125系

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その7 「唯一」の立派な駅舎で寒を凌ぐ

※訪問は2024年12月10日

寒さで予定変更

比延駅から2駅谷川方面へと戻り黒田庄駅で下車。ここで降りたのには理由がある。寒さに耐えられないと思ったからだ

スポンサーリンク

元々は本黒田の予定

もともとはもうひとつ向こうの本黒田に行く予定だった。というのは西脇市~谷川の間にある7駅で本黒田が最も利用の多い駅だからだ。といっても1日の利用者数は本黒田が72人、黒田庄が32人と2ケタ止まりだが、他の駅が20人を下回っていることを考えると多い数字だ

しかし本黒田に向かうに際して問題は、はっきり書くと生理現象である。7駅とも訪問したことはあるが、黒田庄以外の駅でお手洗いの存在に全く自信がない。冷えてきたので熱い缶コーヒーを、とも思うが、それもお手洗いあってのものである

その点、黒田庄駅は立派な駅舎を持つので、その点は安心して降りることができる

8時33分に到着して9時16分で西脇市方面へ向けて出発するので40分以上の滞在時間があるが問題ない

西脇市~谷川で多くの駅が簡易化される中、当駅は2005年(平成17)に開業以来の駅舎に代わって新たな駅舎へと生まれ変わった

電化、新駅舎そして合併

黒田庄駅は1924年(大正13)の開業。播丹鉄道が設置した。周辺の駅とともに昨年100歳の誕生日を迎えた

電車を降りると100周年の看板がお出迎えしてくれる

駅舎内には今も黒田庄町時代の地図が残されている。開業時の所在は黒田庄村。戦後に黒田庄町となり、2005年に西脇市と合併した。加古川線の電化は2004年なので、電化の後に新駅舎が誕生。間もなく西脇市となったという移り変わりの激しい1年半を過ごしたことになる

黒田官兵衛とも深いつながり

地名で想像できるように当地は黒田官兵衛で知られる黒田氏とのつながりが深い町でもある。当の官兵衛の生まれについては姫路説、黒田庄説とあるようだが、黒田庄にある荘厳寺(しょうごんじ)は、黒田家そして官兵衛ゆかりの寺として知られる

駅の周辺はかつて町役場が置かれていた。一方、黒田の地名が残るのは本黒田駅周辺となっている

駅前にはロータリーがあるだけで自販機はないが、歩いてすぐの県道まで行けば古くからの街並みが広がり商店もある。かつて訪問した時もこのあたりまで歩いて自販機のお世話になったので、知識はある。熱い缶コーヒーを買って駅へと戻る。霧も晴れてきた

駅舎は正確に言うと駅の機能を果たしているのは片側の部分で主な部分は交流施設「あつまっ亭」となっているが、吹きさらしよりとは格段に違う

すっかり自然に還りつつあるが、かつての貨物ヤードも姿をとどめる

「加古川線を残そう」のポスターも

西脇市~谷川は、かつて交換施設のあった駅もすべて棒状化され、列車のすれ違いはできない。当駅もそのひとつだが、こちらはかろうじて線路だけは残されていて使用されなくなったホームもそれなりに整備されている。「いざ」に備えて復活の余地を残しているのだろうか。そう感じてしまった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その6 由緒ある地名

※訪問は2024年12月10日

※動画あり音声注意

あらためて比延駅

比延駅の紹介をあらためてしよう

なかなかの難読だが、由緒ある地名となっている

スポンサーリンク

シカの鳴き声から

時は4世紀から5世紀のころ。西脇市HPによると、当地に狩りに訪れた応神天皇がシカが「ヒヒ(比比)」と鳴いたことを哀れに思い、狩りそのものを中止したことで、狩り場となった山を「比延山」と名付けられたことに由来する

駅の開業は1924年(大正3)。播丹鉄道が野村(現西脇市)~谷川を開業させた際に設置された。当時は比延庄村。戦後の1952年(昭和27)に西脇町などと合併して西脇市が成立。自治体としての「比延」は終了した

現在は簡易駅舎というより、ベンチと屋根があるだけの停留所のような風貌で風はもちろん、横殴りの雨でも防ぐことはできないが、数年前までは由緒ある名前にふさわしい立派な駅舎があった

そのことを物語るかのように敷地は広い。足下はきれいにされていて、駅というより公園のようなたたずまいとなっているのが逆に寂しさを募らせる。背後に桜の木が見えるが、駅の開業時に植えられたものらしく、木の成長とともに100年間、当駅を見守ってきたことになる

駅周辺は住宅街そして旧比延庄村の中心地が広がる。駅の裏手には播州織工業協同組合があり、加古川を渡った場所にはコンビニもあり、周辺人口は比較的多いように見えるが、2023年の1日の利用者数は16人と、やや寂しい。私がここまでやって来た電車でも乗ってきたのはわずかに1人で高校生はいなかった

寒い寒い

現在は単式ホームだが、かつては列車交換が可能だったことを示すように対抗ホームが残っている。深い霧に包まれた8時過ぎはさすがに身体の芯から冷える

こちらは時刻表。谷川から西脇市行きに乗車して8時5分に到着。8時26分の谷川行きに乗車して、せっかくだからもう1駅降りてみよう。再びここへ9時22分に来る西脇市行きで西脇市の中心部を目指す。で、その後はというと、時刻表で分かる通り、本日はもう無理である。とにかく寒い。風がないのは幸いだが、それでもこれだけ寒いのは、かなりの低気温でスマホで確認すると2度だという。駅舎(というのか)は寒さを凌ぐ空間が全くないので20分の待機時間が1時間ぐらいに感じる

深い霧に超簡易駅舎、失われた対抗ホームと体感をさらに下げる要素が多い

遠くでかすかに列車の音が聞こえてきた。静寂すぎると小さな音でもよく耳に入る。出発の数分前に1人の乗客がやってきた。私よりは若そうだが、それなりの年の男性で今から通勤のようだ。実は「もう1駅」は別の駅を考えていたが、こうも冷えるのでは予定変更である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

スポンサーリンク

大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります