125系

若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~お腹いっぱいの大満足でした

※訪問は2025年3月26日

待ち時間を有効に

こちらは東小浜駅の時刻表。朝の通勤通学時間帯にそれなりの本数があって、しばらくお休み。正午ごろに1往復だけあって、また夕方までお休みというローカル線の典型的なダイヤとなっている。それでも14時台から動きがあるのは、本数の多い方だ。沿線には高校が複数あり、それに対応したものだと思われる

今から12時20分発の東舞鶴行きに乗車するが、2時間の空きは有効に利用しよう。ふだんの駅訪問では列車のダイヤ優先で時間がなければ、コンビニおにぎりやコンビニ惣菜パンでやり過ごすのがスタイルだが、時間もちょうど良いのでどこかでランチとしよう。そういえば朝の7時に長浜から電車でやって来たが、それこそ朝食は長浜駅近くのコンビニで買ったおにぎりのみだ

その後のダイヤも調べると、「若狭○○」が3駅続く若狭本郷、若狭和田、若狭高浜の3駅のどこかが候補になるが、若狭和田に決定。駅前の規模は本郷と高浜だろうが、各駅訪問には若狭和田が良さそうだ。コンビニが駅近くにあることは確認しているので、最悪何も口にできないということはない

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ピースフルな駅舎

約30分で若狭和田駅に到着

ご覧の通り、単式ホームのみの構造

駅前には「WADA BEACH」の文字。若狭和田海水浴場の最寄り駅。もともとの駅の設置理由が海水浴客向けで、1922年(大正11)の小浜線全線開通から3年後の1925年に仮停車場として設置された。当時の所在地は和田村。正式な駅となったのは昭和に入った9年後である。和田村は1955年(昭和30)に高浜町となった

若狭地方は関西圏からの海水浴客でにぎわい、小浜線も重要なアクセスを担っていた。私も幼少期に若狭まで両親に連れられ海水浴に来たことがある。1960年代終わりごろの話で、どこの海水浴場に行ったのか全く記憶にないが、交通手段はもちろん鉄道である。すでに世の中は車社会に突入していたが、自動車専用道などは数えるほどしかなかった時代。マイカーは浸透しつつあっても、道路というハード面が不備だったので、もちろん長距離バスもなく、アクセス手段はまだまだ鉄道が優勢だった

そして駅舎。観光案内所「ピースフル和田」が併設されている。開業時代からの駅舎がずっと残っていたが、2005年(平成17)に現在の駅舎となった。おしゃれな洋風である。小浜線の電化は2003年。路線内の駅舎の多くはこのころに変化している。現在各地で見られる簡易化ではなく、むしろ立派なものとなった。電化も駅舎の改築も原子力発電所によるものが大きいが、小浜線を語る上で避けられないものなので、どこかでまとめたいと思う

地元の繁盛店で大満足

10分ほど歩いたうどん店で、うどんとカツがセットとなった定食。地元の有名店らしく平日の13時を過ぎた時間でもお客さんは多く、私ももちろん大満足

駅前の漁港を眺めながら駅に戻る

駅舎内の待合室の様子と、こちらは到着時の窓口の様子

訪問時は自治体への簡易委託駅だったが、いずれは無人駅になる予定だという。並びの様子を見ると、そうなのかなぁ、と思ってしまうが、おなかいっぱいの満足感とともに次の駅を目指そう

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~京都府唯一の駅は登録有形文化財

※訪問は2025年3月26日

1時間半の待機

松尾寺駅の時刻表。9時37分に到着して11時13分の敦賀行きで折り返す。1時間半の待ち時間があるが、それぐらいは滞在しないと、とこちらの駅については最初から思っていた

いくつかのトリビア

時系列は前後するが

ホームから階段を降りていくと、雰囲気のある木造駅舎が出迎えてくれる

あらためて駅舎。1922年(大正11)からの駅舎が健在。当駅はいくつかの「トリビア」を持つ駅でもある

まず読みは「まつのおでら」である。初見だと「の」はなかなか出てこない。そして松尾寺駅の最寄りということで駅名がつけられているが、名刹松尾寺は

駅から山を登ること、徒歩約1時間の場所にある。公共交通機関はなくタクシーもしくはマイカーでの訪問が一般的なようだ。駅の開業した大正時代はマイカーという概念はなく、現在とは徒歩に対する価値観は異なる。当時は立派な最寄り駅だった

そして駅の所在地は京都府舞鶴市。終着駅の東舞鶴は、帳簿上は舞鶴線の所属となっているので小浜線唯一の福井県にない駅となっている

そして駅舎は

登録有形文化財となっている。登録有形文化財の駅舎は全国に多数あるが、JRの駅というのは駅数を考えるとかなり少ない。登録有形文化財になってしまうと、自由に建て替えができなくなってしまう。立派な駅になるならいいが、ローカル線の現状は駅舎の建て直しは、ほとんどが簡易駅舎への転換である

舞鶴市に譲渡された駅舎

当駅の駅舎も取り壊しの危機があったが、地元から駅の保存を求める声が上がり、2008年に舞鶴市へ無償譲渡される形で決着。改修工事を経て現在のものとなった。古い駅舎の自治体への譲渡という話題が出ることがよくあるが、簡単なことではない。引き受けたからには、税金も含む駅の維持費を捻出する必要がある。利用の少ない駅がほとんどで、松尾寺駅の2022年度の1日あたりの利用者数は54人。自治体の住民のほとんどが利用しないわけで、予算の捻出に自治体も理由付けが必要となるため、JRからの譲渡の申し入れを断るケースや、後に維持をあきらめるケースが多い。国鉄の施設をそのまま受け継いだ三セクの駅に登録有形文化財が多いのは、そんな理由もある

駅舎内外はきれいに改修れていて

昔からのものが、そのまま残る

貨物で栄えたことを示す黒板が残るが、金額が記入されていたのだろうか。ただ一般の旅客に見えるように掲示するものではないので、駅舎に眠っていた業務用のものがこうやって掲示されていると思われる

駅舎内にはカフェが入居している。舞鶴市はお茶の名産地としても知られ、日本茶カフェ「流々亭(るるてい)」

お茶の販売も行われていて

舞鶴の茶葉を利用した紅茶を土産に買って抹茶ラテを味わう。営業時間は10時から17時で日・月曜日が定休日。「私のSNSで紹介させてください」と、お願いしながら掲載まで9カ月も要してしまい、申し訳ありませんでした

ユニークなバス停

駅の周辺も歩いてみよう

駅から国道27号までは歩いてすぐ。店舗の跡があった

バス停があった。小浜線の若狭高浜駅から東舞鶴駅を結ぶ府県境をまたぐバスが運行されていて、松尾寺駅近くを通る

停留所の建物では、視力検査ができるようになっていた

バス停の向かいには

どう見てもコンビニの跡。背後に駅が見える。コンビニが現役だったら、さらに時間を潰せる神駅だったかもしれない

あっという間の1時間半だった。ラッチを眺めながらホームに戻ることにしよう

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~まずは2時間近い乗車

※訪問は2025年3月26日

125系で出発

東舞鶴行きに乗車して出発である。小浜線で使用される車両は125系のみ。電車車両の125系は小浜線と加古川線のみしか運用に入っていない。後に詳しく触れたいが、2003年デビューと新しい車両でありながら、寂しさも漂う車両である

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メインディッシュを先にいただく理由

目指すは松尾寺駅である

どこにあるかというと

敦賀からはるか彼方78キロも先。東海道本線の大阪から姫路までが87キロなので、姫路市内に入るぐらいの距離を進むことになる。もちろん新快速はおろか快速もないのでトコトコ進むのみ。1時間50分もかかる。さらに言うと松尾寺駅は終点の東舞鶴のひとつ手前。小浜線は敦賀と東舞鶴をのぞくと全22駅。つまり21番目の駅となる。途中の駅がいくらでもあるだろうと思われるかもしれない。私もそうしたい。だが、そうはさせてくれない理由がある

こちらが敦賀駅の時刻表。私が乗車するのは7時49分の東舞鶴行き。その後の列車はというと、9時50分の小浜行きがあるように見えるが、そこには「土休日運転」と注釈がある。つまりこの後は3時間半ほど運行がないのだ。朝の通勤通学時間帯を過ぎると、お昼に1本運転があって、またしばらくお休み。逆方向も同様の運行体系なので、途中駅で降りてしまうと3時間ぼんやりすることになる。もうひとつ言うと、松尾寺駅は小浜線のメインディッシュ。この駅では多めに時間を確保しようと思っていた。それらの条件を合わせていくと、最初の選択は松尾寺駅の一択となってしまうのだ

若狭湾の絶景を見ながら電車は進んでいく。小浜線に乗車するのは2016年10月以来9年ぶり。その時は京都から山陰本線に乗り、福知山から東舞鶴を経て小浜で遅い昼食をとって帰宅した。前日や翌日の活動記録がないので、どのようなきっぷを利用をしたのか全く記憶にない。ひとつ言えるのは下車したのは小浜のみだったということだ

荒涼とした敷地とスノーシェッド

1時間50分かけて松尾寺駅に到着。見れば分かるが、かつてはすれ違い可能な構造だった

荒涼とした空き地と線路跡が残る

そして今は使用されていないスノーシェッドも。駅名から風光明媚なものを感じるが、かつては軍事路線その後は貨物の重要駅だった歴史を有する

6番線まであった構内

松尾寺駅は1922年(大正11)の開業。若狭高浜~新舞鶴(現東舞鶴)が開通して小浜線が全線開業した際に設置された。駅名は同名のお寺から

戦時中の1943年(昭和18)に転機が訪れる。当駅から海にかけて線路が敷設された。路線名は「第三海軍火薬廠鉄道側線」。随分おどろおどろしい名前だが、火薬工場への線路である。終戦を迎えると工場は連合軍に接収されたが、やがて舞鶴市へ返還。そこに日本板硝子舞鶴工場ができ、火薬を運んでいた線路は、そのまま工場と小浜線を結ぶ専用線となった。当駅は貨物駅として栄えた

こちらは駅舎内に張られていた当時の構内図。工場図に昭和61年11月1日現在とある。松尾寺駅の貨物線が旅客用の1、2番線とは別に3~6番線まであったことが分かる。昭和61年11月といえばJR移管の半年前。この貨物輸送はJRになっても続けられ全盛期は国鉄時代は福知山鉄道管理局で最大の貨物量だったという。1990年代に入って鉄道による貨物輸送は終わり、トラック輸送へと転換。工場は今も現役だ

ホーム近辺の探索は終わり、ようやく駅舎の外に出てみる

なんとも美しい木造駅舎がそこにあった

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線の小浜線を行く~青春18きっぷの出番

※訪問は2025年3月25日

名古屋折り返しの長浜泊

今回の旅のお供は青春18きっぷ。利用方法が変わって3日間の予定を立てた上で行動しなければならないが、最初は新快速に乗車して

米原ダッシュにチャレンジ。幸いにも車内は余裕があり、無事に着席。名古屋での用事を済ませ

再び米原へと向かう。写真を見て気づいたのだが、3月終わりの名古屋の18時はこんなに明るい

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敦賀まで行ければ良かったが

米原到着は19時10分。夕方以降の時間帯は大垣乗り換えのない米原直通があるので楽である。対面乗り換えで大阪方面への新快速に乗車するお客さんが多い中、私は北陸本線に乗り換え長浜で下車

というか長浜止まりである。12両でやって来た新快速はここ米原で8両を切り離し、4両編成の「新快速という名の各駅停車」となって敦賀方面へと向かう。その逆は数え切れないほど乗車したが、編成が一気に減る方面へは乗車回数が少ない。夜という時間もあって、ちょっと寂しい

今回の旅の目的は小浜線だ。敦賀と東舞鶴を若狭湾に沿って走る84キロの路線

もちろん乗車したことはあるが、小浜駅以外の駅で降りたことはほとんどない。途中駅の22駅を訪問する。前日入りなら、敦賀で宿泊するのが利便性に富むのは言うまでもないが、このころの敦賀駅近辺のホテルはおそろしく高かった。新幹線の敦賀延伸に合わせてチェーン店ホテルが進出しているが、まだ供給が追いつかないようだ。敦賀は仕事で随分訪れた場所で(といっても20年以上前だが)、当時のイメージは敦賀のホテル=安いだったが、今や全く事情が異なるようだ

ただ長浜に宿泊したことで、私的に前身したことがあった。全国47都道府県で宿泊したことのないのは山梨と滋賀の2県だったが、これで王手となった。近畿2府4県の宿泊は、ほとんどが日帰り圏のため、以外とハードルが高い。兵庫、京都は日本海側に泊まり、奈良は十津川温泉に泊まった。大阪は四国勤務時代は出張の地だった。新快速という便利な乗り物で直結している滋賀県は、なかなか宿泊の機会が生まれなかった

遅い出発になってしまったが

翌朝は長浜駅からスタート。有名な豊臣秀吉と石田三成の出会いの銅像を見て

7時2分の敦賀行きに乗車。鉄オタにしては随分遅い出発と思われるかもしれないが、敦賀で小浜線に乗り継ぐことを前提にすると、これが始発になってしまうのだ。5時50分、6時20分とこれより早い列車が2本あるが、結局は7時2分に収束してしまう

敦賀着は7時41分。この列車は小浜線との接続を考慮したもので、7時49分の東舞鶴行きに連絡している。小浜線の専用ホームにはすでに電車が待機している。ちょっと遅い時間となったが、小浜線の各駅訪問スタートである

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その7 「唯一」の立派な駅舎で寒を凌ぐ

黒田庄駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

寒さで予定変更

比延駅から2駅谷川方面へと戻り黒田庄駅で下車。ここで降りたのには理由がある。寒さに耐えられないと思ったからだ

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元々は本黒田の予定

もともとはもうひとつ向こうの本黒田に行く予定だった。というのは西脇市~谷川の間にある7駅で本黒田が最も利用の多い駅だからだ。といっても1日の利用者数は本黒田が72人、黒田庄が32人と2ケタ止まりだが、他の駅が20人を下回っていることを考えると多い数字だ

しかし本黒田に向かうに際して問題は、はっきり書くと生理現象である。7駅とも訪問したことはあるが、黒田庄以外の駅でお手洗いの存在に全く自信がない。冷えてきたので熱い缶コーヒーを、とも思うが、それもお手洗いあってのものである

その点、黒田庄駅は立派な駅舎を持つので、その点は安心して降りることができる

8時33分に到着して9時16分で西脇市方面へ向けて出発するので40分以上の滞在時間があるが問題ない

西脇市~谷川で多くの駅が簡易化される中、当駅は2005年(平成17)に開業以来の駅舎に代わって新たな駅舎へと生まれ変わった

電化、新駅舎そして合併

黒田庄駅は1924年(大正13)の開業。播丹鉄道が設置した。周辺の駅とともに昨年100歳の誕生日を迎えた

電車を降りると100周年の看板がお出迎えしてくれる

駅舎内には今も黒田庄町時代の地図が残されている。開業時の所在は黒田庄村。戦後に黒田庄町となり、2005年に西脇市と合併した。加古川線の電化は2004年なので、電化の後に新駅舎が誕生。間もなく西脇市となったという移り変わりの激しい1年半を過ごしたことになる

黒田官兵衛とも深いつながり

地名で想像できるように当地は黒田官兵衛で知られる黒田氏とのつながりが深い町でもある。当の官兵衛の生まれについては姫路説、黒田庄説とあるようだが、黒田庄にある荘厳寺(しょうごんじ)は、黒田家そして官兵衛ゆかりの寺として知られる

駅の周辺はかつて町役場が置かれていた。一方、黒田の地名が残るのは本黒田駅周辺となっている

駅前にはロータリーがあるだけで自販機はないが、歩いてすぐの県道まで行けば古くからの街並みが広がり商店もある。かつて訪問した時もこのあたりまで歩いて自販機のお世話になったので、知識はある。熱い缶コーヒーを買って駅へと戻る。霧も晴れてきた

駅舎は正確に言うと駅の機能を果たしているのは片側の部分で主な部分は交流施設「あつまっ亭」となっているが、吹きさらしよりとは格段に違う

すっかり自然に還りつつあるが、かつての貨物ヤードも姿をとどめる

「加古川線を残そう」のポスターも

西脇市~谷川は、かつて交換施設のあった駅もすべて棒状化され、列車のすれ違いはできない。当駅もそのひとつだが、こちらはかろうじて線路だけは残されていて使用されなくなったホームもそれなりに整備されている。「いざ」に備えて復活の余地を残しているのだろうか。そう感じてしまった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その6 由緒ある地名

比延駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

※動画あり音声注意

あらためて比延駅

比延駅の紹介をあらためてしよう

なかなかの難読だが、由緒ある地名となっている

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シカの鳴き声から

時は4世紀から5世紀のころ。西脇市HPによると、当地に狩りに訪れた応神天皇がシカが「ヒヒ(比比)」と鳴いたことを哀れに思い、狩りそのものを中止したことで、狩り場となった山を「比延山」と名付けられたことに由来する

駅の開業は1924年(大正3)。播丹鉄道が野村(現西脇市)~谷川を開業させた際に設置された。当時は比延庄村。戦後の1952年(昭和27)に西脇町などと合併して西脇市が成立。自治体としての「比延」は終了した

現在は簡易駅舎というより、ベンチと屋根があるだけの停留所のような風貌で風はもちろん、横殴りの雨でも防ぐことはできないが、数年前までは由緒ある名前にふさわしい立派な駅舎があった

そのことを物語るかのように敷地は広い。足下はきれいにされていて、駅というより公園のようなたたずまいとなっているのが逆に寂しさを募らせる。背後に桜の木が見えるが、駅の開業時に植えられたものらしく、木の成長とともに100年間、当駅を見守ってきたことになる

駅周辺は住宅街そして旧比延庄村の中心地が広がる。駅の裏手には播州織工業協同組合があり、加古川を渡った場所にはコンビニもあり、周辺人口は比較的多いように見えるが、2023年の1日の利用者数は16人と、やや寂しい。私がここまでやって来た電車でも乗ってきたのはわずかに1人で高校生はいなかった

寒い寒い

現在は単式ホームだが、かつては列車交換が可能だったことを示すように対抗ホームが残っている。深い霧に包まれた8時過ぎはさすがに身体の芯から冷える

こちらは時刻表。谷川から西脇市行きに乗車して8時5分に到着。8時26分の谷川行きに乗車して、せっかくだからもう1駅降りてみよう。再びここへ9時22分に来る西脇市行きで西脇市の中心部を目指す。で、その後はというと、時刻表で分かる通り、本日はもう無理である。とにかく寒い。風がないのは幸いだが、それでもこれだけ寒いのは、かなりの低気温でスマホで確認すると2度だという。駅舎(というのか)は寒さを凌ぐ空間が全くないので20分の待機時間が1時間ぐらいに感じる

深い霧に超簡易駅舎、失われた対抗ホームと体感をさらに下げる要素が多い

遠くでかすかに列車の音が聞こえてきた。静寂すぎると小さな音でもよく耳に入る。出発の数分前に1人の乗客がやってきた。私よりは若そうだが、それなりの年の男性で今から通勤のようだ。実は「もう1駅」は別の駅を考えていたが、こうも冷えるのでは予定変更である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

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大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

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