私鉄

2026年の北海道&東日本パス旅~新幹線と雄大にクロスする駅は、かつてりんご輸送でにぎわった

八戸のひとつ手前

北高岩駅で下車。八戸のひとつ手前。そして当駅から八戸市内に入る。ちょっと意外に思われるかもしれないが、人口約20万人と青森県第2の都市である八戸市に所在する青い森鉄道の駅は当駅と八戸、そしてひとつ青森寄りにある陸奥市川の3駅しかない。これは八戸市の構造によるもので、その分、八戸線には10駅もの駅が所在する。駅間の間隔もあるが、海に沿って発展した街だということを感じさせる。八戸市の中心が八戸線の本八戸であるように、八戸駅はどちらかというと市の西の端の方にある

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印象的な駅前の木

木造駅舎に、それを支える屋根と柱。古くからの国鉄駅の形式を感じさせるが、駅の歴史は意外と浅い。といっても開業は1923年(大正12)と100年以上の歴史を持つ。旧東北本線の各駅は明治からのものが多く、当駅は後から設置された。その意味で「浅い」と記しただけである

風雪を感じさせる駅前の木

駅舎を眺めて「おっ」と思った。上記の写真でも分かるが、離れた場所から見るともっと分かりやすい

木の上が完全に傾いている。根の部分は真っ直ぐなので、枝葉の部分が左を向いている。訪問時は盛夏だったので天候的なものは特に感じなかったが、冬場の風雪を感じさせるものとなっている。なお緑の塗装は青い森鉄道移管後に行われたもののようだ

駅構造は2面3線。すへてのホームが生きているが、真ん中の線路はレールのさび具合から見て常時使用されているものではないようだ

奥に見えるのは東北新幹線。雄大に当駅をオーバークロスしている

岩手県内では比較的旧東北本線と並行して走る新幹線だが、青森県に入るとかなり離れた所を走る

地図を拡大していただければ分かるが、新幹線が真っ直ぐ八戸を目指すのに対し、旧東北本線は古くからの街を順番に訪ねていく形になっているので、やや遠回りしながら八戸駅を目指す。といっても鉄道黎明期に昔からの街をすべて無視することなどできなかっただろうし、技術的にも山中を貫くことは無理な話だ。北高岩駅でオーバークロスした後、新幹線は再び山中を直進。青い森鉄道は平野部を探しながら弧を描くように八戸駅へと向かい、再び新幹線と合流する

八戸方面を見ると盛岡方面行きのホームの向こうに跨線橋のようなものが見えるが、実はここにも入口があり、駅舎と逆側の集落に配慮されている。そのため八戸方面行きのホームは現状の車両編成に即してホームすべてには入れないようになっているが、向かいのホームは長い有効長が生かされている

りんごの出荷でにぎわう

無人駅だが、駅舎の写真でも分かるように駅の内外はきれいに整頓されている

駅舎には以前も紹介した三セク移管時の毎日新聞の連載記事が張られていた。それによると、開業時から「南部りんご」の輸送による貨物列車で当駅は大いににぎわったという。近辺からのりんご輸送には三戸、諏訪ノ平、剣吉、尻内(現八戸)そして北高岩の5つもの駅が利用され、全国に青森のりんごをアピールした

やがてりんごの輸送はトラックへと置き換えられていき、もともと大きな街があるわけではなかった北高岩駅は静かな駅となったという。八戸駅に近すぎるのがかえって不幸なのか、北高岩駅の1日の利用者数(2023年度)は26人。これは青い森鉄道25駅(青森、八戸をのぞく)の中で22位。前記事で紹介した目時駅の19人(23位)と、大きく変わらない数字となっている

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2026年の北海道&東日本パス旅~わざわざ八戸駅前に宿泊したワケ

※訪問は2026年7月14日

八戸駅から朝のスタート

7時前の八戸駅。昨夜はここ八戸の駅前で宿泊した。東北本線の重要駅で、後には東北新幹線の終着駅にもなっていた駅だが、駅前は閑散としている。青森県第2位の都市とは思えない寂しさだ。それもそのはず、かつて記事にしたが

八戸市の中心駅は八戸線で2駅目の本八戸駅である。大きな繁華街もあり、ホテルも数が多いためか、本八戸駅周辺の方が安い。過去に2度宿泊した八戸市はいずれも本八戸駅周辺だった。わざわざ八戸駅前のホテルとしたのにはワケがある

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目指すは青い森鉄道の起点駅だが

南下して盛岡県との県境付近を目指す。というか、ほぼ県境にある目時駅だ

というか、ほぼ県境に位置し川を渡れば岩手県。県境にあるということは、旧東北本線である第三セクターのIGRいわて銀河鉄道は、当駅から青い森鉄道となる。つまり青い森鉄道の起点駅ということ。この駅に行くために八戸の駅前に泊まったのだ。駅についての下調べはあえてしない主義だが、当然ながら時刻表はどちらかというと入念に調べる

実は一昨年、昨年と2度にわたって北海道&東日本パスでここを通っているが、いずれも下車を断念した。起点駅に行くのに随分と苦労しなければならないのだが、それは当駅の時刻表を見ていただければ分かる

見ていただければ分かるが、昼間は2時間に1本ぐらいの運行しかない。青森県側、岩手県側のどちらかから来て折り返すと1時間ぐらいの滞在で済みそうだが、それにしても結構長い。ただ実際には八戸駅からは目時方面へと向かう列車はもっと多くが出ているのだが、ここに青い森鉄道ならではの特殊なダイヤ事情が

多くの列車は手前で折り返し

その事情とは多くの列車が隣駅の三戸駅で折り返してしまうのだ。さらには県境を越えた金田一温泉駅で折り返す列車も存在するため、当駅にやって来るのは、青い森鉄道とIGRいわて銀河鉄道の直通列車のみなのである。本数も少なくなるはずだ

ただし朝なら、それほど待たずに駅を離れることができる。今回私が八戸から乗車したのは7時14分発の盛岡行き。目時に7時39分に着く。すると8時1分の八戸行きが来るため、20分ほどの滞在で駅から八戸方面へと向かえるのだ

築堤の高い所に駅があり、この後に川を渡って県境を越える

上り線と下り線の行き来は築堤の下の通路で行う。かなり以前からのものと思われる案内板が残る

そして駅舎はかなり大きい。当駅は1924年(大正13)に信号場として出発した。駅に昇格したのは戦後の1948年(昭和23)。これもお決まりのパターンだが、信号場出身ということで、周囲には特に何があるわけではなく住宅と農地が広がり、集落を形成している

目時とはアイヌ語で「メントケ」と言われる沼や泉の意味だという。現在の駅舎は1967年からのもの。典型的な国鉄コンクリ駅舎だ。付近の複線化工事が行われ、駅そのものが移転した際に新たに建てられたものだ。現在は無人駅だが、川に臨む県境の駅で多くの保線要員が待機できる大きな構造になったのかもしれない

広い待合室が今も残る無人駅だが

立派なお手洗いがあり

駅名板もカッコいい

付近の写真が並べられていた

こちらは駅前の様子

ひとつ豆知識を披露すると、多くの列車が折り返し、かつては特急停車駅でもあった三戸駅は三戸町には所在していない。所在地は南部町である。そしてここ目時駅が実は三戸町唯一の駅だが、実際の三戸町の中心部は三戸駅に近い場所にある

ホームを貨物列車が通過していった

目時駅の1日あたりの利用者数は19人(2023年度)で、青い森鉄道25駅中(青森、八戸のぞく)23位。ただし7時台とあって、ホームには通学の高校生がズラリ。それほど少なさは感じさせない。県境を越えての通学があることも知った

三セク転換ならではの乗り換え駅でもない途中駅の起点駅は青森県の最南端駅でもある。3年目にようやく訪問できて良かった

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2026年の北海道&東日本パス旅~キャベツの駅舎内は記念館風に

※訪問は2026年7月13日

駅名は埼玉県の駅に配慮

園井恵子さんの話に夢中になりすぎて、駅そのものの話を全くしていなかった

国鉄らしい駅舎からは段差なしで入れる2面3線構造(ただし中線は架線もあって使えるようになっているが、レールのさび具合を見るとあまり利用されていない様子だ)

駅名に「岩手」が付くのは、お察しがつく通り、京浜東北線の川口駅(埼玉県)があるからだ

ただ実は岩手県の川口駅の方が歴史は古い。旧東北本線の駅はいずれも長い歴史を有するが、1898年(明治31)の開業と、もう130歳近い。埼玉県の川口駅は1910年と10年以上遅れた開業だ。当時の所在地は川口村で駅名はそれに由来する(1955年から岩手町)。埼玉県の川口駅は川口町にあったことから、駅名も川口町だったが、1934年に川口町が川口市となったことで、駅名を川口に変更。同名を避けるため岩手県の駅が現駅名となった。つまり「元祖川口」を譲ったことになる

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2017年新築の駅舎

駅舎はというと、斬新なデザインだ。もともとは国鉄時代からの木造駅舎だったが、2017年に現在の姿になった。前記事でも紹介したが、エアコン完備の快適な駅だ

ホームに答えがあった

岩手町のオリジナルブランドのキャベツをモチーフにしたものだという

駅前には鉄道50年の石碑が建てられている。単純に計算すると戦後間もないころに建てられたものということになる

2階を利用して

再び駅舎内へと戻る

キャベツの形をしている駅舎は2階建てとなっていて、らせん階段で昇ることができ

そちらはさながら園井恵子さんの記念館となっていて、園井さんの歴史が語られて

「夢への旅立ち」という文字と昭和20年で終わる年表が印象的だ

園井さんは被ばくする前日まで知人宅のある神戸にいた。8月6日が劇団の集合日だったため、前日の5日に広島に戻った。そして翌朝に被ばくした。直後の園井さんは大けがをすることもなく元気で、3日後に動き始めた列車で神戸に行き、無事を報告することができたが、終戦を迎える15日ごろから急速に放射線被害の症状が表れ始め、21日に帰らぬ人となった

駅前の様子。もちろん建物は新しくなっているが、駅前風景は長らく変わっていない気もする

書店で宝塚歌劇団の本と出会い、憧れ、昭和に入って間もなく学校を中退して大阪へと単身向かい、宝塚を受験した。現在とは情報収集も交通も現在とは全く異なる。旅立つころの駅名は、まだ川口だったはずだ。何日かけて大阪にたどり着いたのかは、さすがに分からなかったが、少女の一人旅としては、今でもあまり見かけない距離だ

事前に何の予備知識もなかったため、以前に調べたことがある園井恵子さんと、まさかここで出会うとは思っていなかった

それだけに驚きも大きく、内容も濃かった。今回の北海道&東日本パスの旅は主に青森県内を巡るものだったが、乗り換え以外で岩手県内で下車した唯一の駅は、旅のハイライトのひとつとなった

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2026年の北海道&東日本パス旅~岩手県の駅舎内で聞こえる「すみれの花咲く頃」

※訪問は2026年7月13日

国鉄らしい2面3線のホームから一歩中に入ると

岩手川口駅で下車。前記事に記した通り、この日は朝7時台の飛行機で大阪を出発。仙台空港からトコトコ北上。宿泊先は八戸駅近くと決めていた。かなりの移動で駅訪問はほとんど考えていなかったが、ダイヤの都合で岩手県内の駅でどこか1駅下車することが可能だった。乗車した電車はいわて沼宮内行き。そこから先は一気に本数が減り、なおかつ青森県との県境越えはさらにハードルが上がる。つまり盛岡~いわて沼宮内間でどこかとなってなんとなく選択したのが、ここ岩手川口駅だった。15時10分に当駅着で、15時51分に貴重な戸行きがやって来る。下車理由は駅名に惹かれたこと。例によって駅についてはほとんど調べていない。それが大きな驚きにつながるとは私も全く予想していない

駅舎に向かうと

エアコンの効いた駅舎が出迎えてくれてビックリである

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園井恵子さんが宝塚へと旅立った場所

暑い日ではあったが、ビックリしたのはエアコンではない。かすかに流れる「すみれの花咲く頃」である。言うまでもない、宝塚歌劇団の歌である。「えっ?」と頭の中がはてなマークでいっばいとなったが、すぐに理解できた

ご覧理通り駅舎内は立派だ。立派というより真新しい。簡易委託駅のようだが、私の訪問時は無人だった。そこに流れるすみれの花咲く頃

柱に貼られていたのは元タカラジェンヌ園井恵子さんの宝塚歌劇団殿堂入りを祝うポスター

実は記者時代に園井さんについて調べたことがあり、経歴については理解している。ただし、こちらが出身地だとは知らなかった(厳密には現在の八幡平市出身だが、宝塚音楽学校入学時は実家はこちらにあった)

園井さんは戦時中に宝塚歌劇団を退団。映画に出演するかたわら、劇団で女優活動を続けていた。所属していたのは戦時中に全国で慰問活動を行う劇団だったが、東京の空襲で本拠地がなくなってしまい劇団ごと広島へと本拠地を移した。広島で被ばくし、帰らぬ人となった。2019年に宝塚歌劇団の電動入りを果たした

それを知らせるリリース。まさかIGRいわて銀河鉄道の駅阪急電鉄のプレスリリースを見ることになるとは思ってもいなかった

亡くなった時は32歳。そのまま女優活動を続けられていたら、きっと私も知る女優さんになっていたはず。清涼飲料水の自販機には、1929年(昭和3)に、ここ岩手川口駅から旅立った時の園井さんのイラストが描かれていてジーンときた

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2026年の北海道&東日本パスは渋めの駅を選択~今年は仙台からスタート

※訪問は2026年7月13日

大阪空港から今年の長閑旅

朝6時過ぎの大阪空港。今年も北海道&東日本パスの季節がやって来た。過去2年は東京からトコトコと普通で北上したが、今年はその手間を省くことに。都内で飲むことをやめて一気に東北に入ることにする。大阪から東京に行くのも、いきなり東北に入るのも早めにきっぷを手配しておけば、そう料金は変わらない

それにしてもいつ来ても大阪空港の6時台のにぎわいは凄い

と同時に、つい最近までここにあったパタパタがなくなると別の場所に来たように感じる。古いと言われるかもしれないが、私にとっては空港=パタパタである

パタパタの代わりに地上の低い場所に出発案内が設置されている

パタパタ風に作られているが、それにしても7時台に大阪から全国に飛び立つ便の多さよ。大阪空港は騒音問題から7時より早い時間に飛行機が飛ぶことはできないので、その穴埋めをいるように7時過ぎから一斉に各地へ出発するので、6時台の出発ロビーと保安検査場は大混雑する

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10分チャレンジ成功

仙台空港に到着

ここから仙台空港線で仙台を目指し、東北本線で北上するのだが、仙台駅で最初の大きな関門が待っている。3回目となった仙台チャレンジである

乗った飛行機は8時35分に仙台空港に到着することになっているが、定刻に飛んでも当駅を出発する電車は9時7分発。すると仙台駅着が9時38分で盛岡方面の電車は9時48分発。10分の乗り継ぎはちょうどいいと思われるかもしれないが、仙台駅で北海道&東日本パスを入手しなければならない。仙台駅の券売機で人が並んでいれば、他の券売機を探さないとほぼアウトである

この9時48分を逃すと、次の列車は1時間後で、さらに先の乗り継ぎが極めて悪くなり、結局2時間のロスをすることになる。なかなか死活問題なのだ

過去の成績は1回目は無事ゲット。2回目は飛行機がなぜか早着して仙台空港駅から1本早い列車に乗れたので楽勝。そして今回は…というと中央改札口隣にある券売機に行くとインバウンズの人がゾロゾロいて「アカン」と目をつぶったが、インバウンズの皆さんは券売機の前で、料金表を見たりしてきっぷの買い方を研究中。つまり券売機の列はできていなかった

ということで

無事にゲット。無事に予定通り北上できることとなった

無事IGRいわて銀河鉄道に

18きっぱー(今回は違うがむ)の関所、小牛田駅で乗り継ぎ

これもまた強制下車の一ノ関

東北本線の「終点」盛岡に着いて

IGRいわて銀河鉄道に乗車。今日はあまり時間はないが、予定通りに動けたのでどこかの駅で降りられそうだ

実はあまり深く考えずに「なんとなく」岩手川口駅で下車。このなんとなくが、思わぬ旅のハイライトとなる

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~交通の要衝を長らく務める有名駅

※訪問は2025年7月12日

最古の鉄道防雪林

野辺地駅に到着。出迎えてくれたのは「日本最古の鉄道防雪林」である。駅の開業は1891年(明治24)と古いが、その2年後に防雪林が造られている。私の訪問時が盛夏ということもあり、あまり紹介してこなかったが、旧東北本線沿線ではところどころで目にする

前回紹介した小川原駅にも

駅に隣接して防雪林が造林されていた

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青春18きっぷの特例駅

JR東日本と他社の接続駅で見られる私が好きな駅名標で分かる通り、当駅は乗り換え駅で大湊線が分岐している。そして駅名標で分かる通り、当駅を起点駅として大湊へと向かう大湊線は自社の他路線と接続していない飛び地路線である

飛び地路線は以前からそう珍しいものではなく、私鉄においては東武の東上線と他路線、西武多摩川線などがあるが、国鉄時代から全国に線路網を張り巡らせていたJRについては大湊線が史上初となった。2010年の東北新幹線の延伸に伴い、青い森鉄道に移管したために起きた現象で、現在は北陸新幹線の延伸で北陸に複数の飛び地路線ができたが、当時は史上初ということで話題となった

飛び地路線ゆえ、青春18きっぷの特例区間にもなっていて、八戸~青森については、青い森鉄道のきっぷを所持しなくても途中下車しなければ通過できる。唯一の途中下車可能駅が、ここ野辺地である。現在はJRの他路線でも同様の特例が設けられているが、そのような経緯でも知名度は上がった

乗り換え駅とあって、かつては優等列車の停車駅だった。そのため駅前は広く駅も大きい。現在の駅舎は1962年(昭和37)に改築された典型的な国鉄コンクリート駅舎である

跨線橋を渡って改札に出ると、このようなお出迎え

共同使用駅の有人駅で管轄は青い森鉄道となっている

道路だけでなく海路でも要衝

野辺地の由来はアイヌ語で野を流れる川を意味する「ヌップンペッ」に由来するとされる。すぐれた港湾を持つため港町として栄え、江戸時代は北前船の重要な寄港地だった

ただ駅はというと港から離れた内陸部に設置された

野辺地町の役場まで徒歩20分。それ以前から栄えていた港はさらに先だ。駅前は広いロータリーとバス乗り場があるだけで閑散としているのはそのためだが、鉄道あるあるで、近隣の三沢、八戸も街の中心部から離れた場所に駅が設置されている。それでも東北本線と大湊線の分岐だけでなく、七戸とを結ぶ南部縦貫鉄道(1997年休止、2002年廃止)も当駅を始発着駅とし、重要駅だった

もともと街外れで閑散としている駅前の店舗はいずれもシャッターが降りていた。私は2011年以来、14年ぶりに当駅で降りたがその時に利用した駅前の食堂は閉店している。この食堂をテレビ東京のバス旅で訪れた蛭子能収さんが店内で延々と昼寝をしたことも野辺地を有名にした理由のひとつだろう

駅に張られていたポスター。インターハイの県決勝で青森山田が敗れたというのは、当時高校サッカー界の大きなニュースだった。あくまで私の記憶だが、青森山田は県予選で24連覇を果たしていたはずだ

こちらも有名な駅そば

駅は3面5線構造と大きい。大湊へは当駅始終着の列車のほか、八戸から青い森鉄道経由で直接迎える快速が1日に2・5往復運行され、18きっぱーには、そちらの需要が高いようだが、かつては多くの優等列車でにぎわった要衝駅の現在もぜひ見てほしい

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~かたくなに「こ」にこだわる駅

※訪問は2025年7月12日

小さな駅に降り立つ

小川原駅にやって来た。ホームの花壇がきれいに整えられている。丁寧に世話をしている方がいるのだろう。どうしてこのようなことを言うのかというと、当駅は小さな簡易駅舎とホームがあるだけで周囲には特に何もない駅だからである

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小川原湖は至近だが

線路と並行して駅前には県道が走る。八戸から三沢を経て野辺地へと至る重要道路だが、近くを自動車専用道路の上北自動車道が走るため、運行量はそこそこという感じで、それほど多くはない。もちろん駅ができた時は自動車専用道路はなかったわけだが、周囲は住宅が点在する場所になぜ駅が設置されたかというと、信号場としてスタートしたからである

信号場としての設置は1944年(昭和19)と戦時中。戦時中は、鉄道による物資の輸送が特に求められた時代で、観光路線などは不要不急として休止になったり、駅が休止になった一方、東北本線のような幹線はできる限りの運行量を求められた。信号場の設置も多かった

やがて戦争は終わり、1953年(昭和28)に駅へと昇格する。信号場から9年後のことだった。だから開業は1953年である

もともとは信号場だった駅は全国に数あるが、その後に人でにぎわう重要駅になることはまずない。もともと周辺に何もないから信号場として開設されたのだから、当然のことだ。当駅の2023年度の1日あたりの利用者数は17人。これは青い森鉄道の25駅(青森、八戸をのぞく)の中では24位とブービー賞である

ただこういう駅こそ、見どころは意外と多いものである。県道と逆側にコンクリート式の駅舎がある。もちろん無人駅。建て替えられたのは1970年代だ

無人駅につき、駅舎と逆側の県道からも出入りできる。こちらにも手入れされた花壇がある。ご覧のように跨線橋で上下線を行き来できるが、道路をホームの端まで行けば踏切もある

浜道踏切という徒歩専用の踏切がある。「セニアカーは通行できません」とある。セニアカーという言葉は初めて聞いた。調べるとシニアカーのことだが、最初に開発したスズキが登録商標としてセニアカーと名付けたことでその名が広まったという。鉄オタ活動をしていると、1日の利用が20人にも満たない駅で思わぬ博識になれるのだ

駅名の由来はもちろん…だが少し違う

こちらが駅舎内の待合室。きれいに清掃されている。寒冷地なので、雪かきの装備もある

さて駅名についてだが、これは分かりやすい。小川原湖に基づくものだということは容易に推察できる

地図をたどっていただけると分かるが、小川原湖畔まではすぐ。10分ちょっと歩けばすぐにたどり着ける。ただ、ここで冷静に考えてみると、湖は「おがわらこ」のはず。にもかかわらず駅名は「こがわら」これはどういうことかというと、もともとは「こがわらこ」だった湖の名前が1958年に「おがわらこ」に変更されたからだ。それでも駅名は変更されることなく「こがわら」で現在に至る

湖の名前が変わってから70年近くが経過しても駅名は変わらない。実にかたくなである。ただ推察するにかたくなというより、駅名はそのままでも大勢に影響はないと判断された可能性が高い。小川原湖観光の最寄り駅は両隣の三沢と上北町である。湖には近いが、湖の観光地にはそれほど近いわけではない。だからスルーされたのだろう

駅近くには観光用の周辺案内図があるが、時間とともに実に味わい深いものとなっている。地名と駅名が異なっていた有名例として米原があるが、有名ではないにしろ、このような例に出会えたことがうれしい駅訪問となった

※追記 Xのフォロワーさまからコメントをいただき、駅近くの小川原郵便局は「こがわら」郵便局で、近年閉校になった小学校も「こがわら」小学校だったとのことです

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~すぐ向こうに海が望める海産物でにぎわった駅

※訪問は2025年7月9日

八戸方面へやや戻る

青森市に入っていた野内駅から八戸方面へ4駅戻って再び青森市を出る。到着したのは清水川駅。ここは津軽郡平内町である。平内町の中心駅である小湊駅については2024年に訪問しており、すでに記事としている

つまりは町の中心部ではない駅となる

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目を引く駅名板

こちらが駅舎。戦後に建てられたものとみられる。目を引くのは駅名板で

明らかに国鉄時代からのものが今も残る。木の板に手書き。今は思い出したようにしか見かけなくなってきたが、不意に出会うとうれしくなる。と同時に残してくれたことに感謝である

駅は高台にあり、海が望める

清水川港やその周辺の集落からは、やや離れたところにある。国道4号のさらに向こう側。それが高台から海を望む光景になっている

駅は遅れてできた。この地に鉄路がやって来た明治期に駅は設置されず、1922年(大正11)に清水川信号場ができ、昭和の声を聞いた後の1936年(昭和11)に駅へと昇格した

駅舎内にはJRが三セク転換する際の毎日新聞の連載記事が張られていて(著作権に抵触する可能性があるので写真は掲載できません)、その記事によると今の規模の大きな集落から想像できないが、当地はもともと人の少ない場所だったため、駅がなかなか設置されなかった。そもそも線路は港からやや離れた場所に敷かれている。ただ信号場のころから駅にする気運が盛り上がり、清水川駅は貨物を扱う駅として誕生。ホタテをはじめとする海産物の積み出しでにぎわったという

東京から708キロ

駅はかなり以前に無人化されていて窓口はふさがれている

上下線は跨線橋で結ばれているが、上り線と下り線の間隔が広く、かつてはここにももう1本レールが通っていたことが分かる。待避のための線路

無人駅につき、駅舎の逆側からもホームに出入りすることができるようになっている。防雪林の奥にも集落がある

同じ青森県の弘南鉄道大鰐線の石川駅にあった看板を思い起こさせる子どもへの注意看板がここにもある

そしてホームに残るキロポスト。地面に埋まった形のものだけではなく、高く掲げられているものも含め目立つように2つある。言うまでもなく東京から708キロという距離を今も伝えてくれるもの。青い森鉄道は海に沿って走っているように見えて、実は意外と海が近い場所は少ない。ましてや高台から海を望める駅は、さらに貴重な存在である

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治生まれの「新駅」がもたらした成功

※訪問は2025年7月9日

高架の新しい駅

野内駅に到着。青い森鉄道は東北本線をそっくり引き継いだものだが、三セク移管後に開業した駅もある。全国各地の三セクにあてはまることだが、細かく駅を設けることによって地元のニーズに応え、収益増を目指すのは当然のことだ

この写真だけを見るだけで新しい駅の雰囲気は十分あ。ホームもフェンスも真新しいし「エレベーター」の文字も見える。つまりバリアフリーに対応した高架駅ということになる

そして駅の姿はこちら。無人駅ながら高架。明らかに新しい駅だ。だが駅の誕生は明治。ならば、元は地上駅だったものが高架化されたありがちなパターンかというと、それは微妙に違う。順を追って説明しよう

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山中の駅として出発

野内駅は1893年(明治26)の開業。すでに130歳を超えた長い歴史を持つ駅だ。かつての野内村に基づく。野内村は1962年に青森市に編入されたが、駅の設置時はもちろん野内村。しかし駅の場所は町の外れの山中だった。線路は町の中心部を通っているが、駅は街外れだった。理由は山からの石灰石を積むため。また後に野内には石油やガスのタンクが設置されるようになり、その運搬にも当駅が利用された。つまり貨物駅としての役割が大きかった

ただし一時は大いに栄えた貨物輸送は徐々に衰退。国鉄末期には貨物駅としての役割は終わり、旅客専用となった駅の利用者は少なかった

駅はそのまま青い森鉄道に引き継がれたが、大きな転機となったのは三セク移管直後のこと。2011年春に県立青森工業が移転してきたことに合わせ駅も移転した

野内の集落の東の端にあった駅が西の端、といってもかなり開けた場所へと移転したのだ。距離にして1・5キロ以上の移転。大都市に行けば隣駅になりそうな距離だが、ともに旧野内村にあるためか、駅名は同じく野内。駅の引っ越しという扱いなので、15年前に建てられた駅も明治来の駅ということになる。つなみにJRからの三セク移管が2010年12月で新たな野内駅が営業を開始したのが2011年3月だったので、青い森鉄道としての旧駅はわずか3カ月だったことになる

駅は上り線と下り線が別々に独立していて、往来には駅の外に出る必要がある

その解説板がこちら

移転がもたらしたもの

駅の移転が何をもたらしたかというと、高校生による利用者の激増である。JR時代末期のデータがないが、多くてもせいぜい1日50人ぐらいと予想される利用者数が、2023年度には974人。これは路線内25駅(青森、八戸のぞく)中、第6位の数字となっている。大幅な利用者増だ

ホームにいると貨物列車が通過。時間は15時前で、この後すぐホームは高校生でにぎわう。駅にはコンビニが隣接していて、こちらもにぎわう

駅の移転が大成功した例となった。ちなみに旧駅の様子は浅虫温泉~当駅で車窓を見ているとホームが今も残っていることで確認できる

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治以来の同名駅同士のお付き合い

※訪問は2025年7月9日

下田駅といえば…

下田駅に到着

かつての下田町の中心駅で優等列車の停車もあった。現在も快速停車駅で2面3線のホームが現役だ

おそらく「下田駅」で最も有名なのは観光客でにぎわう伊豆急行の伊豆急下田だろう。だが、伊豆急下田駅の開業は戦後の1961年(昭和36)なのに対し、こちら青森県の下田駅は1891年(明治24)と70歳も年上だ。歴史は圧倒している。私鉄と国鉄の違いはあれど、伊豆急下田という駅名にならざるを得なかったのだ。ちなみに「伊豆急」が付く駅は伊豆急行では伊豆急下田のみである

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微妙に先輩のもうひとつの駅

ただ今年で135歳になる下田駅には、なんということか先輩の下田駅があった。和歌山線の下田駅(奈良県)である。今ではローカル線の路線となっている和歌山線だが、下田駅の歴史は古く、こちらも実は1891年の開業と同じ年齢。しかも開業日は青森県の下田駅が12月20日なのに対し、奈良県の下田駅は3月1日と9カ月先だった。駅名というのは、後からできた方が旧国名を入れたりするのが通例で「陸奥下田」となりそうなものだが、同じ年という理由なのかどうか、駅名は「下田」のまま今日に至っている。参考までにアイキャッチ写真の駅名標を見ていただくと隣駅は「陸奥市川」。これは想像に難くなく、総武本線の市川駅(千葉県)が先に開業していたからである。ただし陸奥市川の開業は1944年と、下田駅に比べるとかなり遅い

このような経緯で明治期からずっと「下田駅」が国鉄、JRに共存していたわけだが、その均衡は今は崩れている。平成になって奈良県の下田駅は香芝駅に名を変えたのだ

こちらが現在の香芝駅。駅名が変わったのは香芝市に香芝という駅がなく地元の要望もあったというが、歩いて数分のところにある市役所に近い近鉄の駅は「近鉄下田」のままである

その流れが現在に何をもたらしたのかというと、奈良県の駅名が変わり、青森県の駅が青い森鉄道の駅になったことで、JRに下田駅はなくなってしまったのだ

木造駅舎が今も残る

その下田駅の駅舎はというと

木造駅舎が今も残る。財産票を見つけられなかったので年代は分からないが、屋根を支える木の柱を見ると、かなり年季の入ったもので、戦前からのもののようだ

数年前に無人化され、窓口の場所には自動券売機が設置されている

その下田町はイオンモール下田でも地元では知られる。いろいろな駅からイオンモールへのバスが出ているが、ここ下田駅とは

おいらせ町民バスで結ばれている

下田町は平成の大合併でおいらせ町となった。町名は町を流れ、上流は観光地として有名な奥入瀬川から来ている。そのおいらせ町。「おいらせ」はひらがななので、説明は不要だが、読みは「おいらせちょう」である

前回の記事で「町」の読みについて触れたが、青森県は「まち」が圧倒的に多い県で、南部町と当地のみが「ちょう」となっている

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