私鉄

弘南鉄道弘南線を行く~黒石に来たら、これを食べないわけにはいきません

※訪問は2025年7月11日

駅舎内にも張り紙

黒石駅への到着は11時26分だった。一応、私なりに時間を考えて来たつもりだ

駅舎内をウロウロしていると

観光案内所の表示とともに、このような張り紙を発見。そう、このために到着時間を考慮したのだ。弘南線の昼間は1時間に1本の運行。1時間遅いと12時26分となって、ちょうどお昼時と重なり、お店の混雑が予想される。ではさらに1時間後となると、ちょっと遅い。ここ黒石の状況は分からないが、飲食店にはランチタイムの後に休憩時間となって次はディナータイムという営業形態が多い。ランチタイムは基本的に13時半や14時までである。だったら間に合わない。まだ比較的すいている時間帯となると、11時26分の一択だったのだ

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黒石やきそばとは

全国各地のB級グルメで黒石やきそばは、高い知名度を誇る。そして関西からの到達難易度を考えると、せっかく来たこの機会を逃すわけにはいかないのだ。これが弘前のものだったら「また来ることもあるだろう」で済むが、弘前から電車で45分。しかも列車はここで行き止まりで、来たコースを戻るしかないという地域性を考えると、ふだんは旅先のお昼なんぞはコンビニおにぎりや、コンビニ菓子パンで済ます私も、何としても現地で食べる(ここがポイント)黒石やきそばである

黒石まで来た電車は15分ほどで、弘前方面へと折り返す。駅巡りの「平常運転」ならば、15分で駅及び周辺のチェックをして引き返すが、さすがにその1時間後までパスである

では混み合う前にさっそく、となったが黒石には数多くのやきそばを扱う店舗がある。横手やきそば(秋田県)や鍋焼きラーメン(須崎市)でも見た光景

あまり駅から離れるとこの後の行動に影響するので、できるだけ近いところと

駅からすぐの、すごう食堂さんに入る

駅舎内の張り紙にもあったように、黒石市は「やきそばの街」をPRしている。黒石には、いわゆるやきそばとつゆやきそばがあり、黒石市のHPによると「戦後まもなく作られ、昭和30年頃には子供のおやつとして10円単位で売られていた黒石やきそば。太い平麺が特徴で、甘辛いソースがたっぷりのくせになる美味しさ」とあり、こちらが普段われわれが連想するやきそば

つゆやきそばについては「昭和30年代後半、中学校近くのお店で生まれた『つゆそば』が、近年市内のあちらこちらで作られるようになりました。『黒石やきそば』に『つゆ』をかけた『黒石つゆやきそば』は、全国でも珍しい庶民の味」と記されている。ここはつゆやきそばをいただこう。先客は私のほかに50代ぐらいの男性。結構高そうなカメラをテーブルの上に置いている。どう見ても同業者(鉄道ファン)である。後に電車で同乗したことも付け加えておく(笑)

間もなく待望のつゆやきそばが到着

普通のやきそばに出汁がかけられている。黒石やきそばの特徴はうどんにも見えてしまう「太平麺」で、モチモチ感が何とも言えない。出汁と絡んだやきそばが良いハーモニーを生み出している

B級グルメという言葉

「B級グルメ」という言葉は、かなり以前からあったと記憶するが、新聞社に長くいた私の感覚では普通にメディアに登場するようになっのたは最近のこと。そもそも「B級」と言われた方はうれしいのか、という前提がある。このあたりは「秘境駅」と同じで、そこで暮らしている人は、うれしいのか、というのと似ていて、私は基本的には秘境駅という言葉は使用しない

変化が起きたのは2000年代に「B-1グランプリ」が始まってからで、出品する方々は自ら名乗っているのだから公認だろうということになって「B級グルメ」という言葉が普通に使われるようになった。JR東海が飯田線のいくつかの駅を秘境駅と認定したのも同様だ(それでも私は秘境駅と記する時は「JR東海によると」という言葉を入れるようにしている)

とにかく満足。正直言って、まだまだ食べられる。次はつゆのないやきそばを別のお店をはしごして食べたいぐらいだったが、まずはここまでにしておこう。つゆやきそばも出汁はうどん、そばのものからラーメンのものまで、さまざまな味があるらしく、次は黒石に宿をとって食べ歩き、食べ比べをしたいと本気で思うようになった

さて焼きそばというのは実にビールに合う食品だが、ここはグッとがまんした。次の行動があるからだ

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弘南鉄道弘南線を行く~弘前から17キロ、12駅目の終着駅に到達

※訪問は2025年7月11日

津軽尾上から12分

津軽尾上から戦後に延伸された区間を行く。といってもすでに田舎館までは行ったので同じ区間を再び走ることになるが、田舎館から2駅目

終点の黒石に到着した。弘南線は弘前も含め全13駅。総距離は16・8キロ。大鰐線が13・9キロとそれほど変わらず、合わせても30キロほど。県庁所在地でもなく、国鉄転換からの三セクでもないす地方の私鉄が、ここまで頑張って来られたのは、総距離の短さもある

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典型的な頭端駅の姿

私は頭端駅が好きだ。線路と並んで車止めがある光景にひかれる。そしてこの景色は、ある意味私鉄ならではのものだともいえる。JRにももちろんあるが、全国に線路網を張り巡らせようとした国鉄の歴史から路線の長さからすると、その数は少ない

黒石駅は、頭端駅の最たる姿で奥に改札そして駅舎がある。降りる人がいないように感じるのは構内の写真撮影などをしていて改札を出るのが最後になったからだ

オレンジ色の「出口」が目を引く。改札の駅員さんは私が来るのをずっと待ってくれていた。遅くなってすいません

改札口の手前には重量計が置かれている。さすがにこれは現役ではないだろう

国鉄から客を奪う

駅舎内には観光案内所も設置され、自動券売機もある

弘南線が黒石まで延伸されたのは1950年(昭和25)。当時の駅名は「弘南黒石」。なぜ「弘南」が付いたかというと、駅前には1912年(大正1)に、先に黒石に乗り入れていた国鉄の黒石線の駅があったため。これで弘南線は全通となったが、大きく影響を受けたのが国鉄だ。黒石線は川部から分岐するいわば支線で、弘前から黒石への唯一のアクセスルートだった。五能線の分岐でもある川部は鉄道の要衝だったのだ。黒石線は弘前からの直通運転も行っていたが、スタートから電化され(弘南鉄道は戦前に非電化で開業したが黒石延伸の直前に電化された)、すべての列車が弘前とダイレクトに結ばれている弘南鉄道とは利便性に差があった。当時の運賃は国鉄の方が安かったようだが、利用者が選んだのは本数も多い弘南鉄道だった

わずか6キロしかなかった黒石線は結果的にギブアップ。国鉄末期に弘南鉄道へと譲渡され、弘南鉄道黒石線として再出発となった。国鉄路線が三セク移管されるのではなく民間の鉄道会社に引き継がれるという珍しい例となった。1984年のことである

到着時の写真にもチラリと写っているが、黒石駅にはもうひとつのホームが残る。弘南鉄道では黒石線を譲り受けたことで、構内の改良工事を行うとともに、それまでの国鉄の線路からの連絡線を設けて同改札内での乗り換えができるようにした。駅名も黒石に改められた

ただ電化されている弘南線に対し黒石線は非電化のまま。そもそも弘前方面から黒石に行こうとするとスイッチバック構造になってしまうので、弘前からの直通運転は行われず、また弘前方面から川部乗り換えで黒石に向かう際、それまでは国鉄の通し料金だけで済んでいたものが、黒石線6キロの乗車のために国鉄+弘南鉄道の料金が必要となり、利用は低迷。わずか14年後の1998年に廃線となった。残ったホームは黒石線のものだ。上記の地図は黒石駅と川部駅を結ぶものだが、直線コースは道路となり、代替バスは今も1日6往復、両駅間を結んでいる

それでも国鉄からの路線譲渡は今も形として引き継がれている。弘南鉄道では、その際に駅舎も新築。それが現在のものだ

駅舎の隣にはぽっかり空き地がある。駅舎新築の際、スーパーを招致して駅とセットのような形となっていたが、スーパーは5年前に撤退。初見だと唐突とも思える縦長の駅舎は、その名残である

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弘南鉄道弘南線を行く~戦前から戦後にかけ23年間の終着駅は大きな駅舎を持つ

※訪問は2025年7月11日

駅員さんの出迎えを受ける

田んぼアート駅から2駅弘前方面へと戻る

到着したのは津軽尾上駅。駅舎へ向かうと駅員さんが迎えてくれた。弘南線も大鰐線と同様、多くは無人駅だが、途中駅にも有人駅があることが大鰐線と異なる点である

こちらはホームから駅舎へと入る際の改札口の様子

ただ後で分かったことだが、駅員さんがいるのは11時まで。私の乗った電車が到着したのが10時52分なので、この日最後のお勤めだったことになる。改札口の写真は無人駅状態になってからのものだ

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渋い忘れ物案内

こちらが改札口ときっぷ売り場。すでにカーテンで閉ざされていた。その右手には

黒板の忘れ物案内。今も利用されているのかどうかは分からないが、現役であることは間違いなさそうだ。定期券の発売も行っているようだ

外に出ると大きな駅舎だということが分かる

鉄路が届いて約100年

津軽尾上駅は1927年(昭和2)の開業。当時は尾上村。間もなく尾上町となり、平成の大合併で平川市となった。弘南弘前(弘前)から当駅までが開業した。当地付近には奥羽本線や川部と黒石を結ぶ黒石線(後に弘南鉄道が引き継ぐが現在は廃線)が走っていたものの、弘前の隣町にあたる現在の平川市一帯は鉄道空白地域となっていた

このため大正期から鉄道敷設の運気が高まり1927年の開業となり、津軽尾上駅は終着駅となった。弘南鉄道のスタートである。弘南鉄道には弘南線と大鰐線があるが、もともとは弘南線のみの路線で、大鰐線は経営難となった弘前電気鉄道という別会社を引き取ったもの。同じ会社でありながら接続駅がないのもそのため。だから路線名も弘南鉄道弘南線と同じ言葉が2つ続く形となっている。同じ会社の路線でありながら、各駅の雰囲気は異なっている

昭和初期の開業で当初はSLによる運行だった。電化は戦後になってから。戦時中そして戦後の物資不足により、石炭の入手が困難になったことが理由で、終戦からわずか3年の1948年に電化が達成された。青森県で初の電車が走った。そして1950年に津軽尾上から黒石までが延伸。現在と同じ形となって全通した。つまり1927年から23年もの間、当駅が終着駅だったことになる。さすがに開業時からの駅舎ではないと思われるが、規模の大きさはそのため。弘南線といえば弘前と黒石を結ぶ路線のイメージがあるが、成立と時期は多少違う

正面からでは分かりにくいので横から見るとこんな感じ。かつてはスーパーが入居していたという

周辺はかつての尾上町の中心部

駅から街が広がる

こちらは駅前の周辺案内図

再び駅舎へ入ると

広い空間が広がっていた

あと2年で100年を迎えるかつての終着駅である

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弘南鉄道弘南線を行く~意外と少ない3種の文字を使った駅名

※訪問は2025年7月11日

独特の時刻表

田んぼアート駅の時刻表。いわゆる「昼間」しか列車が停車しないことが分かる。田んぼアートのためにできた駅なので早朝と夜間は停車がない。いわゆる通勤通学時間帯に用事はないという、なかなか珍しい存在だ。そして冬季は臨時列車を除いて全列車が通過する

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はるばる何しに行ったんだか

駅のホームから展望台が見える。そこは「道の駅いなかだて」。田んぼアートを見るのなら、そこに登る必要があるのだが、結論から先に言うと今回は断念。訪問した7月という季節は田んぼアートが最も見ごろな季節で、2カ月前に飛行機のチケットを確保した時から、もちろんそれは意識していたが、現実にここまでやって来た時点で各駅訪問を優先して時間が足りなかった。ここまで来て田んぼアートを見ずに帰る人は「一部を除いて」ほぼ皆無と思われ「わざわざ神戸から弘前まで何をしに行ったのか」と言われそうだが、鉄オタ、駅オタには優先順位があるのだ

当駅の開業は2013年(平成25)で、弘南線の中では最も若い。というか大鰐線の石川ブール前駅の開業が2002年なので、弘南鉄道の中では最も新しい駅だ。単式ホームと待合所のみの簡素な構造。待合所も吹きさらしだが、冬季休業なので問題はない

駅名標をよく見よう

当駅の注目ポイントは駅名である

田んぼアートと漢字、ひらがな、カタカナの3種類の文字をほ使用しているが、このパターンは意外と少ない。もっともこの適用には「ケ」「が」「の」という「日本語ならではの強力な援軍」がいて、有名な駅では「つつじヶ丘」「ユーカリが丘」「有明テニスの森」「柏の葉キャンパス」など、それなりに駅はあるが、援軍抜きだと一気に希少価値が上がる

抜けがあれば申し訳ないが私が調べたところでは最も有名な駅は京王線の「京王よみうりランド」(東京都)があって、その他では岡山電気軌道の「東山・おかでんミュージアム」(岡山県)があるぐらいだ。岡山電気軌道の停留所は平成になって改名されたので、ふだん目にすることの多い「よみうりランド」は鉄道的には昭和から稀有な存在だったことを今になって知った

もうひとつの最寄り

さて当駅にはもうひとつの最寄り駅としての顔がある

これは田舎館駅にあった張り紙で私もこの時、初めて知ったのだが、当駅はJRAウインズ津軽の最寄りでもある。「一部を除いて」と記したのはこのためだ

ウインズならば、8時台から17時台までしか列車が停車しなくても問題はない。もっとも冬季休業駅なので有馬記念の日は当駅から行けないし、冬季休業の混乱を避ける意味でも田舎館駅に張り紙があるのだろう。そもそも訪問日は平日だったので、競馬目当てで電車でやって来る人がどれぐらいいるのか私には分からない。競馬目的の客が多いのであれば、冬季も競馬開催日は列車が停車するはずだ。ちなみにウインズ津軽のHPを見ると、駐車場のスペースは2032台となっていた

ホームからの景色は見渡すばかり農地である。ぜひ次回は時間を設けて展望台から一望してみたい

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弘南鉄道弘南線を行く~徒歩30分の表示にビビるも実はあっという間

※訪問は2025年7月11日

本日2度目の徒歩移動

今回の弘南線訪問で「ぜひもの」はこれから向かう田んぼアート駅である。開業の季節、時間に制約があるからだ。理由は想像がつくだろうが、田舎館村の名所である田んぼアートは、当然ながら冬場はやっておらず、最寄り駅も休み。早朝や夜間は田んぼアートを見ることができないので、列車はすべて通過する。3月に弘前を訪問した際、大鰐線を最優先したのは、間もなく廃線になるという事実はもちろん大きいが、田んぼアート駅に電車が停車しないことも大きかった

次にいつ弘南線に乗車できるか分からない以上、せっかくやって来た7月という季節に訪問するしかない。今日中に全駅訪問できるかどうか微妙なので、最優先は田んぼアート駅となる。そして田舎館駅からは徒歩移動

「田舎館駅は村の中心部から外れているので目立つものはない」と前記事で記したが、こちらは地元農協の倉庫だと思われ、他にも

倉庫が目立つ。それらを尻目に出発である。歩くのは1時間に1本というダイヤもあるが、駅間距離がわずか400メートルしかないので当然の徒歩だ

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アプリにぼう然も

ここは当然歩く予定だったので、事前に徒歩コースを調べることにした。しかし地図アプリによると「所要時間30分」。自分の予想の倍以上の表記にめまいがしそうになった。そんなことはあり得ないのだが、線路と道路が全く並行していないこともあり得る。途中で川を渡るとか。ということで弘前から田舎館へと向かう車中の田んぼアート~田舎館の1区間は車窓を凝視。車内はガラガラだったが、先頭近くで立ち、右側、左側の両方をチェック。結論は「30分もかかるわけないだろう」というものだった

何のことない。グーグル先生によると、わずか10分である。最初に見たアプリは国道をアンダーパスする徒歩ルートが認識されていなかったようだ。確かに日が暮れると人や車の気配は全くなさそうなコースではある

足取り軽く現地へと到着

ということで倉庫群近くの踏切を渡り、歩を進めていく。所要時間30分が10分に短縮された(というか元から10分なのだが)ので足取りも軽い

どんどん進んで行くと駅が見えた

踏切を渡ってすぐホームに入るのだが、その向こうには展望台が見える

冬季そして朝夕はすべての列車が通過するということは、つまり駅周辺には何もないことを意味する。それなりに民家があれば、田んぼアートを行っていない冬でも列車は停車するだろう。広大な田んぼがあってこその田んぼアートである

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弘南鉄道弘南線を行く~「いなか」の駅舎に入って出会う目を見張るアート

※訪問は2025年7月11日

小休止から再び活動

ホテルの部屋で40分ほど休んで弘前駅へと戻ってきた。夏場でもあるので、たかだか40分といえども貴重な時間である

約30分、電車に揺られて田舎館駅に到着である。朝から大鰐線の駅を回ったおかげで、弘南線のすべての駅を回れるかどうか微妙なところなので、優先順位をつけての駅巡りとなったが、ここ田舎館とお隣の田んぼアートについては「ぜひもの」だろう

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「えっ」と思う駅名だが

当駅は島式ホームで列車交換可能な構造。夏らしい雲も印象的だ

立派な駅舎へは構内踏切で向かう

開業は1950年(昭和25)。弘南線は1927年に弘前~津軽尾上が開業。当時は非電化路線だった。戦争を挟んで電化され、1950年に黒石まで延伸された全通。その際に田舎館駅も開業した

駅名は田舎館村からのもの。明治の町村制施行からある自治体で、その後合併はあったものの、今も田舎館村である。村にあることも加え「田舎」という文字に一瞬「えっ?」と思ってしまうかもしれないが、「稲」つまり「イネ」に由来しているとされ、江戸時代から地名は「田舎」だった。今の意味とは異なる。「館」は有名なところでは「大館」「角館」など、東北地方で多く見られる地名だ

村内で有名な駅は奥羽本線の川部駅だろう。五能線の乗換駅としての知名度が高い

当ブログでも2年前に紹介している。明治以来の駅舎がなくなるということで、押っ取り刀で駆けつけ、窓口で青春18きっぷを購入。今にして思えば、こんな形で「どこかで使うので、とりあえず買っておこう」と18きっぷを購入することはできなくなった。川部駅のみどりの窓口は私の訪問から2週間後に姿を消した。この時の記事では「村にある貴重なみどりの窓口」と紹介している

ただ川部駅も田舎館駅も村の中心部からは、やや離れた場所に位置する。イメージとしては川部駅と田舎館駅の間に中心部がある

駅舎に入ってビックリは確実

ふだんは駅の情報を事前に収集しない私だが、今回についてはその後の徒歩も含め事前に調べる過程で分かっていただけに、見出しの通り「確実に驚くだろう」としておく

こちらはホームと駅舎を結ぶ出入口。そして

こちらは駅舎の様子。いつからのものか正確に知ることはできなかったが、おそらく1950年の開業以来のものだろう。街の中心部から離れている分、周辺にはあまり見当たるものがないのでクラシックな駅舎が目立つ。昭和の終わりごろから無人駅となっている

この古典ぶりを目にした後に駅舎に入ると

中はこんな感じ。まさにそのような表現しか見当たらないが、地元のアーティストの方によるアートで埋め尽くされている。天井、壁そしてイス、ゴミ箱まで。これこそ事前に知ることなく、いきなり出会って腰を抜かしたかった

もっとも、この記事を読んでくださっている方に「行くとビックリしますよ」と伝えても今さらなのだが、それでも訪問の価値は必ずある駅だと思う

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弘南鉄道弘南線を行く~乗車した際は弘前からの1区間は車窓に注目

※訪問は2025年7月11日

午前中は有人駅

弘前東高前駅である

立派な駅舎を持っている。この後も出てくるが、同じ弘南鉄道でも弘南線は大鰐線に比べると立派な駅舎を持つ駅がたびたび登場する。もともと弘南線のみからスタートして、後に大鰐線の経営を引き継ぐことになったという経緯があるので特徴に違いがあっても不思議ではない

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見事になくなったレール

到着した8時45分ごろは有人駅だった。改札付近の注意書きによると平日の7~10時は有人のようだ。学校最寄り駅らしい配慮だ

当駅は1927年(昭和2)の開業。弘前~津軽尾上が開業した際の弘南線のオリジナル駅のひとつ。当初の駅名は「松森町」で間もなく「南弘前」となった。大鰐線に「西弘前」(現弘前学院大学前)、弘南線に「南弘前」があったわけだが、現在は2駅とも異なる駅名となった

60年近く親しまれた南弘前駅だが、1988年に東工業前駅へと改称。東工業とは弘前東工業高校のことで、現在の弘前東高校。2005年に学校名が変更されたことで駅名も変更となった。つまり現在の駅名となって、まだ20年

ホームへと歩を進める

いかにも「線路をひとつはがしました」と訴えているような構造だ。島式ホームへはかつて構内踏切から向かっていたのだろう

単式ホームとなっているため、弘前行き、黒石行きは乗車位置を変えて対応しているようだ

次に向かうのは黒石方面だが、ここで1時間列車を待つのもやることがなさそうなので、前回の記事で紹介した「プランB」を使ってひとつ隣の弘前へと向かう。駅前のホテルは連泊としているので自室に戻ってエアコンの下、休憩である

意外と長い併走区間

電車に乗ると、すぐにJR奥羽本線と併走する。駅舎の道路を挟んだ向かいに奥羽本線の踏切があるため、容易に想像できるが合流してから弘前までの距離が意外とあるように感じる

便宜上、徒歩ルートにしたが線路のみの距離は0・9メートルと1キロに届かない。だからすぐに着くのだが、ゆっくり走るので電車の所要時間は3分もある。ターミナル駅から出たJRと私鉄がしばらく併走する場面は地方都市としては、なかなか貴重だ

ということで弘前に到着。奥に見えるのがJRのホーム

もちろん弘前駅は有人改札。開業時から長らく「弘南弘前」を名乗っていたが、1986年に国鉄(当時)と同じ「弘前」駅となった。現在の駅舎は2004年からのもの。JRの駅とともに大きな駅ビルとなった

電車の到着に合わせて改札口を開放するスタイル。待合所は改札の外にある。この後、体験するのだが、弘南線の有人駅各駅がそのシステムをとっていた

弘前駅はJR側の中央口、弘南鉄道側の城東口があるが、バスターミナルやホテル、飲食店が並ぶ中央口に比べると、かわいい駅舎となっている

しばらく休憩して本格的に弘南線の各駅訪問を行おう

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弘南鉄道弘南線を行く~朝の20分チャレンジからスタート

※訪問は2025年7月11日

大鰐線の後はもちろん

弘南鉄道弘南線の弘高下駅。ここで3月にスタートした大鰐線の全駅訪問を終えた

「終えた」といっても今日は朝の6時過ぎから行動を開始しているので、3月に訪問済みの大鰐から始まって津軽大沢、松木平、小栗山そして弘高下と未回収だった4駅の訪問を終えてもまだ8時20分。ということで、ここから弘南鉄道のもう1本の路線、弘南線の各駅訪問を行うことにする

最初の訪問駅は弘前東高前である

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両駅の位置関係は?

まずは両駅の位置関係

弘南線の始発駅は弘前。つまりJRの弘前駅と同じ場所だ。そして弘高下駅と弘前駅、弘高下駅と弘前東高前駅は同じような距離にある。ということで弘前駅に行くぐらいなら、ここは弘前東高前への訪問である。どちらも移動手段は徒歩なのだから

ただし若干問題があって現在の時刻は正式には8時19分。弘前東高前の時刻表を調べると黒石行きは8時40分である。20分で到達できれば問題はないのだが、グーグル地図によると28分。ちょっと難しいかもしれない

しかし、そんなことは言っていられない。ここはチャレンジの一手だろう。どちらにせよ各駅回収で当駅には行かなければならないのだから。地図によると下り坂が続いていそうだ。もしかしたら時間内に到達できるかもしれない

ということで大鰐線全駅訪問完了の余韻に浸ることもなく歩き始める。ただ大鰐線で何度か行った徒歩とは異なり、ここは弘前の市街地の中心部。一本道ではなく広い道や細い道もあって、選択肢が多いことがかえって経路を惑わせる

そして結論から言うと

ここを渡れば弘前東高前、という奥羽本線の踏切に到着したのが8時42分。チャレンジはむなしく失敗に終わった

途中「路地チャレンジ」したのが敗因で、地図アプリの通りに進んでいけば、もしかすると間に合ったかもしれないが、それはあくまで「電車に間に合った」というもので駅の写真を撮るところまでも行かなかっただろう

まぁしょうがない。そして一応「保険」はかけてあって、黒石行きは1時間やって来ないが、弘前行きは8時50分で弘前にはすぐ行ける。弘前駅前のホテルは連泊となっているため、ホテルの自室で休憩もスマホの充電もできる。最近のホテルでよく行われている連泊の際のエコプラン(部屋の掃除やベッドメイクを不要とすると、いろいろ特典がついてくる。私は缶ビールを1本もらった)を利用しているので部屋に戻っても清掃中ということはない

そして弘前東高前駅。高校生の利用が多いからだろう。自販機がズラリ並んでいる。なかなか立派な駅舎である

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~再度高森まで乗車し2日間の総まとめ

※訪問は2025年8月27日

週末にはカフェオープン

昭和初期からの駅舎が残る長陽駅の入口を入ると

駅舎内にはカフェがある。週末の営業。こうして沿線の駅を訪ねていくと週末は昼食や休憩に困らないことが分かる。「村」で食事に困らないのは貴重なことだ。逆に最も来てはいけないのは火曜日のようだということは、来て分かった(笑)

訪問した時は駅舎内で地元農産物の販売を行っていた

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残された古い駅名標

駅舎には古い駅名標が残されている。青地に白文字。思えば各地で標準形のものだったが、いつの間にか絶滅危惧種になっている。鉄道会社や管理を行う自治体の好意に頼っていて、三セク化した路線や駅の管理を自治体が担っている駅でしか見かけなくなりつつあるのが実情かもしれない

「たての」は従来のものだが、「かせ」については南阿蘇鉄道になって開業した駅なので「あそしもだ」だったようだ

ホームも従来からのものが、そのまま使用されている。ベンチも置かれていて、これはカフェ利用者も使えるようにしたものか

暑さに耐えられず

さて駅にたどり着いたのは9時すぎで、この後は立野経由で熊本市内方面へと向かうだけなのだが、次の立野行きは10時54分。加勢駅からの徒歩の際「次の列車まで2時間ある」と記したが、まさにその通り。最初はぼんやり待つ気でいたが、徐々に夏の猛烈な日差しが駅舎と周辺を包みはじめ、もうたまらん

実は9時50分の高森行きが、その1時間前にやって来て、この列車は高森で折り返し、当駅を10時54分発となる。つまり高森まで行って戻ってきても、最初に予定していた列車となる。となると答えはひとつ。列車はもちろんエアコン完備だし、高森駅は駅舎内にもエアコンが効いていて快適だ。そして私はまだ本日利用している旅名人きっぷにハンコをもらっていない。最初の肥後大津はドタバタしていてもらいそこね、南阿蘇鉄道の車内で尋ねると「最初に降りる駅員のいる駅でもらってください」とのこと。となれば、下手をすると豊肥本線へと戻ってきて、どこかの駅になるかもしれないと思っていたが、南阿蘇鉄道では唯一、高森駅なら駅員さんがいる

ということで高森駅で無事にハンコをもらい、そのまま立野まで折り返して熊本方面へと向かった。何度も利用している旅名人きっぷは、九州内のJR以外の路線が、ほぼ乗り放題となるきっぷで、大変愛用させていただいているが、JR以外の駅でハンコをもらう機会はなかなかなく、松浦鉄道以来かもしれない

高森駅の紹介で「翌日にも訪れた」し記したのは、こんな事情からだった

こうして南阿蘇鉄道の全駅訪問は無事に終了。初日の奇跡があったおかげで2日目の午前中には達成することができた。早着したおかげで白川水源の観光もでき、美味しい水も味わうことができた。心残りは高森の湧水トンネル公園に行けなかったこと

繰り返しとなるが、観光の村、観光の町ということもあって路線内では食事にはあまり困らない。次回は週末に訪れてみたい

こちらは長陽駅の南阿蘇村マップ。村以外の場所も描かれているが、まだ訪れたことのない草千里はこんなところにあるんだと、あらためて思う。鉄道ブログでこのようなことを書くのも妙な話ではあるが、あらためてドライブでの沿線巡りもしてみたいと思ってしまった

国鉄末期は1日わずか6往復だった高森線は南阿蘇鉄道となって本数を大幅に増やし、駅舎も改修した。再出発の路線は熊本地震そしてコロナ禍によって鉄道だけでなく、観光の街である沿線も大きな被害を受けたが、今は新たな再出発をしたばかりである

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~徒歩で訪れた10番目の駅は素晴らしき木造駅舎

※訪問は2025年8月27日

歩くていっても(笑)

加勢駅の後はいよいよ最後の駅となる長陽である。前記事でも触れた通り、次の列車まで2時間以上の空白があるので、ここは歩くしかない。朝の9時という時間帯ながら、もう太陽はさんさんと輝きだしていて、徒歩という手段には勇気がいることだが、これだけ時間が空くと歩くしかないのだ

もっとも

わずか15分なのだけど(笑)

逆に言うと、この近距離ぶりが加勢駅設置について、あれこれ考えるきっかけにもなった

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坂を上り下りしてたどり着いた先には

ただし徒歩といっても

いきなり踏切をまたいで細い道路を登ったと思うと

真っ直ぐ進むのではなく、またも踏切を渡って今度は下り坂(上記の地図で分かる通り、真っ直ぐ進むと旧国道に出て、やや遠回りながら分かりやすいコースになる)

ビニールハウスの傍らの車だとすれ違い困難な見通しの悪い道を降りていって、また登る。携帯アプリがないと、地図だけではちょっと勇気の要る道程だ。そもそも地図にどの程度描かれているのか分からない。携帯アプリがないと、このコースでの到達は困難だろう。携帯アプリがあっても果たして自分の進んでいるコースが正しいのかどうか何度も見直したほどだ

未だに「長陽村」の表記と電話局番5ケタが残る畳店を眺めながら進むと

長陽駅に到着である。ご覧の通り、国鉄時代からの駅舎が健在。おそらく1928年(昭和3)からの開業時以来のものだ。南阿蘇鉄道で唯一、国鉄駅舎が残る。もちろん高森線の1期生

かつての長陽村

平成の大合併で南阿蘇村が誕生するまで所在地は長陽村だった。長陽村は明治の町村制施行の際、長野村、河陽村、下野村の3村が合併してできた自治体。見て分かる通り合成地名である。阿蘇山の地形の関係で、この付近は日照時間が長いことも影響しているという。南阿蘇鉄道の誕生時には、当駅のほかにも加勢駅、阿蘇下田(現在の阿蘇下田城)駅そして立野駅と4駅もが村内にあった。立野はすでに紹介した通り、豊肥本線との接続駅で、長陽村から南阿蘇村となった今も「特急が停まる村の駅」だが、かつて大津町の誕生に参加した瀬田村の一部で、その際に立野地区だけが長陽村に入ることになった経緯がある。場合によっては村への特急停車はなかったかもしれない

駅前に長陽駅についての解説文があった

こちらが、その周辺図

南阿蘇鉄道が誕生して各駅が一新された中、どうして当駅のみが国鉄時代の姿のまま残されたのかは、調べても分からなかった。とにかく2016年の熊本地震でもしっかり残ったことだけは揺るがない事実である

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