きっぷ

72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~国鉄時代そのままに街を見下ろす登録有形文化財の駅

※訪問は2025年10月4日

関から約10分

美濃市駅に到着。島式ホームの1面2線だが構内は広く側線もある。役割を終えた貨物ホームには車両が留置されている。すっかり自然に帰ろうとしている草木に雨による薄暗い空気が雰囲気を盛り上げる。実際にはまだお昼の13時半である

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3年間の終着駅

ホームには古い待合所がそのまま残る。駅は高台にあり階段で改札に向かうが

文字も空気も国鉄時代そのままの風情だ。開業は1923年(大正12)。越美南線が美濃太田から当駅までが開業した際、終着駅として設置された。この後、越美南線は延伸されるが、それは3年後。かなりの期間、終着駅だったことになる。逆に言うと、美濃太田から関を経て当駅までをまず開業させるのが重要だったことになる

当初は「美濃町」駅を名乗っていた。現在の駅名となったのは1954年。想像に難くないが、美濃町が美濃市になったことによる変更である

長良川水運の要衝としてこの地は栄えた。美濃国にあるので美濃町という自治体、地名が生まれたと思いがちだが、美濃国は広い。さらに言うと旧国名が地域名になることはあまりない。大抵が「○○国○○」となる。旧国名が自治体名や駅名になっているのは、ほとんどが明治以降のものだ

美濃町も町村制施行時は上有知(こうずつ)町という名前だった。後に美濃和紙の生産地であることから美濃町に変更。戦後に周辺の自治体と合併して美濃市となった。越美南線がやってきたころには既に美濃町となっていたので、駅名もそのまま美濃町となった。実は美濃町へ先に乗り入れた鉄路は国鉄ではなく、後に名鉄美濃町線となった美濃電気軌道が、明治期に岐阜市内から美濃町までの鉄路を走らせている。当時は私鉄に追随する形で国鉄がやって来るなど重要な地だったのだ

国鉄時代にタイムトリップ

駅舎へと向かうと先ほどの出口と同様ホーロー板が残されている

そしてステンレスの改札。まさにタイムトリップである。今も国鉄時代そのままの設備が残っている駅は数多いが、ポイントとなるのは

有人駅だということだ。有人の古い駅舎はタイムトリップ感をさらに強くしてくれる。長良川鉄道の数少ない有人駅のひとつ。そしてもちろん主要駅

こちらは訪問時の時刻表だが、当駅を境に運行本数が大きく変わることが分かる。かなりの列車が当駅で折り返す。この傾向は2週間後のダイヤ変更でさらに顕著になっていて

長良川鉄道の1回目の記事でも記したが、美濃市以北は大幅に運行本数が減り、平日においては朝の10時台の後は3時間運行がない時間帯が生まれている

駅舎は開業時のものをベースに手が加えられているが

2013年に先に述べたホームの待合所とともに登録有形文化財となっている。駅は美濃市の中心部のやや外れの高台にある。次の列車まで1時間半。ここでお昼とすることにしよう

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~行き止まり三セク路線の誕生まで

※訪問は2025年10月4日

富加駅から北上

富加駅からいよいよ北上を開始する。といっても時間はすでに13時。秋の短い日を考えると、今日残された時間はあまりない。それもタクシー利用の理由だった

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つながらなかったあと24キロ

乗車したのは2024年にデビューしたばかりの新型車両600形。柿色の車体で柿の食品サンプルが置かれている。美濃太田から富加までは約6キロ。全長72キロの長良川鉄道なので終点まであと66キロもある。そして終点の北濃まで到達する列車はわずかである

長良川鉄道は三セク会社で、この会社が運営するのが越美南線。だから現在乗車しているのは長良川鉄道越美南線という表記が正しい。ただ越美南線という表現はほとんど使用されておらず、日々利用している人にも長良川鉄道という言葉が定着している

ここからは、この記事を読んでる方には釈迦に説法のような話だが、越美南線があるからには越美北線もある。というか越美北線は現在もJR西日本の現役路線。福井の1駅隣の越前花堂(はなんどう)を起点に大野市へと向かい、九頭竜湖駅まで52キロを結ぶ。越前花堂は帳簿上の起点駅で実際はすべての列車は福井駅から出発する。福井~越前花堂は北陸新幹線の開業により三セクのハピラインんふくいとなったが、越美北線については在来並行線とはならなかったため、現在もJR西日本が運行を担い、他のJR線と接続しない孤立路線となっている

この南北の「越美線」はやがて接続され、福井県と岐阜県つまり越前と美濃が、つながることになっていたが、岐阜県側の越美南線は戦前の1934年(昭和9)に北濃まで達し、戦後に工事が始まった福井県側は1972年に九頭竜湖まで進んだが、県境部分の工事は行われることなく未成線となり、やがて越美南線は国鉄民営化の際に長良川鉄道となった

実はあと少しだった。越美南線の沿線から九頭竜湖までは、現在美濃白鳥からだと簡単に行ける。以前は未成線部分を結ぶバス路線があり、こちらは北濃ではなく美濃白鳥から出ていた(2002年に廃止)。ただ地図を見れば分かるが、美濃白鳥を出てすぐの福井県との県境部分となる油坂峠は急勾配で、国道158号の旧道はつづら折りの道路、新線の油坂峠道路はトンネルとループ道路を組み合わせている。ここを鉄道でつなごうとすると、複雑なスイッチバックが必要となる上、九頭竜湖付近はほとんど民家はない。そこで北濃から北に弧を描くようにして石徹白(いとしろ)村を経由するコースで敷設されることとなったが、結果的に県境部分の24キロは未成線のまま終わっている

かつては越境合併も

24キロは現在の工事技術では、そう困難なことではない。事実越美北線の末端部分となる勝原~九頭竜湖は国道がクネクネとつづら折りとなっているのに対し、鉄建公団によるトンネル一本道で建設されている

だがそれでも建設が進まなかったのは、人口の少なさと冬季の積雪による。グーグル地図で北濃から石徹白経由のコースをなぞってみようとしたが、どうやっても石徹白から再び北濃まで戻って美濃白鳥からの油坂峠道路のコースが出てしまう。よく見ると県境部分は現在、通行止めマークが入っている

この石徹白村は、かつて越境合併つまり県境を越えた合併が行われた自治体。これは「われわれは○○県から○○県に移ります」と、都道府県の所属を変更するもので、出ていかれる都道府県は「領土」を失うのだから、そう簡単に実現するものではなく例も多くない。もともと石徹白村は福井県にあったが、福井県側の道路が冬場に雪に閉ざされるなどの理由で住民が越境合併を望み、1958年に多くの部分が岐阜県白鳥町に編入されることになった。まだ越美北線の工事が始まったばかりのころだった

そのような地域の歴史も抱えながら、ついにつながらなかった北線と南線

列車は間もなく本社のある関駅に到着。ここで振り替えが行われた車両で、さらに北へ進んでいくことになる

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~大正期からの駅舎に三セク後変更された駅名

※訪問は2025年10月4日

タクシー利用の理由

美濃太田駅からはタクシー利用で富加駅へと向かう。タクシーとした理由は簡単。鉄オタ仲間との二人旅だからである。1人だと4000円かかるタクシー代だとしても2000円で住む。3人、4人と増えていけば料金はさらに下がるわけで、この破壊力は凄い。最近日常でタクシーに乗る機会はほとんどなくなったので、タクシーに乗車したのは6月のフラワー長井線乗車の時以来である。この時も同じような環境で、2人でのタクシー利用となった。1人使用の半額となるので、これは積極的に使いたい作戦である。もっともこの作戦は複数の人間が同一行動をとることが絶対条件で、私のように「急にめんどくさきくなったので今日はもうヤメ」といった突然の予定変更をすることが多い人間にとっては鬼門のひとつである

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雰囲気ある駅の改名に物語

富加までの線路距離は約6キロ。ただ線路に沿って直線的な道はないようで

このようなコースとなった。ただどの道を行ったのかは分からない。運転手さんへの「取材」が多かったため。踏切を渡った記憶があるので細い線で描かれたコースかとは思う。料金は手元のメモに「タクシー代1700円」と記されているので、その2倍程度だったと思われる

その駅は

開業は1923年(大正12)。そのころからのものと思われるが、なかなか「そそる」良い駅舎だ。写真で分かる通り、かなり本降りとなっていて行動は制限されたが、雰囲気は素晴らしい

富加町の中心駅というか、町で唯一の駅で周辺には町の中心部が広がる。だから駅名も富加と簡単に納得してしまいそうだが、実はこの駅名は1986年(昭和61)の長良川鉄道転換まで「加茂野」という駅名だった。その加茂野という駅は、サムネの駅名標写真を見ていただければ分かるが、富加の隣駅として存在する。ちょっとややこしいが、現在の富加駅が加茂野駅、現在の加茂野駅が加茂野口だった

もし余裕があれば、タクシーのコースを描いた先ほどの地図を拡大してみてほしい。実は駅舎は富加町にあるが、ホームの一部は美濃加茂市にある。この地域は旧加茂野村で、駅名はそこから付けられた。現在の加茂野口駅は戦後の誕生である

ここまで読むと、駅舎があるのだからなんで最初から富加駅でなかったのか、と思われるかもしれないが、駅の誕生時に富加町はなかった。いや正確には富加という地名も存在しなかった

駅舎のある場所は開業時は富田村だった。戦後に加治田村と合併して富加村が誕生。その後、富加町となった。つまり合成地名。ならば富田駅にするのが普通だが、とにかく日本には富田という地名が多く、ここからは私の推察だが、同駅名の誕生が避けられたのかもしれない。富加村の成立は1954年で同年に加茂野村は太田町などと合併して美濃加茂市となった。「美濃加茂」という駅がないのもそのためだが、三セク転換時に加茂野口駅は美濃太田市加茂野にあるため加茂野駅となり、それまでの加茂野駅は町名通り富加駅に変更。すっきりしたのである

レトロな駅舎とホーム

駅舎内は向かって左側の事務所部分は閉鎖され、窓口もベニヤ板で塞がれている。駅舎の右側の真新しい場所にはテナントが入っていて簡易委託も行っているそうだが、訪問が終日で分からなかった

ホームは2面2線。往来は構内踏切で行い、ホームはかさ上げされている

駅舎の逆側にも出入り口がある

この後に出てくるが、長良川鉄道には登録有形文化財となっている駅がいくつかある。富加駅も資格を十分に有していると思うが、改築した部分があって申請しなかったのかどうかは分からないが、改築以外の部分で十分に貴重な存在となりそうだ

駅舎入り口部分の跡らしきものは財産票なのかどうかも不明だが、町内唯一の駅とあって駅前はきれいに整備され、立派なお手洗いがあったことも伝えておきます

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~懐かしい美濃太田駅へ

※訪問は2025年10月4日

もしかして貴重なきっぷ?

朝8時の芦屋駅は雨模様

手にしたのは芦屋~美濃太田の乗車券。2日前に三ノ宮駅で購入した。ともにそれなりの知名度はある駅だが、この乗車券が1年にどれほど売れるのかは、やや疑問で、ある意味貴重かもしれない

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米原ダッシュを経て懐かしい美濃太田駅へ

芦屋から新快速に乗れば、下車することなく米原まで連れていってくれる。米原から敦賀までは各駅停車になる新快速は、4両編成になってしまうこともあって敦賀まで果てしなく遠く感じるが、米原までは抜群のパワー

週末ということもあって、10時という時間は乗り換え客が多い。彦根あたりだと週末に名古屋へお出かけという人も多いようで、青春18きっぷが以前のシステムだったころは、名古屋までの乗車券を持つ女子高生のグループに「18きっぷをシェアした方が得だよ」と声をかけそうになったこともある

こう見ると鉄道の日記念きっぷの利用期間中ながら同業者(鉄道ファン)の姿はあまりいないようだったが、週末の長い編成で無事に着席

岐阜駅に到着。芦屋駅も雨だったが岐阜駅はさらに強い本降りである。先に言っておくが、ここから2日間、ずっと雨それも冷たい雨に見舞われることになる

懐かしい美濃太田駅から長良川鉄道に

今日と明日は、まる2日間、長良川鉄道に乗車する。実は当初の予定を2週間繰り上げて、予定をこの日に変更した。というのも10月18日にダイヤ変更が実施され、減便されることが発表されるからだ。減便区間は主に美濃市から終点の北濃にかけて。当然だが、この区間を「主人公」にするのが鉄オタである。これはマズいと減便前に旅程を変更。結果的にずっと雨降りとなってしまったが、これはしょうがない。天候よりもダイヤ優先だ

岐阜駅から高山本線に乗車。数度足を運んでようやく達成した高山本線の全駅訪問では何度となくこのホームから乗車した

そしてこちらも懐かしい美濃太田駅。駅前のホテルに2度宿泊した。純正の「Kiosk」もそのまま。できればずっとこのままであってほしい

JR東海の主要駅は「みどりの窓口」を「全線きっぷうりば」と表記することが圧倒的に多い。もちろん中身は同じ。Kioskにこだわったり、駅名標の文字も国鉄字体を使用、車掌の業務も国鉄時代をほうふつとさせるなど、国鉄色を意識するJR東海が、この部分だけは大きく

こちらは岐阜駅のもの。おなじみのみどりの窓口のイラストもないが、美濃太田駅ではしっかり残っている

そして美濃太田からは何度も乗車した高山本線ではなく長良川鉄道に。1区間すら乗ったことがなく、これが初乗車。72キロもある第三セクターで、なおかつ行き止まりとなっている長い長い盲腸線だ。凄く楽しみ

だが、足は長良川鉄道のホームには向かず

なぜかタクシー乗り場へと向かったのである

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~三方湖畔の駅でソースカツ丼

※訪問は2025年3月27日

かつての急行停車駅

三方駅に到着。美浜からは約10分。現在、両駅の間には気山駅があるが、1917年(大正6)に敦賀から十村まで小浜線の最初の区間が開業した際は、隣駅だった(当時の美浜駅は河原市駅を名乗っていた)。気山駅の開業は無煙化となった1961年(昭和36)である。ともに路線内では主要駅のひとつで気動車投入で急行も走るようになり、美浜駅とともに三方駅にも急行が停車していた

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観光拠点の駅

三方と聞いてまず連想するのは三方五湖だろう。三方五湖は当駅のある若狭町と美浜駅のある美浜町にまたがっていて当駅は三方湖に近いが、観光拠点の駅でもある

実際にグルリと歩く人もいるだろうし、レンタサイクルも盛んで駅でも貸し出しを行っている

駅前の周辺図が三方五湖の位置関係を分かりやすく表記している

開業時の所在自治体は八村。明治の町村制施行の際に8つの村が合併して生まれた町で、その中には三方村も含まれていた。一時的に自治体名から名前が消えることになったが、1953年に三方町が誕生して復活。ただし駅名は設置時から三方のまま。平成の大合併で三方町は上中町と合併して現在は若狭町となっている

列車を降りてまず気づくのは、かつては2面2線構造だったということ

貨物の取り扱いも行っていたが、昭和30年代に貨物の扱いはなくなっている。2022年度の1日の利用者数は154人。コロナ禍の影響が残る年でもあったが、この数字は京都府との府県境に近い青郷駅や以前は駅舎がなかった三松駅とほとんど同じ数字となっていて22駅(敦賀と東舞鶴をのぞく)中13位。ちなみに美浜駅は370人で7位である。地図でも分かる通り、三方湖のほぼ湖畔の三方五湖PAに若狭舞鶴自動車のスマートインターが2018年に開通している

落ち着いた駅舎とレストラン

駅舎は落ち着いたコンクリート製。電化時に立派になった路線内の他駅とは異なり、JR移管直後の1988年に建て直されたもの。小ぶりながら機能的。ガラス張りの正面入口が美しい

こちらの窓口も訪問直前の3月12日にみどりの窓口の営業を終えたばかりで、現在は簡易委託

さて駅到着は11時49分だったが

駅舎にはレストランが入居していた。美浜駅の道の駅定休日でお昼を食べられずにいたので、これは朗報

迷わずソースカツ丼。何か福井県内の駅で降りる度にソースカツ丼か蕎麦を食べているような気がする

棒状ホームということで乗車間違いのないように気遣った駅名標が設けられている

12時29分の敦賀行きに乗車。まだ早い時間だが、湖西線のいくつかの駅に行きたいので、敦賀経由で新快速に乗車

3月末で、まだまだ寒い日も訪れる時期だが、この日の若狭地方は気温20度超えと、初夏のような陽気だった。次に小浜線を訪れたのは6月。いつものことだが記事と季節感が合わなくなっているので次回からは、しばらく小浜線を離れ、別路線の訪問を記していきたい

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~道の駅セットの主要駅は駅名変更の歴史

※訪問は2025年3月27日

知名度の高い優等列車停車駅

美浜駅に到着。小浜線の中では知名度が高い駅で、急行が走っていた時代は停車駅でもあった。今も主要駅のひとつで、当駅で列車交換が行われることが多い

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現在の駅名は戦後になって

それほどの有名駅だが、現在の駅名は1956年(昭和31)からだということは意外と知られていないかもしれない。というのも美浜町の成立が1954年で、その際に新たにできた地名だからだ

駅の開業は1917年(大正6)。小浜線が敦賀から十村まで開業した際に途中駅として設置された。最初に開業した4駅のうちのひとつ。4駅といっても30キロ近くある。新たな駅ができていくのは戦後になってから。当時の駅名は「河原市」。もちろんこれは自治体としての「市」だったわけではない。当時の所在地は南西郷村

周辺の大きな町は耳村だった。だが線路は村内を走っていたが自治体内に駅は設置されず、村の中心部である河原市を駅名とした

河原市地区は耳川を挟んだ地域、どちらかというと川の東側に広がっていて今も地名は残り、美浜町の中心部となっている。川沿いに市が成立していたことで発展したようだ

耳という地名は古く、飛鳥時代には文献に「耳」の名がある。東小浜駅の記事でも紹介したが、この付近は長い歴史を有している

明らかな「弥美」という表記は奈良時代から平安時代に弥美郷として記されていて、室町時代の荘園の時代には耳荘となって近世を迎え、自治体名も耳村に。弥美郷は現在の美浜町全域を指したともされ、1954年の美浜町誕生の際は「弥美」と「砂浜」を合わせて町名とした

駅の構内で見る新旧

駅の跨線橋には、かつての駅の写真が飾られている。「祝 気動車運転」で昭和36年と記され、SLからの無煙化が始まった時のもののようだ。60年以上前のこの時点で既に年季の入った木造駅舎だったようだが、1967年にいわゆる国鉄型コンクリート駅舎へと建て直し。2003年(平成15)にさらにリニューアルされ

現在の姿となった

駅には観光協会も入居している

跨線橋の階段も凝っている

80分の待ち時間にも強い味方

さて私が到着したのは10時16分。この時間帯から夕方まで本数がガクンと経る時間帯で、次の敦賀行きは12時38分、東舞鶴行きは11時40分と最短でも80分もの待ち時間がある。ただ不安はなかった

駅に隣接して道の駅があるからだ。時間を潰そうと思えば何とでもなる…と思い込んでいたが、実際は違った。あまりにも人の気配がなさすぎる、と思ったら、訪問日は木曜日で週に1度の定休日だったのだ。まだお腹は減っていないが、これはショック。ただ当駅では快適に過ごす方法は他にもある

広い待合室があり、エアコンも完備。カウンターとなっている座席にはコンセントが設置され、スマホの充電も可能だ。設置されたテレビでは国会中継が放送されていて、それを眺めながら充電も100%に回復できたので大いに満足。もちろんきれいなお手洗いもある

さて、この美浜駅。随分と新しい部分ばかりをクローズアップしてきたが、そうでないものも残る

跨線橋の案内文字は国鉄からのもののようだ

出口の案内板も。すっかりリニューアルされた駅で、このようなものを発見するとうれしさもよりいっそうというものだ

当駅も小浜線の他のいくつかの駅と同じく訪問直前の3月16日にみどりの窓口の営業を終了して簡易委託駅となった。観光協会に委託されているようで、道の駅と休日が連動していることを理解した

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~「新」が目についてしまう簡素な駅舎

※訪問は2025年3月27日

バスで先回り作戦

上中駅からJR西日本バスの若江線に乗車する。乗ったのは小浜行き

まず小浜線の時刻表だが

8時44分の当駅着でやって来た。次の敦賀行きまでは1時間、小浜方面となると2時間もの空白がある

次いでバスの時刻表

8時55分の小浜行きがある。そこで考えたのが、バスで上中~小浜間のどこかの駅で降りて電車を待ち構える作戦だ。この区間内にある駅は東小浜と新平野しかないので、未訪問の駅となると必然的に新平野となる

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危険な「口」停留所

地方で路線バスに乗車する時はできれば小銭を用意、少なくとも千円札を所持しておくことが必要だ。IC乗車できないことが多々あり、コミュニティバスでは千円札の両替も困難なことがある。また近年はSuicaやICOCAなどのIC利用を取りやめる会社も出てきた。おそらくシステムの更新時にお金がもったいないからだろう。過去のデータを見て全国ICの利用が少なければ継続の意味がないと判断するのもやむを得ない

ただその点、JR西日本のバスならIC乗車はさすがに大丈夫。調べもしないで乗車したが、当然のようにピッとタッチして乗車した。このバスは過去3度ほど乗っているが、いずれも近江今津~小浜の始発~終点した乗車したことがないので新鮮だ

国道27号沿いの「新平野駅口」というバス停で下車。乗車時間は5分ほど。終点までだとぼんやりしているだけだが、停留所を逃さないために集中が必要。ちなみに料金は約5分の乗車で410円だった

ということで新平野駅口。これは過去に何度も経験して、記事にもしたが「○○駅口」というバス停は、まぁまぁ危険だ。下手をすると10分ほど歩くこともしばしば。ということで、さすがにこれだけは事前に調べておいた

徒歩5分と知って一安心。さぁ駅へ向かおう

駅名の由来は?

携帯アプリがない時代なら躊躇したかもしれない道をどんどん進んでいく。後で地図を見て分かったことだが、この地域には古墳が多い。古くから人の営みがあり、地域を治める有力者も多かったということだろう

飛び出し坊やにもあいさつをして

新平野駅に到着。ご覧の通りの簡易的なコンクリート駅舎。開業は1918年(大正7)で上中駅や大鳥羽駅と同じ。ここに線路ができた時からの一期生ということになる。かつては開業時からの駅舎があったようだが、JR移管後に現在の形となった

かつてはすれ違い可能な構造だったようだが、早々に棒状化そして無人化されている。貨物の取り扱いもあったようで駅前は広いが、それ以外に貨物を連想させるものはない

駅の北側には農地が広がる

そしてどうしても目につくのは「新」の駅名である。開業時、当駅は松永村にあった。駅の北側は宮川村(現在はいずれも小浜市)。平野は今も残る小浜市の地名で駅の住所は小浜市平野。村と村の境界近くにあるため村名を駅名にするのは避けたと想像できるが、なぜ「新」が付けられたのかは調べたが分からなかった。「平野」は全国に見られる地名で、大阪市の関西本線には明治期以来の平野駅があり、重複を避けたとの推察も成り立つが、あまりにも遠い。それならば路線内の他駅にならって「若狭平野」ではないのか。大正期に付けられた駅名ともあって結局は今もナゾのままである

ちなみに駅近くの郵便局は新平野郵便局だったが、他では平野が使われているようだった

こちらはホームから見た駅舎

駅舎内には待合室と自動販売機。他駅ではゆっくりできなかったので熱い缶コーヒーを、と一瞬思ったが

こちらを見て自粛しておいた

まだその季節ではないが、のどかなイラストに心が和らいだ

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~びわ湖からの直通列車を待ち続けた駅

※訪問は2025年3月27日

ちょっとしたトリビア

大鳥羽駅から2駅小浜方面へと戻って上中駅で下車。福井県の地図というか形をなんとなく思い浮かべてほしい。滋賀県の北側に覆い被さるように東西へと京都府との府県境までの地形。京都府との境に近い青郷駅が最西端なのは、すぐ理解できそうだが、最南端も小浜線内にあり、それがここ上中駅なのだ。北陸本線で滋賀県との県境となる新疋田駅あたりを思い浮かべそうだが、新疋田より南側に位置する駅は小浜線内には数多くある

敦賀を出た小浜線は若狭湾に沿って西へと向かっていくが、前記事で紹介した大鳥羽駅あたりから南へと進み、ここ上中駅あたりから再び西へと進む。ただこれは開業時の村や集落、地形に沿って進んだものであり、決して無理に南へ向かったものではない。運命共同体ともいえる敦賀から舞鶴まで並行する国道27号も同じようなコースをたどっている。もっとも現代に建設された若狭舞鶴自動車道については、地図で分かるように小浜から最短コースで上鳥羽駅近くまで建設されていて、いろいろな意味でスピードでは全くかなわない

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自治体名変更で駅名も変更

上中駅は1918年(大正7)の開業。大鳥羽駅と同時期の開業。両駅の間にある若狭有田駅の開業は、戦後になってから。当初の駅名は「三宅」だった。三宅村に所在したからだ。1954年に大鳥羽駅のある鳥羽村などと合併して上中町が誕生。直後に駅名も現在のものとなった。上中駅となったのは町の代表駅となったため。平成の大合併で若狭町となったが、駅名はそのままとなっている

駅舎は2005年(平成17)に建て直されたもの。2階は多目的スペースとなっているようで

簡易委託駅。私の訪問直前の3月11日まではみどりの窓口があった

待合所にはサボのほか、ホーローの駅名標も保存されていた。なぜか小浜駅のホーロー板まである

目を引いたのは

こちらの張り紙。近江今津から当駅を結ぶバスの定期、乗車券を駅の窓口で販売しているとある。これが当駅の歴史を語る上での重要なことなのだ

大正期から計画された悲願

駅舎内には西日本JRバスの運行する若江線(じゃっこうせん)の時刻表がある。お昼前から夕方にかけて1時間に1本。湖西線の近江今津駅から上中駅を経由して小浜駅とを結ぶ。運行時間帯だけを考えると小浜線より本数は多い。そして路線バスをJRが運行しているのがポイントでもある

敦賀からやってきた国道27号と近江今津からやって来た国道303号は、ここ福井県最南端の駅でもある上中駅付近で合流する。このルートは大阪や京都方面から最短で小浜を目指すルートとして定着しているが、元々は鉄道で結ぶ予定だった。もちろん小浜線との合流は上中駅。湖西線は戦後の話で、計画は大正期からすでにあり、私鉄の江若鉄道が昭和初期に近江今津まで敷設すると、国鉄のバス路線も開通。この頃は、あくまでも鉄路で結ばれるまでの暫定的なものだったが、戦後30年近くが経ち湖西線が開業しても計画路線のまま。JR移管後もさまざな計画があり、バスも江若交通との共同運行の時代もあったが、現在は西日本JRバスのみが運行を続けている。結果的に悲願とともに90年近い歴史を誇る路線となった

結果的に北陸新幹線の小浜ルートが決定したことで計画そのものもなくなった形になっているが、その小浜ルートも怪しい雰囲気になっているのも事実である。このバス路線については、あらためて紹介したいと思う

駅前には若江線乗り場のロータリーがある。ただ、ここに来たのはバス施設の写真を撮るためだけではない。今からこのバスに乗車するためだ

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~古風なビルが駅舎の貴重な存在

※訪問は2025年3月27日

1時間以上かけて

大鳥羽駅にやって来た。東舞鶴を7時15分発の列車に乗って到着は8時26分。路線図を見ると小浜を過ぎていて敦賀の方が近い。ローカル線の駅訪問にわざわざ1時間以上もかかる場所に宿をとるのは効率が悪い。これにはいろいろな理由があって、小浜駅周辺に手頃なビジネスホテルがなかったこと、敦賀駅周辺のホテルが高くて尻込みしてしまったことなどがあるが、結論からいうと一度東舞鶴に泊まってみたかったのである(笑)

また前日の道中で時刻表の見誤りに気づいて修正したところ、東舞鶴に近い駅の訪問がサクサク進んでしまったことも朝から1時間以上のローカル線乗車につながった

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荘園に基づく

大鳥羽駅の開業は1918年(大正7)。前年に敦賀から十村まで開業した小浜線が小浜まで延伸される際に設置された。当時は鳥羽村に所在。鳥羽村は戦後の1954年に周辺の村が合併して上中町となり、平成の大合併で若狭町となった

小浜線の沿線は京都との結びつきが強く、その分歴史も古い。地名の由来は鳥羽荘という荘園に基づき、鎌倉時代の文献にすでにその名が残る。荘園の名前については現在の鳥羽川が流れていて、川を渡るための「渡場(とば)」が転訛したのではないかと考えられている。鳥羽荘の中心地だから大鳥羽。明治の町村制施行まで大鳥羽村があった。駅周辺の地名は今も大鳥羽。明治期に開業していた参宮線の鳥羽駅との重複を避けたかどうかは不明だが、地名がそのまま駅名となった

駅周辺は今も旧鳥羽村の中心地となっている

ちなみに駅近くの周辺地図を見たら

さすが古い町らしく読めない地名が多数あった

駅舎はもともとJAのビル

駅構造は1面1線の棒状ホーム。最初の写真を見ていただければ分かるが、島式ホームにするスペースは設けられているので、その予定はあったのかもしれない

ホームから駅舎に向かうと2階建てのコンクリートの建物に入るようになっている

外に出ると2階建てとはいえ立派なビルだ。当駅はもともとJAとの合築だった。JR移管後の1988年に建てられたもの。88年といえば、89年の年明け早々に平成となったので昭和のほとんど最後に当たる。昭和から平成、令和と地域を見守り続けている

これまで取り上げたことはほとんどないが、全国各地に行くと駅のすぐ近くでJAの建物に遭遇する。理髪店が見守る駅として紹介した小浜線の加斗駅近くにも建物があった。人がいるのかいないのか不明な建物もあって触れにくいのだが、閑散とした無人駅の近くでぼんやりしていたら、中に誰もいないと思われるJAの建物の前まで車がやってきてATMコーナーに入り、再び去っていくという光景も何度も見てきた。かと思うと

弘南鉄道弘南線では、巨大駅ビルとなっているJAにも出会った。いろいろなケースがあるが、地方の町では重要なんだなぁ、といつも感じる

現在JAは撤退して「若狭ものづくり美学舎」が入居している。こちらが営業している時間帯は簡易委託としてきっぷ販売を行っているようだ

これまで紹介したように小浜線の駅舎は電化後に大きく変わったものが多い。昭和からのたたずまいを残す貴重な存在である

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~舞鶴など昔の話

何事も今のうちに

こちらは前日の17時40分に東舞鶴駅に到着した際のホームの様子。小浜線から舞鶴線へすぐ乗り継げるようになっている。何の気なしに撮った写真だが、しばらくすると車両が代替わりして、かなり時間が経ってから「あの時乗ったなぁ、見たなぁ」と思うことがしぱしぱ。すっかり様変わりするのは駅だが、車両については全く専門外の私でも懐かしさのあまり写真を眺めてしまう。つい先日、青春18きっぷで岡山へと出向いた際、赤穂線に乗ると「食パン改造車」に出会った。以前は「ラッシュ時にこんな2両編成に詰め込むなんて酷いな」と思っていたものだが、もう間もなく姿を消すと思うと感慨がこみ上げてくる

もっとも北海道で話題となったキハ40についてはJR西日本では広い範囲でバリバリの現役。いわゆる「タラコ車」だが、こちらはまだまだ主役の座から降りそうにない

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早朝の東舞鶴を歩く

朝は悠然とバイキングの食事でスタートする。今日についてはのんびりと駅訪問をしながら敦賀へと向かうつもり。どうやっても今日だけで全駅訪問は無理なので、気候が変わったころに再訪の予定。また同時進行のように湖西線の各駅訪問も行っていて、いくつかの駅で降りながら帰路へとつく。湖西線も小浜線同様に北陸新幹線の影響を受ける可能性のある路線で、こちらは今後の様子を見てから記事化したい

まだ7時になっていないアーケードを駅に向かって進む

「ようこそ」の案内表示にロシア語まで入っている

駅の改札口には7時前に到着。有人になるのは8時からだそうで、随分遅く感じるが、ここから出発する人より8時ごろから降りてくる人の方が多いのだろう

こちらが時刻表。京都までの特急が8本もある。この特急は福知山駅で大阪方面への特急と神業連絡を行うが、小浜線と比べ随分と待遇が違う。しかも始発が5時台なのに比べ、終電は20時39分しかも小浜止まりと店じまいも早い。流動の特性がこのようになっているのだろう

駅で見た写真

改札の外にもお手洗いがあるのでま繁華街とは逆方向の出口に行くと、かつて多くの線路が並んでいたと思われる場所は芝生広場。規模の大きさを感じる

そして駅構内の写真。軍港だった舞鶴は終戦と同時に引き揚げの舞台となる。国外にいた日本人の多くが戦後3年でほぼ帰国したのに対し、ソ連によるシベリア捕虜抑留もあって、ソ連からの帰国は遅れ、最後の帰国は1958年と戦後13年も経ってから。舞鶴港へ最初に帰国船が到着したのが1945年10月7日で、舞鶴市では10月7日を「舞鶴引き揚げの日」としている。以降、66万人もの人が舞鶴港へ引き揚げてきた

30年以上前、当時港で取材した元新聞記者の方に話を聞いたことがある。引き揚げてきた人、迎えた家族、引き揚げ船が着く度に夫を探す家族の話はいずれも中身の濃い話だった

と同時に原稿を送る苦労も聞いた。今のようにネットにつなげば写真を送れる時代では当然なく、FAXなんてものが登場するのは何十年も後だ。原稿については電話で吹き込む(電話で原稿を読み上げて会社にいる人が原稿用紙に書く。私もギリギリその時代を知っている)ことができるが、写真についてはそうはいかない。有力な送信手段は伝書鳩だった。ハトの足にフィルムを装着して「空輸」する。訓練されたハトは無事、大阪まで運んでくれたそうだが、ハトにも個体差があって締め切りに到着しないこともしばしば。「○○新聞のハトは優秀やった。うちのはアカン」と30年以上前のことをボヤいていた

さらにもうひとつ、これは舞鶴とは関係ない余談だが、今から70年前の大阪鉄道管理局。建物は平成の声を聞いても大阪駅の北側にまだ残っていたと思うが、そこに詰める鉄道担当の記者には「国鉄パス」なるものが国鉄から与えられていた。全国の国鉄路線が年中乗り放題という大判振る舞いなもので、携わった方は、ほとんどこの世を去っていると思われるので、その頃の話をすると、新幹線などというものは走っていない時代、顔写真も張っていないパスは重宝され、社内では夏休みの日程を社員がそれぞれ割り振って使い回ししていたとか。その後、とある新聞社が「国鉄が記者にこのような便宜をはかっている」という記事を出して、そのパスもなくなったという。今だったらあっという間に世の中に拡散して大変なことになりそうだが、ある意味牧歌的な話ではある

話は随分横道に行ってしまったが、閑話休題

1時間以上トコトコと揺られて棒状ホームの駅で降りた

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