きっぷ

貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その14 古風な駅でじっくり機関車を見る

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

近鉄富田から1駅

大矢知駅に到着

近鉄富田から1駅目の駅。時間帯によっては区間運転もあるため、できるだけ奥(終点)の駅から訪問していきたいと思っていたので残る駅は近鉄富田に近い駅が多く、すなわち周辺は住宅街である

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地名の由来は

大矢知駅は1931年(昭和6)の開業。当時は大矢知村だった。当然といえば当然だが、三岐線の各駅は当時の自治体単位で駅が設けられていることが多い。1954年に四日市市となっている。先に紹介したかつての三岐朝明駅である現在の信号場も村内にあった。つまり近鉄富田駅の西側のかなり広い地域が大矢知村だった

構内踏切を渡り駅舎へと向かう。踏切と駅舎が少し離れているおなじみの光景。私鉄の駅は線路にビッシリ張り付くように駅舎が設けられていることが多いが、かつては貨物にも対応していた駅もあってス構内は比較的広く、古き良き時代の駅を感じさせてくれる

駅舎はおそらく開業時からのもの。三岐線はずっと独立した私鉄だが、古き時代は国鉄も私鉄も同じような感覚で駅舎を造っていたのだな、と感じる

さて少し分かりにくいかもしれないが、駅名板に書かれたローマ字を見ると「OYACHI」。私の感覚ではこれが一般的なローマ字表記なのだが、サムネや冒頭の写真を見ていただくと駅名標には「OOYACHI」と書かれていることが分かる。どっちやねん、と言いたくなるところだが三岐線では他にも同様のケースがあって、その時にまた紹介したい

大矢知の由来は三岐線とはきってもきれない縁となっている朝明(あさけ)川に沿った大きな谷と川による湿地帯という意味だとされる。当地が有名になったのは「久留倍官衙(くるべかんが)遺跡」の存在だろう

飛鳥時代から平安時代の初期にかけられて建てられた建物群で、当時の朝廷とのつながりの深さが分かる国の史跡で現在は遺跡公園として整備されている。当駅からは徒歩でも15分ほどの距離。ただし

ホームの周辺案内には表記がない。それもそのはずで詳しい調査が行われ多くの遺跡が見つかったのは北勢バイパスの工事が行われた2000年ごろでつい最近の話だ。地図で見るとバイパスが遺跡をまたぐようになっているのが分かる

交換停車の機関車が間近に

ホームには貨物用の機関車がやって来た。列車交換のための運転停止のようだが、こんな近くの触れるような場所で見られるのはローカル鉄道ならでは。JRのローカル線では貨物列車の運行がほとんどなくなっているので貴重な体験ともいえる。そちらのジャンルは詳しくない私も間近で見てみたい

「ED458」とプレートがある。調べると東武から譲渡されたもので

「昭和29年」の文字が輝いている。線路はこの先でJR方面と近鉄方面へと分かれるので、当駅での交換待ちとなるのか。なかなか良い場面に遭遇できた

手作り感があふれる

話を駅に戻すと

他駅でも見られるように当駅も手作りがあふれている

こちらは改札の全景

お手洗いはプレハブの新しいものとなっているが案内文字はそれ以前からと思われる手書きのものだ

そして駅舎裏には

駅名板が置かれていた。形から推察すると駅舎正面に掲げられていたものだろう。捨てずに残されていることに感謝である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その13 観光結点として期待された

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

残り6駅

三里駅で下車。当駅を含め残りは6駅。三岐線は近鉄富田と旅客列車の走らない富田をのぞくと全14駅。列車本数は1時間に1~2本あるにもかかわらず当地訪問3回目でまだ8駅とは随分遅いペースだが、北勢線の訪問も含んでいる上、楽しい駅が多すぎてついつい長居してしまったり、廃駅訪問も含んでいるのでゆっくりペースとなっている。現在の時刻は9時20分。さすがに本日のお昼過ぎには終わるだろう

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惹かれる駅舎

構内踏切を渡るいつもの光景。実は当駅は内と外では随分景色が異なる

円筒型の駅舎はちょっと斬新だが、それも古い感じが漂うあたりがまたいい

三里駅は1931年(昭和6)の開業。三岐鉄道が富田~東藤原を開通させた時に設置された1期生。当時は三里村。三里村は1959年(昭和34)に大安町となり、現在はいなべ市

と書くと駅の歴史はこれで終わってしまうのだが、実は駅名変更が行われたことがある。1968年に「宇賀渓口」と改められた。宇賀渓とは多くの滝があり、キャンプでもにぎわう観光地。その名を駅名にするということは最寄り駅として認定されたことになる

ただし「○○口」という名前は実際の場所から離れていることは当ブログのバスによる訪問で何度もお伝えしている通り。バス停なら歩ける距離にあるが、そもそも渓谷がこのような平地の駅近くにあるはずもない

宇賀渓の入口まで車で10分ほどの距離なのですぐといえばすぐだが、歩いて行く場所ではない。ではなぜわざわざ駅名変更をしたのかというと、当駅が宇賀渓へと向かうバスの発着所となったからだ。もちろん運行は三岐鉄道バスである。当初はかなりにぎわっていたようだが、60年代終わりといえばモータリゼーションの波が全国に普及していたころだ。宇賀渓谷の最寄りとしての当駅は、まずバスの発着が大安町(当時)の中心地で駅前広場も大きくなり、駅名が大安駅へと変更となった86年に大安駅からの発着となり、最寄り駅ではなくなった。駅名も三里に戻された。そして現在、宇賀渓へのアクセスはほぼマイカーとなっているようだ。宇賀渓観光案内所のHPには160台の駐車場に加えて満車時は臨時駐車場も利用できる旨が告知されている一方、「バスなどの交通機関はありませんので大安駅または三里駅からのタクシーをご利用ください」と記されている

円筒型駅舎の理由

駅舎について「古い感じが漂う」と書いたが、それは雰囲気だけのもので現駅舎は2004年(平成16)に改築されたもので、そう古くはない

駅舎には「博物館 三岐鉄道車輌大図鑑」の文字がうっすら残る。駅舎が改築された際、2階が博物館としてオープンした。ただし文字から想像できるように現在は閉館している

こちらは駅舎内と改札。見て分かる通り、なかなか快適な空間だ

ホームの周辺案内は真新しい。更新がいつのもので、以前の内容は分からないが、宇賀渓が入っていないことだけは間違いない。観光地への最寄り駅に博物館。歴史を紐解くと興味がわいてくる、そんな駅である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その12 年が明けて最後の訪問を行う

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ゆっくりとスタート

前回の訪問から3カ月近くが経過。年が明けた2月7日の朝7時過ぎの名古屋は栄付近

名古屋に泊まってどこかへ行く時は、基本的にはこの時間より1時間以上早い。というか名古屋駅から始発に乗ろうとすると駅近くの宿に泊まることになる。ただ近年の名古屋のホテル事情は駅前が高く、昔からの繁華街である栄や伏見の方がホテルの稼働率も高く、それを反映してか価格も高い傾向にある。私は昭和のころからしょっちゅう名古屋に来ているが、以前の名古屋駅周辺はこれといって何もなく、夜の食事(当然アルコールも含む)を考えても栄、伏見に宿泊するのが当然だった。そもそもホテルが少なかった。JRの駅を降りてみると何もない、というのは日本全国のあるあるだが、駅そのものがランドマークとなる再開発が進み、巨大商業施設が誕生して人の流動が変わることがある。博多駅や岡山駅、金沢駅なども初めて列車を降りた時は寂しさに驚いた。もともと何もなかった場所なのでホテルの新設も進めやすい

どんな時間帯に乗っても混雑が凄い地下鉄の東山線の栄~名古屋だが、すでにラッシュは始まっていてギューギュー詰めにされながら名古屋で下車。近鉄名古屋駅への道中でカレーとそばのセットという朝食をいただいて出発である

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実はJRの方がかなり安い

本日は未訪問となっている三岐鉄道三岐線の駅訪問。近鉄富田駅を目指すからには当然のように近鉄で、となるが実はJRの利用も少し考えた。というのも料金が異なるからだ。名古屋~富田は近鉄だと680円なのに対してJRだと490円。190円もJRが安い。これは名古屋近郊の運賃が適用されているからで、この料金差とスピード差を生かして名古屋~岐阜ではJRが名鉄をリードしている。何度か乗ってみて分かったのだが、スピード差が少ない名古屋~桑名では、本数は近鉄より少ないながらも、それなりにJRも頑張っている。ただ通勤時間帯に快速みえに乗車すると、ほとんどの人が桑名で降りてしまう。桑名から先も近鉄とほぼ並行して伊勢方面へと向かうが、四日市から先に伊勢鉄道に入るため料金の優位性もなくなってしまう

名古屋~富田だけを比べると近鉄富田へは徒歩5分なので、それほど大きなハンデにはならないが、本数そのものが違う上、所要時間にも差があるので朝の7時台はさすがに190円多めに払っても近鉄に乗車した。名古屋への距離感を比べてみたが、県内の流動を考慮しても最大の経済圏である近鉄四日市からJRの四日市への距離が遠すぎるのも近鉄とJRとの格差が大きい理由のひとつだろう。今回は話の本筋ではないので簡単に触れておくと、もともとは強引なカーブで近鉄も国鉄の四日市駅近くを通っていたが、それを止めて新たに四日市駅を設置したことが現在の駅周辺の発展につながっている

西口から乗車

近鉄富田駅はいつもの東口ではなく西口にやって来た。四日市高校が目の前にあって利用も多い改札だが、こちらは三岐鉄道の管理となっていてフリーきっぷを買う場合は、こちらの窓口に来る必要がある

3回目の購入となった1日乗車券。現在は形も違っているはずだが、西野尻をのぞくすべての駅が有人駅(無人の時間帯もあり)の三岐線内には自動改札機もなく駅員さんに提示するというシステムは同じはずだ(西野尻駅と駅が無人の時間帯は乗務員に提示する)

西口の三岐鉄道きっぷうりばできっぷを買うと駅員さんがいる側の改札機で通してもらう。きっぷがある場合は近鉄管理の東口でも同様

これは改札内の注意書き。自動改札機に入らないきっぷなので一目見れば分かるはず

いろいろと丁寧である

私の写真の撮り方が悪かったが、駅舎についての解説もあった

現駅舎は2008年からのもので、富田地区がクジラと縁の深かったことによるという

ということで昨年12月以来の西藤原行きに乗車である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その11 国鉄と近鉄の接点駅跡を見に行く

近鉄富田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

近鉄富田駅から歩きます

近鉄富田駅。当駅には東口と西口があり、東口を近鉄が、西口を近鉄がそれぞれ管理する形になっている

時間は14時。ここから少し歩くので遅い昼食

ラーメンとライスでお腹を満たして、さあ出発しよう

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分岐点には駅あり

前記事でも掲載した駅前の周辺案内図

今回は赤丸で囲ってみた。分岐あたりにかつて駅があったらしい。近鉄への連絡線ができる前に設置された富田西口駅については前記事で触れたが、もうひとつ廃止になった駅が分岐点にもあった。三岐朝明(あさけ)という駅が赤丸部分にあった。廃駅にはなっているが名称は残っている。そのまま「三岐朝明信号場」という。当初は分岐地点に駅が設けられるのは当然で、旅客輸送が近鉄富田への近鉄連絡線のみになったため不要になったのだろうと思っていた。ただ調べてみると私の考えは微妙に間違っていた

導線を調べる

朝明信号場はもちろん三岐鉄道の車窓から見えるが、駅跡については見えるような見えないような。つまりうまく確認できない。ならば現地まで行って確認しようと思ったのが今回の行動である。車窓から見る限りは住宅街の真ん中にありそうな感じで線路を見失わないように歩いていけば何とでもなりそうだが、ここはグーグル先生に従うことにする

徒歩で15分ほどの距離。12月中旬だったが、穏やかな気候で歩くにはちょうどよい

歩き始めて、これから進む道が旧東海道であることを知る

2つの高架が見えてくる。手前が近鉄、奥が三岐鉄道の高架。鉄道の交差というのは基本的な成り立ちとしては先にあった方が地上を走り、後からできた方が高架や築堤を行く。だから先にあった路線が廃線になったりすると、ナゾのようにその部分だけ一見無意味に見える高架が残ったりする

地上部分を行くJRの関西本線も見えてきた。道程しては一度、旧東海道からそれて関西本線に近い場所を歩いてショートカットを目指すようになっている

住宅地で警報が鳴り響くとJR車両の通り抜けていった

ちょっと感動した

そしていよいよ三岐鉄道近鉄連絡線とのクロス部分

ここは

西富田踏切という名称がついているが逆サイドを見上げると

おお~っ

住宅街の真ん中で声をあげそうになった。実はこの踏切近くでは道路工事の真っ最中で近くには工事関係者がたくさんいたり工事備品が並べたりしていたりで声も出せないし、引きの写真も撮れない状況だったが、うっすらと残る階段跡にかえってリアリティーを感じる

石が積み上げられているのはホーム跡だろうか

三岐朝明駅の開業は1950年(昭和25)と戦後間もなく。全線開業が1931年なので戦争を挟んで約20年後のことだった。連絡線ができるのは、駅の開業からさらに20年後の1970年なので当初の目的は近鉄連絡線との分岐駅ではなかった。単に新駅の設置だった

その後、近鉄連絡線ができたことで分岐駅という重要任務を担うこととなったが、駅の利用者は決して多くはなかったようだ。今でこそ周辺は住宅街となっているが、新しい家が多いことで想像できるように40~50年前はそうでもなかったのかもしれない。分岐駅でありながらも単式ホームがあるだけで開業時からずっと無人駅だった三岐朝明駅は、当駅~富田が1985年に貨物列車専用となったことで分岐駅としての意味合いもなくなり、普通列車の多くが通過する駅となっていたようだ。そして平成の声を聞いた1989年に信号場に格下げされている

近鉄富田駅まで歩いて15分なら駅があってもいいのでは、と思うのは現在、周辺の宅地状況を見ているからこそだろう。路線の廃止と異なり、駅のみの廃止というのは、近年のJR北海道を除くと、そう多い例ではなく、現地でいろいろ理由を探りたくなるものではある

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その10 強引な近鉄への分岐の理由は?

富田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

車窓から分岐を眺める

何度か触れてきたが、三岐線の正確な路線情報は起点がJRの富田駅で終点が西藤原駅である。ただしわれわれ一般旅客は近鉄富田駅からしか乗れない。これはどういうことかというと途中で分岐があり、近鉄とJRへそれぞれ線路が別れていて旅客列車は近鉄へ、貨物列車はJRへと向かっているからだ

西藤原から近鉄富田へ向かう電車の先頭かぶりつきに陣取ってみると

分岐が分かる。右下に見えるのはJRの関西本線。右へと折れる線路は、この後もう一度関西本線をまたいで近鉄富田へと向かう。なかなか強引な線路構造だ

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2度もまたぐ理由は

このあたりは近鉄富田駅前の周辺案内図で見ると分かりやすい

駅前地図だけに南北が逆になっているが線路はかえってよく分かる

右側からやって来た三岐線のJRへの合流はスムーズで、そのまま真っ直ぐ降りて関西本線と合流。富田駅へと入る。それに対し近鉄への合流は先述したように2度も関西本線をまたいで近鉄富田駅へと入る。いかにも無理やり近鉄へ合流していかのように見えるが、実は無理やりなのだ

まずは両方の富田駅の移動を確認してみよう

両駅は徒歩5分の距離で「5分」だけを考慮すると、ご近所のように感じるが、真っ直ぐな一本道ではなく初見ではちょっとウロウロしてしまう。なぜそう言えるかというと、3年前に実際に歩いたからだ。関西本線の駅巡りを行って大阪へ帰る時に近鉄富田からの近鉄を選択したため。近鉄の駅が近ければどこの駅でも良かったのだが、富田から歩いてみようとなったはいいが、結局は地図アプリのお世話になった。そんな便利なものがない時代だったら遠回りしていたかもしれない

要望強く近鉄へと合流

1931年(昭和6)に全通した三岐鉄道が電化されたのは戦後の1954年。そのころから沿線は宅地開発も進み始め名古屋や四日市方面への通勤通学利用が増えてきたが、それとともに富田駅での乗り換えの不便さを訴える声も大きくなっていく

近鉄の名古屋線は狭軌で標準軌の大阪線とは規格の違いがネックとなっていたが、1959年にすべて標準軌となり、同時に全線が複線化されて利便性が増した。非電化単線だった国鉄の関西本線とは差が広がる一方。三岐鉄道の利用者の多くは国鉄に乗り換えることなく、わざわざ近鉄の駅まで歩いて乗り換えを行っていた

さすがに多くの声を無視するわけにはいかず、三岐鉄道では富田と近鉄の富洲原(現川越富洲原)駅の免許を取得。用地買収も行い近鉄駅へ向かう線路を造ろうとした

これは富田からスイッチバックする形で富州原で三岐鉄道を結ぼうという計画だったが、スイッチバックの効率が悪すぎることと当時にぎわっていた貨物輸送に支障をきたすということで断念。代わりに近鉄との交差部分に富田西口駅を設けたのが1965年だったが、それでも不便さを訴える声は変わらず、ようやく近鉄富田駅に乗り入れ、現在の形となったのは1970年のことだった。だから正式には今も三岐線とは富田~西藤原のことで、分岐から近鉄富田への路線は近鉄連絡線という名称である

その後は近鉄富田行き、そして国鉄富田行きと2種類の列車が運行されていたが需要の差は歴然で、1985年のJR民営化直前の1985年に関西本線の富田への旅客列車はすべて廃止。富田西口も廃駅となった。このようにして珍しい貨物線用の私鉄線が誕生した

現在、近鉄富田駅には近鉄と三岐鉄道の2つの電車が入っているので、たまに勘違いする人もいるのだが、三岐鉄道は近鉄から独立した会社ではない。また軌間が異なるので同じホームにいながら直通運転はできない

3年前の思い出

JRの富田駅を訪問したのは3年前の3月のこと

駅舎は立派だが

すでに無人駅となっていて駅舎内はガランとしていた

ただ構内は広く三岐線の貨物列車も停車していた

三岐線のホームは残っているが柵が設けられていて、わずかにのぞくことしかできない

もっとも東口の前にはイオンモールができていて食事の選択は近鉄より、こちらの方が多くなっている

さて紹介してきた分岐には、かつて三岐線の駅があったという。これはぜひ見に行きたい。ということで駅の跡地まで歩を進めることにする

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その9 終着駅は蒸気機関車

西藤原駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ついに終着駅へ

終着駅の西藤原へとやって来た。26キロほどの路線で事実上の始発駅である近鉄富田から乗車しても50分ほどで着いてしまう(三岐線に快速はない)が、終着駅というのは趣がある

1面2線の島式ホームだが乗車してきたのは右側の電車。左に見える車両については後ほど触れたい

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いつものホーロー駅名標から

まずは駅を降りるたびに楽しませてくれるホーロー駅名標から

字体の名称は分からないが特徴ある文字。「し」が強く印象に残る

駅舎へと向かおう

これは…

誰が見てもSLと客車をあしらったものだということが分かる。SL仕様の駅舎は真岡鐵道の真岡駅(栃木県)が有名だが、サイズこそ違うもののこちらも負けてはいない。現在の駅舎は2002年(平成14)からのもの

先に線路が伸びているように見えるが、もちろんすぐに終わっている

グーグル地図では線路が残っていれば点線で示してくれるが、それもない

岐阜県への進出は早々に断念

西藤原駅は1931年(昭和6)の開業。西野尻駅の記事でも触れたが、同年の7月に東藤原駅までが開業。12月に当駅まで延伸されて全線開業となった

三岐鉄道の会社名で分かるように、もともとは三重県と岐阜県を結ぶ予定だった。主な目的はセメント輸送。終着駅は関ヶ原を予定していたというが、県境の山越えの急峻な地形は難工事が予想され、しかも敷設した路線には重量級の貨物列車が走らさなければならない。県境部分にほとんど民家がないこともあり、工事費に割が合わないということで先の工事は行われず、間もなく鉄道免許も失効。会社名だけが残った

もともとセメント輸送はすでにあった北勢鉄道(北勢線)の利用が検討されていた。岐阜県へと結ぶルートに適していると考えられたためだが、ナローゲージの路盤では重量の鉄道貨物輸送には無理と判断されて三岐鉄道の建設となった。2つの路線が近い所を並行するように走っているのは、このような経緯があるためだ。そのおかげで西藤原駅は三重県最北の駅となった。出発地は北勢線の桑名の方が北だが、北勢線の終着駅である阿下喜駅より西藤原駅の方が、かなり北にある

当時は西藤原村に所在した。戦後の1955年に東藤原村などと合併して藤原村が誕生。後に藤原町となり、平成の大合併でいなべ市となっている

外側からの駅舎もまたSL+客車仕様。2つの車両が並んでいる構造だ。足下に丁寧に車輪が描かれているあたり、なかなか細部にこだわっている

最初にホームで見た車両の説明へと移ろう

島式ホームの片側は展示スペースとなっている。西藤原駅はSL公園となっていて、そこから保存車両が眺められるようになっている。三岐鉄道HPによると、最初の写真に写っているのは「ディーゼル機関車DB25号」機で「電気機関車ED222号機」をはさんで、こちらは「蒸気機関車E102号機」。三岐線が電化されたのは1954年。それまで三岐線で活躍していたSLは住友大阪セメント伊吹工場で保存されていたが、2001年に三岐鉄道が開業70周年を迎えたタイミングで里帰りしたという

駅舎内には郵便局が入居している。もちろん有人駅。北勢線が貨物列車に対応できる規格であれば、三岐線の建設はなかったかもしれない。そんな経緯でできたすぐ近くの2つの会社と路線が今は同じ会社となっている。そんなことを考えながら保存車両を眺めていると、なかなか感慨深いものがある

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その8 日本で唯一の博物館がある駅

丹生川駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

こちらも手づくり感があふれる

西野尻から3駅戻って丹生川駅に到着。ご覧の通り「にゅうがわ」と読む

島式ホームの1面2線構造で駅舎とは構内踏切で結ばれている

駅舎に向かうと花壇や鉢植え。いずれもきれいに手入れされていて路線内の他駅と同様に手作り感を出している

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貨物鉄道博物館の最寄り

当駅は1931年(昭和6)の開業。かつては鉱山が最寄りで貨物輸送も行っていた。当時の所在地は丹生川村。1956年に石博村と合併して石加村となり、その後の合併で大安町そしていなべ市となり現在に至る

貨物輸送を行っていたためかつては貨物ヤードがあり、その場所を利用しているのが

貨物鉄道博物館である。同館のホームページによると鉄道貨物が始まったのが1873年(明治6)9月15日で、2003年(平成15)年に130周年を迎えることを記念して同年の9月15日に開館した。日本で唯一の貨物鉄道に特化した博物館。運営はボランティアが行い費用も寄付によってまかなわれている

展示品やジオラマについてはHPに記載されていて寄付金先についても同様。開館日は毎月第一日曜日で訪問日は当然、開館日ではなかったが、外から雰囲気を感じることはできるし機関車を眺めることもできる

柵があってその横は開いているので入ることもできなくはないが、そこから先の部分のベンチがある場所に入って良いものかどうか分からなかったので柵のギリギリまで近づいてみた

外から見えるのは1898年(明治31)に製造された英国製で、最後は1966年まで東武鉄道で活躍していた車両とのこと

偶然ながら、ちょうど貨物列車の運行時間と重なったようで博物館の傍らを駆け抜けていった

駅舎内で初めて知った時刻表

駅舎に戻る

いつからの駅舎か分からないが、おそらく開業時からのものと思われる。「丹生」という地名は三重県内にもいくつか見られ、また全国各地でも見られる。読みは微妙に異なることもあるが、「丹」とは「丹砂」つまり水銀のことで「丹生」とは古代からの鉱山に基づくものが多いようだ

こちらはホーム側からの改札部分。ひとつひとつの文字が愛おしい。おそらく一斉に取り付けられたものではなく、コレクションのように少しずつ増えていったものだろう

駅舎内には三岐線で活躍した車両の写真が並べられている

このようなポスターもあったので

さっそく購入。有人駅とは良いものである

さて駅舎内で私が驚いたのが

貨物時刻表。私は貨物については全くの門外漢なので時刻表が公開されているとは知らなかった。私が先ほど見たのは12時36分の四日市行きということになる

多くの発見があった丹生川駅

そういえば北勢線阿下喜駅の軽便鉄道博物館の開館日は毎月第一、第三日曜日である。同日に2カ所を回ることも可能である(ただし1カ所に滞在する時間は短くなる)

少なくとも今度は第一日曜日に来たい、と思いつつ、こちらも味わいのある斜めなホーロー駅名標とお別れである

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その7 異彩を放つ路線内唯一の駅

西野尻駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

大きな特色が

西野尻駅に到着。こちらは東藤原駅と終点の西藤原までの間にある駅で、三岐線の特徴である貨物列車は東藤原までしか行かないため、西野尻と西藤原には貨物列車は行かない。つまりは旅客営業のみの駅だが、当駅はもうひとつの特色がある

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ホームと待合所のみ

ご覧のように棒状駅。それだけなら路線内でもよく見かける姿だが、ホームに降りてみると他駅と事情は異なる

訪問時は年末で学校も午前中のみになっていたようで高校生3人が下車した。駅まで出迎えてくれた家族の車に乗って去っていく。地方ではよく見かける光景だ。そして駅の構造はというと、写真で分かるように駅舎はなく小さな待合所があるだけ。これもよく見かける光景で、先日までお伝えしていた大糸線などではその形式が多いためPCで「単式」と入力しただけで「単式ホームと待合所のみの簡素な構造」という予測文章が出てしまうぐらい地方に行けば普通に見かける姿だが、三岐線では事情は異なる

三岐線の全14駅(近鉄富田のぞく)の中で駅舎のない駅はここ西野尻駅だけなのだ。駅舎はあっても無人という駅も枚挙にいとまがないが、すべての駅が有人である。もちろん早朝や深夜帯などに無人となる時間帯はあるが、基本的には有人駅。駅の管理が近鉄である近鉄富田はのぞくと注意書きを入れたが有人。正式な起点駅であるJRの富田駅は駅舎はある無人駅ではあるものの、駅の管理はJRだし当駅に入る三岐線の列車はすべて貨物列車なので旅客とは無縁だ

こちらが西野尻駅の全景。正面の階段と先の写真で高校生が降りていたスロープと2つの出入口がある。駅前広場は比較的大きい

謎解きの案内板

西野尻駅は1931年(昭和6)の開業。同年6月に富田~東藤原が開業して12月に東藤原~西藤原が開業。全通となったが、その時に設置されている。後からできた駅ではなく敷設と同時の駅だが、最初から現在の構造だったようだ。当時は東藤原村。明治の町村制施行までは西野尻村と呼ばれる区域で現在の住所もいなべ市藤原町西野尻である。野尻という地名は全国にあり、人名から来ていたり地形に基づくとされる。そういえば城端線で全駅訪問をした際、最後に訪れたのが東野尻駅だった

こちらも単式ホームと待合所のみの駅だった

また西野尻があるのだから東野尻もあるのだろうと思いがちだが、地域名としてあったのは西野尻村と下野尻村だった。

当駅では出札を乗務員が行う。ワンマン運転が多いのでその場合は運転士が行うのだが、入札はどうなのかというと

待合所の壁に案内板が。ただ肝心なところが消えてしまってクイズ形式となっている。私はフリーきっぷを持っているので問題ないが、初めて来た人は困るだろうと思っていたら

待合所の中に「正解」があった。ただその「乗車駅証明」はどこにあるのか、ちょっと探した。すると

同じ室内にも同様の案内があり、こちらの表記は「無札証明」で初めて聞く言葉。その下に

ぶら下げられているもの。それが無札証明である

品切れになったりしないのかと思ったりもする。またワンマンが多い三岐線での出札に運転士自らがあたるのは、2両もしくは3両編成のドアがすべて開くシステムでは大変そうに思えるが、おそらくそうは心配はない

駅周辺は小さな集落があり、多くが農地。1日あたりの利用者数(2023年)は26人しかなく、これは14駅中で最下位。下から2番目が東藤原の98人なので、かなりのぶっちぎりとなっている。当駅には1日上下それぞれ30本の列車が到着するため、私が目撃した3人の下車姿はかなり貴重なものということになる。高校生はいずれも定期使用だったため、実際にお金を払って当駅で降りる人はそう多くはないと思われる

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その6 歴史は紡がれると知った味わいある駅舎

伊勢治田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

広大な側線が広がる

東藤原から1駅戻って伊勢治田で下車

ご覧のように広い測線がホームの前に広がる。東藤原駅では収まらない貨物列車や旅客車両が留置されているようだ

微妙に尺が足りなくなっているホーローの駅名標にそそられる

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沿線で唯一「伊勢」の付く駅

「治田」と書いて「はった」と読む。知り合いに同名の名前がいないとなかなか読めないが、全国にはところどころある名前と地名で滋賀県から山を越えて三重県まで地名、人名とも分布している。各地とも田んぼの開墾に由来しているとされるが、三岐線の沿線には三重県のいたる所で見られる「伊勢○○」という駅はここだけ。開業時の1931年(昭和6)にあった治田村に由来するが、県内では伊賀市の奈良県との県境あたりに治田という地名があり、名阪国道には治田ICがある。県内での重複を避けるために「伊勢」という国名が付けられたのだろう。そういえば伊勢鉄道には「伊勢上野」という駅がある

「たたずむ」という表現がピッタリの駅舎がある。手は入っているが、おそらく開業時からのものと思われる。駅からすぐの場所が旧治田村の中心地。1日あたりの利用者数は328人(2023年)で14駅(近鉄富田のぞく)中8位。治田村は1955年に北勢町の一部となり、現在はいなべ市である

三岐線の駅に共通することだが、古い駅舎は少しずつ付け加えられていったと思われる手作りの文字や備品が多い。注意書きひとつを見ていても楽しくなる

治田には室町時代に治田氏によって築かれた治田城があったが、織田信長に攻められて降伏。その後、廃城となり現在は遺構のみが残る

当地が脚光を浴びたのは江戸時代に入ってすぐのことで銀や銅が採掘される治田鉱山が開発され、幕府の直轄領となった時代もあった。その後に当地を領有したのは八田藩だった(治田とは表記しなかったようである)。鉱山があったことも含め、滋賀県へつながる治田越えは鉱物の運搬も含め重要な道路だったが、鉱山の没落とともに重要性は薄れ、道路は現在に引き継がれていない。また近年の水害によって鉱山跡も土砂に埋まってしまったという

鉱山から引き継がれたもの

留置線には貨物車が留置されていたが、時系列的にいっても先ほど東藤原駅で目の前を通り過ぎていったものだろう

ホームへは構内踏切を経て入る。1面2線の島式ホームとなっている

さて歴史に埋もれてしまった感のある治田鉱山だが、現代でしかも誰しもが知る存在へとつながっている。鉱山の管理を任されていたのが岡田氏。この時点でピンと来る人もいるかもしれないが、鉱山管理で財をなした岡田氏が始めたのが四日市の呉服商「岡田屋」。後にスーパーのジャスコになる。ジャスコがイオンの祖であることはご存じの通り。駅の待合所で調べていて歴史が紡がれていることを知り、ちょっと感慨深かった

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その5 いきなりのメインイベントはプチホテル?

東藤原駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ようやく三岐線をじっくり

時系列的にはこちらの続きになる

北勢線の全駅訪問を終えて近鉄富田へと移動。前回はほんの少ししか回れなかった三岐線に本腰を入れる

近鉄富田から乗車して45分

東藤原駅に到着である

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目を見張る駅舎

構内にはさまざまな列車がいる。こうしてあらためて写真を見ると、JR東海から譲り受けた車両がすでに待機していたことが分かる。もっとも当時は別のことに関心がありすぎて、あまり目に入らなかった

そのひとつはなんといっても美しい駅舎だろう

あまりにも美しすぎる

小高い丘の上にあるので離れてみるとこんな感じ。「東藤原」の駅名板がなければパッと見るとプチホテルおおしゃれなレストランにしか見えない

2017年(平成29)にできたばかりのピカピカ

正面からの姿も、もちろん美しい。上屋を支える柱も凝っている。当駅訪問がこの日のハイライトのひとつだった

路線の意義を体現する駅

ハイライトだったのは駅舎だけではない。どちらかというと、ここからが本題である

駅前にはかつて当駅で活躍したセメント用の貨物車が保存されている

解説文で貢献度が分かる

東藤原駅は1931年(昭和6)の開業。三岐線は富田から当駅までがまず開業。その年のうちに残る東藤原~西藤原までが開業して全線開業となったが、まずは東藤原までの開業が優先事項だったのだ

東藤原駅は太平洋セメント藤原工場へと直結している。車窓からもよく分かるが、三岐線はこちらの工場と富田駅を結ぶことが、まず最初の仕事だった。富田駅というのは近鉄富田ではなく国鉄(当時)の富田駅。今も当駅から貨物列車が出る。私鉄でありながら旅客輸送だけでなく貨物輸送も担う特別な路線を体現する駅だ

西側には大きめの踏切があるが、太平洋セメント藤原工場への案内板もある。そしてこの踏切はふだん見かけない案内がある

ひんぱんに遮断機が降りる時間帯を記したおことわりである。地元の方は理解されているだろうが、初めて来るとイライラするかもしれない。1時間に1本ぐらいの割合で10分ほど踏切を渡れない。それは単純に通過列車が多いだけでなく車両が行ったり来たりするからだ。ぼんやり見ているだけで踏切にかからない場所でも車両が動いていることが分かる

私のいた時間帯でも分岐を渡って貨物列車がやって来た。私は貨物列車については専門外だが、それでも見ているだけで楽しい

当然構内では多くの人が作業に従事している。駅舎についてプチホテルのようだと形容したが、あながちそれは間違っているわけではなく、駅舎は作業にあたる方の休憩所としても機能しているのだ

こちらは改札口

こちらは保存車両も含めた俯瞰したところ。セメント工場があるぐらいなので周辺に民家は少ない。駅の重要性の高さや立派な駅舎に相反するように1日あたりの駅の利用者は2023年のデータで98人と100人を切っていて、この数字は実は路線内14駅(近鉄富田はのぞく)で下から2番目。ただ三岐線訪問の際は、最優先でリストに入れてほしい駅である

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