私鉄

銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~かわいい駅名板にひかれる

※訪問は2025年7月11日

今日は歩く必要ナシ

名残惜しいが津軽大沢駅と別れる時間がやって来た

大鰐線には意表を突くような形でホーローの駅名標が残されているが、ここにも残る。随分と高い位置にあるのが印象的だ

さて前記事で津軽大沢駅は列車交換が行われる駅となっていて、当駅で下車すると必ず1時間待ちなければならなくなると記したが、この時間帯についてはその心配は無用である

こちらは当駅の時刻表だが、私が乗ってきた7時7分の中央弘前行きの後、平日に限っては7時36分という電車がある。JRにしろ三セク、私鉄にしろ、やはり駅訪問は全国どこでも通勤通学帯の朝がカギとなる。それにしても当駅には朝の6時台は電車がやって来ないことをこの時、あらためて知らされた。終電もなかなかの早さだ

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高校生でにぎわう車内

こり後は2駅先の小栗山へと向かい、1駅戻って松木平へ。そこから市内中心部を目指し弘高下で下車して大鰐線コンプリートの予定。もちろん時間はまだまだあるので、大黒様きっぷをそのまま利用して弘南鉄道弘南線の各駅訪問も行うつもり

平日のみ運行のこの列車には多くの高校生が乗車していた。7時半過ぎという時間帯は沿線にいくつもある高校への通学列車の役割も果たしているのは容易に察しがつくが、学校数の割に利用客の数が少ない。私は各地のローカル線には、かなり乗っているが、学校の数を考えると座れない乗客が、もっといてもおかしくはない。これは大鰐寄りの義塾高校前でも感じたこと。これについては今後の記事でも考えてみたい

ホームと待合所のみの構造

電車はあっという間に2区間を走り小栗山駅へ。もちろんこの駅で降りる高校生はいないし下車したのは私だけだったが、代わりに何人かの生徒さんが乗ってきた

小栗山駅はご覧の通り単式ホームと待合所のみの構造。大鰐線のこの構造の駅は路線が開業してから設置されたものが多いが、当駅は1952年(昭和27)に前身の弘前電気鉄道が路線を開業した際からある1期生の駅。見る限り過去に貨物の扱いがあったようには見えない

私の写真では農地の中にある駅に見えてしまうかもしれないが、当駅付近まで弘前の郊外化が進んでいる。開業時は千年村に所在。1955年に千年村は弘前市の一部となっている。千年村が成立する前の明治の町村制施行までは小栗山村があった

手書きの文字がなんとも

宅地の横から小さな階段でホームに入る

さて当駅とは無関係の話だが、前日の津軽線訪問でも気付いたことに電話ボックスの形状がある

拡大するとこんな感じ。多くの駅でこのような形だった。近年、電話ボックスのお世話になることなどほとんどないので、じっくり眺めることはないのだが、表彰台に登るような形となっているのは、積雪対策なのだろうか。3月の訪問時はそもそも雪が積もっていたので全く気付かなかった

駅名標は小さな待合所に2つも掲げられている。先に挙げた写真ではホームに着き出すような形での「小栗山」の文字が随分と目を引くが、正面に回ると

板に漢字、ひらがなの並列で手書き文字が並ぶ。この手のものは地元の学校生徒によって描かれたものが多く「○○学校」の案内があるものだが、それはない。板そのものはかなりの年月を感じさせ、ほとんど何もない構内で大いにアピールをしていた

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~周辺は静かな路線の中枢駅

※訪問は2025年7月11日

意外と訪問が難しい?

津軽大沢駅に到着。見て分かる通り、車庫を備えている。そして運行の管理も当駅で行う。つまり大鰐線の中枢駅。そして電車による乗下車が意外と難しい駅である

というのもほとんどの時間で1時間に1本の運行となっている大鰐線は当駅で列車交換を行うことが多い。もちろん長時間の停車ではない。つまり当駅で降りると中央弘前、大鰐のどちら側からやって来ても必ず1時間の待機が生まれる。もっともこれだけの施設がそろっているのだから、ウロウロしていると時間はあっという間に過ぎ去る。もっと言うと両隣の義塾高校前、松木平とは大した距離ではない

2区間歩いても45分。当駅から義塾高校前までは20分、松木平までも30分とどちらの駅に行くにしても次の電車を待っている間に歩いて到着できる

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車両所などが移転

当駅は1952年(昭和27)の開業。弘前電気鉄道が中央弘前~大鰐を開業させた時に設置された1期生の駅だが、最初から中枢の駅だったわけではない

弘前電気鉄道時代に車庫と本社が置かれたのは西弘前駅(現弘前学院大前駅)だった。転機は1970年の弘南鉄道への譲渡。翌1971年に車両基地が当地へと移転してきた。おそらく都心部の西弘前では手狭だったのだろう。現在も周辺は農地が多く、当駅の1日あたりの利用者数(2023年)は14駅中7位の55人と、そう多い方ではない(もっとも路線内で3ケタの利用があるのは中央弘前と大鰐のみである)

そんな現状を表すようにかつての窓口は閉じられた無人駅。運行をつかさどる駅でありながら、現状当駅を始終着の列車は設定されていない。現時点で設定されていないのだから、2028年春の廃線まで、おそらくこのままだろう。ただし当然ながら運行や車両基地に携わる駅員はいる

駅舎の横から車両基地方面へは道路となっている。途中、何の注意書きも柵もなかったのでズンズン奥まで進んでみた。現役生活を終えたであろう車両も静かに時を過ごしている

ちょっと変わった駅舎

あらためて駅舎。駅舎の存在そのものが少ない大鰐線だが、パビリオン風の千年駅、石川駅とは構造が違う。何より1文字ずつ主張しているような駅名板もここにはない。おそらく他駅は弘南鉄道に移管されてからリニューアルされたが、ここは1952年から同じ姿なのだろう

駅舎の向かいにある介護施設。その1階部分に「弘南鉄道利用者トイレ」がある。男女別のきれいなもので、路線内では貴重な存在だといえる

私が電車を降りると小学生の一団がホームで待っていた。乗る様子がないので「あれ?」と思っているとすれ違いを行う電車に乗り込んでいった。地方のローカル線というと、高校生が主人公なのは言うまでもないが、統廃合が進み、地域によっては小学生にとっても貴重な足だということを再認識。小学生のグループなのでホーム上はにぎやかだ。こんな光景も間もなく失われるのかと思うと、ちょっと寂しい気持ちになる

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~車窓で答え合わせをしながら次の駅へ

※訪問は2025年7月11日

天候に恵まれ

出発を待つ弘南鉄道の電車。6時50分発に乗車する。大鰐駅の5番ホームは保線車両の留置などに使われ、旅客列車の発着は基本的に行われない。3月に訪問した時は除雪車が停車していたが、その姿はもちろんない。すがすがしい朝。気温は25度にもなっていない。伊丹空港から東京経由で北海道&東日本パスを利用して北上してきたが、東京では軽く30度超えだったものが、青森に到着してからは最高気温が26度ぐらいという日が続いている。最初は「さすが北国の青森」と思っていたが、私の訪問タイミングがたまたま恵まれていただけだったようだ

これについては後ほどあらためて触れるが、3月の大鰐線乗車の際も、ふだんの私の生活では見ることもない自分の身長よりも高く積まれた雪を目の当たりにしながら各駅訪問を行ったが、気温は10度超えで、しかも無風。全く寒くはなかった。むしろ徒歩には適切な気候だった。弘南鉄道の旅は私にとって、いずれも天候に恵まれたといえる

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こうなっていたのか、と感心しながら

電車の側面には、ちょっとおしゃれなサボが掛けられていた

大鰐線の全14駅で未訪問駅は4駅。3月に来た時、途中で全駅訪問は無理だと分かった時点で終点の大鰐に近い駅を優先的に回ることにした。次回来た時に中央弘前に近いが残っていた方が効率が良いと考えたからだ。また駅間距離の近い区間も隣同士で残すことにした。1時間に1本の運行なので、歩いた方が早い区間は歩いてしまえば良い。その結果、津軽大沢から松木平、小栗山と3駅続けて残り、もう1駅は膝が痛くて断念した弘高下である

ところが大鰐線再訪問を前にJRで大鰐温泉駅まで行ってから戻ってくる作戦に急きょ変更。それはもう1度車窓から確認したかったからでもある

自分の中ではおそらく忘れることのない弘南鉄道の石川駅から奥羽本線の駅を歩いた駅間徒歩である。携帯アプリの指示するままに歩こうとすると、目の前には雪しかなく、自力で別ルートを考えたら大きな水たまりに道を阻まれ、それでもエイヤとジャンプしたら膝を痛めてしまった2つの思い出。大鰐温泉まで行ってUターンする形をとれば、雪のない時はどのような姿になっているのかが分かる。弘前から大鰐温泉への奥羽本線では弘南鉄道との交差部分を中心にじっくりと眺め、今度は路線内で唯一の高架となっている部分から眺めると、ああ、雪に埋もれていたアプリ指示の場所にはちゃんと道があったんだな、膝を痛めた水たまりは当然ないな、とJRと弘南鉄道の往復で「答え合わせ」も完了。さすがにもう一度道程を歩いてみよう、という考えには至らなかったけど(笑)

ちょっとした感慨にふけっているうちに電車は17分で津軽大沢駅に到着。ご覧のように、見ただけで、なかなか「そそる」駅である

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~ようやく跨線橋を渡ってみた

※訪問は2025年7月11日

4カ月を要してたどり着いたJRの改札

大鰐温泉駅の改札。4カ月前はここまで来ることはできなかった。ラッチはなく有人の時間帯は駅員さんが立ってきっぷの回収をするのだろう

ただしまだ6時40分。無人の時間帯だ。JR全線の乗車券、指定券を買うことができると記されているが、みどりの窓口とはなっていない。特急停車駅ながら扱いは簡易委託駅のようだ

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足湯も備える

大鰐温泉の駅舎。開業は130年前の1895年と明治期だが、現在の駅舎は昭和30~40年代の典型的なコンクリ駅舎。大鰐町の代表駅にして大鰐温泉の最寄り。最寄りというか、駅前が温泉街となっている。全国には「○○温泉」という駅名ながら、温泉街まで遠い駅がいくつもあるが、ここは名前に偽りなし。鎌倉時代んらの名湯で大鰐からの駅名変更も十分うなづける

駅前には大きなワニと一体となった足湯がある。「こんなところだったのか」が実感

3月に訪問した際の記事。当駅に来る前、弘南鉄道の石川駅からJRの石川駅の間を歩いた時、膝を痛めてしまい跨線橋を渡ることができずJRの方に行くのを断念した。ちなみにもう痛くはないが、まだ違和感が残っている状態だ

大鰐駅へと向かう

さてここからようやく本来の目的である弘南鉄道大鰐線の大鰐駅である。つまり大鰐温泉駅から大鰐駅へと向かう。弘南鉄道では南口にあたる駅舎はJRの駅舎の隣にある

以前は駅員さんがいたが、現在は無人化されている。券売機もなく単に待合室状態。私の訪問時はJRも無人の時間帯。前記事で「どちらで降りても事実上同じ」と記したのは、そういう意味合いだ。厳密にはJR、弘南鉄道とそれぞれの乗客が、それぞれのきっぷを持ってそれぞれの出入口を利用することになるが、今回の私は両社のフリーきっぷを持っているのでどちらも利用できる

4カ月前は渡れなかった跨線橋で、いよいよ大鰐駅へ

弘南鉄道の方へ行こうとすると跨線橋が狭くなる。そしてJRのきっぷしか持っていない人は、ここから先には行けない。駅に出口が複数あるのなら、○○口という風に方角や地名が入るものだが、弘南鉄道には北口と南口があるが、JRの出口は1つである。「JR出口」と表示されているのも、そのためである

弘南鉄道のホームにやってきた。ここは4カ月前にも見た光景。懐かしい

すでに中央弘前行きの電車が出発を待っている。訪問記事と読み比べていただければ分かるが、とにかく景色の違いに驚く。弘南鉄道とJRのホームの間はビッシリ雪が埋まっていたのに、今は青い夏の空。あまりにも対照的だ

共同使用駅の概念とは違うかも

弘南鉄道のホームまで来て目につくのは、こちらの注意書きである

わざわざ「JR」と上書きしたり、「弘南大鰐」の「弘南」の部分を隠してみたりという工夫ばかりが目につくが、これはどういうことかというと前述した通り、JRのきっぷしか持っていない人はこちらの出口からは出られません、との意味だ

JRで降りると線路を挟んで南北を往来するにはかなり回り道をする必要がある

こちらは3月訪問時のもので張り紙はめめめくれかけているが、通り抜けをするには入場料が必要だということが書かれている

訪問時の記事で「いろいろな形式はある」と前置きしながらも共同使用駅とした。ただ共同使用駅の概念のひとつとして「どこからも出入りできる」というのがあるだろう。ホームの導線に共有部分はあるとしても「隣接する駅」という表現が近そうだ

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~異なる会社のパス2つを同時使用

※訪問は2025年7月11日

朝6時台の弘前発奥羽本線からスタート

朝6時20分の弘前駅

前日は津軽線の運休区間を回り、夕方までに弘前入り。本日は弘南鉄道大鰐線の残り駅回収と同社の弘南線の各駅訪問を行う予定。前回の訪問からちょうど4カ月。景色は大きく変わった。当時は弘前の駅前にも雪が残り、沿線はどこもまだ高く積もる雪に囲まれていた

まさに雪中行軍だったが、東北の夏はやや遅いとはいえ、もう盛夏といっても良い季節。朝の6時でも当然半袖シャツ1枚である。幸運にも宿泊していたホテルの朝食が朝6時からで、大盛ごはんを素早くかき込んで出発である

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初めてのフリーパス同時使用

6時27分発の奥羽本線秋田行きに乗車。大鰐線の駅訪問なのに、なにゆえJR乗車なのかというと、ここから大鰐温泉駅へと向かい、そこから大鰐線に乗車しようというプランである。すでにスマホで弘南鉄道のフリーパス「大黒様きっぷ」を購入している。そして弘前~大鰐温泉のJR区間は津軽線でも使用した北海道&東日本パスを利用する。結論から言うと、本日JRを利用するのはこの区間のみ。運賃にしてわずか240円だが、7日に東京から利用を開始したこのパスはもう十分に1万1530円の元を取っている。しかも明日の最終日も青い森鉄道でたっぷり乗下車するので本日の出番はこれだけで問題ない(ちなみに初日の出番も浜松町~上野のみだった…笑)

フリーきっぷというのは、とりあえず元を取るのが先決なので異なる会社のものを2枚同時に使用するということは、なかなかない。私も初体験。ほんの少しだけエグゼクティブな気分になれる

電車はわずか2区間の13分で大鰐温泉駅に到着。ちなみに弘南鉄道だと13区間で30分以上を要する。後方に弘南鉄道の出口があるが、当然ながらJRの出口から出よう。両社のフリーきっぷを持っているし、事実上ここから出ても大勢には影響ないのだが、それについては後述する

奥羽本線のこの区間は過去何度も乗車しているが、大鰐温泉での下車は初めて。もっと言うと、途中に石川駅があるだけの2区間約12キロの車窓をこんなに凝視したのは初めてのことだ。特に石川駅前後では「こんな風に大鰐線とクロスするんだ」「こんな風に別れてまた合流するんだ」と興味津々。これも3月そして今回の主役があくまで大鰐線だからだろう

行先案内にしびれる

向こうに弘南鉄道の大鰐駅と電車が見えている。跨線橋でつながっているが、JRは大鰐温泉、弘南鉄道は大鰐と駅名が異なる

JRの大鰐温泉駅は開業が1895年(明治28)と古く今年で130歳。新宿駅とも「10歳」しか変わらない。当時の駅名は大鰐である。地名の由来については調べるまでもなく駅に解説があった

アイヌ語に基づくという。JR東日本の東北の駅では、このような地名の由来についての案内板をよく見かけてとても勉強になるし、何より調べる手間が省けてブログ記事の作業がはかどる(笑)

弘南鉄道の大鰐駅開業は1952年(昭和27)と、ずっと後のことだ。敷設は弘前電気鉄道が行い、駅名は国鉄との同名に気を遣ったのか、嫌がったのか弘南鉄道に営業が譲渡された際に「弘南大鰐」という駅名となっている。大鰐駅に戻ったのは1986年のこと。ただJR移管後の1991年(平成3)にJRの駅名が大鰐温泉となって現在に至るため、弘南鉄道の駅は55年もの歴史を持ちながら、JR(国鉄)と同駅名だったのは1952~1970と1986~1991の半分にも満たない。駅名の追っかけっこをしている感じだ

改札を出ようとして振り返ると跨線橋手前の番線案内に目が釘付けとなった

奥羽本線の各駅、弘南鉄道大鰐線の各駅に混じって「大阪」の文字。明らかに異彩を放っている。東北地方に大阪という地名があるのかと思ってしまいそうだが、おそらく日本海縦断特急「日本海」の停車駅だった名残だろう。定期運用の終了は2012年春とまだ13年しか経っていないが、はるか昔のことのように感じてしまう。2028年春の大鰐線廃線とともに案内板も作り替えられて大阪の文字も消える運命だと思う。ただ見方を変えると何度も作り直すのは面倒なので、少なくともそれまでは残るはず。この駅で最もしびれた瞬間だった

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~所々で現実に戻される木造駅舎と14年前の思い出

※訪問は2025年6月7日

今回の旅の終着駅

鮎貝駅から約30分で今泉駅へと到着

当駅はJR米坂線との分岐駅。ここで乗り換えて米沢に出るのでフラワー長井線とはお別れ、つまり最後の駅となる。クラシックな乗換案内があるが「小国 坂町」方面については番線の数字が隠されている。米坂線は現在、豪雨被害によって坂町方面が運休中だ

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大正期からの木造駅舎

今泉駅は1914年(大正3)の開業。当時からの駅舎が健在だ。駅名標を見て分かるように管理はJR東日本。山形鉄道の社員はいない。自動券売機が置いてあるだけ。アンバランスとも思えるような巨大な駅名板は国鉄からの移管後、一時的に全国で流行った。新生JRをアピールするためのものだったのか、今となっては不明だが、このサイズの駅名板も徐々に姿を消しつつある

管理はJR東日本で山形鉄道はあくまで共同使用駅という形をとっているが、国鉄時代は所属路線は長井線だった。というのも長井線の方がわずかに先に開業したからだ。長井線が長井駅まで延伸され、途中駅の今泉駅が開業したのは1914年(大正3)。米坂線の開業はその2年後。三セク移管により長井線がJRの駅ではなくなったので、米坂線の駅となった。西大塚、羽前成田と開業時からの駅について紹介してきて、その度に開業時から残る駅の数について微妙な表現をしてきたが、それは今泉駅が山形鉄道の管轄ではないからだ

ただしJRの管轄となっていることで別の側面も残った

当駅はみどりの窓口が残る直営駅である。それは運行において重要な駅となっているからだ

14年前に当駅で待ちぼうけ

米沢からやって来た米坂線と赤湯からの長井線は今泉で合流。その後、再び別れるのだが、「別れ」にはちょっと事情がある

地図が分かりやすくなるよう車での移動ルートを掲載してみたが、見ていただければ分かる通り今泉を出た両線は、かなり長い区間同じ線路を走り川を渡ってからようやく二手に別れる。つまりこの区間はかつては両線、現在は両会社が共有していてしかも単線である。そのため今泉は(現在米坂線の列車は走らないものの)重要な駅となっている

この共有区間については強烈な思い出がある。データが残っているので2011年10月27日のことだ。米沢に宿泊することになっていた私は少し時間ができたので米沢~今泉を往復してみることにした。米坂線はこの日が初乗車。ダイヤ的によい感じの滞在時間で米沢駅へと戻れることになっていた-はずなのだが、今泉で下車したところ思わぬトラブル。この共有区間でフラワー長井線の列車が故障して動かなくなってしまったのだ。共有区間を塞いだ形になっているので米坂線も運行できない。しばらくすると「救出された」長井線のお客さんたちが今泉まで戻ってきた。それからかなりの時間を経て両社のお客さんはそれぞれの会社が手配した車で各地を目指した。米沢へは緊急の代行バスが準備され、各駅を訪問。米沢という町は駅と中心部がかなり離れている。私は中心部のホテルを予約していた。代行バスは鉄路とは異なり、その中心部を通るがそこにJRの駅はないため街並みを眺めながら通過である。すでに真っ暗の中「ここで降ろしてくれ」と心の中で叫んだことを昨日のことのように覚えている。なお写真については跨線橋から遠くに見える故障車両を撮ったが、豆粒すぎて何のことやら分からないので掲載見送りである

クラシックなたたずまいと現実

右が米坂線、左がフラワー長井線の車両。2022年の豪雨被害で、米坂線は現在今泉~米沢のみの運行となっているが、両線の接続は考慮したダイヤとなっているようだ

ホーム内特に長井線側には現在も古いものが残されて番線の行先案内はホーローのものが健在だ。大正期の雰囲気をそのまま残している一方で、現実に戻されるものもある

こちらはJRの時刻表。今泉から先、米坂線の列車は長期運休中。今後の形をめぐって話し合いが続いている

こちらは長井線ホームでの案内。国鉄時代の英語での番線案内が残されているが、坂町方面の番線は塞がれている。奥にはフラワー長井線の時刻表があるが、減便ダイヤとなった列車については線で消されている。大正、昭和から一気に令和に戻されたような思いを胸に米沢へと向かった。状況が好転することを祈りたい

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~大きい上屋と絶景空間

※訪問は2025年6月7日

さすがに歩くのはもう…

荒砥駅から赤湯方面を見る。とはいえ、しばらく列車は来ない。街中でのんびり蕎麦を食べたが、まだ1時間以上の時間がある。次に目指すのは鮎貝駅。次の列車を鮎貝で待ち構える旅程で、それほど大した距離ではない

線路に近いところを道路も走っているので道に迷うこともなさそうだが、つい先ほど長井駅から羽前成田駅まで歩いたばかりで、食事もして気力は薄れがち。念のためにと駅前にあるタクシー会社をダメ元でのぞいてみると運転手さんが待機中。これはラッキーと乗せてもらうことにした。同行者がいると半額になるのでタクシーという武器は結構強力である。ちなみに鮎貝までは1400円ほど。1人700円なので、それほど大きな出費ではない

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唯一の後悔

ただし、ここでこの旅唯一の後悔をすることになる

こちらは荒砥駅にあった最上川橋梁(荒砥橋梁)の解説。長井線は1913年(大正2)の開業後、少しずつ鉄路を伸ばし、1922年に鮎貝まで到達した。この時点で左沢への延伸の話は、ほぼ終わっていて鮎貝で完結するはずだった。理由は地図を見てもらえば分かるが最上川の存在だ。当時の技術では、ここを渡るのは無理とされたが、古くからの地域の要衝である荒砥まで何とか鉄道を通してもらえないかという地元の熱意が通じて用いられた技巧は東海道本線の木曽川橋梁の引っ越しだった。東海道本線では車両の大型化や運行量の理由で、明治以来の橋梁が強度不足で建て替えることになっており、ならばと当地まで引っ越して架けられることとなった。おかげで現在も現役の明治以来の貴重な存在となった

そこでの後悔というのは、せっかくタクシーで移動できたのだから(実際に停める場所があるかどうかは分からないが)1度停まってもらって橋梁の写真を撮っておけば良かったというもの。道路と並行する橋梁を眺めるだけで終わってしまった

長い屋根がすごい

そして到着した鮎貝駅

空間にとにかく目を見張る

「鮎貝駅」と書かれた駅名板の向こうはいきなりホームで、これだけならよくある形かもしれないが、雨よけ、雪よけだろうか、駅前広場を長い上屋で囲っている。これだけだと異空間の印象だ

ただし左側に目を移すと

公民館がある。右端の赤丸の部分が駅の待合所だ。元々は古風な開業以来と思われる駅舎があった。山形鉄道のHPによると正面駅名標あたりに建っていたようだ。1922年(大正11)開業のかつての駅舎は三セク移管の数年後に現在の姿になった。開業時は鮎貝村に所在し、1954年(昭和29)から白鷹町。公民館を備えた駅の改修は白鷹町が担った。地名は当地を治めた鮎貝氏にちなむとされる

ホームに立つと、まさに絶景。目の前には田んぼと山の稜線が見える。向かいにスペースがあるが、かなり以前に2面2線の構造だった名残だ

地元の小学生による絵画が飾られている。フラワー長井線10周年とあるので1998年のもの。25年以上が経っているので描いた生徒もすっかり大人になっている

絶景に別れを告げて、今回の旅最後の駅に向かうことにしよう

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~終着駅の街は高台にあり

※訪問は2025年6月7日

車止めに到達

羽前成田から約15分。終着の荒砥に到着した。フラワー長井線は30・5キロと短い路線だが、日本全国どこに行っても終着駅と車止めを眺める感慨はひとしおだ

奥には車両基地がある

乗ってきた列車。到着は11時40分だったが、次の荒砥駅発は14時21分と2時間半以上運行がない。ちなみに荒砥着の列車は、この間に13時19分着がある。ご覧の通り当駅は単式ホーム。このままではホームが詰まってしまう。一体どうするのだろう、と見ていたら列車は回送状態となって赤湯方面へと動き始めた。そして間もなく停車。スイッチバックして車庫に入っていった。1枚目の写真で分かる通り、ホームの先は車止めになっていて直接車庫に入れないための動きである。普通に考えると、このまま赤湯まで走っていけば良いりだが、減便ダイヤゆえの措置なのだろう

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約20年前からの新駅舎

現在の立派な駅舎は2003年(平成15)からのもの。開業は1923年(大正12)。その前年に鮎貝まで延伸していたが、1区間(当時)のみ延伸されて当駅まで鉄路がたどり着いた。「たどり着いた」というのは、この間に最上川があったため。難工事を経ての到達だった。その時に架けられたのが最上川橋梁である

高台の街中で蕎麦を

美しい駅舎には「荒砥駅前交流施設」の名前が付けられている

白鷹町の観光協会が入居している。直営駅だが、訪問は日曜日で窓口業務はお休みだった。ただ車庫も備えるため業務にかかわる駅員さんはいる

さて時間はたっぷりあるのでランチタイムとしたいところだが、駅を出て驚くのは駅前には見事なほどに何もないというか何も見えない

ということで街中で蕎麦をと調べると

徒歩10分と、まぁまぁ歩く。10分という徒歩の時間はいいが坂を登っていく必要がありそうだ。ただ時間はたっぷりある上、とにかく駅前には何もないので歩いていこう。すると

頭上を走る国道との高架下で階段を発見。見上げると

そのまま国道に合流できるんじゃないの?とおそるおそる階段を昇ったところ

国道に到着。てっきりバイパスかと思ったら歩道付きの国道だった。しかもその場所は掲載した地図の和菓子屋さんの向かいだったのだ。ということで蕎麦店までの所要時間はわずか5分という結末

つまりここで何が言いたいのかというと

地図アプリに勝った

事実である(笑)

すでに記事を760本も投稿していて地図アプリ通りに進んだ結果、水たまりや降雪にさえぎられた経験を何度か紹介してきた。これは自然や天候に関するものなので、やむを得ないものだが、もうひとつの行動として「あえて地図アプリの指南を無視して突撃する」というものがあって、無事に短絡路を発見できた時の達成感は何ものにも代えがたいものがある。今回はそのひとつ。というか、これをやった時の勝率は極めて低く(笑笑)、その分、高揚感が増すのだが、たまには自慢させてほしい

ということで無事に美味しく蕎麦をいただく。実は前日から東北を訪れている今回の旅は蕎麦ばかり食べている

街が高台にあるわけ

荒砥は歴史を持つ街で荒砥城は平安時代にあたる源平の時代にはすでに地域の要衝として築城されていたという。「新戸」と記されたこともあり、新しく開かれた集落の意味とされる。ただ駅に到着して不思議に思ったのは最上川近くに集落がないこと。日本の各地では川の恵みを得るために川沿いに街が形成されることが多いが、駅と最上川の間は緩衝地帯のようになっている

そのナゾ解きは駅前の案内図にあった

やはり現在の線路より川に近い場所に集落が開けていたが、室町時代以前に大洪水により、突然街が姿を消してしまい、以降街づくりは高台で行われてきたという。とても納得

駅に戻ると減便ダイヤについての説明と現行の時刻表が張られていて現実に戻される。早い時期での復活を祈りたい

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~100年分のタイムトリップを味わおう

※訪問は2025年6月7日

遠景からしびれる

総宮神社から約30分。長井駅から約1時間要して羽前成田駅に到着

県道を左に折れてから、それなりの時間を要する。だからこそ遠くに駅舎の雄姿が見えた時は、それなりに感慨があった。なおこのポイントからの写真を掲載したのは、右手に見える自販機を過ぎると駅まで自販機はないからだ。もし猛暑の季節に訪問する方がいらっしゃれば、留意していただきたい

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並んで存在した同名自治体

風情ある駅舎がたたずむ。開業は1922年(大正11)。1914年に長井まで到達していた線路が鮎貝まで延伸される際に途中駅として設置された。ちょっとおもしろいのは駅が長井村に所在していたことだ。もちろん現在は長井市にあり、それだけだと「長井駅がすでにあって100年前なので長井村でも不思議ではないだろう」と思われるかもしれないが、事情はやや異なる。長井駅の所在地は長井町だったのだ。つまり長井町と長井村という同名の町村が隣接して存在していた。この状態は明治から続き、戦後の1954年に町村合併で長井市が誕生して同自治体となった

あらためて古風なアレンジ

羽前成田駅は2015年に登録有形文化財となった。シリーズの最初に紹介した西大塚駅と同タイミングである。三セク転換時の時点で開業以来の駅舎が多く残っていた長井線だが、現時点で残るのはこの両駅と今泉駅の3駅のみ。今泉は米坂線との接続駅で管理はJR東日本が行っているので残された2駅ということになる

登録有形文化財に指定されるに際して駅舎の装飾が変更されている。まず国鉄時代にアルミ補強されていた窓枠はすべて木に戻された。木製の駅名板は真新しい

こちらは駅舎内の様子。無人駅となった久しいが、左手にはきっぷ売り場の窓口が2つ。右手は手荷物受付。中央には囲炉裏があるが、これは復刻したものだろう。山形鉄道のHPには以前の姿が掲載されているが、天井の囲炉裏の穴だけの写真がある

国鉄時代の料金表があり見入ってしまう。最も遠い運賃が広島の1万900円。国鉄末期は相次ぐ値上げで評判が悪かったが、JR移管後はつい先日までほとんど値上げはなかった。当駅はJRではないので赤湯からの現在の運賃を調べると1万4410円である。みどりの窓口はなくとも駅事務所からの電話で特急券や寝台券を確保できていた時代だ。メインの行先はもちろん上野になる

持ち主不明手荷物の案内。これは初めて見たかもしれない。もし現在、持ち主不明の荷物などがあれば、警察が飛んできた大変な騒ぎである

事務所内には掲示板など他の貴重品も残されているようだ。古い時計は正確に時を刻んでいる

棒状ホームと防雪林。向かいにスペースがあるのは、かつてもうひとつホームがあったからだと想像できる

レールをきしませ単行車両がやって来た。約50分の滞在。おそらく事務所や倉庫で眠っていたものを復活させてタイムトリップした気分になれるそんな駅で充実の時を過ごした

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週末パス最後の旅はフラワー長井線~徒歩移動中に出会った小駅とバイク神社

※訪問は2025年6月7日

2駅分歩くことに

長井駅の次の目的地は最初に紹介した西大塚駅と並ぶ路線内の登録有形文化財である羽前成田駅。だが長井駅では2時間も列車が来ないことは前記事でも紹介した通り

長井駅と羽前成田駅の駅間距離は2・7キロ。そしてフラワー長井線と並行して県道が走っている。ここを歩いていくと、2時間もあれば十分おつりが来るぐらいだ。ここを歩くと2区間分の徒歩となるわけだが、結論から言うと立ち寄った駅も含め、十分歩き甲斐のある駅間徒歩となった

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道中ふらりと簡易駅を訪問

今回の道程はこのようになる

途中寄り道して、そこで時間を費やしたため48分というわけにはいかないが、結果としていい時間の使い方となった

最初は長井駅から真っ直ぐ羽前成田駅を目指していたが、駅もすぐそこだということで訪問

踏切の先に駅が見える。ここから見ただけで簡易的な構造だということが分かる

単式ホームがあり

待合室がポツリ。簡素なたたずまいとともにホーム入口にはスロープもあることで三セク移管後にできた駅だということが分かる。三セク移管から10年以上を経た2002年(平成14)に新駅として誕生した。文字通り長井あやめ公園の最寄り駅で、沿線に花が多いことで名付けられたフラワー線のひとつのより所にもなっているが、設置の大きな理由は駅からすぐの長井工業高校で、長井駅からは線路距離で800メートルと至近ながらも生徒や関係者の請願により開業した

まさに目と鼻の先でサムネの駅名標をもう一度掲載するが

駅からの距離が入っている念の入れよう。しかも「1」の位まで。これは初めて見た。さすが工業高校だ

先掲の待合所写真でも分かるが、駅の清掃や装飾も同校の生徒が行っている。学校の最寄りということで利用者も全17駅中7位となっている(フラワー長井線については調べるデータによって各駅の利用者数にぱらつきがあるので、今回は掲載しない)

東北唯一のバイク神社

当駅は長井市の運動公園の最寄りでもある。野球場の照明を見て再び歩き始めると目にしたのは

総宮神社の入口にある文字。私はそのジャンルに疎いので何も言いようがないが、見覚えのあるロゴである

ここは長井一の宮の総宮神社。神社のHPによると1200年もの歴史を持つ。歴代当地を統治した大名からも大切にされ

上杉時代に直江兼続が植樹したという直江杉がある

こちらがその解説

そして神社のもうひとつの顔が東北唯一というバイク神社

ライダーの聖地として知られているそうで、訪れた時もライダーの出入りが盛んだった。ライダーのための御守りもあるという

再び歩き始めて最上川の支流となっている橋を渡る。付近は農地でもあるが、長井市の郊外にもなっているようで民家は多い。そして歩き始めて1時間ちょっと

羽前成田駅が見えてきた

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