠点

途中下車はせず、乗り潰しの人も必然的に下車することになるので、この駅舎は有名だ

財産票によると明治31年。1897年(明治30)に福光駅から当駅まで延伸されて全線開業した際に設置されたが、財産票の情報を信じると駅舎は翌年竣工したことになる。なお城端線の最初の記事でも記したが、城端線の前身となる中越鉄道は最初から当駅を終着駅としたため、未成線ではない

駅の周辺は町の中心部でもある。城端は絹織物で知られ、その輸送も担っての開業だった

駅舎には観光案内所が入居している。窓口は観光協会への簡易委託で、みどりの窓口はないが駅員さんはいるが、こちらも近い将来、無人化されることとなっている

こちらは観光用の駅名標

週末を中心に運行される臨時の観光列車「べるもんた」の出発駅

駅舎内の待合室に掲げられている駅名板はかつて駅舎外に取り付けられていたもののようだ

地味ではあるが、見どころのひとつがホーム上屋にある「海抜123・4メートル」の板。1から4までが順番に並ぶ珍しい数字で、旧字体で書かれた歴史を感じさせる案内板も、わざわざ残されているようだ

城端野市街地を越えると地形は急峻な山々に入っていく。山を越える人々にとっては重要な地域で、この地を巡っては多数の争いが行われたが、数々の為政者がやって来たことで町には多様な文化が持ち込まれ、絹で栄えたこともあって越中の小京都と呼ばれる町が形成された

鉄道ができ、道路が充実すると白川郷を目指すバスの発着地となり、観光の拠点ともなった

ただ道路の充実やコロナ禍でバスで白川郷を目指す導線は高岡駅、新高岡駅が中心になっているようだ。それでもすべてのバスは城端駅を経由する。素通りせずに鉄路とのセットで世界遺産を目指してほしいものである

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~最後の駅は唯一の岐阜市内「所属」

長森駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

43番目の駅に到着

長森に到着。これが高山本線44番目、最後の駅となった。225キロにも及ぶ路線とはいえ、のべ8日とお世辞にも効率の良い周り方とはいえないが、全駅で乗下車のどちらかは行えた。そして岐阜から富山へと長い路線ながら、意外にも岐阜市内にあるのは長森だけだ(岐阜駅は帳簿上の所属としては東海道本線となる)

2面2線のホームの向こうには岐阜市中心部の高層な建物が見えるが、駅周辺は農地が広がる。ちなみに岐阜までの線路の距離は4・2キロと、それなりの距離がある。ただ岐阜駅から東海道本線が直進して高山本線が北上するようなイメージがあるかもしれないが、実際は弧を描くのは東海道本線で高山本線が弧を描くのは鵜沼からだ

長森は平安時代からの地名

開業は1920年(大正9)で、お隣の那加と同じく岐阜~各務ヶ原が開業した際に設置された。一番列車の種別は分からないが、高山本線で最初に歴史を刻んだ駅である

駅の場所はもともとは南長森村。北長森村と同じく1940年(昭和15)に岐阜市と合併、編入となった。長森とは平安時代からの古い地名で、同名の荘園があったという。後に長森城が築かれ、地域の中心となったが、その後に稲葉山城つまり岐阜城へと主役は変わっていった

ただ幕末のころには長森城跡に切通陣屋が造られ、政治の舞台へと返り咲いた時もあったという

切通陣屋は今も切通の住所、駅名(名鉄)が残る。一方、長森については駅を中心に施設名、学校名、店舗名などに広く名を残すが住所としての長森は駅からかなり離れた場所となっている

早々の無人化と簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。以前の形は分からなかったが

財産票を見ると50年近く前に現在の姿となったようだ。「JR」の2文字が見られない。1960年代に無人化されているので、かなり早い。利用者もお隣の那加、さらに蘇原よりも少ない。岐阜からわずか1駅。宅地化が進んだ現在もそうなのだから、50年前は周辺の住宅ももっと少なかったと思われる

おもしろいのは駅名板で丁寧にカバーされている

それでも貨物ヤード跡は岐阜側に残る。岐阜からわずか1駅。どのような貨物が運ばれていたのだろうか

ちょっとした思い出

長森で30分の待機の後、岐阜行きに乗車するわけだが、書き漏らしたお話をひとつ

前日、飛騨小坂に向かう際に乗車したのがキハ25の1だった。武豊線が電化されたことで高山本線のJR東海区間は当該車両が回ってきたこともあって、車両が大きく変わった。「初代」ではあるが、生まれは2011年

本線とはいえ、多くの部分がローカル線となっている高山本線だが、車両はピカピカである。もちろん乗り心地もいい

そして1区間のみ乗車して無事に岐阜到着。takayama-main-line1で始めた記事のURLは最後46までになったしまったが、高山本線については、こちらで〆としよう

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~駅前広場はすぐ名鉄の線路&踏切

那加駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

簡易的な駅舎も三角屋根

蘇原から那加に到着。隣駅が長森、そしてその次が岐阜。つまり当駅を含め、あと2駅で全駅訪問は終了だ。まだ11時前。焦る時間ではないし、カウントダウンに入ったのだから、進んだり戻ったりするのは、もうヤメである。30分間隔の運行なので、蘇原からは1駅進んで30分待機を繰り返すことにした

駅舎は簡易的なもの。かつては木造の三角屋根の駅舎があったが、1998年から現在のものとなった。簡易的なものながら、三角屋根になっているのは、旧駅舎に敬意を表してのものだろうか。このころは簡易的な形になっても、現在各地で見られるバス停型と比べると、それなりの気遣いがあったことが感じられる

ただし駅舎内は小さな待合所があるだけ

開業は1920年(大正9)。高山本線が岐阜~各務ヶ原で最初に開業した際に設置されている。1963年から各務原市だが、当時は那加町

かつてはつながっていた両駅

駅舎を出るとスペースの小ささにちょっと驚かされる

目の前にあるのは名鉄の線路と踏切。その前が道路。駅前の広場は狭く、名鉄の線路を越えないと道路に出られない形になっている

踏切を通過する名鉄の電車。位置関係がよく分かる

名鉄の駅は新那加駅。微妙にずれた場所に位置する

JRと名鉄の線路間が微妙な空間だが、ここは以前、線路が敷き詰められていた場所だった

前記事で蘇原駅について、陸軍飛行場に隣接する工場で働く人のために1942年に設置されたと記したが、1920年の開業時は飛行場の「最寄り駅」は、この那加駅。現在の名鉄各務原線は各務原鉄道という私鉄が敷設したもので、開業は1926年1月。こちらは当初から1917年に開設された陸軍飛行場をターゲットにしていて、駅名も「一聯隊(いちれんたい)前」(現各務原市役所前)、「飛行団前」(現六軒)、「各務補給部前」(現三柿野駅)、「二聯隊前」(現名電各務原)という駅名が並んでいた

国鉄より飛行場に近い場所に敷設したが、軍事関係の貨物を私鉄だけで運ぶわけにはいかない。そこで国鉄との接続駅として選ばれたのが那加駅。各務原鉄道の車庫が設けられ、両社を結ぶ連絡線が設置された。この線路は戦後も飛行場を接収した米軍いわゆる進駐軍が利用したという

名鉄駅はもともと各務原駅

こちらは名鉄のホームから見た新那加駅の入口。新那加駅は地下に改札口がある有人駅で北側つまり那加駅側からも南側からも両方から入れる。かつて連絡線や車庫線があった場所は公園と駐車場となっていて、JRの駅を出て踏切を渡らず駐車場の方に歩いていくと名鉄の入口に達する

ちなみに新那加駅は最初、「各務原駅」としてスタートしている。名鉄(当時は各務原鉄道)の各務原駅は、その後、現在の三柿野駅が名乗り、現役の各務原駅は3代目である

高山本線と名鉄の乗り換えは鵜沼と新鵜沼がメインとなっていて、那加と新那加の乗り換えというのは、あまりない。新那加駅の乗り換え案内も、イオンモールへのバス案内と比べても、かなり控えめ。それでもJRと名鉄の間の空間は、歴史を残している

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~戦時中に開業し、戦時中に村から町へ

蘇原駅の駅名標

訪問は2023年10月20日

ピーク時は有人駅に

上麻生を9時11分に発ち、美濃太田での接続(20分)乗り換えを挟んで蘇原に到着。残るは3駅で時間は10時半前。何度も繰り返しているが、ここまで来ると昼間のこの時間帯でも30分に1本の運行がある

駅舎は簡易的なもので、もちろん無人駅。かつては大きめの木造駅舎があったが、1997年に現在の形となった。無人化はもっと早く、国鉄末期。国鉄からJRへのカウントダウン時に全国で無人化が多数行われた。ただし、派遣という形で駅員さんが滞在する日もある

名鉄の三柿野駅の方が近いが、航空自衛隊岐阜基地でイベントがある日は多くの利用者があるため、臨時駅員が派遣される。元々の蘇原駅はそんな性格の駅でもあった

開業は1942年

高山本線の最初の開業区間は岐阜~各務ヶ原の約13キロで1920年(大正9)で設置された途中駅は長森、那加の2駅だった。その後、1934年(昭和9)に全通開業となったが、蘇原駅の開業は1942年(昭和17)で、当時は戦争のまっただ中

蘇原駅と三柿野駅の間には川崎重工業の岐阜工場があり、航空機が製造されているが、ここは隣接する陸軍飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)の軍用機、戦闘機を製造していた。戦争が始まると軍需が高まって多くの労働者が必要となったため、駅が設置された

ちなみに名鉄の三柿野駅は「航空廟前」、お隣の六軒駅は「飛行団前」という駅名だったが、戦時体制となった際「情報漏れを防ぐ」という理由で現在の駅名へと変更されている

各務原市は1963年に蘇原町など4町が合併して成立した。元々は蘇原村だったが、各務原飛行場が1917年(大正6)に設置されると軍需で町として発展。蘇原駅が開業したころは、工場で働く人がさらに増え、人口も増加したため、1943年に蘇原町となった

現在の駅舎内はガランとしているが、多くの人が利用したため、戦時中の建設にもかかわらず駅舎は大きかった。飛行場があるため、周辺は空襲の対象となり、名鉄の三柿野駅は駅舎が焼失したが、蘇原駅は戦災を免れて残ったという

ホームは2面3線構造ですれ違いだけでなく待避も可能。側線跡も残る

戦後は岐阜市内はもちろん、名古屋方面へのベッドタウンにもなっている。本数が多い名鉄の三柿野駅には劣るものの、2000人ほどの利用がある。その前の訪問が200人にも満たない上麻生だったこともあって、駅前の自転車の数に圧倒された

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~抜けるような秋空と蒸気機関車の展示館

上麻生駅の駅名標

※2023年10月20日

格好いい町の中心駅

上麻生に到着。これで残るは各務ヶ原より南の3駅のみ。30分に1本と運行の多い区間なので時刻表とにらめっこする必要はない。高山本線の私的な各駅訪問では事実上、こちらが終着駅のようなものである

一昨年夏に青春18きっぷで高山本線をトコトコ走った際、上麻生と下麻生の2駅は同じ自治体に存在する駅だと思い込んでいたが、実際は異なっていた。上麻生は加茂郡七宗町、下麻生は加茂郡川辺町と、そもそも「麻生」という自治体が現在はない。元々は上麻生村、下麻生町(村)という自治体が存在したが、戦後10年が経過した「昭和の大合併」で自治体としてはなくなっている。自治体が異なるのだから、コミュニティバスもつながっていない。歩けないものかと考えもしたが

国道沿いの一本道ながら山中を1時間以上歩くのは、できるだけ回避したいと今回の道程となった。もっとも前記事で記した下麻生での長時間停車を発見できなければ、それぞれの駅で1時間以上待つのなら徒歩という手段も脳裏にはあった。グーグル先生は徒歩ルートを検索すると「ほぽ平坦なルート」「高低差27メートル」と実に親切に教えてくれる

上麻生駅のある七宗町は1955年(昭和30)に上麻生村と神渕(かぶち)村が合併。七宗村として誕生。1971年に七宗町となった。読みは「ひちそう」。町の9割を山林が占め、山々を「七宗山」と呼んでいたことから、格好いい町名となった

簡易的な駅舎がポツリ

駅の開業は1924年(大正13)。下麻生から1区間延伸された際に設置。もちろん当時は上麻生村である。その後、2年間にわたって終着駅だったが、それもそのはずでお隣の白川口までは途中に信号場も挟む10キロという長い区間。いかに山中にあるかを物語る。実際、七宗町の町役場最寄りの当駅は七宗町全体で見ると東の端っこ部分にある

そんな上麻生駅の駅舎は簡易的なものである。下麻生駅と同じ時期となる2003年に開業時の木造駅舎が現在の姿となった。駅前の木は現駅舎になった時に植えられたもののようだが、今は駅舎が隠れるようになるほど成長している

裏側から見ると駅はこのような構造

駅名板は美しいステンレスのプレートとなっている

蒸気機関車を丁寧に展示

駅を降りてすぐ目につくのは

SLの展示館。高山本線に乗車していると車窓からとても目立つ。入口には腕木式の信号がある。管理は七宗町が行っているようで、柵に開館は平日の9時から16時で、見学を希望される方は町役場まで連絡してください、と記されていた。私の到着は8時46分で、9時11分の美濃太田行きに乗車する予定でさすがに断念

展示館の前には機関車の解説があった。読むとなかなかの歴史を有していて製造は戦時色の強まった1937年。戦時中の1942年に美濃太田の機関区に来たことは確認できているが、戦災で帳簿が焼失してそれ以前の歴史は不明となっている。終戦間際の1945年5月に小松島機関区に行った後は、平磯、高崎、小郡と「転勤」を繰り返していて、まさに昭和史の証人である。これだけ丁寧に保存されれば、いつまでもきれいなままでいられそうだ

駅に戻る。2面2線構造で跨線橋からの山々が美しい

カーブ状のホームからは抜けるような秋の青空が広がっていた

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~残った2駅の回収方法はアプリさまさま

下麻生駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

残った2駅の難易度が意外と高

各務ヶ原から美濃太田に戻り、当駅始発の下呂行きに乗車。だが、実は大いに焦らされた。順を追って説明していこう

まず美濃太田以北の本数が多い区間で最後に残ったのが上麻生と下麻生の麻生2駅。下呂までの区間は年間通じて発売される週末の1日が乗降自由となる「青空フリーパス」(当ブログでは出場頻度が高い)の区域内で、今回の乗り放題パスや青春18きっぷの季節外でも利用できる。だったら楽勝だろうと昨年4月のGW中にその区間内の回収に出かけたのだが、この麻生2駅を残してしまったことが致命傷になった。隣り合う両駅を効率良く回収するのは意外と難しい。どうやっても両駅で1~2時間の待ち時間ができてしまう上、両駅を結ぶバスもない。歩くのもやや通そうだ

必死で時刻表とにらめっこしても良い案が浮かばない。すると前々日の富山で携帯アプリを見た結果、妙案を発見できた。私は古い人間なんで、基本的には冊子の時刻表派だ。以前にも書いたが、60歳を超えても裸眼で普通に時刻表の文字を読めるのが密かな自慢で、ある意味、うまく読めなくなった時が「潮時」かな、とも思っている

ただ紙の時刻表ではよく見ないと分からない情報がネットの時刻表にはある。駅での停車時間だ。紙の時刻表でも駅間距離の割には所要時間が長すぎることで停車時間の長さを推測することができるが、ネットでは列車別の時刻が表記されていて○分着、○分発が容易に分かる

その結果、8時8分美濃太田発の下呂行きに乗れば、下麻生で15分もの長時間停車があることが分かった。ちょっとしたすれ違いのための停車で駅訪問とするのは私的には基本的に行わないが、15分もあるのなら許してもらおう

ということで前日は16時には駅訪問を止めて早々に夜の街に繰り出すことができた

まさかの同一ホーム前後出発

そして冒頭の美濃太田駅である。駅の電光案内で確認したところ、下呂行きは1番線からの発車。基本的には岐阜行きが使用するホームで、乗車予定の下呂行きの5分前に8時3分の岐阜行きを見送った後、5分後の乗車列車を待っていた。すると駅員さんが近づいてきて「どちらへ?」と尋ねられたので「下呂方面へ」と言うと

「あちらです」

と指差した先にいたのが冒頭の写真の列車。もう発車までわずかな時間しかない。ダッシュ気味で写真を1枚だけ撮って何とか乗り込めた

こう書いていくと「同じホームなのに気付かないはずがないだろう」と思われるかもしれないが、両方の列車は橋上駅舎の階段の前後に停まっていて私の位置からは完全な死角となっていて見えないのだ。おそらく駅員さんも、そのあたりは折り込み済みで、私のような、うっかり人間がいないかどうか毎日チェックしていると思われる。とにかくこちらに乗れないと次の列車は約2時間後の9時55分。実に危ないところで、声をかけてくれたことには感謝しかない

で、車内はこんな感じ(汗)

朝8時の美濃太田駅は岐阜を目指したり、当駅で下車する通勤通学の人であふれているが、逆方向は私を含め3人。しぱらくドアの開かない後ろの車両までチェックしなかったが、同様の光景だと思われる。次の列車が2時間後なのも納得である

広い空間に簡易型駅舎

下麻生に到着。ご覧のように2面3線構造だが、乗車列車は基本的に美濃太田方面が利用する3番線に停車。また雑草の生え方を見ると、登板頻度はそれほど多くはないようだ。後で調べると下り列車が停車するのは、この1本のみのようだ

おかげで跨線橋の昇り降りが生じてしまったが、貴重な体験をしたと言っておこう

駅舎は簡易的なコンクリート駅舎。これだけなら分からないが

広い駅前広場にポツンと簡易的な駅舎。過去の写真を見ると、かなり大きな木造駅舎があって2003年に現在の姿となった

開業は1922年(大正11)。美濃太田から当駅まで延伸された際に設置され、しばらく終着駅だった。1956年まで存在した下麻生町に基づく

下麻生には港があって江戸時代は大いに栄えた

地図で見ると駅から国道41号に出て上麻生方面へと向かうと10分ほどで下麻生の交差点に出て(元々の中心部はこのあたりのようである)、右に折れると公民館と橋があるが、橋の南側の川幅が広くなっている。ここがかつての下麻生湊。飛騨川は急流で岩も多いため船の運航には向いていない。ただ下麻生湊のすぐ上流で弧を描き、川の流れが緩くなった場所が広く、この先は穏やかな流れとなる。その地形を利用して1本ずつ丸太を流し、ここ下麻生湊で回収。木をまとめた上で船やいかだで下流に運ぶ重要な中継地だった。年間25万本もの木材が名古屋方面へと運ばれていたという。この光景は昭和初期まで見られたが、高山本線の開通で役割を終えた

こちらは駅舎内の様子

跨線橋からの俯瞰。当駅は朝に1本、当駅始発列車が、夜に1本、当駅止まりの列車が設定されている。いずれも、この3番線を使用するようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~「正解はどれ?」が有名になりすぎて知名度大幅アップ

各務ヶ原駅に到着

※訪問は2023年10月20日

のべ8日で最終日

朝6時台の美濃太田駅。高山本線全駅訪問も最終日を迎えた。他路線のついでに訪れたような日もあったが、のべ8日目でようやく終了する。順調なら午前中に終わりそうだ

当駅を挟んで岐阜方面と下呂方面では運行本数が大きく異なる。岐阜側は昼間も30分に1本の運行があるが、下呂側は昼間に普通の運行が2時間以上ない時間帯もあり、訪問難易度は大きく変わる。この区間には、まだ未回収の駅もあるが時刻表の関係で、まずは岐阜側の駅を訪問することに

下車したのは3駅目の各務ヶ原

正解はどちら?

当駅は駅名標がクイズ形式(?)である

駅名標にきちんと自治体名を入れてくれるJR東海ならではだが(国鉄時代はすべての駅名標に入っていたが、自治体同士の合併が多く更新が手間になったのかJR東日本とJR西日本には入っていない)、駅名と自治体名で表記が異なることに気付く。「ケ」の存在だ

地名の由来は鏡を作る人々がいた、の「鏡」に基づくという説や、飛鳥時代に見られる「各牟」(かかむ)という地名、人名に基づくなどの説があるようだが、戦国時代から江戸時代には「各務(かかみ)村」ができている

明治以降は今も航空自衛隊で知られる日本で最も古い飛行場である岐阜飛行場が開設されるなどしてきたが、駅の開業は1920年(大正9)。岐阜から当駅までが開業して高山本線の歴史が始まった。飛行場の開設から3年後にあたる

駅名は当時からのもの。ちなみに近くには名鉄の駅もあるが

こちらは「各務原」の表記。こちらも戦前からの駅だが、読みは「かがみはら」だった

他にも市内では「かかみはら」「かがみはら」の呼称がある。同じ漢字でも読みが異なる(米原が有名)のは各地でよく見られるが、文字表記も読みも微妙に異なって複数あるというのは、なかなか珍しい。市の発足は戦後20年近くが経過した1963年で、複数ある呼称を統一しようと「各務原=かかみがはら」を正式なものとし、名鉄はそれに従って漢字はそのままで駅名を「かかみがはら」に変更したが、国鉄そしてJRはそのまま。ちなみに市内にある高校も「各務原高校」(かかみはら)、「各務原西高校」(かかみがはら)、と県立高校の読みが微妙に異なる

このような状況はメディアとしては格好の題材で、しばしば特集として取り上げられ、航空自衛隊の存在や東海北陸自動車道のインターチェンジの存在もあって都市の知名度は大幅アップ。本来は難読駅であるはずの当駅も難読駅ではなくなっている

簡易的な駅舎だが古い待合室は現役

駅の利用者は本数が多く、岐阜経由だけではなく犬山経由でも名古屋につながる名鉄が勝っていて現在の各務ヶ原駅はコンパクトな無人駅となっている。古い駅舎は国鉄時代の1978年に大がかりな改修工事が行われ、レストランが入居。駅の目の前は交通量の多い国道21号で大いに期待されたが撤退。その後に入ったコンビニも撤退したため、その後にテナント部分が撤去され現在の姿になった

駅舎内はガランとしている

かつては貨物輸送もあったが、現在の側線は保全車の車庫となっているようだ

周辺は住宅街で無人駅の特性で駅舎と逆側からもホームに入れるようになっていてICリーダーが設置されている

いろいろ姿を変えた駅だが、駅舎と逆側のホームには待合室だけは古いものがしっかり残っていて

クモの巣と「同居」しているようだが、こちらは開業時からの建物のようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~地元の愛情が詰まった駅舎もない駅は読み方注意

飛騨宮田駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

紅葉の美しさに触れつつバス停を目指す

飛騨小坂駅前の商店街から駅を見る。次はお隣の飛騨宮田駅訪問だが、レールとしての距離は3・4キロながら飛騨川を渡ってから進まないとたどり着かないので、歩くと1時間はかかりそう。次の列車までの時間はたっぷりあるが、ちょうど良い時間のバスがありそうなので、ここはバス利用。ただし高山~下呂を1時間に1本の頻度で走る便利なバスは駅の近くまでは来ず、停留所は川を渡った旧町役場方面にある

立派な彫刻付きの橋を渡る

川と紅葉のコントラストが美しかった

昼食はコープのおにぎり

道中コンビニはなかったが、コープはあった(事前に調べていたが)

地元産のおにぎりセットとお茶を買ってお昼としたが、後の報道でJAひだが経営するコープ11店のうち10店が閉店することを知った。地元の方にとっては辛い発表だったと思う。地方におけるスーパーは車で郊外店を目指すという形態にどんどんシフトしつつある

小坂町の停留所からバスに乗り

わずか5分で宮田停留所に到着。短い乗車だったが途中の道路は坂もあって、これはバスが正解だった。こう見ると最近はバス停も駅舎も区別がつかなくなっている(笑)

住民の思いに触れる

徒歩5分ほどで飛騨宮田駅に到着

駅舎はない。単式ホームと待合所があるのみ

高山本線のJR東海区間では唯一、駅舎のない駅だが

駅の解説板には当駅に対する地元の方々の思いが詰められている

開業は戦後の1955年(昭和30)で現在で言うところの請願駅だ

駅のあちらこちらに住民の思いがちりばめられている

高山本線のJR東海区間では唯一、開業時からの単式構造が変わっていない駅でもあるが、駅及び駅周辺はきちんと手入れが行われている

現在は下呂市だが少し前までは萩原町。明治半ばまでは宮田村も存在していた。お手洗いも設置されているが、これは地元自治体によるものだろう

見逃せないポイントがもうひとつ

今も残るホーローの駅名標。残された経緯については分からないが、ホームの電柱にしっかりと貼り付けられていた

さて、ホーローそのものがかなり傷んでいて。文字が読みにくくなっているが、駅名は「ひだみやだ」である。駅の住所も下呂市萩原町宮田だが、もちろん「みやだ」。ちなみに先に立ち寄った飛騨小坂駅は「ひだおさか」。高山本線は濁音の生むが難しい駅が多いが、こちらもそのひとつである

これで下呂以北の駅はJR西日本区間の富山まですべて訪問を終えた。ようやくカウントダウンとなったが、美濃太田~下呂には未回収の駅が2つあり、ここが意外と難所である。そちらを訪問するため、といっては変だが、本日はここまで。宿のある美濃太田へと向かう(と言っても1時間半かかる)ことにする

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