きっぷ

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~番外編 不思議なJRと名鉄の線路共用

※訪問は2022年6月12日

※動画あり音声注意

豊橋駅の不思議な構造

豊橋駅の写真なら、いくらでもあると思っていたが意外と撮っていなかった。こちらは2019年6月30日のもの

豊橋駅は初めて来る人は面食らってしまう構造となっている。名古屋まで完全なライバル関係となる名鉄と改札を共有するどころか、名鉄のホームは飯田線と東海道本線に挟まれる形で存在する。三重県でも津や松阪、伊勢市でも改札の共有が行われているが、両社のホームは別で、厳密にはそれぞれが駅舎を所有していて、桑名のように自由通路を設けることで改札口も別にすることは可能だが、豊橋だけは永久に変えられそうもない

JRの構内の一角というか真ん中に名鉄のICリーダー(乗り換え用)やきっぷ売り場があったりするが、これも歴史の積み重ねのひとつ。なかなか飯田線を扱う機会がなく、お蔵入り気味になっていた平井信号場の紹介を番外編として取り上げることにする(訪問は2022年6月12日)

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かつては重要駅だった小坂井

豊橋から飯田線で3駅目。小坂井で下車

駅舎は平成になってから建て直されたもの。コンクリート構造の簡易的なもので無人駅。1日の利用者数(2022年)は787人。周辺は主に住宅街だが、近くにある名鉄の伊奈駅や東海道本線の西小坂井駅に比べると、両駅が名古屋から直通できることもあって少ない。ただ、かつては名鉄の乗り換え駅の時代もあり、また運行の重要駅でもあった

平井信号場へ

冒頭で豊橋駅のホームについて触れたが、小坂井に至るまでの飯田線の2駅である船町と下地のホームに立っていると名鉄の車両がやって来る。営業列車でお客さんも乗せている。あまり旅人が行く駅ではなく、日々利用している方にとっては日常の光景なので驚く方はほとんどいないが、初めて遭遇するとビックリするはずだ。そして名鉄の車両は普通もすべてこの両駅を通過するのだが、JRと名鉄が同じホームを走行するシーンは飯田線のひとつのハイライトともいえる

ではJRと名鉄は一体どこで分岐するのか。その分岐点が平井信号場。信号場というと山中の近寄りがたい場所にたたずむイメージがあるが、平井信号場は違う

10分もかからず歩けてしまう。通行量の多い道路で歩くには注意が必要なほどだ

信号場とは平井踏切。名鉄、JRともに複線区間となっていて、こちらは下り線(名古屋方面)の分岐地点。踏切の上で分岐するという見やすい構造

さっそく踏切が降りて列車が来るようだ

名鉄車両が来て

あっという間に通過

去っていった。右に行けば飯田線である

元々は民民協力事業

これまでの記事で何度も書いているが、飯田線は4社の私鉄が戦時買収で国鉄となったもの。この部分を「担当」したのは豊川鉄道という会社だったが、その後に名古屋から豊橋へと線路を伸ばしてきたのが愛知電気鉄道(現在の名鉄)である。当初は伊奈から小坂井へと敷設され、豊橋(当時の駅名は吉田)へと向かうには小坂井で乗り換える形をとっていたが、やがて直線で豊橋と結ばれるようになったのが1927年(昭和2)。豊橋へは豊川鉄道、愛電ともに単線だったが、この部分は両社で共有して利便性を向上させようということになって現在の形が出来上がった

現在のJRの線路を名鉄が走る形となったのは、戦時買収で豊川鉄道が飯田線という国鉄路線となったため。吉田駅は国鉄の駅名だった豊橋に変更されて同じ駅となったが、線路の共有だけは変えようがないので南側の部分は国鉄が、北側の部分は名鉄(1935年から名古屋鉄道)が所有することになり、JRになった今もライバル同士が同じ線路を共有するという形態が続く。グーグル地図では両線からの点線部分が重要で注目点である

今度はJRの車両がやって来て右側へと進路をとっていった

小坂井駅と伊奈駅を結んでいた名鉄の線路は名鉄が戦後、独自に豊川線を敷設したため廃止。分岐の操作を行っていた小坂井駅もCTC導入によって分岐をつかさどる役割を終えた

なおライバルが呉越同舟する形となっている豊橋駅だが、飯田線との線路共有のため名鉄は豊橋駅への乗り入れが毎時6本に制限されているジレンマを抱えているため、普通列車の多くは隣の伊奈駅で折り返すという形式をとっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その15 戦時買収から外れ私鉄のままだった路線

※訪問は2024年10月27日

バスの路線図が物語るもの

本長篠の駅舎内にはバスの路線図と時刻表が大きく張り出されている

これはかつてあった豊橋鉄道田口線の代替バスだ

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鳳来寺参拝と材木運搬

こちらがバスの時刻表。すべてのバスが鳳来寺の参拝道と田口に行く

豊橋鉄道田口線は前身を田口鉄道といって現在の本長篠駅から設楽町の中心である田口を結んでいた22キロの路線。現在、県道32号が土砂崩れで通行止めとなっているようだが、元のルートは県道32号とほぼ同じでUターンして寄り道するようになっている箇所が鳳来寺の参拝道にあった鳳来寺駅。終点の三河田口駅は木材の集積に便利なように田口の町からかなり離れた豊川に近い場所にあったようだ

田口鉄道は資本的にも飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道と密接で鳳来寺鉄道は1929年(昭和4)の田口鉄道開業時に、それまでの「鳳来寺」という駅名を田口鉄道に譲り「鳳来寺口」と改めたほどである。鳳来寺までの参拝客と材木の運搬が目的だったが、豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同じく国鉄と同じサイズの狭軌、しかも電化されていたという。この規格のおかげで戦後、豊橋鉄道に引き取られることになったが、戦時買収の対象から外れ国鉄にならず、国鉄が運行を管理するというハンパな扱いとされるだけだったことが後に影響する。国鉄の運行管理は戦後に終了。豊橋鉄道田口線として再出発したものの、材木運搬や利用者の減少そして台風による水害の影響で1968年(昭和43)に廃線となった

本長篠駅は構内踏切を渡ったところに島式ホームがあるが、駅舎に面したホーム跡らしき場所にぽっかりとスペースがある。これが田口線の跡らしい。規格が国鉄と同じであるため、鳳来寺観光の直通列車も運行されていたらしい

来春に訪れる変化

その一方で当駅は来春、変化を迎える

すでにスタンバイ完了に見える。これは分かりやすい。ICリーダーの読み取り機だ。来春に当駅までIC乗車できるようになる見込み。飯田線は現在、豊橋~豊川の8・7キロのみIC乗車ができるが当駅まで拡大される。23キロもの延伸だ。この区間内にはさすがに1日の利用者数が1ケタという駅は存在しない。本長篠も2022年の利用者は419人と92駅(豊橋、辰野をのぞく)中28位

ただ立派な駅舎がありながら、改札付近にリーダーを設置するのではなく雨ざらしの構内踏切に設置するあたり、すでに駅舎移転と取り壊しが念頭にあるのか、などといろいろ考えてしまうのだ

18時前、豊橋到着。すでに大都会。前日の塩尻旧駅跡、リニア新幹線予定地、ダッシュ疑似体験から始まり、飯田からの各駅訪問と起伏に富んだ2日間だった。駅近辺で夕食を兼ねて一杯やった後に帰宅。ただしすぐには新幹線には乗らない。せっかくの青空フリーパス。せめて名古屋までは在来線で向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その14 100歳を超えた駅舎訪問は今のうちに

※訪問は2024年10月27日

ゴールは見えた豊橋まで32キロ

本長篠に到着。時刻は16時を回り、秋の日は暗くなり始めている

ホームのかたわらにある32・1キロのキロポストは豊橋までの距離。飯田から195・7キロもある飯田線のゴールはもう間もなく。これは大阪~神戸(33・1キロ)と、ほぼ同じ距離だが、残念ながら飯田線には25分で結んでくれる便利な新快速はないので、トコトコと1時間かかる

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急増する運行本数

本長篠駅の時刻表。左が豊橋方面、右が飯田方面だが運行本数が大きく異なることが容易に分かる。当駅折り返しの列車が多数あるためだが、当駅が運行の重要駅だということも分かる。もちろん特急「伊那路」停車駅

開業時からの駅舎

本長篠の駅舎。少し離れて撮らないと全景が入らないほど横長の木造駅舎は開業時からのもの

当駅は1923年(大正12)に鳳来寺鉄道によって設置された。鳳来寺鉄道は飯田線の原型となる4私鉄のうちのひとつで、当駅をはさむように大海~三河川合を結び、それぞれ両端で豊川鉄道、三信鉄道と接続した当時の駅名は「鳳来寺」。会社名を名乗る駅となった。鳳来寺は当駅から車で約20分の名刹だが、現実的には湯谷温泉駅からの方が近い。ただ路線バスは本長篠駅から出ている

駅舎にある財産票は

大正12年12月となっている。開業は同年3月なので微妙なズレがある

駅名は開業から6年後に「鳳来寺口」となった。さらに1943年(昭和18)の戦時買収時に「本長篠」と変更。ちょっと話はややこしいが、当時の駅の所在地は「長篠村」で、別に「鳳来寺村」があったため、駅名変更は現状に基づくものだった。しかし戦後にこれらの村が合併して「鳳来町」が発足。過去に手放した駅名が自治体名となった。以降、本長篠駅は鳳来町の中心駅となった(平成の大合併で新城市となる)

駅舎建替えか

そのような歴史を持つ本長篠駅は今年で101歳。鳳来寺鉄道が建設した貴重な駅舎となっている

かつては管理駅でもあったが、現在は新城市の簡易委託駅

この駅舎が移設、建て替えの対象になっているという。現在の駅舎は老朽化している上、地形的に地滑りの可能性があるため、駅そのものを現在の位置から少し北に移動しようという案があるのだが、その場合、JR東海は窓口もお手洗いも設置する予定はなく、早い話が簡易型の駅舎とする構想だという。もし窓口やお手洗いを設置したいのなら、新城市に費用負担が求められる

新城市の答えはまだ出ていないようだが、建て替えの理由が地滑り危機という自然災害が影響している以上、何らかの形での駅舎の変更は免れることはできない。豊橋から1時間で行ける上に本数も多い。101歳の勇姿には早めに会いに行くことをおすすめします

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その13 超難読駅は路線ナンバーワンだった

※訪問は2024年10月27日

静岡県へ一度戻る

東栄駅から1駅戻る。1駅戻るということは静岡県に再び入るということになるが、ダイヤ的には東栄で、そのまま次の豊橋行きを待つと1時間20分の待ち時間。だったら約40分の待ちで静岡県の出馬駅へ向かい、出馬で30分過ごせば、もともと乗車予定だった豊橋行きに乗れる

初めて降りる駅となったが、大きな目的のひとつが駅名標の撮影である

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選挙には関係ありません

真っ先にサムネ写真で紹介しているように「出馬」(いずんま)と読む。まず駅名を見て「まさか『しゅつば』ではないよね」とは思うだろうが、それ以上は無理というもの。駅名が学業向上にあたるとの理由で知名度が上がるという話はよく聞くが、こちらはあくまで「出馬」であって「当選」ではない。だから縁起担ぎや必勝祈願で選挙に出た人が訪れたという話もあまり伝わってこないので、知名度的には、難読駅としての存在が上となる

しかしいざ駅で降りてみると、存在感はなかなかのもの

こうして見ると単式ホームと待合所のみという、お決まりの駅の姿。かつては交換可能駅だったという話もあるが、確認ではなかった。問題は駅への出入り口

ホームの端まで歩くときっぷ集札の箱があり、そこが出入口。細い道が続く。写真で分かる通り、左手には民家が並んでいるが、右側は農地そして川で生活感はあまりない

振り返るとこんな感じ。当然だが、車で近づくことは不可能である。さらに進むと踏切があり

ここが本質的な出入口。遠くにホームが見える

隣駅への距離は路線最短そしてもうひとつの最○

出馬駅は1934年(昭和9)の開業。三信鉄道が北へと線路を伸ばす過程で東栄(当時は三信三輪)~中部天竜(当時は佐久間)開業時に設置された。敷設と同時からあった駅となる

難読の駅名については「馬を飼育する牧場があった」「川から泉が湧き出た『いずみ』がなまった」などあるようだが、詳しい由来は分からなかった。

当駅のポイントのひとつは隣の上市場駅との距離。600メートルしかなく、駅間距離が1キロを切ることが多い飯田線でも最短となる。徒歩だと線路の上をまさか歩くわけにはいかないので、もう少し長くなるが、それでも1キロを切っている(ただし県境越えとなる東栄へは4キロ以上の距離がある)

踏切を渡ってみても集落の逆側にホームと出入口が設けられた理由は分からずじまい。普通は人の生活のある側に設置される。交換設備をなくす際、道路拡張のじゃまになるから出入口ごと逆側にされてしまったのか

いずれにせよ付近の住民にとっては不自由な構造となっているわけだが、実を言うと、ここ最近の利用実績は不自由も何もないのである。とにかく、ここ数年の1日あたりの平均利用者は、限りなく「0」に近い「1」なのだ。2022年のデータでは「金野」「伊那小沢」と並ぶ「1」は飯田線92駅(豊橋、辰野をのぞく)で最下位タイ。秘境駅号停車駅と並んでいるのだ。ちなみに「田本」は「2」、「小和田」は「9」である

さらに言うと、この「1」にはしっかり順位付けがあり、小数点以下の数字は分からないが、出馬は堂々の92位である。これは帰宅して調べてから分かったものだが、周囲にこれだけ民家がありながら限りなくゼロに近く、なおかつ最下位とは知らなかった。小数点以下の数字はすぐ変わりそうで2023年以降がどうなっているかは分からないが、てっきり金野が最下位だと思っていたので驚いた

駅にあった周辺案内図。いつのものかは分からないが、出馬駅の案内図というより、お隣の上市場駅の案内図となっている。周辺に民家がありながら、利用者がほとんどいないという駅は珍しくはないが、民家もあって、上下11・5往復あっての「0」はあまり見かけない。おそらく周辺の民家から通学する生徒がいなくなってしまったのだろう。訪問して、そして帰宅してなお一層驚かされた駅となった

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その12 車窓から目をひく駅舎は「鬼」

※訪問は2024年10月27日

愛知県最東端の駅

東栄駅に到着。家族を見送るお子さんの姿が絵になる。ここから飯田線は愛知県。ようやくという感じだが、豊橋までまだまだ先は長い。そして駅名標で分かる通り、ここは北設楽郡東栄町。小和田駅から当駅隣の出馬駅までは静岡県だが、静岡県内の飯田線はすべて浜松市天竜区に所在。つまり政令指定都市の「区」にあたるわけだが、平成の大合併が昨日のように感じる私のような世代にとっては政令指定都市=都会のイメージがこびりついていて違和感を持ってしまう

そして当駅は愛知県最東端の駅である

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目が釘付けの駅舎

当駅を語る上で絶対なのが、利用者を迎えてくれるあまりにも特徴的な駅舎。当駅には特急は停車しないが、ぼんやり車窓を眺めていると「エッ!」と身を乗り出してしまう。今回、下車駅に利用したのは、もちろんそれが理由なのだけれど(笑)

東栄駅は1933年(昭和8)に三信鉄道によって開業された。当初の駅名は「三輪村」。三輪村に所在したので三輪村となったのだが、その後「三信三輪」となり、国鉄に戦時買収された際に「三河長岡」となった。長岡とは町村制施行以前にあった村名で、当時の地域名でもあった。1956年に三輪村は編入される形で東栄町の一部となり、直後に駅名も現在のものとなった

地図を見ると、すぐ近くに静岡県との境界があり、愛知県最東端だということがよく分かるが、東栄町の中心部である旧本郷町とはかなり離れている。それでも町内にただひとつの駅ということで、地元で愛される存在だということは駅舎を見れば容易に分かる

車窓からはインパクト絶大な駅だが、外からはかなり普通で、工夫が施されていることがかえって分かりやすい。無人駅だがカフェが入居している

これが財産票のようなものだが、1992年(平成3)に地元の木材を使用して建てられたそうだ

もちろんJR東海らしく「正式な」財産票もしっかり張られていることは言うまでもない

モチーフは鬼

ホームに降り、構内踏切を渡ると駅舎前で待っているのは

チェーンソーを持った鬼。凶器を持った鬼に「WELCOME」と言われても、となるが

傍らに解説がある。この鬼はオニスターという町のゆるキャラ

駅前の観光案内図を見ると、鬼は木を切るだけでなく、山に登ったり温泉に入ったりと大忙しである。鬼は地域に伝わる花祭で鬼の舞を行う重要な役割を担う。花祭は奥三河の重要行事で各地で11月から1月にかけ各地で開催。また東栄町はチェーンソーアートでも知られ、駅にチェーンソーを持った鬼がいるわけである

こちらは駅舎内のカフェ入口。駅前には民家以外、これといったものはないが、町の中心部まではコミュニティバスが運行されていて、このバスは豊根村まで運行されている。豊根村といえば、飯田線では静岡県にあるのに愛知県の村の入口として有名な大嵐駅があるが、豊根村は旧豊根村、旧富山村と2つの村域に分かれていて、旧豊根村は東栄駅が、旧富山村は大嵐駅がそれぞれの最寄りとなっている

かつての貨物用線路が今も残る当駅の1日あたりの乗降客数は108人(2022年)となっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その11 私が「秘境駅」の言葉を使用しない理由

※訪問は2024年10月27日

当駅は秘境駅ではありません

小和田から15分ほどで平岡駅に到着。再び長野県に戻った。山中の飯田線をウロウロしていると、運行がしばらくないという時刻表の壁に必ず直面する。その時間をうまく昼食の時間に充てられたらベストなのだが、当然ながらそううまくはいかない。これだけの規模の町なら何とかなるだろう、と思って何もないというのは全国のローカル線(かなり利用者の多い駅でも直面する)あるあるで、その場合は主要国道のような幹線が近くを通っていれば、コンビニも含め何とかなるケースが多いが、天竜峡~本長篠の県境部分はそうもいかない。その意味では

温泉、宿泊施設の龍泉閣と一体となった当駅は心配無用。ここでは11時36分に着いて13時25分に去るという日程で、もちろんレストランもある。水窪で降りれば何とかなるかも、という道程も作りかけたががギャンプルは止めておいた。どの駅で降りても2時間潰さなければならないのだから、食事だけでは時間は潰れない。週末は昼間も温泉に入れるという平岡駅が安心である。当然ながら、当駅は秘境駅ではない

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飯田線6駅

平岡駅は1936年(昭和11)に満島駅として開業した。三信鉄道が北から延伸。間もなく小和田まで延伸されたので約半年間の終着駅だった。満島とは明治初期まであった村の名前。明治の町村制施行と同時に平岡村が誕生。それでも当初の駅名は満島だったが、1952年(昭和27)に現駅名へと変更された。自治体としては、その後の1956年に天龍村となった。特急「伊那路」であることはもちろん、秘境駅号の停車駅でもある。早朝と夜には当駅始終着の設定もある

駅舎には構内踏切で向かう

飯田線には「秘境駅6駅」と呼ばれる駅があり、それは「小和田」「田本」「金野」「中井侍」「為栗」「千代」の各駅。うち中井侍と為栗が天龍村に所在し、最近になって伊那小沢駅も秘境駅号の停車駅となったため、天龍村にある5駅のうち3駅が秘境駅になったことになる(もう1駅は難読駅として名高い鶯巣〈うぐす〉駅だが、こちらもなかなかである)

私は当ブログやX(旧ツイッター)でも秘境駅という言葉は基本的に使用しない。とても素敵な言葉だと思うし、名付け親とされる牛山さんの本はすべて楽しく読み、旅の情報源として大いに役立っている。CSで放送された番組も録画して見たほどだ。ただ地元の方や、(ほとんどいないだろうが)その駅を利用する方が「秘境」と呼ばれてうれしいのか、という気はする。だから「周囲に何もない」「利用者はほとんどない」という表現にしているのだが、飯田線については少し事情が異なる。JR東海公認なのだ。豊橋駅では秘境駅弁当という駅弁も売られている。これは秘境駅と表記しても問題ないだろう

大谷選手の応援で活気

お昼はトンカツ。レストランは大いに繁盛していた。お客さんの様子を見ると地元ナンバーの車で日曜のランチタイムを楽しんでいらっしゃるようだった

駅は無人化されているが、駅舎内には売店や土産物売り場もある。秘境駅号の到着時は大いににぎわう。価値があるのは三信鉄道の歴史を記した大きなパネル。過去の写真も含め、鉄オタならずとも歴史として見入ってしまうもの

そして肝心な時間つぶしだが、食事以外の時間も実は全く問題なく過ごすことができた。というのは、ちょうど野球のワールドシリーズ第2戦の開催日、開催時間となっていて駅舎の休憩スペース、レストランともに中継中。しかも大谷選手がスライディングの際に肩を負傷した、ちょうどそのタイミング。応援にも熱が入る。試合は食事の時間には終わったが負傷の具合は気になるところである。秘境路線でもこれだけの応援と関心があるのは凄いことだと思った

ということで2時間はあっという間に経過。午後になって時間はあるようでない。愛知県へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その10 そして駅舎が残った

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

風格ある駅舎を支える

鉄道ファンを引きつける風格ある駅舎。そんな木造駅舎を支えるように足下にはしっかり点字ブロックが存在するところに妙に感心してしまった。かたわらに放置されているカブとの対比が何ともいえないが、5年前の写真にはなく、見た目とは違い意外と最近になってから置かれたもののようだ。ただ産業廃棄物のようなものを一体誰が何のために、ここに置いたのか?しかもどうやってここに運んだのか?電車に乗せると車掌さんに怒られる。まさか、この山道を延々と運んだのか?

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5年前はできなかったことを…

こちらが小和田駅の時刻表。10時11分に到着して11時16分の天竜峡行きで飯田方面へと戻る。戻らないと次の列車は3時間半後。次も2時間半ない。天竜峡~中部天竜の長野と静岡の県境区間はとにかくダイヤが薄いので、さすがに時刻表の見誤りは許されない。実は金野から当駅への道中で行き違い列車に遅れが出ているとのことで10分近く遅れたが、元々1時間の滞在時間があるので影響はない。5年前は豊橋方面から13時19分着の電車で来て同42分で戻るという楽々コースを利用。駅が駅だけに20分の滞在では物足りなかったので本日は周辺も見てみよう(ただ5年前は20分で良かったといえば良かった。それについては後述)

一躍「時の駅」に

駅名標の隣には「恋成就駅」の木柱。説明するまでもないが、当駅は1993年(平成5)のロイヤルウェディングの際、一躍時の人ならぬ時の駅となった。当時皇太子妃となった雅子さまの旧姓は「小和田(おわだ)」で厳密には違うが、漢字が同じということで多くの人が押し寄せることとなった。今のようにネットがある時代ではなく情報の拡散は遅いはずなのに、多くの人がやって来る映像が連日ワイドショーで報じられた

かなり色あせてしまったが「愛」と記されたベンチが登場。ここに座るためにこぞって人がやって来たが、今は汚れが目立ち座るには勇気が要りそうだ

探索開始直後に足がすくむ

ここから少し歩くとお茶の廃工場と廃屋がある。5年前は時間がなく行けなかったので、今日は行こうと、このベンチ前を通り過ぎようとした瞬間のことだった。目の前の小径を悠然とヘビがニョローリ。灰色のサイズ大のもの。これには足がすくんでしまった。慌てて駅舎へと戻る。駅舎には「ヤマビル注意」の看板も掲げられている。実は5年前に来た時は、ちょうど雨というタイミングもあってか、空中を舞う虫が凄かった。トンボや蝶のような優雅なものではない。どちらかというと人間にまとわりつく系統のものだ。6月終わりなので、もちろん半袖である。これには参った。人の営みも全くなくなった山中。大型の哺乳類だけでなく昆虫もは虫類も生息するのは当然なのだが、いきなり都会から放り込まれると、こういうことへの対応力はゼロである。現在はプラチナきっぷと化している秘境駅号は現在、春と秋のみの運行。以前は8、9月の夏も運行があったが、いつの間にかなくなった。もしかすると生物の活動が影響しているのかもしれない

ということで駅舎でおとなしくすることに。当駅で結婚式を挙げたカップルの写真が飾られている

今はオフィスでもなかなか見られなくなったデスクとパイプイス。立派な駅ノート入れがある

古い駅名標も残されている

特急「伊那路」が通過。駅舎と良い並びだ。考えてみれば私にとってはテレビに映る騒ぎは昨日のことだが、現在35歳以下の人にとってはリアルタイムで体験していない歴史上の事実でしかない。ただ歴史がこの駅舎を残したことは、まぎれもない事実だと思う。ロイヤルウェディングがなければ、おそらく駅舎は残らなかっただろう。もちろん核となる小和田駅の駅舎がなければ秘境駅号も運行されていない。なぜこんなところに駅があるのかを含め、いろいろな価値を残してくれた駅である

5年前の動画を置いておきます

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その9 5年前の思い出と変化

※訪問は2024年10月27日

5年ぶりの訪問で「あれ?」

いよいよ小和田駅に到着。「いよいよ」と記したのは、この駅が鉄道ファンだけでなく一般的にも認知度の高い駅だという思いがあったからだ

かつては2面の対面式ホームがあったが、今はレールがはがされ棒状化している。当駅には2019年6月にも訪れているので5年ぶりの訪問となるが、ホームに降り立つと金野駅の自転車置き場と同様の違和感があった

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移動した3県境標識

小和田駅は1936年(昭和11)の開業。三信鉄道の一時的な終着駅だった

車では絶対にたどり着けず、最も近い集落までも徒歩で1時間かかる山中の駅として知られる。グーグル地図を拡大しても道は出てこないほどの場所にあるこの駅が、なぜ終着駅となったのかというと、もともとは天竜川に近い場所を線路が走っていて、当時は天竜川を利用した物流の拠点ともなっていた大きな小和田集落があったからだ。だが佐久間ダムの建設のため集落は湖底に沈み、駅が高台に移されたのが1955年(昭和30)。車では行けない駅となった。もっとも当時はまだ「マイカー」の時代ではなく、それなりに駅の意味はあったようだが、周辺に残ったわずかな家も1軒また1軒と減っていき、日常的に使用される駅ではなくなっていった

当駅の特徴のひとつは地図で分かる通り、静岡、愛知、長野3県の県境近くに位置すること。駅があるのは静岡県だが、天竜川の向こうは愛知県で、天竜川沿いまたは線路沿いですぐ長野県に入る

ということでホームの3県境標識(2019年6月の写真)が当駅のウリのひとつ…のはずだったが、この木製の標識が見当たらないのだ。私の探し方が悪いのか、ウロウロしても見つけられない

その代わりなのかホームから駅舎に入ろうとすると

この位置に県境境界駅の標識があった。5年前の写真はこちら

間違い探しクイズのようだが、当時はなかったので、この位置に「移転」したようだ。ホームの木柱が危なくなったのだろうか。細かいことだが、入口の左側にも新たな木の駅名標が置かれている。このような駅は、そう大きな変化はないものと思い込んでいたので、ちょっと面食らった

5年前の貴重な思い出

秘境駅号に乗車したのは、何度も触れているが2012年の11月。そして秘境駅号の停車駅でそれ以降に訪問したのは、この時に同時訪問した中部天竜ぐらいである。メインは解体が決まっていた湯谷温泉駅訪問だったが、少し足を伸ばして小和田まで来た。その時に利用したのが

大阪~小和田の往復乗車券。片道の距離は350キロにも満たず、往復割引の恩恵に預かる距離ではないが、帰路の乗車券は車内で車掌さんから買うしかないので、となると豊橋以降でいちいち係員のいる改札を通らなければならない。日帰りの道程はサクサク帰りたいので、あらかじめ往復で買っておいた。当たり前の話だが、大阪駅の券売機で「小和田」と行先指定すると、ちゃんと買えて、なぜか感動した。ただあらためて眺めると途中下車した新城駅で途中下車印を押されている。その手の作業は駅員さんの仕事を増やすだけなので「途中下車印要らない派」なのだが、駅員さんの仕事として押してくれたのだろう。思い返すと、ここ数年で何も言わずとも途中下車印を押してくれたのは、すべてJR東海の駅である

最近の小和田駅の1日あたりの平均利用者は、ずっと1ケタ。正規の乗車券で小和田で乗降したわけで、駅利用者のカウントにしっかり入れたことに大いに満足したことを覚えている

駅付近の散策をしよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その8 今はなき自転車置き場

※訪問は2024年10月27日

真っ先に感じた違和感

田本駅から3駅目の金野駅に到着。ご覧の通り、こちらも単式ホームと待合所のみの構造。「きんの」と読むのはちょっと意表を突かれる

待合所に掲げられた時刻表。9時2分に到着して同22分で去る。20分の滞在。ここまではダイヤの妙でうまく駅を回った来られたが、上り下りとも、この後は3時間以上、ダイヤはぽっかり空いている。工夫を要する時間帯に突入する

短時間なので駅周辺を散策しようとホームから降りると、そこには初訪問でも分かる違和感があった

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12年前の強烈な印象

小さな階段を降りると草むらの広場となっている。先に顔をのぞかせているガードレールが突き当たりで右に折れて、その後はほぼ一本道だ

違和感というのは、この角度では分かりにくいが近づくとすぐ分かる

まるで下着の跡のような空間。形状で想像できるが、ここには自転車置き場があった

12年前に秘境駅号で来た時の写真。この駐輪場は日常的に使われているのだろうか、と思ったので真っ先に撮ったことを覚えている。このような小さな駅の施設が消えたのだから、それは大きな変化だ。この数年後に撤去されたようだが「今は見られない鉄道風景」となってしまった

もっともこの写真のみを掲載すると静寂だが、実際は

人わんさかである

駅は飯田市、金野は泰阜村

先まで進んでいくと折れた道は川にかかっている。米川という天竜川の支流のひとつで、このあたりは天竜川との合流地点となる。そしてこの橋は金野駅と外部を結ぶ唯一の道路にもなっている

金野駅は飯田から飯田線を南下していくと飯田市の南端の駅。お隣の唐笠駅から泰阜(やすおか)村に入る。ただ金野駅は飯田市だが、金野の街は泰阜村にある。泰阜村のHPによると金野諏訪社は武田家の家臣が子孫繁栄を願って創建した由緒ある神社だという。今でもかなりの山奥だが、戦国の時代に、このような山中に武士がいた(おそらく農家と兼業)とは、ちょっとしたロマンである

開業は1932年(昭和7)。門島~天竜峡が開通した際に設置された。敷設にあたった三信鉄道は当初から金野に駅を設置する予定だったというから、大きな集落として認知されていたのだろうが、地形の厳しさに金野の中心地に敷設することができず、天竜川に面したこの地に駅を設けたのだという。そんな経緯もあって駅周辺には何もない

駅名標に触れると金運がアップされるといい、12年前も大変な人気だった

訪問の理由は

時間も列車本数も限られているので、山中の飯田線ならではの駅すべてで降りるわけにはいかないが、この金野駅を選んだのは「利用者最少」の駅だから。2022年の利用者数を見ると1日の平均利用者数は「1」で最少。田本の「2」よりも少ない。「0」がないので「1」は最少となるが、これはおそらく小数点以下を切り上げた数字だと思われ、1がいくつか並んでいる

線路の脇にはロープが張られ、侵入できないようにされているが、またぐというレベルにもないほどの低さ。1日に1人も利用しないのだから、わざわざ線路内に立ち入る人もいないだろうけど

駅前の原型が怪しくなっているこの注意看板は12年前もあったかどうか記憶に残っていない

田本と同じく待合所の財産票は開業から1カ月以上が経過してのもの。開業からというよりは1年でどのぐらいの人の目に触れるかというレベルだが、当駅は車で駅前までアクセスできる貴重な存在で、それがかえって田本駅などと比べてコアなマニアの人気を下げているという一面もあるようだ

それでも写真で分かる通り、駅前の草はきれいに刈り取られている。このような環境なら、少し放置するだけで雑草が生い茂り、車が入れるスペースなど確保できない状態になってしまうはず。1日1人も利用しない駅での現状維持活動に頭が下がる思いしかないのである

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その7 ようやくかなった「ぼっち」訪問

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

「本来の姿の駅」に訪問

田本駅に到着。12年ぶりの訪問だが、状況は全く異なる。前回は秘境駅号でやって来たので、駅を味わうなどということはなく、駅を訪れた記録だけが残った感じだ。今回は本来の田本駅の姿と対面

ということで、静寂感漂う駅へ「ぼっち」の下車となった

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誰も降りない超有名駅

田本駅の2022年の1日の利用者数は「2」。そしてこれは最下位ではない。「1」があるのでビックリするが、それはこの後に出てくる。この数字には今回私が使用している青空フリーパスや青春18きっぷのような、いわゆるフリーきっぷの利用者は含まれない。もちろん秘境駅号の利用者も入らない。この駅から正規の乗車券で乗車または下車するとカウントされる。だから秘境駅号で田本までの乗車券と急行券を買って下車するとカウントされるのだが、そのような秘境駅号の客はまずいないだろう

ただ利用者数と反比例するように知名度は抜群だ。田本駅で検索すると駅紹介や訪問記、動画が数え切れないぐらい表示される。鉄道ものではない一般メディアでも紹介される。その意味では私の訪問記は甘いものかもしれないが、ここはお付き合いを

田本駅といえば、狭いホームと断崖絶壁のコンクリート壁。停車中の電車があると分かりやすい。ホーム幅は2メートルは絶対にない。ちゃんと点字ブロックがあるのが素晴らしいが、これより後ろで電車を待つとすれば、幅1・5メートルほどだろうか

知名度が高すぎるので説明するまでもないが、駅舎などというものはなく、単式ホームと扉のない待合所があるのみ。背後はコンクリートで固められた壁で線路の向こうは天竜川への絶壁。つまり断崖絶壁に囲まれている。いくらでも木の葉が舞い込んできそうだが、待合所はきれいに清掃されていた。足下にあるのは「ここで待て」サインだろうか

JR東海は待合所にもちゃんと財産票を張ってくれている。「昭和10年」というのは開業時のものだが、データによると開業は11月。少し遅れて設置されたことになる。開業させたのは三信鉄道。もともと駅の設置予定はなかったが、地元住民の懇願で門島~温田が開業した時に同時開業となった。線路の敷設とともに設置された。環境が環境だけに後からだと設置はなかったかもしれない

駅の前後はともにトンネル。かなりのスピードが出るようだ

唯一の出口からは山道

出入口は豊橋側に1カ所のみ設けられている

きっぷを入れるポストがあって、その先は

人が1人ずつすれ違うのがやっと、という細い階段。線路をまたぐ形で「下界」へと出る。途中まではハイキングコースというか山道のようだが、途中で分岐があり泰阜村、阿南町どちらへも行けるようになっている(阿南町へ向かう際は橋で天竜川を渡る)

こちらは田本の集落へと向かうコース。途中の道は険しいが、意外と近い。県道まで10分ほど山道を歩くと、もう「安全」らしい

田本駅を俯瞰で見る

田本駅といえば

階段を登り切ったところからの俯瞰だろう。列車の写真が写り込んでいれば、なお素晴らしいが、いかんせんダイヤというものがある

列車が写り込んでいるといえば12年前の写真

2012年11月のものだが、これは人が多すぎる。知らない人が見ると、いったい何の写真かということになる

こちらは階段の順番待ち。階段が狭いので初詣の本殿参拝待ちのような状況だった。ただ列車はホームに止まったままなのでホーム縁を歩いても危険はない

こちらは田本駅の時刻表。1日に8・5往復の停車と、この環境では多い方だが、事前に時刻表をチェックしないと2時間以上の待ちとなる。当然だがお手洗いも自販機もない(県道まで出れば自販機があるようだが、一度行った山道を帰ってくるのが面倒そうだ)

私は8時11分着で来て同47分で去るという、1日のうち上下ともここしかない1時間に2本のダイヤを利用した

とにかく雨にならず良かった。次の駅へと向かおう

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