きっぷ

弘南鉄道弘南線を行く~朝の20分チャレンジからスタート

※訪問は2025年7月11日

大鰐線の後はもちろん

弘南鉄道弘南線の弘高下駅。ここで3月にスタートした大鰐線の全駅訪問を終えた

「終えた」といっても今日は朝の6時過ぎから行動を開始しているので、3月に訪問済みの大鰐から始まって津軽大沢、松木平、小栗山そして弘高下と未回収だった4駅の訪問を終えてもまだ8時20分。ということで、ここから弘南鉄道のもう1本の路線、弘南線の各駅訪問を行うことにする

最初の訪問駅は弘前東高前である

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両駅の位置関係は?

まずは両駅の位置関係

弘南線の始発駅は弘前。つまりJRの弘前駅と同じ場所だ。そして弘高下駅と弘前駅、弘高下駅と弘前東高前駅は同じような距離にある。ということで弘前駅に行くぐらいなら、ここは弘前東高前への訪問である。どちらも移動手段は徒歩なのだから

ただし若干問題があって現在の時刻は正式には8時19分。弘前東高前の時刻表を調べると黒石行きは8時40分である。20分で到達できれば問題はないのだが、グーグル地図によると28分。ちょっと難しいかもしれない

しかし、そんなことは言っていられない。ここはチャレンジの一手だろう。どちらにせよ各駅回収で当駅には行かなければならないのだから。地図によると下り坂が続いていそうだ。もしかしたら時間内に到達できるかもしれない

ということで大鰐線全駅訪問完了の余韻に浸ることもなく歩き始める。ただ大鰐線で何度か行った徒歩とは異なり、ここは弘前の市街地の中心部。一本道ではなく広い道や細い道もあって、選択肢が多いことがかえって経路を惑わせる

そして結論から言うと

ここを渡れば弘前東高前、という奥羽本線の踏切に到着したのが8時42分。チャレンジはむなしく失敗に終わった

途中「路地チャレンジ」したのが敗因で、地図アプリの通りに進んでいけば、もしかすると間に合ったかもしれないが、それはあくまで「電車に間に合った」というもので駅の写真を撮るところまでも行かなかっただろう

まぁしょうがない。そして一応「保険」はかけてあって、黒石行きは1時間やって来ないが、弘前行きは8時50分で弘前にはすぐ行ける。弘前駅前のホテルは連泊となっているため、ホテルの自室で休憩もスマホの充電もできる。最近のホテルでよく行われている連泊の際のエコプラン(部屋の掃除やベッドメイクを不要とすると、いろいろ特典がついてくる。私は缶ビールを1本もらった)を利用しているので部屋に戻っても清掃中ということはない

そして弘前東高前駅。高校生の利用が多いからだろう。自販機がズラリ並んでいる。なかなか立派な駅舎である

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~再度高森まで乗車し2日間の総まとめ

※訪問は2025年8月27日

週末にはカフェオープン

昭和初期からの駅舎が残る長陽駅の入口を入ると

駅舎内にはカフェがある。週末の営業。こうして沿線の駅を訪ねていくと週末は昼食や休憩に困らないことが分かる。「村」で食事に困らないのは貴重なことだ。逆に最も来てはいけないのは火曜日のようだということは、来て分かった(笑)

訪問した時は駅舎内で地元農産物の販売を行っていた

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残された古い駅名標

駅舎には古い駅名標が残されている。青地に白文字。思えば各地で標準形のものだったが、いつの間にか絶滅危惧種になっている。鉄道会社や管理を行う自治体の好意に頼っていて、三セク化した路線や駅の管理を自治体が担っている駅でしか見かけなくなりつつあるのが実情かもしれない

「たての」は従来のものだが、「かせ」については南阿蘇鉄道になって開業した駅なので「あそしもだ」だったようだ

ホームも従来からのものが、そのまま使用されている。ベンチも置かれていて、これはカフェ利用者も使えるようにしたものか

暑さに耐えられず

さて駅にたどり着いたのは9時すぎで、この後は立野経由で熊本市内方面へと向かうだけなのだが、次の立野行きは10時54分。加勢駅からの徒歩の際「次の列車まで2時間ある」と記したが、まさにその通り。最初はぼんやり待つ気でいたが、徐々に夏の猛烈な日差しが駅舎と周辺を包みはじめ、もうたまらん

実は9時50分の高森行きが、その1時間前にやって来て、この列車は高森で折り返し、当駅を10時54分発となる。つまり高森まで行って戻ってきても、最初に予定していた列車となる。となると答えはひとつ。列車はもちろんエアコン完備だし、高森駅は駅舎内にもエアコンが効いていて快適だ。そして私はまだ本日利用している旅名人きっぷにハンコをもらっていない。最初の肥後大津はドタバタしていてもらいそこね、南阿蘇鉄道の車内で尋ねると「最初に降りる駅員のいる駅でもらってください」とのこと。となれば、下手をすると豊肥本線へと戻ってきて、どこかの駅になるかもしれないと思っていたが、南阿蘇鉄道では唯一、高森駅なら駅員さんがいる

ということで高森駅で無事にハンコをもらい、そのまま立野まで折り返して熊本方面へと向かった。何度も利用している旅名人きっぷは、九州内のJR以外の路線が、ほぼ乗り放題となるきっぷで、大変愛用させていただいているが、JR以外の駅でハンコをもらう機会はなかなかなく、松浦鉄道以来かもしれない

高森駅の紹介で「翌日にも訪れた」し記したのは、こんな事情からだった

こうして南阿蘇鉄道の全駅訪問は無事に終了。初日の奇跡があったおかげで2日目の午前中には達成することができた。早着したおかげで白川水源の観光もでき、美味しい水も味わうことができた。心残りは高森の湧水トンネル公園に行けなかったこと

繰り返しとなるが、観光の村、観光の町ということもあって路線内では食事にはあまり困らない。次回は週末に訪れてみたい

こちらは長陽駅の南阿蘇村マップ。村以外の場所も描かれているが、まだ訪れたことのない草千里はこんなところにあるんだと、あらためて思う。鉄道ブログでこのようなことを書くのも妙な話ではあるが、あらためてドライブでの沿線巡りもしてみたいと思ってしまった

国鉄末期は1日わずか6往復だった高森線は南阿蘇鉄道となって本数を大幅に増やし、駅舎も改修した。再出発の路線は熊本地震そしてコロナ禍によって鉄道だけでなく、観光の街である沿線も大きな被害を受けたが、今は新たな再出発をしたばかりである

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~徒歩で訪れた10番目の駅は素晴らしき木造駅舎

※訪問は2025年8月27日

歩くていっても(笑)

加勢駅の後はいよいよ最後の駅となる長陽である。前記事でも触れた通り、次の列車まで2時間以上の空白があるので、ここは歩くしかない。朝の9時という時間帯ながら、もう太陽はさんさんと輝きだしていて、徒歩という手段には勇気がいることだが、これだけ時間が空くと歩くしかないのだ

もっとも

わずか15分なのだけど(笑)

逆に言うと、この近距離ぶりが加勢駅設置について、あれこれ考えるきっかけにもなった

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坂を上り下りしてたどり着いた先には

ただし徒歩といっても

いきなり踏切をまたいで細い道路を登ったと思うと

真っ直ぐ進むのではなく、またも踏切を渡って今度は下り坂(上記の地図で分かる通り、真っ直ぐ進むと旧国道に出て、やや遠回りながら分かりやすいコースになる)

ビニールハウスの傍らの車だとすれ違い困難な見通しの悪い道を降りていって、また登る。携帯アプリがないと、地図だけではちょっと勇気の要る道程だ。そもそも地図にどの程度描かれているのか分からない。携帯アプリがないと、このコースでの到達は困難だろう。携帯アプリがあっても果たして自分の進んでいるコースが正しいのかどうか何度も見直したほどだ

未だに「長陽村」の表記と電話局番5ケタが残る畳店を眺めながら進むと

長陽駅に到着である。ご覧の通り、国鉄時代からの駅舎が健在。おそらく1928年(昭和3)からの開業時以来のものだ。南阿蘇鉄道で唯一、国鉄駅舎が残る。もちろん高森線の1期生

かつての長陽村

平成の大合併で南阿蘇村が誕生するまで所在地は長陽村だった。長陽村は明治の町村制施行の際、長野村、河陽村、下野村の3村が合併してできた自治体。見て分かる通り合成地名である。阿蘇山の地形の関係で、この付近は日照時間が長いことも影響しているという。南阿蘇鉄道の誕生時には、当駅のほかにも加勢駅、阿蘇下田(現在の阿蘇下田城)駅そして立野駅と4駅もが村内にあった。立野はすでに紹介した通り、豊肥本線との接続駅で、長陽村から南阿蘇村となった今も「特急が停まる村の駅」だが、かつて大津町の誕生に参加した瀬田村の一部で、その際に立野地区だけが長陽村に入ることになった経緯がある。場合によっては村への特急停車はなかったかもしれない

駅前に長陽駅についての解説文があった

こちらが、その周辺図

南阿蘇鉄道が誕生して各駅が一新された中、どうして当駅のみが国鉄時代の姿のまま残されたのかは、調べても分からなかった。とにかく2016年の熊本地震でもしっかり残ったことだけは揺るがない事実である

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~周囲に見当たるものがない新駅

※訪問は2025年8月27日

残るは立野から1、2駅目

いよいよ残るは立野から1駅目の長陽、2駅目の加勢の2駅となった。それなりに回る順序を決めたつもりだが、詰めまで来て昼間に運行本数がガクンと減る時刻表の壁がやってくる。何度も書いてきたが、これは「ローカル線あるある」で、その壁には何度も直面してきた。だから移動手段も含め、この2駅をセットにしたのだ。その理由については後述する

とにかく中松駅を出て加勢駅に到着である

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コンパクトな駅舎に包まれた周辺は

南阿蘇鉄道の10駅のうち国鉄高森線時代からの6駅で三セク移管後に新設されたのは4駅。7駅を回ってきて気付いたのは、国鉄時代からの駅は周辺に集落があり、街の顔として約100年にわたり歴史を刻んできたが、新駅は観光などの目的が設置されているということだ。それはそうで、新駅の設置はすべて南阿蘇村。山中の村に新たな集落が誕生することはほぼない。ここまで巡ってきた3駅は「見晴台」「南阿蘇白川水源」「南阿蘇水の生まれる里白水高原」と、道中でも触れてきたが、何らかの目的があったり感じたりする駅ばかりだった

ということで加勢駅。ここまで見てきた南阿蘇鉄道の駅舎で最もコンパクト。ホームは植え込みの向こうにあり、階段を登ると待合室があって、そしてホーム

待合室はきれいに掃除が行き届いている。駅舎の写真でも分かるようにお手洗いも設置されている。ホームへはここから出るが、他にもホームへの行き方はある

そして駅前には細い道路があるだけだ。ちなみに隣駅の長陽までは徒歩も可能なぐらい近い。というか結果的にはここから歩いたのだけども

集落が目的だったのか

これまで見てきた南阿蘇鉄道の駅舎の中で最もコンパクト。言い換えれば最も小さい。開業は1986年(昭和61)の11月。この年の4月に三セク移管が行われ、見晴台と同時に南阿蘇鉄道最初の新駅として設置された。周辺に何もないのだから利用者も少ない。全線復旧後のデータは発表されていないが、震災前の2015年のデータによると1日の利用者はわずか6人で路線内最少。震災前でこの数字なので、おそらく現在もその地位を保っていると思われる。ただ全国に周囲に何もない駅は数多くあるが、それは長い歴史を積み重ねていく上でそうなってしまったものがほとんどで、JRから三セク転換をする際、何の意味もなく新駅を設置するはずがない

一応私なりに考えた駅の設置の意味は

駅舎の逆側、旧国道沿いにある集落の存在ではないだろうか。徒歩7分の場所に集落があり郵便局や南阿蘇西小学校がある。もともとは長陽小学校があった場所に旧長陽村にあった3つの小学校を統合して誕生した。集落側に駅舎を設置したかったのだうが、そちら側は森。道路や地形の関係で駅舎の位置も決まったというのが私なりに導き出した考えだ

こちらはホームと駅舎の様子

ホームには「ワンピースを探せ」のキャラクターがいる。列車を見送ったのは8時45分。次の立野行きは10時52分で2時間以上もない。さすがにここで2時間時間をつぶすわけにはいかないので、朝の9時とはいえ、かなり気温が上昇してきた中、最後の長陽駅まで歩き始めることとした

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~震災後もずっと走り続けていた路線

※訪問は2025年8月27日

あらためて駅舎内

あらためて中松駅。こちらは列車を降りた際の駅舎の出迎え。「19870401」とあるのは、新駅舎が開業した1987年4月1日の日付だ

こちらは駅舎入口。ぶらさげられたちょうちんが、近代的なフォルムの駅舎と微妙なミスマッチをしていてかえって目立っている

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駅舎ではカフェが営業

当駅にはカフェが「秘密の基地ゴン」が入居している。週末と金曜日の営業ということで私の訪問日は休業だったが、名物というイノシシ肉のミートボール入りカレーが人気メニューだそうで

待合スペースにはワンピースにちなむ装飾が施されている

そして地元の中松小学校の生徒さんによるイラストが張られている。2001年となっているので、手がけた小学生は30代半ばに達しているが、この中松小学校は今はない。2021年春に他校との統合によって閉校になった

明治維新から間もない1875年(明治8)に開校された歴史ある学校だった。学校のHPは今も残されていて、行事日記も細かく更新されていたことが分かる。以前、山陰本線の長門粟野駅を訪問した際、駅舎内の装飾を地元の小学生が手がけていたことを知り、学校のHPを調べたところ、すでに廃校となっていてカウントダウンの日記に思わず目頭が熱くなってしまったことがあったが、同様の思いで、コロナ禍の時期になってしまった閉校式までの日々は苦労を感じさせる。閉校式まで3週間という時期にアップされた動画は校歌に合わせてドローン撮影した校舎の風景を描きながら、最後は生徒関係者が集合して「145年間ありがとう中松小学校」と幕を掲げて締めくくられるもの。わずか4年前のことだけに迫る思いがある

バルタン星人からのメッセージ

2023年に全線復旧した南阿蘇鉄道だが、多くの人がおそらく間違った印象を持っていると思われるのは、2016年の熊本地震以降も列車は走っていたという事実だ。2016年4月に熊本地震が発生。南阿蘇鉄道は全面運休となったが、7月には中松~高森で運行が再開されている。だから表現も「全線復旧」となっている。ここ中森駅は折り返し駅だった。三セク移管後に列車交換可能駅となり、信号設備が設けられたことが役立った。とはいえ豊肥本線の立野駅とつながっていないと各方面から列車で南阿蘇村、高森町に来ることはできない(豊肥本線の全面復旧も2020年である)ので1日3~4往復と限られた運行数だったが、7年にわたり全17・7キロ中の7・2キロを走らせ続けていたことが、その後の全線復旧につながったことは言うまでもない

そんな中松駅で出会った「人物」がいた

お手洗いにあったバルタン星人からのメッセージ。「科学特捜隊九州支部」の「中松駅特務清掃課」から「きれいに使って」と地球人に呼びかけている。ウルトラシリーズを通して登場する「人気悪役」。後期のものについては私は見ていないので何も語れないが、ウルトラマンは子どもの頃にリアルタイムで見ていた。実は最初の登場は「極悪星人」でなかったことを知る人は意外と少ない。最大の特徴である大きなはさみでこのように言われたのでは、素直に言うことを聞くしかないのである

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~悲しい説明文と80年前の弾痕

※訪問は2025年8月27日

今朝も直通列車でスタート

朝7時20分の肥後大津駅。南阿蘇鉄道の全駅訪問を再開する。といっても前日に「奇跡の飛行機早着」があったおかげで10駅のうち7駅の訪問を終えることができ、残りは3駅。天気も良さそうなので、午前中にここまで戻ってこられそうだ

朝の7時29分、9時26分と、1日2本のみ運行される南阿蘇鉄道直通列車に乗車。昨日は9時26分の方で今日は7時29分。通学の時間だが、方向的には下りになるので楽勝だろうと思っていたら、単行列車の車内はあっという間に高校生で埋め尽くされてしまい、少し驚いた。結論から言うと、私が下車した中松まで誰も降りなかったので、この先にある学校へと通うのだろう

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独特のフォルムに包まれた駅

約30分揺られて中松駅に到着。ご覧のように列車交換が可能な駅。南阿蘇鉄道の駅はすべて単式ホームで、起点の立野、終点の高森も単式ホーム(高森駅には留置線があるので列車を停めるスペースは他にもある)。つまり同時に2つの列車の乗り入れが可能な駅は当駅だけだ

外に出ると

独特なフォルムの駅舎が利用者を出迎えてくれる。中松駅は1928年(昭和3)の開業。国鉄高森線の1期生の駅だが、国鉄時代に駅舎は撤去され、三セク移管時はプレハブ小屋のような仮駅舎の姿になっていたようだ。現在の駅舎は南阿蘇鉄道となって1年後の1987年(昭和62)からのもの。熊本を中心に活躍する建築家桂英昭さんの設計によるもの。こうやって各駅を訪問していくと南阿蘇鉄道の発足時は「生まれ変わった鉄道」として、どの駅も気合の入った駅舎が建てられたことがよく分かる

ただふと目にした説明文の前で足が止まってしまった

阿蘇の山中を襲った米軍機

1945年5月に中松駅に停車中の列車が米軍機の機銃掃射を受け、乗客に死傷者が出たとの解説文がある。事前に情報を知らなかった私は衝撃を受け、駅舎や駅周辺の探索は後回しにして再びホームに戻った

白く囲われたホームが欠けている部分が、80年経っても残る弾痕だ。そこにも案内板があり

ここにも解説板がある。このような山中に米軍が目標とする施設があるはずもない。山中で思い出すのは、廃線となった三江線の船佐駅(広島県)

こちらは廃線前の2016年に訪問した際のものだが

ホームに解説文がある。廃線後の2022年にも訪問したが、すでに立ち入り禁止となっていたホームながら、この解説文の前までは行けるようになっていた。中松駅と同様、軍事的に標的とするものがない山中の出来事。船佐駅の空襲からわずか8日後に阿蘇の山中で同様の悲劇があったことになる

戦争末期には、ゲーム感覚で米軍が機銃掃射をしたとしか思えない悲劇が全国で起きている。ここ阿蘇の山中でも80年前に同じ出来事があったことを知り、しばし立ちすくんでしまった

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~起点そして分岐駅の立野駅を再訪問

※訪問は2025年8月26日

宿泊地の肥後大津へ

かつて日本一長い駅名だった「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅で、この日の南阿蘇鉄道の駅訪問を終えて本日の宿泊地としている肥後大津駅へ戻ることにした。戻るためには豊肥本線との接続駅で南阿蘇鉄道の始発駅でもある立野で乗り換える必要がある。来る時は1日2本しかない肥後大津からの直通列車だったため、この日は初訪問

その道中、立野を出た列車が白川を渡る際に通る立野橋梁、第一白川橋梁は車窓の見どころのひとつとなっている

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復興からの大工事

往路は満員で車窓を見る余裕はなかったが、肥後大津へと戻る時間帯は車内もすいていて、私も含め撮影会か始まる。橋の上では徐行運転をしてくれて景色を眺める時間もある

2016年の熊本地震で大きな被害を受けた沿線で、最難関とされたのは第一白川橋梁の復興だった。大正期から工事が始まり、1928年(昭和3)の完成時は川からの高さ日本一の高さ64・5メートルは日本一。その後、105メートルの高千穂橋梁(宮崎県)、70メートルの関の沢橋梁(静岡県)に抜かれたが、今も日本で3位。高千穂橋梁が営業列車の運行を終えたため、事実上第2位の座にある

この区間では3つの橋梁と2つのトンネルを経由するが、トンネルの被害も甚大で結果的に山全体を削ってトンネルをひとつなくす作業も行われ、新しい橋が完成したのは2022年。翌年の4月から強度の試運転が行われ、2023年7月の全線再開となった

2年ぶりの立野駅

立野駅に到着。乗り変え時間が約30分あるので外に出てみよう

南阿蘇鉄道の立野駅は単式ホーム。スロープを経てJRの立野駅へと移動する。直通運転される朝の2本はJRホームから出発する注意書きがある

駅舎は階段を上がったところにあるが、エレベーターも設置されている

こひちらが駅舎。熊本地震で被災したため、建て替えられた。南阿蘇鉄道がクローズアップされがちだが、豊肥本線も肥後大津~阿蘇が4年間にわたって運休している

木をふんだんに使った駅舎には

きれいな待合室がある。クルーズ列車の七つ星以外の特急はすべて停車。事実上、全列車が停車する駅となっていて立派な設備を持つが無人駅である。所在地は南阿蘇村で、特急が停車する「村」の駅でもある

1916年(大正5)の開業。しばらくは終着駅だった。豊肥本線は、ここから山中深く入っていくため、隣駅の赤水との間は有名なスイッチバック区間となる。当駅を訪れたのは2年ぶり

前回はスイッチバックを堪能した。訪問は2023年の6月29日。新駅舎の完成がこの年の3月なので、まだ木の香りが残っていた。そして

7月15日の全線再開を2週間後に控えた南阿蘇鉄道のホームは、その日までのカウントダウンに入っていた

JR九州でよく見かける姿だが、ホームのフェンスに時刻表が掲げられている

JRは島式ホームでホーム上に自動券売機が置かれている

震災からの復興を告げる看板を眺めながら肥後大津へと戻る。残る駅はまた明日

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~元「日本一」の駅はどんなところ?

※訪問は2025年8月26日

今でこそネットの発達によって駅の情報が手軽に入手できるようになったが、「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅が開業した1992年(平成4)ごろ、駅の情報はほぼ何もなかった。鉄道知識を得るための有力な手段のひとつは文庫本サイズの鉄道雑学の本だったが、その手の書籍には必ずといっていいほど当駅についての知識つまり日本一長い駅名だということは掲載されていたが、一体どんな駅なのか、周囲に何があるかについては、ほとんど触れられていなかった。というか駅の写真すらなかったと記憶する。そのころは鉄道会社にお願いして「駅の写真を添付してメールで送ってください」という手法はとれなかった。今にして思うと執筆にあたった方は実際に駅で降り立ったことはなく、情報だけを集めて本を作っていたのではないかと推察してしまうのだが、当時はただただ「そんな駅があるのか」という興味があるだけだった

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正十二角形の木造駅舎

駅舎はご覧の通り、時計台を持つ木造駅舎で開業以来のもの。正十二角形という独特のフォルムが目を引く。そういえば三セク移管されて最初の高森駅も時計台を持っていたし、阿蘇白川駅にも立派な時計台がある。見晴台駅も駅の正面に立派な時計がある

駅舎の中には古書店が入居している

私の訪問日は営業日ではなかったが、週に2度ほどの営業で南阿蘇村では唯一の書店だという。駅ピアノも置かれている。実はこの日、当駅で降りたのは私だけではなかった

ご覧の通り、駅周辺には特に何があるわけではない。平日のお昼14時に降りる人がいるとすれば、ほぼ同業者(鉄道ファン)だろうと思っていたら、驚くことに女性の3人組。どう見ても旅の観光客だ。「ここで本当にいいんだよね」などと会話している。どうやら周辺の宿泊施設を予約していて車での出迎えを待っているようだが、車が来るまでの間、ピアノの音が鳴り響いていた

昔は日本中の駅にあったよなぁ、と思い出させてくれる伝言板が残されている。駅ノートの役割を果たしているようだ。また駅前には特に何もないと記したがレストランがあってちゃんぽんが有名な地元の人気店のようだが、どうも私が訪れたのは火曜日で定休日だったようだ(いずれにせよ私の道程ではランチタイムに間に合わなかった可能性が高い)

注目の車内アナウンスは

ここで前記事にも掲載した駅前の周辺案内図を再び。、右下部分から中央に目をやっていただくと周辺にはさまざまな水源があることが分かる。先に掲載したグーグル地図でも、そのあたりはよく分かる「南阿蘇水の生まれる里」のゆえんである

ちなみにこの記事を書いている私のPCでは駅名は一発変換できないし、予測言葉にも出てこないがスマホについては予測言葉として登場した

さて私がもうひとつ楽しみにしていたのは車内アナウンス。読みで22文字にも及ぶ駅名をどのように語るのかと思っていたら、ワンマン運転の録音されていたアナウンスから流れてきたのは「次は『はくすいこうげん』です」のたった8文字の読み。まぁ、それはそうですよね

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~路線内「最も有名な駅」の大駅名標に圧倒される

※訪問は2025年8月26日

30年来のあこがれの人に出会う心境

結果的にすべての駅を訪問できたが、不測のハプニングに見舞われた場合も絶対に降り立たなければならないと思っていたのが、こちら「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅

この記事を読んでくださっている方なら、お分かりだろう。日本一長い駅名として長らく高い知名度を誇っていた駅だ。鉄道も含めた雑学クイズでの出題率も高かった。もちろん私もその存在はずっと知っていたが、なかなか来る機会な恵まれず、こうしてようやく初訪問できた次第。開業が1992年(平成4)なので30年来のあこがれの人に会う気持ちだ。もちろん気分は高まる

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とにかく巨大な駅名標

ホームに降り立つ

率直な感想は「駅名標デカッ」だった。ここまでの2枚の写真ではうまく伝わらないかもしれないが既出の他駅と比べると違いが分かるのではないか

こちらは阿蘇白川駅のもの。たまたま同じ車両だったので、車体と比較していただきたい

1992年、日本一長い駅名の駅としてさっそうとデビューした

駅前の周辺案内図で足が止まった

水源などを示した案内図だが、否が応でも右下に目が行く

長い駅名についての解説がある

日本一合戦の先鞭をつける

当駅は読みで22文字、文字表記で14文字。それまでの首位だった鹿島臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」駅は読みで22文字、文字表記が13文字だったので、読みで首位タイ、表記で首位となった

以下の経緯はこの説明文にある通りで、2001年に読みが24文字、文字表記18文字の一畑電気鉄道の「ルイス・C.ティファニー庭園美術館前」に首位を奪還されたが、美術館の閉館によって6年後に駅名変更となったため、再び首位の座に返り咲いた。当時「・」は文字数に数えるのか、という論議があったことが懐かしい。そもそも車内アナウンスができない上、きっぷの券面に余分な文字が入って面倒だということで駅名に「・」が入ること自体が珍しい時代だった(JRの鉄道駅で正式名称となっているのは群馬県の万座・鹿沢口の1駅しかない)

つまり1992年から約20年間首位で、一時陥落したものの6年後に再び返り咲いたことになるが、今度は2015年に富山地鉄の富山軌道線に「富山トヨペット本社前(五福末広町)」停留場が登場。こちらは読み24文字、表記17文字で全国首位となった

その後については京福電鉄の「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」(京都市)が首位の座を奪い、さらには「富山トヨペット-」が再び改名

2021年に「トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町)」停留場という読み32文字、表記25文字という最長不倒距離ともいえる駅名となった…と思いきや2023年に岡山電気軌道で「西大寺町・岡山芸術創造劇場ハレノワ前」停留場が誕生。こちらの読みは32文字で「読み部門」については首位タイとなった

そもそも岡山の駅については明治期の開業以来、ずっと「西大寺町」だった駅名が100年以上の時を経て改名されたももので、わざわざ「日本一合戦」に参加した感がある

JRや大手私鉄では、まず不可能な「長い駅名合戦」。鹿島臨海鉄道の「長者ヶ浜-」の開業が1990年。その2年後に誕生した南阿蘇水の生まれる里白水高原駅は「長い駅名合戦」の先鞭をつけた駅であることは間違いない。写真で分かる通り、案内図の解説文は日本一の座から降りたことで1度は紙かテープで塞がれ、歳月とともに風雨や雪によりはがれてしまったようだが、そこにまた歴史を感じるのである。ぜひ、このままの姿でいてほしい

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~今は貴重となった9つもの駅がある村

※訪問は2025年8月26日

戦国時代の城がモチーフ

あらためて阿蘇下田城駅。前記事でも記したように三セク移管から7年後の1993年(平成5)に温泉施設が入居する駅となり、開業時の木造駅舎から大きく姿を変えた

駅舎内に下田城についての解説がある

下田城は戦国時代に当地を治める下田氏の居城だったが、島津の大軍に攻められ落城。高森線(南阿蘇鉄道)のルートにもなり、跡はほとんど残っていないようだが、駅舎はその城をモチーフにしたもの。駅舎の写真を見れば分かるが、2階部分が展望台にもなっていたようだ。温泉は熊本地震の被害によって営業が続けられなくなったが、地元の愛着もあって、駅名から「城」を外すわけにはいかなかったのだろう

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数々の「からくり」に癒やされる

その阿蘇下田城駅は「ザ・マニアックステーション」の異名をいただいている。「無人歓迎システム」については前記事で触れた駅到着時の大歓迎だが、それ以外のものは

駅舎の外にある「おみくじ小屋」

駅舎の中では

「好きなの買えない自販機」やガチャにおみくじ

グッズ売り場そして

黒電話ボックスと、数々の仕掛けと楽しみがそろっている。さすがにすべてに興じるわけにはいかなかったが、おみくじ小屋には興味をそそられ入ってみた。結論としては遊園地のお化け屋敷も苦手な私には…というものだったが(笑)、ぜひ明るい時間帯に試してもらいたい

ちなみに駅にはこのような文言も添えられていた

南阿蘇村の村役場最寄りに

当駅は南阿蘇村役場の最寄りにもなっている

南阿蘇村は2005年に長陽村、白水村、久木野村の3村が合併して誕生した。村同士が合併して村が誕生した例は5月に日田彦山線BRT乗車のために訪れた東峰村を含め全国に3例しかない(もうひとつは長野県の筑北村)

村同士の合併で村が誕生したのは全国で初の例だった。ちなみに南阿蘇村HPによると2020年(令和2)の時点での人口は1万325人と「町」の要件を十分に満たすものだったが、自然との共生を掲げるため、あえて村を選択したという

現在の村役場は熊本地震から約1年後にできた新庁舎

鉄道的な視点で言うと、合併によって村内には9つもの鉄道駅が誕生することになった。南阿蘇鉄道にはJR豊肥本線の接続駅である立野を除くと9つの駅があるが、その立野駅も所在地は南阿蘇村。、つまり終点の高森駅(高森町)以外は始発駅の立野からすべて南阿蘇村に所在する。国内には183の村がある(北方領土の村はのぞく)が、自治体の合併が進み、地方の廃線が増えた現在、9つもの駅がある村というのは、なかなか思いつかない

阿蘇下田時代の写真が駅舎内に張られていた。昭和の末期には駅前で客待ちをするタクシーが並んでいたのかと思うと感慨深いものがある

列車待ちのため、先ほどの文言通り「無料」で「出入り自由」のホームに再び出てみる

路線内の各駅で見てきた眺め。この景色だけは、その頃から、そして将来も変わらないものだろう

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