※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

広大な側線が広がる

東藤原から1駅戻って伊勢治田で下車

ご覧のように広い測線がホームの前に広がる。東藤原駅では収まらない貨物列車や旅客車両が留置されているようだ

微妙に尺が足りなくなっているホーローの駅名標にそそられる

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沿線で唯一「伊勢」の付く駅

「治田」と書いて「はった」と読む。知り合いに同名の名前がいないとなかなか読めないが、全国にはところどころある名前と地名で滋賀県から山を越えて三重県まで地名、人名とも分布している。各地とも田んぼの開墾に由来しているとされるが、三岐線の沿線には三重県のいたる所で見られる「伊勢○○」という駅はここだけ。開業時の1931年(昭和6)にあった治田村に由来するが、県内では伊賀市の奈良県との県境あたりに治田という地名があり、名阪国道には治田ICがある。県内での重複を避けるために「伊勢」という国名が付けられたのだろう。そういえば伊勢鉄道には「伊勢上野」という駅がある

「たたずむ」という表現がピッタリの駅舎がある。手は入っているが、おそらく開業時からのものと思われる。駅からすぐの場所が旧治田村の中心地。1日あたりの利用者数は328人(2023年)で14駅(近鉄富田のぞく)中8位。治田村は1955年に北勢町の一部となり、現在はいなべ市である

三岐線の駅に共通することだが、古い駅舎は少しずつ付け加えられていったと思われる手作りの文字や備品が多い。注意書きひとつを見ていても楽しくなる

治田には室町時代に治田氏によって築かれた治田城があったが、織田信長に攻められて降伏。その後、廃城となり現在は遺構のみが残る

当地が脚光を浴びたのは江戸時代に入ってすぐのことで銀や銅が採掘される治田鉱山が開発され、幕府の直轄領となった時代もあった。その後に当地を領有したのは八田藩だった(治田とは表記しなかったようである)。鉱山があったことも含め、滋賀県へつながる治田越えは鉱物の運搬も含め重要な道路だったが、鉱山の没落とともに重要性は薄れ、道路は現在に引き継がれていない。また近年の水害によって鉱山跡も土砂に埋まってしまったという

鉱山から引き継がれたもの

留置線には貨物車が留置されていたが、時系列的にいっても先ほど東藤原駅で目の前を通り過ぎていったものだろう

ホームへは構内踏切を経て入る。1面2線の島式ホームとなっている

さて歴史に埋もれてしまった感のある治田鉱山だが、現代でしかも誰しもが知る存在へとつながっている。鉱山の管理を任されていたのが岡田氏。この時点でピンと来る人もいるかもしれないが、鉱山管理で財をなした岡田氏が始めたのが四日市の呉服商「岡田屋」。後にスーパーのジャスコになる。ジャスコがイオンの祖であることはご存じの通り。駅の待合所で調べていて歴史が紡がれていることを知り、ちょっと感慨深かった

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