新幹線

JR東日本パス ファイナルを前に~秋を振り返る 悲運の北上線を経て東京へ

北上駅の駅舎

2022年10月16日14時

「快速」のある北上線

ほっとゆだ駅に戻ってきました

休日に登校した高校生が帰宅するため駅に集まってきました。14時23分発の列車を逃すと前列車と同様、次の上りも下りも3時間運行がないので逃すと大変です

さて横手駅でも掲載した写真ですが

横手駅の北上線列車

方向幕に「快速」とあるのがお分かりかと思いますが、一般的にイメージする快速とは少し違う。北上線は両端の横手と北上を除くと途中に駅が13あるのですが、その中の小松川駅1駅だけを通過するものです

昨年の春までは他に2駅の快速通過駅があり、この2駅は冬季は全列車が通過する駅として、ある意味有名でしたが廃止され、1駅だけを通過する快速が「誕生」したわけです。播但線(兵庫県)の非電化区間である寺前~和田山で長谷駅ひとつだけを通過するためにあった快速と似ている(現在は全駅停車となり快速は消滅)

快速の設定は横手行きの下りで3本、北上行きの上りで1本設定されていて、私は貴重な1本に乗車したわけです。もっとも設定云々より、そもそも北上~横手の全線を走る列車は1日6・5往復しかありません

北上線は大正期に全通した古い路線です。東京から秋田を目指す路線としては福島で東北本線から分岐する奥羽本線がメインルートですが、福島と山形の県境で有名だった4駅連続のスイッチバックがあったように険しい峠越えがあり、重量のある貨物列車には負担の多い路線でした。そこで仙台経由で負担の少ないルートという目的もあって敷設されました。全国で問題となっている、いわゆる赤字ローカル線はトンネルや高架技術の乏しい時代に造られたものが多く、スピードに難点があり高速道路との競争に勝てないものがほとんどですが、北上線は当時にできたものとしては線形が良く、貨物などの長大編成にも重宝され、奥羽本線でトラブルがあった時の迂回ルートとしても重要な役割を担いました。特急の定期列車が走ったこともあります

ところが秋田新幹線設置の際に選ばれたのは戦後に全通した田沢湖線。東京から来た場合、北上線からでは盛岡の手前で分岐してしまうのが難点だったのでしょうが、わざわざ遠回りとスイッチバックをしてまで東京から秋田のルートが設定されてしまったわけで、平成になって駅名を陸中川尻からほっとゆだに変更するなど「ゆだ」を冠する駅名に3駅変更、SLが走ったこともありましたが、SL運行は10年以上行われておらず、貨物輸送もなくなっています(ただしJR貨物の免許は続いていて、いつでも貨物列車が走れる状態)。冬季通過駅や1駅通過の快速が登場することが利用者の数を物語っているともいえます。とても不運な路線です

北上駅は国鉄駅舎

ほっとゆだからは45分で北上に到着

戦後に各地で建てられた国鉄コンクリート駅舎が健在なターミナル駅。黒沢尻駅として明治期に設置されました。黒沢尻は当時の町名で北上市の中心地。花園の高校ラグビーに登場する学校にその名前をよく聞きます。戦後の合併で北上市が誕生した際、現駅名となりました。ちなみに写真で分かるように「きたかみ」です

北上線の列車は主に0番線の切り欠きホームを利用します

お隣の駅の解説付き駅名標

ここから新幹線で東京に向かいます

ユニークなオブジェがあります

当駅からは「はやぶさ」も「やまびこ」も東京に向かいますが自由席のあるやまびこが圧倒的に多い。基本的には1時間に1本、東京行きがあります。座席については以前に説明した通り、B席しか確保できませんでしたが、比較的早い時間でこのような状況だったので夕方以降はもっと凄かったのだと思います

入線時に前3両の自由席が見えましたが、この時点でほぼ満席の様子。盛岡始発で途中駅は新花巻だけでしたが、2駅で座席は埋まったようです

もっとも発車すると私のお隣のC席は東京まで誰も座って来ず、私から見える所ではD、E席が並んで空きっ放しという「多客期あるある」が起きていました。私的にはC席に誰も来ずに良かったわけですが(宇都宮を過ぎた時点でC席に移動しました)、もしもC席の指定券を持ったまま自由席に座った人がいるなら、あまり感心できないことです

これで振り返りは終わりですが3月のファイナルでも利用を予定しています。ただ現時点できっぷは購入したものの現時点で指定席確保はなし(笑)。旅程はほぼ決まっていて宿も確保しましたが、細かい移動が多くなりそうで指定席をいちいち取っていたら、権利がすぐなくなってしまいそう。それでもこの時の教訓から最後の長距離だけは指定を取るべきかな、と思っています

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JR東日本パス ファイナルを前に~北上線に初乗車

ほっとゆだ駅の駅名標2つ

2022年10月16日10時10分

3年ぶりに出会った駅名標

大曲駅での立派なキロポスト。秋田新幹線としては、秋田まで続きますがミニ新幹線で在来線と同じ軌道を走るため、田沢湖線としてはこちらが終着駅となります

このようなものを見ると路線の運不運を感じざるを得ません。田沢湖、角館と観光地を走る田沢湖線ですが、元々は地味な路線で現在も在来線の本数は極めて少ない。特に岩手県と秋田県の県境越えとなる赤渕~田沢湖間は1駅の区間が18キロもあって、ここを走る普通は1日3・5往復。八戸線の時にも引用した1968年の時刻表(復刻版)を見ても6往復(当時は他に急行が2往復していた)しかない。まだまだ鉄道が元気だったころにそれだけの本数しかなかったのですから、新幹線に「昇格」したのは凄いことだし、スイッチバックという、あまり導入したくない方式をわざわざ採用したのも凄い決断だったと思います

似たような例としては岡山から山陰方面へと向かう伯備線もそうで、現在、他の陰陽連絡線が苦戦する中、幹線としての地位を築いていますが、山陽新幹線の新大阪~岡山暫定開業がなければ…ですね

さて、ここからは奥羽本線で横手に向かい北上線に乗ります

3日間の旅の最終日ですが、仙台スタートということもあり、最初の2日間は一切優等列車や有料列車に乗車していないので2万2150円の元を取れていません。実際に同行程の旅をした場合は三陸鉄道のフリーきっぷを使用したり、八戸線では長距離きっぷを買っての途中下車を選択したでしょうから運賃の違いはあるかもしれませんが、最初の2日間は

仙台~柳津 1340円(JR)

柳津~盛 1880円(BRT)

盛~釜石 1100円(三陸鉄道)

釜石~久慈 3050円(三陸鉄道)

久慈~本八戸 1170円(JR)

で8540円分しか使用していません。別の言い方をすれば有料列車に乗らずに8540円も使用したことになるのですが

ということで最終日は新幹線にバンバン乗って元を取りに行きたいところですが、やっぱりローカル線に乗ってしまいますね

その横手では

久しぶりにナゾの「ホーム横断型駅名標」と再会。2019年夏に青春18きっぷで新青森から奥羽本線をつらつらとやって来て(長かった)以来です。両隣の駅が表示されていそうで、されていないというユニークなもの。レールと垂直に掲げられているので表示しようがありません。駅の改良工事を行った際、これだけポツンと残ったようです。それにしても珍しい

北上線へもダッシュの結果…

北上線は横手と東北本線の北上を結ぶ約60キロの路線です

かつては仙台から秋田方面を目指す際の短絡ルートとしての地位を築いていましたが、田沢湖線が新幹線ルートとなり、地図上(線路上)では大回りをして向かう方が速くなってしまったため、立場が逆転してしまいました。横手と北上を直通する列車は1日6・5往復しかありません

ですから乗り遅れをするわけにいきません。10時29分に横手に着いて横手発北上行きの発車は10時37分。乗り換えにはちょうど良い時間ですが、前日からの満員状態が身体に染みついています

列車が見えてきて階段を足早に降りる

同業者(鉄道ファン)の姿も見えます。座席確保はできるのか、まぁ、ほっとゆだまでは30分なんで立つのもやむを得ないか…と乗り込むと

ガラガラでした

すっかり拍子抜け。ちなみに先に掲載した横手の駅名標は、ガラガラを確認して再び跨線橋を駆け上がって撮ったもものです。どうもこの期間でも人気がないのか、たまたま乗車した時間帯に人がいなかったのかは不明です

とにかくほっとゆだに到着です

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JR東日本パス ファイナルを前に~秋を振り返る 新幹線スイッチバック

大曲駅の駅名標2つ

2022年10月16日9時50分

秋田新幹線内の再会

八戸を8時11分に出た東北新幹線。盛岡までは、どちらかというとガラガラ。上り方面は、まだ皆さん活動されていないようです。立席と言いながらも余裕の着席

盛岡からは秋田新幹線。盛岡着が8時43分で盛岡発が8時48分。5分しか乗り換え時間がなく、今回の旅の最重要ポイントでしたが無事に乗り継ぐことができました。前夜、盛岡まで行って安全に宿泊する方法もありましたが、せっかくなんで来る機会の少ない八戸に泊まろうということになり、その分この乗り換えのリスクがあったのですが無事にクリア。秋田新幹線に乗車します

前記事で書きましたが指定席が1度「0」になり、一夜明けたら「1」になっていたため大慌てで確保した座席。当然ながらデッキまで人であふれています。秋田新幹線は全車指定で立席特急券制度を導入しているため「すいません。そこ私の席です」という光景が見られそうなものですが、さすが東日本パスを利用される方は指定席が満席だった時点で、そのあたりの事情は分かっているようで、そのような場面はありませんでした

しかし、ふと車内を見渡すと見知った顔の2人が

前夜、八戸で食事していると隣の座席のカップルが「明日はどこ行こう?」なんて会話をしていたのです。東北新幹線だと見どころはこちら、秋田新幹線だとこちら、なんて、あーでもない、こーでもないとやり合っていました。「ははーん、あちらも東日本パスだな」。察しはつきます。結果は出ないまま先に店を出ていきましたが、その2人が並んで座っていてビックリ。驚いたのは再会ではなく並んで座っていることです。どうやって座席を確保したのか考えてしまいました。元々、秋田新幹線の座席を持っていたのかなぁ、などと首をひねっているうちに角館で降りていかれました

話は少しそれますが、角館も駅から武家屋敷などの観光地がある中心部までは結構な距離があります。10年以上前に宿泊した時、駅から15分ほど歩いた記憶があります

鉄道的な見どころが多い

秋田から1時間。大曲に到着しました。盛岡を出た時、秋田までは満員状態だろうと思っていましたが、田沢湖でドッと降り、立っている人はめっきり減りました。角館でまた降りて空席もある状態に。これはちょっと意外でした

その大曲。2本の新幹線が止まっていますが新幹線(ミニ新幹線ですが)としては珍しいスイッチバック構造となっています

列車止めがあります

スイッチバックらしく駅名標はこんな感じ。ただし

在来線(奥羽本線)は普通。秋田新幹線を田沢湖経由にしたので、このような構造になりました

さらに大曲から秋田方面へは新幹線が標準軌、奥羽本線が狭軌なのでレールが3本ある三線軌条となっています

分かりやすい説明がありました。鉄道会社は原則的に同じ線路幅を採用しているので意外と見られない構造。「JR東日本唯一」と書かれていますね。青函トンネルができるまでは「JR唯一」でした。角館に泊まったのは秋田内陸縦貫鉄道に乗るのと、これを体感したいためでした

私鉄では複数の線路幅を持つ会社もありますが、この構造は線路の維持管理が面倒なので、現在は車庫回送などの短い区間でしか採用されていません

また青函トンネルは有料列車でしか乗車できない上に途中で降りることはできないので貴重な構造ともいえます

2019年8月にも大曲に来ましたが、その時は夜で、しかも20分近い停車時間に降りただけでした

大曲といえば花火ですね

商店街にも、さすがの名前が付いています

奥羽本線に乗り換えます

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JR東日本パス ファイナルを前に~秋を振り返る 三陸鉄道完乗と久慈市の思い出

10月15日17時

久慈ダッシュに遭遇

久慈へと向かう車内は混んでいて座れてはいても身をよじることなど不可能でラグビーボールのつり革を眺めることぐらいしかできませんでした

宮古から三陸鉄道の終点である久慈までは70キロとなかなかの距離。1時間50分かけて久慈へ到着。これで盛からの約160キロを完乗しました。160キロというと東海道本線の東京~清水が169キロなので、その長さが分かります

ここからは八戸線に乗り換えて本日の宿である本八戸を目指すわけですが、三陸鉄道の久慈到着が16時54分で八戸線の久慈発が17時ちょうどと接続が良すぎる。こういう時に何が起きるかというと

JR連絡口の「久慈ダッシュ」。乗ったと思ったらすぐ発車。乗車列車は当然混雑している上に、夕闇に包まれているので完乗の感慨を味わう間もありませんでした。おそらく3月に利用期間が来るファイナルも同様の混雑が予想されるので、宮古での混雑も含め、利用を予定している方は留意してほしいと思います

あまちゃん以前に訪問

さて久慈の滞在は事実上、0分になってしまいましたので少し思い出話におつきあいください。過去1度だけ久慈を訪れたことがあります。11年前の2012年4月のGW直前のこと。3月に八戸線が東日本大震災から1年を経て全面復旧したので乗りに来ました

宿泊地はもちろん久慈ですが、テレビドラマの「あまちゃん」は2013年4月からですから、まだ世間ではそれほど知られていません。私はもっと不勉強。夏の甲子園で当時から注目選手だった川上憲伸の徳島商と死闘を繰り広げたのが岩手代表の久慈商(現在は久慈東)が死闘を繰り広げたことを知っていたくらい

当時は東京で勤務していたのですが、同僚がかつて岩手で勤務していたため「海女さん」「翡翠(ひすい)」「鉄の町」「柔道」「石油備蓄基地」など、それから1年も経てばすっかり有名になっていたことを教えてくれました

東京から久慈へは二戸まで新幹線に乗車し、JRバスで向かうのがメインルート。約70分で結びます

震災からまだ1年で東北新幹線も「はやて」が多く走っていました(はやぶさは時速300キロ以上の列車)

せっかく行くのだからと

大奮発でグランクラスに初乗車

セコい私は、せっかくなんで酒をいやほど飲んでやろう、なんて思っていたのですが午前中ということもあって、たいして飲めなかったことを今でも覚えています

それでも東京から二戸まではやてのグランクラスに乗るなんて今は不可能ですから、貴重な体験です

三陸鉄道にも少し乗りました。こちらは久慈から田野畑までが復旧した直後。時間の関係で陸中野田までしか行けなかったのですが

道の駅が併設されている当駅で久慈までのきっぷを買うと

硬券だったため、感動しました

久慈の繁華街は駅を中心に形成されているようです

どう頼んだのか記憶にないのですが次から次へと魚を食べました。写真だけがいっぱい残っています

ホテルの住所が「川崎町」で、川崎製鉄の大きな工場があったことにちなんでいると知って感心しながら翌朝、駅に行き

後に「本州を走る最後の非冷房キハ40」として有名になった列車で八戸へ向かいました

車窓がとても良かったです

この時は八戸までの1時間40分をたっぷり堪能しました

さて昨秋の現実はどうかというと本八戸着は18時34分。大きな街なので夜の街に繰り出し2軒も行ってしまいました。明日は最終日。そういえばこの2日間、一度も優等列車も有料列車も乗っていませんね

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東日本の新幹線単独駅を巡る~繁栄の駅

佐久平駅の在来線駅名標

2022年10月22日14時30分

※新幹線単独駅の訪問は終わっていますが同一行程なので同タイトルで伝えています

在来線が新幹線の上を行く

新幹線駅訪問では最後となる佐久平に到着しました。小海線の駅で降りたことはあるのですが新幹線の改札には入らなかったので新幹線ホームの利用は初めてです

軽井沢と上田の中間に位置します。まずは鉄道駅としての見どころから紹介します

前述した通り、小海線との接続駅となっています

新幹線の改札を出て小海線ホームを目指します。かなり長い通路です

在来線は無人駅。それでもホームと通路の間に待合室となるスペースがあり、両方にドアがあるため寒さ対策はできています。入口は無人駅ではなかなか見かけない自動ドア

高架ホームに出ると下を走るのは、なんと新幹線。ここでは新幹線が地上駅、在来線が高架駅という常識を変える構造となっています

棒状ホームなので間違えないよう方向が示されています。初めての人が利用する可能性もある新幹線接続駅だからこその親切な表示。それにしても新幹線の屋根の上にいるというのは不思議な優越感に浸れます。新幹線敷設の際、地形的に新幹線は地上を走った方が理にかなっているとされたため、だったら在来線をこの区間だけ上にした方が経費も安いのではないか、ということでこのようになりました

例によって駅名でもめる

こちらが駅舎。なかなか凝ったデザイン。上越新幹線で見てきた無骨な駅舎とはかなり違います

新幹線駅の紹介をするたびに同じようなことばかり書いていますが、こちらも駅名でもめました。付近の大きな駅と都市といえば、長らく小諸でした。ただ当駅の設置場所は佐久市。だったら佐久駅で良いのではないかとなりそうですが、駅名に小諸を入れることで小諸市が譲らなかった。なぜかというと元々の長野までのルートは山形新幹線のようなミニ新幹線として信越本線を走る予定で当然、小諸も通る。すっかり安心していたら方向転換でフル規格となり小諸は素通り、信越本線は三セク化。急に手のひらを返されるような形になった上、駅名までも「素通り」されるのではたまらない。一理ある主張です。最後は佐久平には小諸も含まれるということで決着しましたが、佐久平駅が大きな成功例となりすぎたため、都市名を入れなかったという一件が「都市名は入れなければならない」と後々、一人歩きすることになります

全国から視察が続々

その佐久平駅の周辺は

このような感じ。ご覧になれば分かる通り、新幹線駅の周囲はグルリ自動車専用道に囲まれています。これが大当たり。自動車道が近いということで物資や自動車の集積する場所にもなり、それまで何もなかった場所ということも幸いしてか、多くの商業施設やマンションが建設され、街が形成されました。ちなみに駅の住所は佐久市佐久平駅東1の1。まさに「一丁目一番地」で、新幹線駅設置の後に街ができたことがよく分かります

そのおかげで全国の自治体から視察が続々とやって来ました。私が実際に知るところでも九州の遙か遠い自治体の公務員が見学に訪れたそうです

何もないところがこんなに繁栄した、といういわば大成功例となったわけですが、高速道路神話と新幹線神話を必要以上に助長した感は否めません。大人口集積地である首都圏と観光地がズラリ並ぶ軽井沢~長野への近さが大きな成功要因だということを忘れてはいけません

などと言いながら実際の私の行動はどうだったか。この日は上田で友人と落ち合うことになっていて次の新幹線まで1時間ある。時計は15時になろうとしていますが、乗り継ぎが良すぎたり、時間がある駅周辺には何もなかったりという、いわゆるローカル線あるあるを食らって朝から食べたものは上越妙高の乗り継ぎの際に購入したサンドイッチだけで猛烈な空腹状態。18時ぐらいから食事となっていたのですが、それまでもたないと出かけたのがイオン

フードコートのリンガーハットでこのような案内を見て

小腹を満たすにはちょうど良い皿うどんの小を注文。新幹線駅から徒歩5分でイオンに行けるというのも佐久平らしいところなのですが、その恩恵を目一杯甘受することになりました

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東日本の新幹線単独駅を巡る~グルリ一周

軽井沢駅の駅舎

2022年10月21日14時40分

※単独駅の訪問は終わっていますが、同一行程なのでタイトルはそのままにしています

在来線特急で新幹線間を移動

長岡駅に到着しました。さすがに何度か来ています。時間はまだまだ早い。燕三条で乗り逃した弥彦線の分、上越線や信越本線の駅巡りに多少は充てることができそうですが、最初の予定が狂った分、朝の6時過ぎから行動していた私は完全に燃料切れ。10月後半でしたが昼間は暑く、宿泊したホテルが大浴場付きだったこともあり、15時にチェックインしたところ「今から入れますよ」と言われたため、ビジネスホテルで一番風呂に入ってしまうと、もう何もやる気が起きず活動限界となってしまいました

翌日は朝7時すぎに長岡駅からスタート。前日の分を少しでも取り戻すため、信越本線の三条駅や弥彦線の燕駅などいくつかの在来線駅を訪問。11時前に東三条に戻ってきて

特急「しらゆき」の上越妙高行きに乗ります。長岡から乗っても同じなのですが、新幹線駅ではない東三条から特急に乗るという体験は、今後なかなかないと思われるので東三条から

しらゆきは新潟県内で新潟、長岡といった上越新幹線の駅と北陸新幹線の駅である上越妙高を結ぶ貴重な優等列車。直江津から長野方面が三セクのえちごトキめき鉄道に転換されてしまいましたが、しらゆきは、その間を結ぶ貴重な在来線特急となっています。1日4往復で、うち2本が新井まで運行されます。新潟県内だけを通るという在来線特急では珍しい体型ですが、それでも新潟~上越妙高は2時間と距離は長い。かつて常磐線の「フレッシュひたち」として活躍した車両が使用されていて懐かしい

さて、ここで私は今旅初めての指定席利用を行うことに。新幹線にはいっぱい乗ってきましたが、駅訪問が主眼のため短い区間ばかりで、すべて自由席だったのです。この先も同様の行程なので、せっかくだから、この1時間半は指定席の権利も使おう、えきねっとにも一度ぐらい登板してもらおうと指定席を利用。しらゆきには過去2度乗車したことがあるのですが、それほど混雑してはいませんでした。車両は4両編成指定と自由が2両ずつ。自由席が半分を占めるのは区間利用も多い特性に対応しています。結果的に指定席もそれほど混雑しせず、窓際に陣取った私の横には誰も来ることなく上越妙高に至ったのですが、途中から「自由席が混み合っているので座席に荷物は置かないようにお願いします」のアナウンスが連呼されてビックリ。今回の150周年記念パスの威力を思い知ったのでした

再び新幹線に

12時25分に上越妙高に到着。駅名標はえちごトキめき鉄道のものとなっています

北陸新幹線に乗り換え。当駅は北陸新幹線内のJR東日本とJR西日本の境界駅。管理は前者なので駅名標は東日本スタイルです。駅の所在地は上越市で当初の仮称も「上越駅」でしたが、妙高市の中心部にも近く議論の末に現駅名となりました

13時発のはくたかに乗り込み20分で長野に到着。長野駅では同一ホームの3分連絡で各停パターンのあさまに連絡します。各停といっても安中榛名はかなり通過されるのですが

そして軽井沢に到着。前日の安中榛名から、ほぼグルリと一周したことになります。実は乗車したあさまは貴重な安中榛名に停車するパターンで、行ってしまえば、それもおもしろいなぁ、とも思ったのですが安中榛名まで行ってしまうと、その後の行程がまたややこしくなるので軽井沢下車

同時刻に東三条を出発した場合、長岡から上越新幹線に乗って高崎乗り換えの方が40分ほど早いのですが、新幹線に乗る距離が短かったり、高崎乗り換えで新幹線料金がリセットしてしまうことなどで、普通に運賃を支払うと1000円以上、高崎経由が高くなります

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東日本の新幹線単独駅を巡る~なにごとも公平に

燕三条駅の駅名標

2022年10月21日10時30分

※単独駅の紹介は終わりましたが同行程なので同タイトルで続けます

徹底されています

燕三条駅で降りて外に出ようとすると「燕口」「三条口」の明確な区分に目を見張ります。駅の出口は東西南北で付けられることが多い。地名の出口があっても、それは通称にされていたりします。なぜなら初めて降りた人、旅人には東西南北の方が分かりやすいからです。しかし、あくまでも燕口と三条口

というか

こんなに大きくて、なおかつピカピカ光っている出口案内には、なかなか出会えません

というか徹底されていますね

2つの都市の市境が駅を通る

もう誰もが分かっていると思いますが、燕市と三条市の名前をひとつにした駅名です

ただ現在はよく見かける駅名ですが、当時は全国ニュースとして大きく取り上げられました。前記事の浦佐駅でも取り上げましたが新幹線の駅というのは夢の架け橋で、今でもそんな空気があります。40年前のことなので、なおさら

新幹線のコース決定時点から両都市で激しい誘致合戦が繰り広げられました。こういうのって鉄道会社が困ります。当時は鉄道会社というより国鉄です。結果的に両都市の境界にまたがって駅を設けることで決着。このあたりが町の中心に近いから、という視点ではありません。とにかく「公平に」です

なぜ私がそんなことまで知っているかというと前述した通り、全国ニュースだったからです。上越新幹線の開業は私が大学に入った年なので、それ以前にテレビのニュースを見ていました。そして、なぜ全国ニュースになっていたかというと、やはり田中角栄さんの存在

駅の設置は決まったものの、では駅名はどうするか、燕が先か三条が先かと、これももめることになりましたが、種々のトラブルは角栄さんの仲裁で現駅名に決定。その代わりに高速道路のインターチェンジは三条燕となりました。また駅名の最初に燕が入ったためかどうかは分かりませんが、駅長室は三条市にあるため、駅の所在地は三条市となっています

駅の中を市境が通っています

訪問当日はお知らせの案内で隠れてしまっていましたが、改札を入る時も燕と三条が並列

当時は単なる駅名を巡る争いというより、角栄さん絡みだからこそ、ニュースとして取り上げられていた気がします。それほど大きな存在だったのです。ただ地元の皆さんには誠に申し訳ないのですが、当時の取り上げられ方は「田中角栄のおひざ元で何やらケンカしている」というものだった印象です

もっとも全国ニュースになった効果は抜群で、おそらく三条市や燕市を知らなかった関西の人も両都市の地名はしっかり刻み込まれることになりました。私もその一人

大きな駅です

さて駅舎の方は当時の他の新幹線駅と同じく

とても大きい。コンコースも広い

当駅は弥彦線との接続駅となっていて単独駅ではありません。新幹線と同時に弥彦線の駅も開業しました。今日は長岡泊の予定につき、乗り換えのためそちらに向かいます

彌彦神社は大鳥居で有名ですが在来線へと向かうコースにも鳥居があります。在来線は無人となっていて、そのままホームに入っていくと何やら電車音

行ってしまった…

時刻表を10分ほど読み間違えたらしい。よくやらかして、いつものことながらショック。電化されている弥彦線ですが、昼間のダイヤは薄い(本数が少ない)のです。次の東三条行きは2時間後。東三条まではたった2駅で信越本線の駅巡りなどをしながら長岡へ向かう予定でしたが予定は崩壊。ただこの日は強い武器がありました。フリーパスなので再び新幹線の改札をくぐり、長岡までの1区間、わずか10分を新幹線利用するというぜいたくな手段で長岡へと向かいました

そんな燕三条駅で実は私が一番感激したこと

三条市の名誉市民であるジャイアント馬場さんのお出迎えでした

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東日本の新幹線単独駅を巡る~新幹線は夢への架け橋、銅像は何思う

浦佐駅の西口

10月21日12時

浦佐駅の位置は

西口から東口へ向かいます。こちらの入口も広大なスペースがあります。新幹線駅は高架なのでエスカレーターで向かいます

ただ昭和時代、国鉄時代の新幹線駅のコンコースが広いことに、そこまで大きな驚きはありません。小さいスペースに強引に設置した場合は別ですが、当時の新幹線駅というのは夢の原点。そこから街には無限の可能性があると誰もが思い描いていました。将来は地域の中心となってテナントも多数入る。だったらできるだけ大きく造れ、となるのも無理はありません。他にもスペースをもてあましている駅はあります

メインとなる東口(八海山口)へ向かう通路。跨線橋の形で降りていきますが文字はなかなか年季が入っている。ふと振り返ると

改札口へと向かう階段には、さらに古典文字。階段の向こうとこちらが別世界のように感じてしまいます

その浦佐駅ですが

記事のテーマにもなるので小出駅との位置関係も入れてみました。ここに新幹線駅の設置が決まった時は意外と受け止められました。浦佐をはさんで東京寄りに2駅行くと六日町という大きな街があります。ただし駅としては北越急行の乗り入れはずっと後だし、こちらは越後湯沢に近すぎる。だったら新潟寄りに2駅で只見線の乗り換えもある小出が適切ではないか、そもそも浦佐には優等列車もあまり停まっていないのではないか、との議論です。ははーん、これはきっとあの人だろう、となるのも当時の世論を思うと無理もありません

予想を大きく上回る大きな銅像

東口を出てロータリーを右に折れたところに田中角栄元首相の銅像があります

写真で見たことはありましたが、こんな大きいというか高くて立派なものとは知らなかった。駅のコンコースの広さよりも驚きました

私が小学校の高学年の時に総理の座につき、総理在任はわずか2年でしたが、それ以上の存在感を持っていた。亡くなって30年近くが経過しているので若い方には歴史上の人物でしょうが、歴代総理大臣で、今もこれだけ語られる人はなかなかいません。政治のブログではないので、これ以上は書きませんが、存命中は功罪の「罪」が、亡くなってからは「功」が多く語られている気がします。最近語られていることは伝説の部類に入ることばかりです

廃線と建設が同時進行

鉄道についての部分だけ取り上げると総理になる前から日本列島の強じん化を掲げ鉄道網発展を推進しました。総理の座についた1972年は国鉄の赤字額のすごさがクローズアップされたころで、既に赤字路線の整理・廃線が始められたころでしたが、田中首相誕生と同時に待ったがかかり、廃線の動きがある一方で、将来の赤字が心配される新路線の建設が進められるという不思議な現象が起きている時代となりました

そのように力があった人なので浦佐に新幹線駅が設置されることが決まった時は強引に駅を設置したに違いない、と言われたもものです。ただ銅像を見て間違える方も多いのですが、元首相は浦佐の出身ではありません。こちらは選挙区です。それがかえって、いろいろな憶測を呼ぶことにもなりました

もっとも地図を見ていただければ分かるのですが、新幹線を小出経由にすると線路も弧を描くように遠回りになってしまいます。次の駅は長岡なので、そこに向かって真っ直ぐ敷設して越後湯沢との間に駅を設置するのなら浦佐が最適ともいえ、それも一理あります

私が降りてきた東口です。跨線橋の構造を見ていただければ分かる通り、バスやタクシー、乗用車といった具合に区別してそれぞれの乗り場に向かうもので、バス路線が増えれば、そこに向かう階段になるのでしょうが、こちらもまた見ての通り、その役割としては機能していません。真ん中のシマで車を降りた方も階段を昇ることなく、駅舎に近いところにあるエレベーターまで道路部分を横切って歩いていきます

上越新幹線の開業40年り大きなパネルがありました

在来線を除いた新幹線部分だけを取り出すと、上越新幹線内では単独駅の上毛高原より乗降客が少ない年もあります。ただ、それを今どうこう言ってもしょうがない。前述した通り、当時、新幹線は夢への架け橋だったのです。駅の設置についての想像よりも、北陸新幹線よりずっと前の国鉄時代に上越新幹線を敷設できたことが田中角栄さんの最大功績だと思います

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東日本の新幹線単独駅を巡る~語ることと見ることが多すぎる浦佐駅

浦佐駅の駅名標

10月21日11時50分

水飲み場がお出迎え

メインテーマである「新幹線単独駅」について、今回の旅では厳密に言うと上毛高原駅で終了です。ただ興味深い新幹線駅も訪れているので、この表題のまま続けていきます

浦佐駅に到着しました。こちらも1982年の開業時からのものでホームに降りた瞬間、40年の歳月を感じます。いや正確に言うと「あまり変化していないような印象を受ける」なのかもしれません。それ以前に開業している東海道・山陽新幹線はどこか変化を感じるものが多いからです

いきなり水飲み場などが登場すれば、そう思ってしまいます。若い方は、感覚が分からないかもしれませんが、上越新幹線が開業した82年ごろ、水なんて買うものではなかったのです。当時、私は貧乏学生をしていましたが、ペットボトル入りのウーロン茶や水が登場し始めたころで、テレビCMも始まり、周囲では買う人もいましたが「水なんて蛇口をひねれば出てくるし、お茶なんて湧かして冷蔵庫に入れておけばタダ同然の値段。わざわざ買うものではないでしょう。というかそもそもウーロン茶って何?」。そんな感覚が主流でした。ただ逆に言うと自販機のボタンを押して水を買うこともできないし、コンビニなんて都市部中心。夏場は駅の水飲み場はありがたい存在だったのです

とにかく広い

コンコースに出てみます

浦佐から2駅新潟寄りとなる小出駅を発着する只見線が復活したばかり

かなり大きなスペースで復旧を祝う写真展が開催されていました

四季の沿線の様子が写し出されています

私もかなりの時間、見入ってしまいましたが、そのうち気付いていくことがありました

「とにかくデカい」

のです

広大な空間に今は使用していない待合室。こちらは超特大。大々的に写真展を開催しても、まだまだ余裕があります。浦佐駅には八海山口と呼ばれる東口と毘沙門天口と呼ばれる西口があります。メインは東口のようですが、まずは西口へ出てみます

こちらは改修された感があります。ただロータリーはあるものの寂しい。メインの出口ではないので、こんな感じでしょうか。実はこの東口にはスキー場があって先ほどの写真の特大待合室はスキーの団体客用のものだったとか。ならば納得ですが、それでも広い。次の新幹線まで1時間半とどまる予定なので、こちらで昼食とするつもりですが、そのうち見ることも語ることも多い駅だということが分かってきました

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東日本の新幹線単独駅を巡る~寄り道した在来線駅は新旧同居、地域文字も

後閑駅の駅名標

10月21日10時10分

停車中のバスに乗ってみる

上毛高原駅。ここでは1時間以上の待ち時間となりました。ちょっと長いなぁ、と思っていたら路線バスが2台。と思う間もなく1台は出発してしまいました。残る1台は後閑駅に向かうようです。こちらも間もなく出発ということで、エイヤとわけの分からないまま乗ってしまいました

本庄早稲田の本庄と同様、上越線の後閑駅が上毛高原駅の運賃計算の当該駅となっていることぐらいは知っています。どのぐらい離れているのかは分からないけど、運賃計算の対象なのでそんなに遠くはないだろう、後閑駅にタクシーがいるのかどうかは分かりませんが、いれば帰りはタクシーに乗ればいい、ぐらいの軽い考えで乗車。そこから調べると

所要わずか10分。川を渡らなければならないので直線コースというわけにはいきませんが近道にあたるコースなら3キロ。時間があれば徒歩でも行けそうな距離です。ただし上毛高原駅は高台にあるので後閑駅から上毛高原駅に向かうのはしんどそうですが

基調はSL色

後閑駅に到着しました。まずバスの時刻表を確認。本数はかなりある。上毛高原にもバスで戻れそうです

後閑駅は旧月夜野町の中心駅。その町役場が現在、みなかみ町の役場となっています。周辺には町が広がる。ただしかつてあったみどりの窓口は既になく、現在は無人駅

それでも以前からの駅舎を基にリニューアルされた美しいものとなっています

新幹線が開通して以来、かつての大動脈だった上越線からは優等列車が消えました。当駅も昼間は1時間から1時間半に1本ぐらいの運行。新潟県との県境にはモグラ駅で有名な土合がありますが土合を通る県境越えの電車は1日5~6往復の閑散路線としても知られます。それでも貨物路線としては重要で、その閑散区間では貨物列車の運行の方が多い現象が起きています

この後閑駅を有名にしたのはSLで、かつて当駅で静態保存されていたD51の状態が良いということで観光列車用に現役復帰。今も臨時列車として人気の「SLぐんまみなかみ」は、ふるさとということで無人駅である当駅に停車します。駅舎の黒色はSLの色をイメージしているそうです

あちらこちらに新旧。文字にしびれる

駅に入ると新旧が共存しています

駅名板は真新しい

駅名標もSL停車駅に敬意を表したものとなっています。その一方

こちらの案内の文字は歴史を感じるもの。そしてなんといってもこちら

柱にある、いわゆる第三種と言われる駅名標は新しいものですが、かなり年季の入ったホーローの方面案内と並んでいます。これは貴重な光景。特に「新潟」の「潟」の文字。初めて見た私は長岡と並んでいなければ、おそらく新潟と読めなかった

サンズイに「写」は地域文字と呼ばれるもので「潟」の文字を正確に書くのが難しいことで生まれた、新潟独自文字ではなく各地、各文献で見られた文字が残っているそうです。確かに「潟」という文字を日常的に見ることはないし、書いてみろ、と言われると一瞬手が止まってしまうかもしれません

ただワープロそしてPCなどが生まれ、「潟」が常用漢字になったことで今は、ある一定の世代以上しか分からなくなっているとか。ここは群馬県ですが、きっと珍しい文字だということで今も残してくれているのだと思います

帰りには見事なワンマン運転のバスの独自転回にみとれてバスに乗り込み上毛高原に戻りました。なかなか中身の濃い寄り道。行って良かった

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