石川駅

2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~苦難の雪中徒歩をしつつ大鰐線の歴史も

※訪問は2025年3月10日

地図を見て二兎を追うことに

石川駅構内の手製地図。大仏公園への道順が示されている。次の大鰐行きまで1時間、中央弘前行きまで50分の時間がある。大仏公園とは旧石川城跡のこと。石川は地域の要衝で戦国時代まで激しい攻防が繰り広げられた場所。歩いてもすぐなので、たまには城址見学も良いだろうと思っていたのだが、別の地図を見て気が変わった

駅周辺はかつての石川町の中心部であることは前記事でも紹介したが、JRの石川駅があり至近に大鰐線の義塾高校前駅がある。道中コンビニもあることだし、おそらく1時間もかかるまい。弘前学院大前駅~聖愛中高前駅のように近くはないが、ここはJRと大鰐線の2駅回収、つまり二兎を追う作戦を発動してみようということになった。もちろん、ここから本当の雪中行軍になるとは想像すらしていなかったのだが…

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JRと全く並行する地方私鉄

大鰐線は中央弘前と大鰐を結ぶ路線だが、この区間はJRの奥羽本線と全く並行している。私鉄が国鉄(当時)に戦いを挑むように新路線を敷設するのは都会では珍しいことではないが、そもそもの人口が少ない地方では例は少ない。にもかかわらず弘前電気鉄道が新路線を開業させたのは、当初は弘前市を抜けて板柳町まで延伸させる予定だったからだ。三菱電機の支援を受けたことも後押しした。1952年(昭和27)と戦後間もない開業ながら最初から電化されていた。奥羽本線の電化はずっと後のことである

ただ開業後は国鉄や路線バスとの競合もあって苦戦が続く。1970年に弘南鉄道に経営が引き継がれた。弘南鉄道では細かく駅を設けて通学需要に対応、地元からの支援も受けて対抗してきた。現在、奥羽本線の弘前~大鰐温泉は途中に1駅つまり石川駅しかないのに対し大鰐線は12もの駅がある

その貴重な1駅であるJRの石川駅にも行けるのだから、これは徒歩の価値があるというもの

早速、線路と並行する道路を歩き始める。その道中はというと

こうなっている。駅の周辺案内図とは違って旧石川町の中心部を通らずショートカットするルートで、これなら大した距離ではない。ちなみに渡がスマホで開けたのはナビタイム先生で、ナビタイム先生はグーグル先生の地図で山田毘沙門天堂を通るコースを指南してくれた

岩木山とりんご園を見とれた後に…

やがてりんご園と岩木山を望む場所にやって来た。大鰐線には「りんご畑鉄道」の愛称が付けられているが、これは美しい。そして3カ月を経た今は全く異なる景色になっているだろう。この景色を見られただけで、この季節に来て良かったと思った。ただし、そんな気分は間もなく吹っ飛ぶ

前掲の地図を参照していただければ分かるが盛り土となっている奥羽本線の下を抜けてすぐに右折のはず。しかしそこにあった光景はというと

お~い!(号泣)

こりゃ無理だろう。足跡はあるが、私はそのような靴は履いていない。しばしぼう然。今さら駅まで後戻りなんてできないが、盛り土をくぐる前に線路に沿っていると思われる道があったことを思い出す。つまりはグーグル先生イチオシの道だが、その時にグーグル検索をする余裕など全くない。とにかく前進するのみ

ところどころに水たまりがあって私の靴では浸水注意だが、そんなことは言っていられないので、ソロソロ進む。後で写真を見返すと大鰐線唯一の陸橋がJRをオーバークロスする路線の見どころだったようだが、それは後で気付いたことで、そんな余裕はない。だから交点の写真も撮っていない

すると今度は

大きな水たまりが行く手を遮る。まるで陸上競技の水濠だ。しかも道が先で右に折れていて、その向こうがどうなっているのか不安がつのる。ただJRの線路は2本になっていて踏切が見える。駅はすぐそこだろうと、スリップに注意しながら道路の右へりを進み、最後はジャンプ。それなりの重量のリュックを背負っていることもあって、元々具合が良くなかった右膝がイテテとなったが、何とか通過

広い道まで出ることができて先ほど見えた踏切から駅の跨線橋が見えた。ようやくたどり着いた。間に合った

JRの石川駅に到着である。自販機でしばし休憩しよう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~誰もが目を奪われる数々の備品

※訪問は2025年3月10日

急に変わった周辺の景色

聖愛中高前駅から石川駅で下車

所要時間は約15分。電車の中ではこの後、どのようにすれば良いのかばかり考えていたので車窓に目をやる余裕はなかったが、先ほどまでは弘前市の市街地にいる風情だったのが、駅を降りてみるとりんご園などの農地が広がっている

最初から徒歩移動が決まっていれば、車窓を凝視して道の広さはどうだ、坂はあるのか、とチェックするのだが、この時は出たとこ勝負のようになっていたというか、1時間に1本というダイヤの余裕もあって、予習不足気味だった。実はこれが後に大きな後悔をもたらすのだが、それは次回の記事に回すことにする。というのも、この石川駅、伝えることが多すぎるのだ

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ホキさんそして凝った?ホーロー駅名標

電車が去った後の島式ホーム。カーブ状になっているが、まず目につくのは手前にある車両である

ホキさんが停まっている。ホキといえば石灰石運搬のイメージだが、ここ大鰐線ではとうの昔に貨物輸送は終わっている。弘前電気鉄道から弘南鉄道に引き継がれたタイミングなので半世紀以上前のことだ。よく見ると「石川駅常備」と記されている。どうも保線用のものらしい。雪で覆われて分からないが、当駅には貨物用の側線が残されていて、ここに常備されているようだ

構内踏切を渡って駅舎に向かうとホーロー駅名標が出迎えてくれるが、こちらがあまりに斬新である

それまでの文字を隠しているようで隠されていない。「頭隠して-」という言葉があるが、頭も尻も全く隠されていない。「しん」という文字があったことが分かる

当初の駅名は新石川

当駅は1952年(昭和27)の開業で弘前電気鉄道が設置した大鰐線の1期生。当時の所在地は石川町で現在は弘前市。駅名は先の写真で分かる通り「新石川」だった。「新」が付いた理由は簡単ですでに国鉄の石川駅があったからだ。両駅はちょっと離れているため、同じ駅名にはできなかったのだろう。ただし石川町の中心部は新石川だった

公民館の場所がかつての町役場だと思われる。郵便局や小中学校などもあることから大鰐線は石川町の中心部に駅を設置すべくここに線路を設置したのだろう。石川城跡(大仏公園)も近い。事実、大鰐線はJRの石川駅を過ぎたあたりでJRをわざわざ路線内唯一の跨線橋となっている陸橋を造ってまで交差して石川町の中心部に入っている

駅名変更は国鉄民営化の1年前となった1986年4月。「新」の文字を外し、間もなくJRとなる国鉄の石川駅と対抗することとなった

誰もが撮影する看板

駅舎のある大鰐線では貴重な駅のひとつ。一見、普通に見える駅名板だが「石川駅」の左隣にわざわざ1マスで「弘南鉄道」と記されている。この1マスはかつては「新」だったのか

かつては有人駅だったが現在は無人駅。窓口は塞がれている。繰り返しになるが、大鰐線の有人駅は大鰐、中央弘前の起終点の2駅のみ。右奥のお手洗いは一応現役だった

そして石川駅といえば、こちら

当駅を訪問した人が必ず写真に収め、SNSにアップする警告の看板。私が当駅というか、はるばる神戸から大鰐線にやってきた目的のひとつと言っても過言ではない。随分と大柄なこわもての駅員さんが旗を振って注意喚起というより警告を発している。写真で分かるように作成者は石川小学校のPTA。全国の踏切や駅で見かける「きけん」というものと違って実にインパクト大である。廃線となった後も、倉庫やゴミ箱行きではなく弘南鉄道に限らずどこかの駅で次の人生を送ってほしい

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